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2050年 日本基督教団の絶望と希望

 




日本基督教団では「2030年問題」について言われて久しい。


2030年前後、現住陪餐会員の平均年齢が平均寿命を超えるということで、日本基督教団の多くの教会が存続を問われる事態になっているだろう、という。


統計的にはそう言える、という話に過ぎないが、数字に基づいている以上、やはり蓋然性はそれなりにあると考えざるをえないだろう。


ここでは、一つの想像として、「2030年」のさらに先、「2050年」を考えてみよう。


この記事の著者は2022年現在43歳だが、2050年には71歳になっている。


要するに、現在40代の牧師たちの多くが隠退を考えるような時期、日本基督教団はどうなっているのか、思い描いてみる、ということだ。


(もちろん、それまでに主イエスの再臨があるなら、ここに記すことはすべて気にしなくてよいものとなるのだが・・・)


ごくシンプルに考えて、そこには絶望と希望がある、と自分には思われる。


絶望的な部分について触れると、現在存在している日本基督教団の多くの教会は、そのとき存在していない可能性が大きい。


牧師や信徒の人数も、そのときには過去と比較して、激しい悲しみと胸を焼かれるノスタルジー以外なにも抱くことができないようなものになっているだろう。


ヨーロッパで、過去の栄光を物語る歴史的な大聖堂が、いまやほとんど集う信徒もなく閑散としている姿、あれは2050年の日本の教会の姿とほぼ重なると考えていい。


日本でも、2050年前後には日本教会史に名前を残しているような大教会が、跡形もない状態になっている、という例がいくつも散見されるに違いない。


日本基督教団の将来に見えるのは、一面においては、こういった絶望的な、廃墟のようなビジョンだ。


どんなに包み隠そうとも、問題を真摯にとらえ、現在の流れをありのままに見つめている限り、こういった将来を回避することは困難だろう。


一方、希望を持つことができるビジョンもある。


現在の危機的な時代にあっても、なお日本基督教団には御言葉の説教や聖礼典、伝道や教会形成といったことについて、ひるむことなく揺らぐことなく、使命を果たし続けている教会があるのだ。


衰退の流れに押し流されることをよしとせず、これに激しく抵抗し、なおイエス・キリストの不変の恵みを信じ続けている牧師と信徒の群れだ。


そういった群れにおいて、またそういった群れを導く牧師においては、上に描かれたような絶望的状況は該当しない。


聖書の約束が実現していくからだ。


むしろ、そういった教会は「残りの者」として、神によって祝され、新しい教会の時を生み出す拠点となっていくだろう。


日本基督教団の多くの教会が廃墟のような状況になっていくときにも、イエス・キリストの信実を信じ続けた牧師と信徒は、新しい時代を拓く礎となる。


つまり、日本基督教団の牧師と信徒の数は減り続け、ついにはまったく無に等しいような状況にまでなるかもしれない。


それでも、なお「残りの者」(「バアルに膝をかがめなかった7千人」(列王記上19章)のような・・・)がそこに存在している限り、その人々が新たな時代を築く、教会の母体として用いられる。


その人々から信仰を受け継いだ世代は、私たちが見ることができなかった新しい世界を見ることができるかもしれない。


いま、私たちは神によって「ふるいにかけられている」のだ。


絶望的な将来への道を行くのか、希望の将来への道を歩むのか。


「バアルに膝をかがめる大半の人々」の一員になるのか、「残りの7千人」の一人となるのか・・・。


ふるいにかけられた先に、絶望と希望とに、私たちは分かたれているだろう。


これは「だれか」の問題ではなく、「わたし」と「あなた」の問題なのだ。



日本伝道について⑮ 1995年「以前と以降」の伝道 Ⅱ「オウム真理教事件と宗教アレルギー」

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1995年に起こっている事件のなかで、日本伝道に対して「時代を画する」影響を与えたのは、オウム真理教事件であると、個人的には考えている。

 

自分の周囲のことを考えてみても、「オウム以前と以後」で、「宗教全般」についての意識が大きく変化したことが感じ取れた。

 

「宗教はアブナイ」

 

「宗教はやばい」

 

「宗教は胡散臭い」

 

「宗教に入っている人はみな、どこかおかしい」

 

「宗教に入ると、すべてを失う」

 

・・・・・

 

オウムの起こした一連の事件により、こういった極端な「宗教それ自体に対するアレルギー」が広まったのではないかと思われる。

 

私の友人にも、「宗教に入っている人は、廃人に近いと思う」という意見の人がいて、私が洗礼を受ける段に大反対をされ、わけのわからない長時間の議論をしてしまったことがある。

 

個人的な印象では、「宗教アレルギー」を持っている人の「8~9割」が、「宗教の歴史や伝統、教えなどについてほとんど自分で考え、調べることもなく、イメージや印象として宗教は危険なものと考えている」という状況ではないかと思う。

 

そして、こういった「宗教はアブナイ」の最大のイメージをもたらしたのが、オウム真理教事件だろう。

 

日本伝道という文脈から考えると、「1995以前(オウム以前)」と「以降」では、「そもそも宗教というだけで毛嫌いする人々」の割合が非常に異なっており、「以後」にはそういう人々が本当に多い、ということをふまえなくてはならない。

 

このような「宗教それ自体に対する否定的イメージ」を持つ人が大勢いる状況からしたとき、カール・バルトが展開したような「宗教否定論」は、日本伝道において「マイナス」の効果を生むと自分は考えている。

 

バルトの「宗教ではなく、啓示」という議論は、聖書的にはまったく正しいのだが、これはあくまで「宗教についてのイメージが安定的に定着したヨーロッパの文化的背景」を前提とした議論にほかならない。

 

「啓示」以前に「宗教自体」へのアレルギーが非常に多いというなかでは、「宗教否定論」ではなく、かえって「宗教弁証論(宗教の本質や必要性、有用性を対話的に証しする)」をしなくてはならないのだ。

 

これは、植村正久牧師が著書のなかで多く行っている議論である。

 

植村は「耶蘇教」や「邪宗門」などと揶揄され軽蔑されていた当時の時代の空気のなかで、宗教の意義について解き明かす文章を多数残している。

 

「なぜ宗教が必要なのか」という本質や意義を、「アレルギー」のある人々が少しでも納得できるような議論が求められているのであって、「宗教ではなく啓示」というのは、そういった議論がある程度でも定着した「あと」の課題になる事柄なのだ。

 

そういう意味では、方向性や内容はともかくとして、モチベーションのレベルではシュライエルマッハーの『宗教論』のような議論が、日本ではかえって求められている、といえる。

 

宗教それ自体への「信用度」が非常に落ちている文脈を無視するわけにはいかないのだ。

 

特に、オウム真理教との関連でいえば、「オウム事件による宗教否定やアレルギーが蔓延したことによって、かえって『疑似宗教』が流行している」ということを、しっかりと見抜き、解き明かさなくてはならない。

 

オウム真理教で当時麻原彰晃が教えていた内容と、現代の「スピリチュアル(精神世界)」系の本に書かれていることを比較検討すると、その意外なくらいの「共通性」「類似性」に驚くはずだ。

 

人間を霊性において「進化」している人とそうでない人に類別して、そうでない人の排除を肯定するのは、スピリチュアル的な「優生思想」であると言える。

 

麻原はスピリチュアル的な優生思想を、狂信的に現実世界で「実行」してしまったのではないかと思える。

 

彼の教えとスピリチュアル・精神世界の教えは、純粋に「思想」という次元においては、相当似通っているものがあるのだ。

 

オウムを単純に「宗教」ととらえることによって、かえって「疑似宗教」の流行をもたらし、結果的に麻原的な思想が国民の間に広がってしまっている、という皮肉な歴史的顛末を見るような思いがする。

 

要するに、「宗教」というものは人間にとって何らかの形で必要なものであり、それなくしては死や罪、悪の問題にはどんな解決もないのだが、

 

イメージや印象レベルで宗教それ自体を否定することによって、「疑似宗教」に頼らざるをえなくなり、結果的に死や罪に対する「解決」を見失い、精神性や霊性において脆弱になってしまっている、という文化的背景があるのではないか。

 

日本伝道という文脈において、オウム真理教がもたらした宗教アレルギーにより、状況は「1995以前と以後」で変わっている、という認識をもたなくてはならない。

 

少なくとも、「宗教ではなく啓示」というカール・バルトの議論は、「宗教それ自体」が文化的に根差していない日本の状況にあっては、非常に不釣り合いなものであり、教会をより社会や地域から遊離した存在にしてしまう、ということは言えるだろう。

 

「イエス・キリストへの信仰」という以前に、「宗教それ自体」に対するイメージが非常に悪いことで、教会に来る道が閉ざされがちになっている、という課題をしっかりと受けとめる必要がある。

 

この領域では牧師というよりも信徒の方々が、それぞれの分野の専門家としてよい働きをすることで、社会の人々の信用を勝ち得ることが、実践的には最も重要なことになるし、それが最も具体的な変化の源になるだろう。

 

このことなくしては、実際上は教会にまだ来ていない人々のイメージが変えられていくことはない。

 

また、牧師にできることは、「宗教は多くの人が考えているような『アブナイ』ものではなく、よりよく生きるには避けて通れないもの、必要なものである」ことを、いろいろな形で忍耐強く伝えていくことだろう。

 

私たちはあくまで、「オウム以後」、「1995以後」の時代を生きているのであって、このことをふまえずに伝道に取り組んでも、状況との不釣り合いが生じて、人々の魂をとらえるものとはなりにくいのではないか。

 

「宗教はアブナイ」という人々に「いえいえ、私たちは宗教ではなくて、啓示であるキリストを信じているのです」といっても、「は?? でもあなたがたはキリスト教徒でしょ。キリスト教に入っているんでしょ。そもそも、どの宗教も『啓示』を自称しているじゃないですか。こっちにとっては同じことですよ」となるだけであって、

 

この両者の間に存在するいろいろな意味での意識の「ギャップ」は多くのキリスト者が素朴に考えているよりも、重大で深いということを、よく受け止める必要があるのだ。

 

「相手の土俵」と「こちらの土俵」をすり合わせつつ対話しなくてはならない。これは日本伝道では避けて通れないことだ。

 

教会が衰退していっている最も大きな理由の一つは、「そもそも宗教それ自体が社会の信用を取り戻すことができていない」ことにある、というのは、相当核心部分に近い、、実践的な議論なのではないかと感じる。


日本伝道について⑭ 1995年「以前と以降」の伝道 Ⅰ「情報革命と伝道」

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日本基督教団の教勢は、1995年で頭打ちとなり、そこから今日に至るまで、減少に転じている。

 

個人的に、この事実に象徴的な「なにか」をずっと感じていた。

 

1995年について調べていくなかで、少しずつ言語化できてきたものがあるため、記してみる。

 

1995年には、「以前」と「以降」を画する、いくつかの象徴的な事件が起こっている。

 

そのなかの一つとして、「情報革命の進展」を挙げてみたい。

 

1995年に「ウインドウズ95」が発売されたが、私自身はそれがなんなのか、当時まったくわからなかった。

 

大人たちがなんだかやけに熱狂しているが、よくわからない、というくらいの記憶として残っている。

 

ウインドウズ95は「マックのパクリだ」と言われたりもするが、どちらにしても情報革命の「大衆化」への重大な一歩となったのは確かだろう。

 

いま考えてみると、あのときから情報革命は一部の人間から、大多数の人々へと加速度的に広まっていったように思える。

 

それまでは、大多数の人にとってパソコンというもの自体が「生活の一部」とは到底言えなかったと思う。

 

少なくとも、若者はPCはほとんど持ってはいなかった。

 

ところが、それ以降のわずか10~20年足らずで、パソコンやネットは「それなくしては現代の生活が成り立ちにくい」といえるくらいのものにまで発展した。

 

わずかな時間で、ここまで世界が変わってしまった事例というのは、歴史的にも珍しいのではないかと感じる。

 

つまり、1995~2010年くらいの間のごくわずかな時間で、「圧倒的かつ不可逆な社会的な変化が生じた」ということが、少なくとも言えるのだ。

 

いま生まれてくる子どもたちにとってネットやPCは当たり前の存在だが、「デジタルネイティブ」以前の世代の方々にとっては、こうしたものはなおよくわからないものにとどまっている場合が多いだろう。

 

ところで、「PCやネットが生活必需品になった」時代にあって、「伝道」ということからすると、なにが言えるだろうか。

 

1995年以前の世界では、お店が集客するときは、「チラシの頒布・折り込み広告・ポスティング・広告掲載」などが主たる手段だっただろう。

 

教会での「伝道」といえば、「伝道集会・伝道礼拝・青年キャンプ・家庭集会」など、「フェイストゥフェイス」のものだったし、これらでしか伝道などできはしなかった。

 

また、これらのやり方で、事実教会は成長してくることができたのだ。

 

しかし、「以降」の世界では「ソーシャルメディア・ネット広告・動画によるアピール」など、ネットを介した伝道が可能となっているし、ある程度若年の世代になると、こちらの形でのアピールしか受け付けない。

 

平たく言って、今はポストに入っていたチラシはすぐに捨てるが、ネットによるアピールだと読むこともある、という時代なのだ。

 

教会においても、今後可能性があるのは「SNS・動画・ブログ・ホームページ」など、ウェブを介した活用した伝道になっていると言える。

 

「教会の牧師・信徒のブロガー・ユーチューバー」や、「教会独自のソーシャル・サービスの立ち上げ」などの新しい「ウェブ伝道」の試みがぜひとも必要とされているし、これらにこそ今後の伝道の可能性がある。

 

福音を怪しまれることなくアピールすることができる領域は、いまや「リアル」から「ウェブ」にどんどん移行しており、その度合いは今後増すばかりなのだ。

 

「リアル」での信用度の方が、むしろ実際的には落ちてきていると言える。

 

「道端で渡されたチラシ」と、「ネットで見つけたアピール」の信用度が、「1995」を境に逆転し始めた、と言えるのではないだろうか。

 

いまや、若年世代の多くの人にとっては、「リアル世界で渡されたもの」の方が、かえって不信感を持ちやすいのではないか。

 

というのも、ネットの世界では、「自分に必要と思われない情報」はただ見ないか、削除すればいいだけのことなので、「リスクが少なくて済む」という意識があるからだ。

 

リアル世界では自分の身体を場所に運ぶという点では、「よくわからない場所に誘われる」ことは、「リスク」以外のなにものでもないと感じる。

 

しかし、教会は「1995以前」においては曲りなりにも成長してきたということもあって、

 

「1995年以前」の考え方で、そのまま今の時代も伝道が可能と考えてしまっていることはないだろうか。

 

1995年以前の考え方・やり方をいまもなお大枠において続けながら、「なぜ教会に人が来ないのか」と悩んでいないだろうか。

 

「時代が情報革命において、根本的に変わったのだから、それに伴って伝道の在り方をも変えなくてはならない」ことを、どれほど教会は真摯に受けとめているだろうか。

 

「より若い世代に教会にきてほしい」と言いつつも、「ネットはけしからん」というのは、原理的に不可能なのだ。

 

1995年、ウインドウズ95の年に、日本基督教団は衰退をし始めた。

 

これはある意味では、シンボルというばかりでなく、実践的な課題をも含んでいる。

 

もし私たちがネットをまったくなしにしてでも、伝道が可能であると考えているなら、いまなお「1995以前」の問題圏のなかにいるのかもしれない。

 

そして、「問題・課題」がどこにあるのか、それを見つけることができていないとするなら、それらを「解決」することは、前提からして無理と言える。

 

私たちはまずは、伝道の「前提」の部分に乗らなくてはならない。

 

その前提とは、「1995以降は、ネットを抜きにして伝道はできない」ということなのだ。

 

コロナウイルスにより、多くの教会でオンライン礼拝が始まっているのは喜ばしいことだが、それだけに飽き足りることなく、ITを介しての革新的な伝道の試みが教会の牧師・信徒から次々に起こされていくことを、願ってやまない。

 

 


日本伝道について⑬  教会の「競合相手」とはだれか?

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『レジャーの神学』(佐藤敏夫著)を読んだという方に、実は私はまだ一度もお会いしたことがない。

 

しかし、私は数年前にこれを読んで、いろいろと認識が深められ、実践的な面でも大変参考になったので、紹介させて頂く。

 

教会にとって、「競合する対象」とはなにか、考えたことがおありだろうか。

 

おそらく、多くの方は「他宗教」であるとお答えになるのではないかと思うし、私もそうだと思っていた。

 

しかし、「レジャー(余暇)」という視点からとらえると、教会が伝道していくうえで競合している対象は、「多くの人が日曜日、休みや気晴らしをするために消費しているもの」であるということがわかる。

 

平たくいって、「日曜日、多くの人が教会に行くことなく、行っている活動」が、実践的には教会の競合相手なのだ。

 

ゲームセンターやカラオケ、ネットサーフィンや映画、家族サービスで行くような娯楽施設や遊園地、スマホやデバイスを使ったゲーム全般など、これらについて教会と競合していると、私自身考えたことはなかった。

 

しかし、「日曜日」という限られた時間を、多くの人が何をすることによって使っているかを考えてみると、上にあるような多くの娯楽や遊びは、まったく教会の活動と競合しており、しかも非常に多くの人にとって魅力的であり、強力な引力を持っているいうことだ。

 

この著書では哲学や教会の伝統をたどりながら、レジャー(余暇)についてこれまでなされてきた多くの理論を概観していく。

 

「遊び」と「祭り」こそがレジャーの本質であり、これらは「自己目的的」なものだ、という。

 

「労働」は、「目的」に従った活動であり、そこでは「目的に対する合理性・効率性」が最も重要になる。

 

そして、労働は人間の「必要」に仕えるものであり、「衣食住」などのニーズを満たしていくために必要だ。

 

しかし、労働ばかりの人生観・価値観で生きているなら、人間性は病んでしまい、安らぎを喪失していくばかりになる。

 

そこで労働によるストレスや圧力から解放されるときとして「レジャー(余暇)」があるわけだが、これは「それ自体が目的であるような活動」だ。

 

つまり、「祭り」や「遊び」は「なんのためにするのか」というと、「祝うため、遊ぶため」以外の答えはない。それ自体が目的であるところに、意味がある。

 

労働という「目的合理性」を「禁欲的」に追求することをよしとする在り方に対して、レジャーは高揚・陶酔・緊張などの特色をもち、それ自体に喜びと意味があるものだ。

 

レジャーをすることで、安息と喜びに憩うことができる。

 

そして、教会での礼拝は「レジャー」の最たるものであり、そこでは人生全体について御言葉による観想・黙想がなされ、ビジョンが描かれる。

 

礼拝は「祭り」と「遊び」の性格を持ちながら、神と交わりを喜ぶそれ自体が目的であるような活動だ。

 

一旦労働や日々の義務の働きから身を引いて、神の恵みを黙想し、自らの過去・現在・将来を新しい信仰の認識によって見渡すことで、労働や人生の意味を胸のうちに刻み、新しい活力を与えられるものだ。

 

(教会にもいろいろな「目的」を定めていく教会形成の在り方が今、メガチャーチに広まっている。私がこのやり方の間違いに気づかされたのも、本書の議論の助けによるところが大きい。目的は「労働」の範疇だが、礼拝はそれ自体の遊びや祭りの性格なのだ)

 

本書は以上のような内容を、手を変え品を変えながら、多様に展開してくれる。

 

ひいては、教会の礼拝出席者が減り続けているというのは、この世が「レジャー」分野に対して恐るべき投資をして、「気晴らし」が社会に膨大な数になるまで増え広がったことによる、ということも言える。

 

以前、ある牧師から聞いた話だが、日本の教会への出席者が減るようになったと感じたきっかけは、テレビの普及だ、という。

 

レジャーとして、「テレビ」という強力かつ手軽な競合者があらわれたことで、教会に安息を求めなくても、テレビを見て日曜日ゴロゴロしている方が、それなりに休息することができると、多くの人が考えるようになったということだろう。

 

逆に、それでもなお「教会に来る理由はなにか」について考えるなら、端的に「家でゴロゴロしながらネットやゲーム、テレビに興じているより、教会に行った方が遥かに上質かつ素晴らしい安らぎを得ることができる」と考えるからだろう。

 

迎える教会の側としては、「世の中のメディアが提供するよりも深く、豊かな安息となる礼拝を捧げることができているか。この世の講演者が語るような内容にまさる、人生の新しいビジョンや活力を与えられるようなものに、礼拝説教がなっているか」ということが問われているということになる。

 

日曜日の礼拝を「レジャー」ととらえるのは、意表を突かれるような視点であるが、実はここに非常に豊かな歴史や意義があることを、この著書は教えてくれるということで、大変有益なものだ。

 

アマゾンでひどく安く売られているが、神学的な価値としては高いものがあるので、ぜひお読みください。

 


日本伝道について⑫ 「対話的宣教」

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ある方から、『これからの福音宣教 ~出会い・発見・変革のプロセス~』という本をお借りしたので、読んでみた。

 

このカトリック司祭が書かれた内容が、想像以上に自分の伝道論の考え方と合致しているため驚くと共に、自分がうまく言語化できていなかったことも大変学ばされ、感謝だった。

 

この本は1986年に出版されているため、30年以上前のものだが、私にとっては教えられるところが多く(私の考えが古いということかもしれないが)、とてもよかった。

 

二点だけ、この本の着眼点を紹介したい。

 

まず、「福音」とは知識や教義といったことより、むしろ「出会い」から与えられる「いのち」であり、人間を変える「エネルギー」である、という。この主題が本書のなかで、通奏低音として繰り返される。

 

宣教を「教える」という用語や範疇で考えるのではなく、人と人との出会いと交わり、そこに生じるエネルギーのプロセスと考える視点は、非常に貴重なもので、今もなお聴くべきものだ。

 

プロテスタント教会でも、説教が「知性偏重」のものとなりがちであることは、ずっと以前から批判的に考えられているが、プロテスタントの場合「ことば」からはどこまでも離脱できない、という前提にたっている。

 

つまり、説教という「ことば」を通して、「人のことばを超える神のいのちやエネルギー」を伝えるという、根源的な「ジレンマ」を抱えている。

 

カール・バルトが「われわれは神学者として、神について語るべきである。しかし、われわれは人間である。そして人間としてのわれわれは、神について語ることができない。・・・まさしくそのことによって、神に栄光を帰する」(バルト『神学の課題としての神の言葉』)と語っているのは、その消息をも意味していると考えることができる。

 

このジレンマを知らない説教者は、おそらく生涯「知識」や「教え」を語ることだけになってしまう可能性がある。


説教の本質は「ことばを超えた神の命」の伝達にあることを、改めて受けとめなおす必要があり、ここにプロテスタント教会の根本課題をも示されている。

 

本来「語ることができないもの」を「ことば」によって語るという、説教者の状況だが、ある意味カトリック教会では「聖体拝領」をベースとするミサを前提にした神学であるため、「いのち」や「エネルギー」というアナロジーはプロテスタントより理解しやすい部分があるかと思われる。

 

このような「ことばを超えた命」を伝えていく以上、人間同士の生きた関わりやそのプロセスを通して、変革がもたらされていくことが示されている。

 

そこで第二の中心的概念として「対話」が導入される。

 

おそらく、これをどう考えるかが、最も重要なポイントになるだろう。

 

この著書のなかでは、他宗教や現代的世界との「対話」を通じて「宣教」する、ということが描かれている。

 

「対話」とは「対等な関係」に基づく「分かち合い」であり、「あかし」である、という。

 

他の宗教や思想のなかにある、聖書に合致している真理契機を、「みことばの種子」として受けとめ、これにリスペクトを表明することで、そういった宗教や思想との「対話」が可能になる、とされている。

 

たとえば、日本人の仏教徒の「諸行無常」といった観念もまた、聖書のなかに含まれている、「人間とこの世の虚しさ」を示す聖句と基本的に似た内容のものである。

 

そこで対話を重ねながら、なお聖書が示すあかしを語ることで、「諸行無常」の観念につきまとう悲しみや寂しさなどを超える聖書が描く希望を伝え、新しい地平を示すこともできる。

 

本書はこういった、教会の外でなされている他宗教や他の思想などのうちにも含まれている「真理」を積極的に見出していくことで、「対話」と「宣教」が可能となる、というロジックであると思われる。

 

以上の理論は聖書的であり、バランスもとれていて、個人的には共感や好感の持てるものだと感じた。

 

ただやはり、この「対話」という概念をどう神学的にとらえるかが、根本課題として未解決のまま残っていることは、はっきりと指摘せざるをえないだろう。

 

「対話」というときには、「対話によって相手が変わる」ことばかりか、「対話によってこちらが変わる」ことも十分にありえるし、ある意味こういった「相互に変わる」ことがないなら、対話としては不成立とも言えるのではないか。

 

「対話的宣教」が「うまくいった」というときは、「対話するなかで相手もまた自らの思想の不十分さに気づき、聖書の真理を受けとめるようになる」ということかもしれない。

 

しかし、これは当然「対話するなかで自らの思想の不十分さに気づき、相手の真理を受けとめるようになる」ことと、対になっている。

 

そして、経験的によくわかることだが、こういった「対話」のなかで「言葉の相互浸透」が起こると、こちら側のキリスト教信仰もまた、「不適切な形の変容」も起こしうる、ということだ。

 

つまり、他宗教や他の思想と対話しているうちに、むしろそちらに引き込まれてしまい、聖書的にはバッティングしている部分まで、自らのうちに取り入れてしまう、ということが起こっていく。

 

ある意味では、これが究極的に昂じると「異端問題」が発生するのは、古代教会の教理とギリシア哲学との「対話」を通して生まれた「グノーシス主義」が、聖書でおおいに課題とされていることを考えると、初期から存在する課題だと言える。

 

つまり、「対話」には大きなリスクもまた伴うのであり、「どの言葉、どの思想が聖書と合致しており、もしくは不一致なのか」を鋭く見破る「霊的視点」や「霊的嗅覚」が要請される、ということだ。

 

それを持たずに対話をしてしまうと、教会の本質部分まで「他宗教、他の思想」のことばに占領されていってしまうことも、十分にありうる。

 

ある意味では実際的に「対話的宣教」の方法論は、ことばや思想における「専門家」は従事できても(つまり教会の伝統をよく学んだ人には可能だが)、聖書や神学を専門的に学んでいない場合には、非常に難しい部分がある、ということだ。

 

以上の部分を差し引いても、私はこの著書が非常に簡潔かつ深く実践的・神学的に考察されたものであり、カトリック、プロテスタントに関わらず、一読の価値がおおいにあると感じたので、ご紹介させて頂いた。

 


日本伝道について⑪ 伝道と「奉仕を通しての聖化」

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教会で奉仕することの意味について考えてみたい。

 

教会奉仕には、前提となるような「目的」がある。

 

奉仕の目的は「伝道(御言葉の広まり)」の集約される。

 

役員会は御言葉がより広まるように協議する。

 

会計は御言葉が広まるために、牧師の生活と教会活動を支える。

 

各種集会での司会などの奉仕は御言葉が広まるためになされる。

 

会堂清掃は、掃除することで教会に来る人々が気持ちよく御言葉を受けることができるようにする。

 

どんな奉仕も、伝道に行き着くという点では共通している。

 

一見すると伝道と関係ないことをしているようでも、間接的には伝道が可能となるためにそれはなされている。

 

以上のように奉仕の目的を「伝道」と理解することは、基本的前提としていくら強調しても強調しすぎることはないほど、大事なことだ。

 

このことさえ、教会で共通理解として持つことは困難であることが多い。

 

奉仕の目的を「より神に祝福してもらうため」という「個人の幸い」の次元に還元して考えるような場合が多い。

 

「個人の幸い」は、奉仕の「目的」ではなく「結果」であると考えなくてはならず、これを目的に奉仕しているなら、個人主義的信仰から脱することはほぼ難しくなる。

 

奉仕の基本的理解としては、「御言葉が広まるために神と隣人に仕え、結果として教会も自らも祝福される」ことにあると言える。

 

一方、奉仕の目的を以上のように伝道だけに一義的に解すると、取り落としてしまう重要な真理がある。

 

「伝道への合目的性」ということを考えてみよう。

 

牧師がかなり能力がある人であるという仮定で、「チラシ作成」をするという場合、明らかに牧師が作成した方がクオリティのよいチラシができる、という状況があるとする。

 

こういったとき、「伝道への合目的性」からすると、牧師がチラシ作成をした方がよい、という判断が容易になされるだろう。

 

牧師は365日教会のことについて考え、修練していくので、牧師が成長して経験や知識が深まっていけば、信徒よりもよくできる部分も多くなっていく。

 

そうすると、「伝道への合目的性」だけを考慮するなら、「教会のことはほとんどを牧師がやった方が伝道につながる」という結論になる。

 

信徒としても、「先生がやってくれた方がうまくできるし、自分も楽になる」と考えれば、牧師がやることを歓迎する。

 

これにより、牧師が「労働者」で、信徒が「顧客」であるという体質、「牧師はひたすら働き」、「信徒は牧師がやっている奉仕を受けて、これが適正かチェックしたり、批評したりする」という構造が徐々にできあがっていく。

 

こういった教会形成では、「牧師のキャパシティまでしか成長しない教会」、「牧師に過度に依存的で、信仰的には脆弱な教会」にならざるをえない。

 

ところで、奉仕には「伝道」という目的しかないのだろうか。

 

聖書を想起するなら、奉仕には「伝道」ばかりでなく、「キリストの生死にあずかる」(Ⅱコリ4:10-13)という意味がある。

 

私たちは自ら奉仕することにより、キリストの十字架と復活の御業に参加するのだ。

 

奉仕によって、具体的に失敗したり、傷ついたりしながら、これが御言葉によって癒され、立ち上がらせられて、霊的に強く成長していく。

 

奉仕は「義認」という次元からいうなら、「たとえ目に見える形での奉仕をしないとしても、キリストを信じて告白し、洗礼を受ければ救われている」ということになる。

 

だが、「聖化」の次元からすると、「なんらかの奉仕をすることなくしては、キリストの生死に参与することも乏しく、したがって主の清めの御業にあずかることも少ない」ことになる。

 

「義認」だけで「聖化」がないとするなら、Ⅰコリント3:10以下の「救いを失いはしないが、審判の火で燃え尽きてしまう家を建てる」人生になってしまうだろう。

 

そもそも、「奉仕できない」人はいないのであって、なにもできずにただ病床にある人でも、教会のために祈ることができる。

 

それだけで尊い奉仕であるのは疑いない。

 

「チラシ」の例でいうなら、牧師がやればクオリティが高くなり、短期的に伝道につながるように見えるとしても、信徒がそれを担うことで地道に成長していく方が、長期的には教会にとってはるかにプラスであることもある、ということだ。

 

以上の点を考えると、奉仕は「伝道」という目的を持ちつつも、同時にキリスト者すべてが「聖化」の歩みをするうえで不可欠であり、すべてのキリスト者がなんらかの意味で「奉仕」に参与するべきということになる。

 

「伝道において非常に賢く、御言葉がおおいに広まっている教会」はそれなりに魅力的かもしれないが、「キリストの生死が透けて見えるような輝きのある教会」は、この世を超越した魅力があるだろう。

 

「伝道」ばかりの教会は「合目的性」の追求によって「世俗化」の変質を伴うし、「聖化」ばかりの教会はこの世から遊離して「セクト化」する傾向を免れない。

 

教会は「総合力が大事」という視点からすると、小さな奉仕であっても牧師と教会員それぞれが力を出し合って教会形成した方が、能力のある牧師一人がひたすら頑張る教会よりも、長期的に遥かに成長するだろうし、喜びに満ちた教会になるだろう。

 

「伝道」も「聖化」も、両者が奉仕において重要な目的であり、両者のバランスと生産的な緊張関係のうえに、教会の前進はかかっている。

 

奉仕の「聖化」の側面についてのお勧め本は以下。

 

こういったことは「楽ではない」面があるため回避されがちだが、やはり向き合う必要がある課題。

 


日本伝道について⑩ 「信仰のレジリエンス」について

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「卒業クリスチャン」にならないために ~信仰の「フェーズ」と「レジリエンス」~ ②

 

(前回記事からの続き)

 

こういった「神による幸い」を求めて教会の門を叩くというのは、特に「一代目キリスト者」であるなら、ほぼ共通していることではないかと思います。

 

この世から、挫折や苦しみ等の経験を通して「出エジプト」をさせられ、教会という「約束の地」での生活が始まるのです。

 

ところが、信仰生活はここで終わるわけではありません。

 

約束の地に入ったイスラエルの民は神を忘れて苦しみのなかに落ち、何度も神の懲らしめを受けることになりました。

 

主イエスの御生涯においても、その中盤には新しい局面が生まれてきます。それはファリサイ派や律法学者などからにらまれ、こうした人々との論争が激化して弟子たちも次第に離れていくことです。

 

主イエスの弟子にとって、主が大きな権力と地位をもっていた律法の教師たちと対立することは、いろいろな意味で不安や恐れを覚えることだったに違いありません。

 

主イエスが敗北するなら、次に狙われるのは自分たちであるのは明らかでした。

 

また、弟子たちにとって主イエスは、「イスラエルを再建する政治的な王である」という考えがあったため、この考えをまったく超えた言動をされる主イエスに当惑や疑いの心があったことは、容易に想像できます。

 

 こうして次第に、身体的・精神的癒しを求めていただけの群衆は去っていきました。

 

主イエスから癒しというメリットは受け取るが、主イエスと共に論争に巻き込まれたり、自分の立場を失ったりするような「面倒事はごめんだ」、ということです。

 

残ったのは、12使徒をはじめとした、それほど多くはない弟子たちだけでした。「この人についていって、果たして大丈夫なのか」という疑念に打ち勝つことができなかったのです。

 

以上のことから、教会生活に伴ってなんらかの「面倒事」や「犠牲」が生じてくることがわかります。

 

総会や役員会を行ったとき、降ってわいたような反対意見によって、多くの人の心が動揺することがあります。

 

牧師のやり方そのものが疑わしく思えることがあります。

 

献金を求められることに、心が疲れてしまうこともあります。

 

どんな種類のものかはさておき、こうした「面倒事」や「犠牲を強いられること」が教会生活には、どこかで伴ってきます。

 

これは、避けようにも避けることができません。

 

こういうことがまったくない教会は、地上にはないのです。

 

というのも、これらは主イエスご自身が味わっておられることであり、主イエスの御生涯の只中で起こっていることだからです。

 

「ガリラヤ伝道」のときに押し寄せてきた群衆のように、「信仰的御利益だけが自分はほしいのであって、犠牲を払うことはごめんだ」という人は、そこで躓いて、去ってしまうでしょう。

 

「自分を癒し、救ってくださったキリストのために、この犠牲を払うことが、自分なりのこのお方への応答である」と考える人が、そこでなお教会に留まるのです。

 

これが信仰の第二のフェーズです。

 

つまり、「キリストから幸いを受けるばかりでなく、犠牲をも担う」ということです。

 

教会生活に「面倒事」が生じてくるのは、「異常事態」なのではありません。

 

特別に罪深い牧師や役員、信徒がいるからそれが起こるとは限りません。

 

地上の教会ではどんなところでも、こういったことは生じてきます。

 

主イエス・キリストに服従している教会で、むしろ明瞭に起こって来るとさえ言えるのです。

 

というのも、主イエスご自身がそれによって、私たちをテストし、更なる信仰的深みへと導こうとされるからです。

 

教会生活していると、人間の罪や弱さがかえってはっきりとわかります。

 

また「人を裁くな」と言っている人が、別のところで思う存分人を裁いているなど、キリスト者の言動の矛盾は多くの人が経験するところです。

 

しかしこれは、「教会がもはや教会ではなくなっている」から起こるのではなく、教会が聖書的・教会的に形成されているところでも、なお起こって来る課題なのです。

 

つまり、こういった課題が教会に起こらないようにすること自体が、ある意味不可能なのです。主イエスの御生涯の一部だからです。むしろ、これをどう担い、よりよくキリストに従っていくことができるのかを、問わなくてはなりません。

 

そのためには、どうしても「犠牲」や「面倒事」は教会生活に含まれているのであり、これによって私たちの信仰のフェーズが前進・成長するよう、神によって用いられると考える必要があるのです。

 

そして、第三のフェーズとして、旧約聖書が描くところのユダの滅亡となる「バビロン捕囚」の出来事、福音書が告げる主イエスの受難と十字架の御業があります。

 

神に選ばれたはずのユダは異国の攻撃で滅び、主イエスは人間の罪によって十字架につけられ、ついには神からも見捨てられる霊的・地獄的な暗黒に包まれるのです。ここに示されているのは、信仰的な「死」のフェーズです。

 

主イエスが十字架につけられたとき、12使徒もみな、主を見捨てて逃げてしまいました。主を慕う女性たちが従いましたが、彼女らも泣いているだけでそこでなにが起こっているのか、だれも理解しませんでした。

 

ついに主イエスが十字架にかかられたとき、全地が暗闇に閉ざされ、人類の罪の暗黒が覆い、父なる神の臨在と慈しみさえ、主イエスから取り上げられました。

 

これ以上はない魂の孤独と苦悶のなかで、主イエスはご自身を神に委ねられ、息を引き取られました。

 

主イエスが十字架で最後にお示しになったのは、絶対的な孤独であり、想像を絶する魂の苦しみの深淵です。

 

教会生活をしているとき、こういった「死」の次元に遭遇することさえあるのです。

 

それは自我が徹底的に打ちのめされる恐ろしい闇であり、周囲のすべての人と神さえもが自分の敵となったと思われるほどの孤独と寂寥にさいなまれることです。

 

人間の声ばかりか、聖書の言葉や祈りさえも心に痛みを覚えるほど、心は暗闇に閉ざされます。

 

そんな闇が信仰生活にあるなどと、だれも想像できないでしょう。

 

しかし、それは主イエスが十字架で味わわれたことであり、この闇さえも主の御生涯の一部なのです。

 

マザー・テレサという人はいつも美しい微笑を浮かべている人でしたが、死後に出版された彼女の内面の苦痛を綴った手紙に、世界中が驚きました。

 

彼女の微笑の影には、深い魂の暗黒との闘争があったのです。

 

いわゆる「魂の暗夜」の経験です。

 

しかし、それは主イエスが十字架で耐えしのばれたものである以上、やはり信仰の一部なのです。

 

こういったフェーズに直面して、なお教会に留まることほど、信仰が試されることはほかにないでしょう。

 

このときの唯一の慰めは、「この魂の苦悶と孤独を、主イエスも私と共に味わってくださっている」ことだけです。

 

これが信仰の第三のフェーズです。

 

福音書が描く主イエスの御生涯から、罪のない神の子であるお方でさえ、苦しみに取り囲まれ、十字架を担われた救い主であることを見てきました。

 

私たちキリスト者は「キリストと一体とされた者」であり、教会は「キリストのからだ」です。

 

それは、キリストの復活の恵みと祝福ばかりか、主の苦しみにもあずかっているということです。

 

十字架を振り落とし、その苦しみから安易な形で逃げてしまうなら、信仰の成長が止まってしまいます。

 

いや、そんな消極的なことではなく、むしろ私たちの泥臭い苦しみさえ、主がご自分の苦しみとなしてくださり、主が共に苦しんでいてくださる、私たちの光栄と特権を覚えたいと思います。

 

「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1:29)

 

なぜなら、私たちの苦しみによって、キリストは私たちの信仰を成長させ、更にご自身に似た者へと造り変えてくださるからです。

 

このように信仰には「フェーズ」があり、苦しみもまた信仰の成長の不可欠・不可避の一部であることを理解することで、「主と共に十字架を担う」ことができる「レジリエンス」を養っていくことが、「生涯信仰」を貫くために必要です。

 

苦しみによって私たちは、研ぎ澄まされた奉仕の器へと成長させて頂けます。主の鍛錬にあずかることで、私たちのような傷ついた罪人をさえ、主はより大きなご栄光を顕すために用いてくださるのです。


日本伝道について⑨ 「信仰のレジリエンス」について

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「卒業クリスチャン」にならないために ~信仰の「フェーズ」と「レジリエンス」~


『舟の右側』(地引網出版) (以下 2019年1月号に掲載された拙文を編集長の許可を得て掲載します)

  

今でも忘れられない経験があります。

 

私が受洗したのとほぼ同時期に洗礼を受けた方がおられました。その方が信仰告白式のとき、次のような証しをされました。

 

「仕事の帰り、電車のなかでじっと神様のことを考えていたとき、自分が神様に愛されていることに目が開かれ、涙が止まらなくなりました。そのとき、聖霊がわたしに降り、わたしを捕らえてくださったのだと思います。

 

迷っていましたが、その経験で受洗の決意が与えられました」

 

感動的な証しを聴きながら、このような深い霊的体験をされる方がおられるのだな、と励まされた思いがしました。

 

ところがその2~3年後だったと思いますが、「そういえば、あの体験をされた方はどうしたのだろう」とふっと思い起こしたことがありました。というのもその方は3年後くらいには、もう教会に出席されることがなくなっていたからです。

 

他の教会に転会された、ということも記憶になかったため、そういった思いが湧いてきたのでした。

 

あの方の「聖霊体験」は、幻想ではありませんでした。

 

もちろん、「演技」などでもありません。実際、聖霊がその時働いて、魂を燃やし、洗礼への決意を与えてくださったのではないかと思います。

 

ところが、そういった深い霊的体験をされた方でも、3年後には教会に出席されなくなる、というこの現実が、私の心に異物のようにずっと残っています。「なぜあの人は、教会に来なくなったのだろう」と思い起こすことがありますが、もはや確かめるすべもありません。

 

地方に赴任してから、駅前で集会のビラ配りをしていると、時々「わたしも若いころ、一時期教会に行っていた」とおっしゃる方がおられます。


「洗礼を受けたのですか」と聞くと、「ええ、受けましたよ」と言われたりもします。かなりの頻度でそういう方にお会いするのです。

 

そういった方々は、なぜ教会に行かなくなったのでしょうか。いろいろな方のお話を聞くなかで、見えてきたのは、「教会生活に伴うなんらかの『痛み』や『矛盾』を納得できなくなり、教会から離れてしまった」ということが背景にあることが多いということです。

 

人間的な課題で言うなら、牧師に対する不信、役員会での孤立や対立、教会での交わりで味わったなんらかの痛みや恥、教会があまりにこの世的である、などがあります。

 

また信仰的課題でも、信仰の熱意が徐々に消えて行くという「霊的倦怠」の問題や、信仰から来る慰めや喜びの摩滅と減少という「霊的荒廃」といった現実もあります。

 

教会生活において味わう「霊的体験」自体が、信仰の日常化に伴って次第に減っていく、ということもあります。

 

以上のような人間的・信仰的課題を経験するなかで、これをどうしても納得したり、消化したりできなくなると、信仰と教会自体に見切りをつけてしまうのではないかと思われました。

 

重要なのは、上のような課題は、なんらかの特定の罪によって生じるというよりも、むしろ「教会生活を続けていくなら、どの教会であっても不可避的に経験せざるをえないような種類の痛み・苦しみである」ということです。

 

つまり、こういったものをどう理解し、納得し、乗り越えていくか、という課題がどんなキリスト者にも課せられるのですが、それがクリアできないと、信仰生活に失望して「卒業」してしまうのです。

 

「卒業クリスチャン」とならずに主の道を全うするために、教会生活に伴ってくる痛みや苦しみについて、どのように考えればいいのでしょうか。

 

私たちは、洗礼を受けたころの熱い心が冷めてしまったり、説教から慰めが受け取れない時が続いたり、牧師自身の言動の不一致や教会の混乱などを間近に見ると、自分も含めて教会が罪人の集いであって、教会もまた矛盾や不合理な過ちに満ちていることを認めざるをえなくなります。

 

そして「教会も結局、この世と同じような罪と課題に満ちている」ことがわかってしまうと、もう「そんな教会にくる意味もない」と考えがちになります。

 

 こういった考え方では、「教会生活において罪や課題、それにまつわる痛みや苦しみというものは、あってはならないものであり、教会では解消が困難な苦しみや痛みを背負うということは、異常事態に他ならない」という理解が背景にあるのではないでしょうか。

 

私自身は、このように教会を倫理的に理想化して、そこになんの問題性もないことを期待する考え方そのものが、「卒業クリスチャン」を生み出し続けている、最も重大な温床になっている気がしてなりません。

 

「教会」という概念やイメージのなかに、「痛み・苦しみ」の契機が含まれていないかのような、理想化された像が心の奥底にあるのではないでしょうか。

 

そういった像と、現実の教会生活の「ギャップ」が解消できないほど大きく感じられると、「もう行く意味もないので、やめよう」と考えざるをえなくなるのではないかと思います。

 

 しかし、聖書に照らして、教会のなかには痛みや苦しみはそもそも、存在しないものなのでしょうか。教会では、不合理な罪による納得できないような苦しみが、起こらないのでしょうか。

 

むしろ、聖書はその点についてまったく包み隠さずに、旧約から新約まで貫いて、神の民の中に痛みと苦しみの現実が存在することを描いているのです。そして、教会生活における痛み・苦しみへの「耐性・弾力性・回復力(レジリエンス)」を聖書によって培うことが、「卒業クリスチャン」を脱却するために重要な課題です。

 

ある意味、聖書からすると「どれほど神のために苦しみを担うことができるのか」ということが、「信仰の成長」という課題と、相即の関係にあると言っても過言ではありません。

 

というのも、イエス・キリストというお方は、神のもとに私たちを連れ戻すために、十字架という地獄の苦しみを担ってくださったお方であり、このお方のあとに続いていくのがキリスト者の成長の歩みだからです。

 

私たちが主イエスに似た者となることが信仰の成長だとするなら、それはどれほど神のために十字架の痛みを担って歩むのか、という課題と深い関係があると言わざるをえません。

 

私たちは多かれ少なかれ、「御利益的信仰」にあまりに慣らされています。身近に経験するところでは、神の恵みによるメリットを語る説教は「人気」が出ます。「いいね!」が容易につきます。

 

しかし、「十字架を担う」ことを語る言葉には、それがほとんどつかずに黙殺されます。場合によっては「低評価」がつきます。

 

だから、「伝道のために、まずは信仰のメリットを語らないと」と牧師も考えて、説教もそちらが主たる流れになります。一方、信仰的な「レジリエンス」はそういった説教によっては養われません。ここに、大きなジレンマがあります。

 

改めて、「教会生活には痛みや苦しみがなんらかの形で伴ってくるが、それは聖書的にも自然なことであり、これについてどう理解し、どう耐える力を養うのかということこそ、信仰を貫く上で重要な課題である」という事実を、受け止める必要があるのではないでしょうか。

 

特に、福音書が描くイエス・キリストの御生涯に照らして考えてみましょう。そこから見えてくるのは、信仰には大きく三つに分けることができる、「フェーズ(段階)」を仮定することができる、ということです。

 

 主イエスの公の御生涯は「ガリラヤ伝道」から始まります。そこで、主イエスは身体的・精神的病気の癒し主として働いてくださいました。多くの人が主イエスの力によって癒され、悩み苦しむ人々が大挙して主イエスの御元に押し寄せてきました。

 

これは、私たちがこの世でなんらかの苦しみを味わい、そこから救って頂こうと教会の門をくぐる時に似ています。私たちの魂が霊的に渇いており、救いを慕い求めていくとき、私たちは礼拝で語られる説教や讃美、祈りによって痛みと渇きが癒されるのを経験していきます。

 

私たちは教会で、この世が決して与えることができない主イエスによる「霊的幸い」「霊的平和」「霊的癒し」を味わうのです。これが信仰の第一のフェーズです。

 

こういったなんらかの信仰による霊的な「御利益」を味わうことがないなら、洗礼を受ける決意も湧かないでしょうし、そもそも教会に来る意味さえ見出すことができません。

 

教会に出席することで、自分が出会っている困難な「人生問題」が神への信仰によって解決される、そこから救われるという経験をすることが、洗礼への大きな一歩になると言えます。

 

(後半 次回の記事へ続く)

 

日本伝道について⑧ 「任地に骨を埋める牧師」と「遠大なビジョンを保持する信徒」

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教会の成長の鍵 『聖書信仰に基づく教会形成 西大寺キリスト教会の歩みを一例として』(赤江弘之著)という本を読ませて頂いた。

 

最初の30pほどで「西大寺キリスト教会」の歩みについて物語として紹介されており、その後はほとんどが、その理念やビジョン、原理原則などについてのメモやレジュメを集めたものとなっている。

 

西大寺キリスト教会は本書の著者が着任したとき礼拝出席が20人台だったが、その後250名を超えるまで成長している。

 

町の人口が6万5千人程度の地方にあり、しかも仏教的色彩の強い土地柄でこれほどの成長をした教会として、日本で稀有の教会の一つだろう。

 

このような成長の「秘訣」や「鍵」はなにか、という思いで多くの牧師や信徒が本書を読まれると思う。

 

ところが、30p以後の部分については、他の書物で読んだことがあるものが多く、「どこかで聞いたことがある内容」であると思えたし、方法論のうえでは取り立てて「秘訣」や「鍵」に当たるようなものが見当たらない、という印象を受ける。

 

おそらく、本書が内容として伝えている「方法」という面では、牧師と長老会を中心に教会で一致し、非常に保守的な信仰を熱心に守っておられるということに尽きるだろう。

 

取り立てて、「特別なこと」をされているわけではない。

 

おそらく、本書を読んだ多くの方もそういう思いを抱かれただろう。

 

ただ、非常に深く心を打たれた重大なことが二点ある。

 

おそらく、もしこの教会の成長に秘訣や鍵があるとするなら、この二点であって、「教会が生きて成長していくことは、究極的には方法論の問題ではない」ということが本書の最大のメッセージであるように、私には思えた。

 

一点は、著者が赴任したときのエピソードだ。

 

以下、そのまま引用してみる(11p)。

 

・・・私が西大寺教会に着任した当時のことです。一番古くから教会に仕えておられた中心的信徒から、「若い先生をお迎えして、2~3年してこれからというときに先生は都会の大きな教会に招かれて行かれます。わたしの祈りは、立派な先生でなくていいから、船と一緒に沈んでくれる船長が欲しいのです」と聞かされました。西大寺弁でしたが、その切なる思いが伝わってきました。思わず家内と目で語り合いながらその信徒に言いました。「わたしたちでよかったら、船と一緒に沈んでもいいですよ」・・・

 

この信徒の方の思いは、ほとんど日本中の地方教会に集う方々の思いであろう。

 

有能で若い牧師が地方教会にきても、ほとんどの牧師が数年も経過すると都会へと去っていく。

 

「船と一緒に沈んでくれる船長」とは「その教会に骨を埋める覚悟で職務に当たる牧師」ということだろう。

 

これが、教会の成長の「鍵」の第一点だ。

 

牧師が数年単位で離任・転任を繰り返す教会が、一般的水準を抜きんでて成長する、ということは絶対的にありえないと言える。

 

ほとんどの歴史的な「大教会」の過去には、その教会に「与えられた生命と精魂を使い果たした」と言えるほど徹底的に献身した牧師が、少なくとも1名はいる。

 

教会に注がれる牧師の命が、教会の成長の第一の鍵なのだ。

 

つまり、教会の成長を本当に願っているなら、牧師自身にその教会と職務に「骨を埋める」というくらいの、殉教的な覚悟がいるということだろう。

 

第二点は、牧師と共に「千人教会のビジョン」を抱いた青年の信徒たちがいたということだ。

 

青年の信徒が言い出したこうしたビジョンを、牧師は「無茶苦茶だ!」と一蹴せず、「神にできないことはないから、できる」と受けいれ、しかも「この幻は通過点であって、全世界に福音を伝えましょう」とまで言う。

 

その後、多くの人から嘲笑され、失笑を買ったが、なおこのビジョンは牧師と信徒のうちに燃え続けた。これが二点目だ。

 

ビジョンというものは、瞬間的に抱くだけなら、どんなに大きなものでも難しいことではない。

 

ところが、これを数十年も「保持」することは極めて難しい。

 

失望する出来事や、日常の忙しさや快楽にかまけているうちに、どんどんビジョンの炎は冷えて、鈍っていくため、たとえ1年であっても大きなビジョンを保持するということは、非常に難しいのだ。

 

「もうやめた!」と誰もが言いたくなるようなことを、何度も何度も通過する。

 

牧師だけがこういったビジョンを抱いた、というなら、ある意味ではよくある話ではある。


しかし、信徒が一丸となってこうしたビジョンを抱くことの困難さは、筆舌に尽くしがたいと言える。

 

特に複数名の信徒が「自発的」にこうしたビジョンを抱くということは、本当に稀有のことだ。

 

というのも、多くの信徒は「教会が大きくなる」ことについて、喜びと同時に恐れを持っているのが普通であるからだ。

 

多くの新しい人々が教会に来ることで「自らの信仰生活の平安」がなんらかの形で脅かされることを、心の底の方で恐れていることがある。

 

そのため、信徒の方から自発的にこういったビジョンが出てくるということ自体が、稀なことだ。

 

この教会が成長を続けることができた理由は、牧師も信徒も、双方がこのビジョンを諦めることなく、祈りをもって燃やし続けたことだろう。

 

このようなビジョンを皆が抱いていると、自然と神がそれが実現するのにふさわしい出来事や試練を送ってくださる。

 

神ご自身がそうしたビジョンを「よし」として、これを成就する方向に導いてくださるのだ。

 

そこで神から与えられる課題に必死に応答しているうちに、「いつの間にか、ビジョンが実現していく」ことが起こる。

 

以上の「二点」が、この教会の飛躍的な成長の「鍵」であって、この鍵に基づいて30P以後のあらゆる「方法論」の熱心な「実践」が生じてくる。

 

あの「二点」に支えられた実践の数々が、教会の前進のすさまじい動力となっているのだ、と本書を読んで感じた次第だ。

 

日本の教会が成長せず、停滞と衰退に苦しんでいる状況にあるが、ひるがえってこの「原因」については、あの「二点」の「逆バージョン」が多くの教会に蔓延しているからだ、と言えるのかもしれない。

 

つまり、命を教会のために使い果たすような「殉教的覚悟」のある牧師がおらず、いたとしても非常に少数であり、また「人の失笑・嘲笑を買うほどの大きなビジョン」を描いて、これを長期的に燃やし続けるような信徒もまた、非常に少ない、ということだ。

 

本書は、こういった日本の状況全体に自らの実例を通して大きな「問い」を突き付けているという点で、心が深く刺されると同時に、耳を押し開いて読む価値があるものであろう。

 





日本伝道について⑦ 「神の農夫として生きる」Ⅱ

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『舟の右側』2018年10月号 Vol.58より転載

 

(続き)

 

このような理解のもとで、改めて教会形成に従事しましたが、物事はそう容易に運んだりはしませんでした。「収穫の時」が終わると、再び種が畑に潜在して雨を待ちながら発芽に備える「忍耐と労苦」の時が始まりました。


それは、以前とは別の形のものでしたが、より厳しいものでした。「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」(ヤコブ5:7)とあるように、収穫を見るためには「忍耐」は避けて通れない道だったのです。

 

 それまでの4年間働き続けてきた疲れや心身の不調などが、各方面に噴き出してきました。精神的には「中年の危機」といわれるような症状となり、知性や心が円滑に働かなくなり、仕事を新たに作ることができなくなりました。


教会では「淡々と礼拝の日々が続いていく」という状況でしたが、燃え尽き感や虚脱感に耐えながら、今後の希望を描くこともできずにそれを回していくというのは、人間的にもひどくこたえる日々でした。

 

 牧師として日曜日、「生きる意味や喜び」を説きながら、週日になると「自分は生きている意味があるのか?」、「そもそもなんで、自分はここにいるのか?」などと誰にとも知れずに問いかけて打ちしおれているのは、滑稽な姿ですが、それが当時のありのままの自分でした。

 

 この状態が、大体4年間ほど続きました。受洗者など信仰の仲間は時々与えられていましたが、行き詰まり感が増幅していき、最後の方は「とにかくこんな状態から解放されたい」という思いと闘うだけで、やっとのことでした。


「どこかに消えてしばらく休むか、まったく別の土地でやり直すかすれば、この苦しみも終わるかもしれない」という考えが何度も脳裏をよぎりましたが、どう信仰的・客観的に考えても、その時辞任などしてしまえば教会は建て上げてきたものを失ってまったくの低迷状態になることが明白だったため、ただ責任感と神様への義務感によって、かろうじて繋ぎとめられている状況でした。

 

 その折りに、2016年4月16日未明、熊本・大分地震の激震が、別府をも襲いました。尋常でない揺れに目を覚ましましたが、窓を開けると街全体が異常な空気に包まれており、叫び声が近くでいくつも聞こえていました。


携帯のアラーム音が鳴り続け、海の方から不気味な地鳴りの音がしていましたが、ニュースでは津波の心配はなさそうだということでしたので、避難はせずに夜を過ごしました。

 

 翌日は朝から晩まで、全国の覚えてくださっている方々から電話がかかりました。非常にありがたい愛と祈りの励ましを頂きましたが、メディアでは南海トラフ地震の噂や、他の地震との更なる連動の可能性など、不穏な空気は収まりませんでした。


礼拝堂を見ると、ほぼ全体にクラックが生じており、その一部は素人の私でも崩落の恐怖を感じるものでした。礼拝堂での礼拝は無理であると判断して、隣接の集会室に礼拝の場を移し、そこで毎週の礼拝を行うこととしました。

 

 ほとんど説教準備もすることができずに日曜日を迎えましたが、なぜか新しい出席者が多くおられました。他教会の方や、海外から帰国して初めて礼拝に出た方もいました。


翌週も、その次の週も、その方々は出席されました。4年間の「労苦と忍耐」の月日を越えて、新たに御言葉の「発芽」の時が始まっていたのです。

 

 築93年になる礼拝堂を「補修」で済ます、という選択肢は考えられませんでした。また、「現状に合っているだけのごく小規模の建物を建てればいい」という考えも、信仰と聖書から判断するなら不可能な道だと思いました。


この度の震災を神からのチャレンジとして受けとめ、この時を通して教会の歴史が前進するように取り組むのが御心にかなうと信じました。


伝道のビジョンを描きながら、教会の将来の可能性を拡げる会堂建築をするべきで、志が縮こまってごく小さな負担だけで済ませるのは結果的に大きなマイナスとなると考えました。

 

 教会懇談会やアンケートの実施、建築委員会での検討を重ねるなかで新会堂のビジョンを明確にしていきました。


そのなかで学ばせられたのは、「会堂」は教会の「衣服」のようなものであり、それが教会の実質であるわけではないですが、同時に教会の本質的な性格をシンボルとして表現する重要なものだ、ということです。


ファッションがその人の人格や内面性を暗示するように、教会堂もまたその教会の内的文化、歴史的風土や霊的性格をシンボルとして表現するものです。

 

 「御言葉が蒔かれ、根を張り、発芽し、成長し、収穫する」という一連の「神の農作業」のダイナミズムが教会の生命の実質ですが、これがある一定の段階に達して、新たに一線を踏み越えて前進するとき、教会の会計や会堂、備品といったハード面までも、更新されるようになります。


会堂や備品といった外的なものは御言葉に比べれば本質的ではないとしても、なお教会の信仰の内容を表現し、地域に対してキリストの香りを放つものとして、伝道の大切な一角を担うものです。


そこで「この地で更に広く、深く伝道していくために」という視点において新会堂も細かく考えて、ビジョンを描き続けました。日本伝道の視点から、納骨室等もよく考えて整備しました。

 

 全国の兄弟姉妹と牧師の先生方の多大なご支援と祈りに励まされて、2018年2月に新会堂が完成し、5月に献堂式をお捧げすることができました。その折りにある方から「会堂が建って、夢がかなうってどういう感じですか」と聞かれましたが、「不思議なくらい冷めていて、他人事の感じがします」と私は正直に答えました。


この答えは奇妙に聞こえるかもしれませんが、実際に夢が実現する時というのは、そういうものだろうな、と思います。


最初は私も「会堂が建ったら、天に昇るような喜びを感じるだろう」と考えていましたが、それは実際にはほんの一瞬だけで、後には「やはり神が働いてくださったのだ」という静かな感慨だけが残りました。

 

新会堂が建つというとき、もちろん牧師には牧師としてするべきことがあり、それぞれ教会員や建築委員会にもするべきことがあります。


しかし、会堂建築もまた、他の教会の課題と同じように牧師や教会員が持っている能力や資質といったことで成就したのではなく、むしろ御言葉の生命力が「旧礼拝堂」という「殻」を突き破って、新会堂へと「発芽」・「成長」を遂げた、ということだと考えています。

 

各人が責任と役割を果たしたから、教会は道を進んでいくことができたわけですが、本当に重要なのはその部分というよりも、現実を変革して約束を実現してくださった神ご自身の御言葉の生命力に他なりません。


会堂建築のひどく忙しい日々の最中にも、「神の農夫として生きる」という信仰の原点を改めて確認させて頂けたことは、大きな恵みでした。

 

「神の農夫」としての働きは、「種蒔き」「忍耐と環境作り」「発芽」「成長」「収穫」という神ご自身の農作業のサイクルに奉仕することです。


この神の御言葉のサイクルが、教会で円滑に、滞ることなく豊かに回ることで、教会は魂の状態も主を知る知識も礼拝者も、また会計や会堂や備品や土地といった課題に至るまで、新たに更新と変化、成長を遂げていくものです。

 

 献堂式を終えた今、教会はほっと一息つくとともに、新たな「忍耐と労苦」の時期が始まっているようにも感じます。


会堂建築をする過程で礼拝出席者は一時増加しましたが、その後の2年間で実に12名もの方々が召天や転出等によって教会を去られました。礼拝出席が40人くらいだった地方の教会にとってこの人数がどれほど大きなものか、ご理解いただけると思います。

 

幸いなことに会堂建築による意見の対立によって去った方は一人もおりませんでしたが、この事業が非常に大きな負担であったことは確かなことです。


また今後の予定では8年程度は借入金返済を行いますが、その間に教会が前進・成長することがないなら、事実上の経済破綻が教会を待ち受けていることにもなります。

 

 しかし、どのような状況に置かれても私たちにできるのは、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(Ⅱテモテ4:1)という主のご命令に従うことだけです。御言葉の生命力が、人間的に見て非常に厳しい状況をも打ち破ってきたのを、これまでの歩みで何度も見せて頂きました。

 

今後どのような厳しい課題がやってきても、「神の農夫」として、「神の農作業」への信頼と奉仕に生きる原則や指針に、変わりはありません。


神の言葉の生命力そのものが、教会のすべての困難と課題に対して、唯一有効な力であり、これが私たちの奉仕を通して顕されていくことで、教会は確かに将来への扉を開かれるのです。

 

(転載終わり)


日本伝道について⑥ 「神の農夫として生きる」Ⅰ

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「神の農夫」として生きる① 

 

以下、編集長の許可を頂いたので、雑誌に掲載させて頂いた文章を引用する。ご参考にしてください。(なお、筆者は2020年3月に、別府不老町教会から甲府教会に転任しましたので、その点下記とは異なっています)

 

(『舟の右側』2018年10月号 VOL.58より)

 

日本基督教団別府不老町教会は創立1911年で、私は18代目の牧師になります。2008年4月に着任し、今年で11年目を迎えています。私が赴任したとき、教会の状態は決してよいものではありませんでした。


礼拝や祈祷会の後、教会の方とお話したとき、「もう疲れた」という言葉や、過去に起こったいろいろな悲しい出来事への怒りや不満の言葉がよく聞かれました。大体2年間くらい、ずっとこうした言葉が聞こえていたと記憶しています。

 

愛餐会も、多くの方が意欲を失っていたため、教会で行うのをやめて、労力を省くために近隣のホテルでやろうという意見もありました。なにより心が痛んだのは、礼拝の雰囲気が非常に暗かったことです。


私は自分の説教が悪いせいでこんなに空気が悪いのだと思いましたが、後から礼拝の雰囲気というものは教会の歴史の積み重ねからくるものであることがわかりました。

 

 教会に初めて来る方はほとんどおらず、旅行の方々が稀に来会される程度でした。他の礼拝者はほとんどが固定した教会員の方々で、最初は26人くらいのことが多かったのですが、年度の終わりが見え隠れする冬の時期には毎週の出席者が21人程度にまで減ってしまう日も多くありました。

 

 正直、人間的な思いでは状況は絶望的なものでした。人口統計に基づくなら、教会の核である方々がご高齢であったため、10年後に礼拝出席者はどう楽観的に考えても10人台となっているでしょうし、実際的には教会は牧師謝儀さえ支払うことができなくなり、牧師としての私の歩みも、アルバイトなどで生計を立てなくては成立しなくなることが、容易に予想されました。

 

 こういった暗い予測は、夜眠るときにたびたび襲ってきて、寝床のうえで不安や恐れに苛まれることがよくありました。この状況をなんとか打開するための方法論を見出さなくてはならない、と必死で多くの書物を読み、実行可能な施策を実施していきました。

 

 藁にもすがる思いで大きな教会でなされている、「成功事例」のようなプログラムを取り入れてみたりもしましたが、これといってなんの変化もなく、2年間が過ぎ去り、いよいよ「伝道のあがき」もなんの実りも見えないまま、失望や徒労感ばかりが蓄積していきました。

 

 いつだったかよく覚えていませんが、「もう、自分はダメだな」とある日思いました。知恵と力のすべてを振り絞って、自分の若さのすべてを投入したのに、教会の将来を拓くようなことはできず、その道さえも見いだせず、すべてが無に帰していくように思えました。

 

 そこで神様に対して、「もう自分としてはダメなので、後はあなたがお願いします」という祈りをし、自分の思い煩いや無意味感と虚無感のすべてを、胸のうちから神様に向かって手放してしまいました。


すると、不思議とふっきれた思いとなり、久しぶりに平和を味わい、伝道という課題が「他人事」であるような、不思議な印象を抱きました。


「伝道は私の課題という以前に、神の課題である」という思いとなり、心の不要な責任感や重荷が取り除かれました。

 

 ところがその頃から、教会に変化があらわれるようになりました。これは、私の心境の変化によって起こったのではなく、それまで蒔かれていた神の言葉の種が、時が満ちて一斉に「発芽」したのだ、と解釈しています。


それまでは種が蒔かれても、教会という畑の地面の底で根を少しずつ張りながら、じっと時を待っていたので、目に見えてなんの変化も認められなかったのです。「自分がなんとかしなければ」という自己中心の思いが消えたとき、私の努力とは別次元で働いていた神の御言葉の生命力が示されるようになりました。

 

 御言葉の種が発芽すると、目に見えるところで教会に変化が生じ始めました。ちょうど3年目くらいのことです(ずっと後にチャック・スミスという牧師が、赴任した新米牧師に「まず3年間耐え忍び、説教しなさい」と教えていたという話を聞き、なるほどと納得しました)。


どこからともなく、新しい礼拝者がやってきて、共に礼拝するようになりました。私や教会のだれかが「捕らえて」きたのではありません。不思議とその時がくると、導かれてやってきたのです。礼拝しているときの雰囲気も劇的に変わりました。


讃美し、祈り、説教をしているとき、神の臨在の輝きのようなものが会衆を覆っているのが、雰囲気で心に認知できるような、明るいものとなっていきました。

 

3年目、4年目には受洗者、転入会者などが多く与えられ、それまではありえなかったような変化が起こりました。


破綻寸前と思われた教会会計も、不思議と好転しました。こういった教会の新しい成長をどう考えたらよいのかわからないほど、豊かな神の御業が示されていました。教会の百周年記念事業として牧師館・集会室が建築され、ハード面でも変化が明らかとなりました。

 

このような出来事を通して、主イエスのたとえ話の一つが自分の腑に落ちました。


「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」(マルコ4:26-29)

 

このたとえでは、神の言葉が教会に蒔かれることで、「ひとりでに実を結ぶ」とあります。種を蒔いた「人」は、おそらく種が順調に成長していけるよう、「環境」を整えているに過ぎません。成長するのは、ただ種自身の力によるのです。

 

同じように、主イエス・キリストの教会も神の言葉自身の力によって成長するのであって、私たちはその成長力を阻害したり、ゆがめてしまったりしないように整える「神の農夫」に過ぎない、という理解を抱くようになりました。


新たな収穫を生み出すのは、種自らの力であり、種のうちに大いなる生命力がすでに秘められているのです。「農夫」はこの力が十分に発揮されるよう、環境を整え、成長できる環境を整える奉仕をするに過ぎないのです。

 

 教会は自ら成長し、広がり、信仰において深まっていく生命力を、既に内に抱いています。牧師はその命をさえぎり、押しと止めようとするものを取り除き、より豊かに発展できるよう、世話をします。


説教という最も重要な課題においても、本質は同じです。牧師が説教するのは、ただ教会を愛し、語ることで教会を癒し、救おうとしておられる神の言葉を管理させて頂くに過ぎず、ただ与えられた職務を忠実に果たすことだけが求められているのです。

 

 それまで私が取り組んでいた働きは、「自分主体」のもので、「神主体」ではなかったことに気づきました。あくまで、実際上の鍵を握っているのは人間の能力や「機能するプログラム」であって、これを見つけることが伝道において最も重要であるという勘違いをしていました。

 

 しかし、本当に大事なのは聖書に書かれているように、神の言葉が蒔かれ、これが畑に落ちて発芽し、種自身の生命力が人間の罪や怠慢によって阻害されたり、病んでしまったりすることなく、着実に成長し、収穫をもたらすということでした。


収穫によって増えた「種」をまた新たに畑に蒔くことで、「神の言葉が増え広がる」という主の御業に仕えるのが、牧師と教会の伝道の業です。

 

(次へ続く)




日本伝道について⑤ 「卒業クリスチャン」と「信仰のフェーズ」について

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伝道について考えるとき、大きな信仰における「両極」として、「幸い」と「犠牲」、「死」という三つの段階を仮定して、考えてみる。

 

つまり、「神を信じることによる幸い」と、「神を信じることによる犠牲」、そして「神のために死ぬ」という三つのフェーズだ。

 

おそらく、多くの人は教会に来るとき、この世的価値観・世界観で生きることに行き詰まり、新しい救いの世界認識を求めて教会にくる。

 

それは、「この世的ではない、神による幸いを得たい」ということだろう。

 

多くの人は、教会で神に出会い、この世が与えることができない霊的幸いと平和を見出して、洗礼を受ける。

 

神を信じることで、孤独が解消され、「主が共におられる」幸いを心に覚えるようになる。

 

これは、福音書に照らしてみると、主イエスがガリラヤ伝道をなさっていた時の状況に似ている。

 

つまり、病気やわずらい、心の痛みに苦しむ人々が主イエスのもとにきて、主の御業によって解放され、新しい生活に向けて恵みと癒しを与えられ、主を信じる者となる。

 

ガリラヤの主イエスのみもとには、本当に大勢の人々が群がっていた。男女合わせると、数千人の人に囲まれていたこともあるだろう。

 

そこで、人々は主イエスに「幸い」を求めて、押し寄せてきた。

 

第二のフェーズとして、教会に来て洗礼を受け、神による幸いを見出した人々の多くが、3年以内に教会を去っていく、という痛ましい現実がある。

 

「卒業クリスチャン」などと言われたりもするが、教会を卒業して、この世に戻って行ってしまうのだ。

 

つまり、教会生活というのは、「幸い」だけではやっていけない側面が厳然としてある。


教会生活をするなかで、神のために「犠牲」を払う、という契機が必ず出てくる。

 

「奉仕」という形で「エネルギー」を犠牲にすることもあれば、「献金」というお金の面での犠牲もあり、「交わり」において人間関係で痛みを負うという「犠牲」もある。

 

こういった「犠牲」という局面にぶつかると、多くの人は「教会も結局、この世と同じだ」、「牧師もただの罪人だ」という感想を抱いて、失望して離れていく。

 

これを福音書に照らしてみると、主イエスがエルサレムへ向けて旅路を歩まれ、ファリサイ派や律法学者と論争が激化し、権力者ににらまれ、人間的な意味での旗色が悪くなり、多くの人が主イエスのもとを去って行った、とある箇所に符号する。

 

主イエスに従うためには、人間的に犠牲や痛みを求められる局面が出てくると、「幸いだけがほしい」という人は去っていく。

 

主イエスが選ばれた弟子たちはみもとに留まるが、ただ「幸い」だけを求めていた人は見切りをつけてしまうのだ。

 

そして、第三のフェーズがある。

 

教会生活をしているとき、人間的にプライドが打ち砕かれ、まったく自我や自尊心が死ななくてはならないような、苦難や試練といったものが存在する。

 

文字通りの「死」も、迫害下では起こるだろうが、そうでなくても教会のなかでのなんらかの争いとしてあらわれることもあるだろう。


個人的な人間関係のなかで、死のような力で魂を痛めつけることとして起こることもあるだろう。

 

信頼していただれかが裏切ることもあるし、まったく理解不能な魂の苦しみを背負うことになることもあるだろう。

 

つまり、「死」に似た完膚なきまでの「打ち砕き」をもたらす試練が生じる。

 

あのマザー・テレサが、世界中の人に慕われる一方、恐ろしい魂の苦悶や暗闇、孤独と毎日闘っていた、というのは死後に明らかにされた有名な話だ。しかもそれは彼女の生涯、ずっと続いたという。

 

そういった「死」に似た状況に飲み込まれた場合、ほとんどの場合、教会に留まることはむずかしくなる。「死」に似た苦しみを味わい、引き受けなくては、そこにいることはできない。

 

そして、その苦しみはだれにも理解できないので、ただ神と自分だけで耐えなくてはならないものだ。

 

しかもそういったとき、神の臨在や愛、慰めはまったく経験できないような、「暗闇」のなかに置かれる。神に叫んでも沈黙と闇しかないなかを、歩まなくてはならない。いわゆる「魂の暗夜」だ。

 

これは、ゴルゴダで十字架にかけられた主イエスの状況と符号する。

 

主イエスが十字架にかかったとき、主イエスはただお一人だった。女性たちは主の十字架を見守っていたが、彼女たちもそこでなにが起こっているのか、まったくわかってはいなかったし、理解などしていなかった。

 

主イエスはただお一人で、永遠かつ絶対の神の怒りを耐えしのばれた。

 

教会生活には、こういった「幸い」から「犠牲」、「死」に至る信仰のフェーズがあり、第一のフェーズほど大勢の人々が集まるが、「犠牲」が求められると多くの人は去っていき、「死」においてはひどい孤独と理解されない苦しみ、魂の苦悶との闘争がある。

 

こういって観点からすると、「信仰の成長」というのは、「神のためにより大きな痛みを担うことができる」ということだと言える。

 

主イエスは「十字架」という人間には担うことが不可能な「地獄の痛み」を担われた点で、神の子として「長子」である。

 

しかし、神の「養子」として受け入れられたキリスト者も、なんらかの形で痛みを引き受けることができるよう、霊的に成長し、信仰が鍛錬されていかなければ、ガリラヤ伝道のときの群衆と同じように、痛みに耐える状況が訪れたとき、すぐに教会を捨てて去ってしまう。

 

少なくとも、信仰にはこういったフェーズがあり、なんらかの形で「痛み」が生じてくるということを前提にしておいた方がいい。そして、教会生活のなかで「幸い」を見出せない時期があっても、それは信仰の成長の一つのフェーズであることもおおいにありうる。

 

あまりに安易に教会から離れることは、信仰の成長の否定となることを、明記しておきたい。

 

もしある教会で問題が耐えがたいほど大きくなったら、転会して新しくやり直せばいい。教会や信仰それ自体を捨ててしまうなら、やがてすべてがこの世の暗闇の中に包まれてしまうだろう。

 

日本で「卒業クリスチャン」がこれ以上増えないためには、なんらかの「信仰のフェーズ・段階」の考え方が、もっと広がる必要があるように思う。

 

伝道して福音を広げていくには、第一段階の「信仰の幸い」をどうしても強調する必要がある。これがないなら、そもそも信仰の道に入る意味も、多くの人にはわからない。

 

一方、信仰が成長していくことにおいて、「痛み」の契機はやはり不可避なのだ。主イエスご自身が、十字架にかけられたお方だからだ。十字架を担うことで、私たちは主と似た者とされていく。ここをどう理解するかが、教会生活が続くかどうかの核心となる。

 


日本伝道について④  伝道の二つの路線「遠心力と求心力」

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最近、ネット上の情報を見ていると、伝道について大きく二つの異なる路線の違いがあり、これが少なからぬ対立や葛藤をしているように見える。

 

一方の路線は、教会の信仰の濃度を高め、これを純粋なものとしてストレートに伝えて行こうというもので、ある意味伝統的路線であり、多くの保守的な牧師や信徒はこういった道を進もうとする。

 

もう片方は、教会の信仰の濃度をある程度薄めつつ(「教会の敷居を下げる」とよく表現される)、この世の多くの人々の意識においても受けとめることができるところで伝えるというもので、ある意味ではリベラル路線と言える。

 

この二つの立場は、互いに長所と短所を持つことは、ほぼ明らかだろう。

 

前者の弱点は、アピールすることができる人々の範囲は、ごく限定的であるということだ。

 

ある意味、教会に信仰を求めてきているような人々にはアピールするが、世の中の大多数の人には見向きされないことが多い。

 

長所としては、世の中で試練や挫折の経験などを通して、信仰の覚醒を経験する人は一定数、いつの時代にも起こされるため、こういった人々を着実に神の御元に導くことができるという意味で、「着実性」がある。

 

一方、後者の長所は、世の中のより広い範囲の人にアピールすることができるところにある。

 

その弱点は信仰そのものが曖昧となり、場合によってはその内容までも変わってしまうようになりうることだ。

 

この両者を、「求心力」と「遠心力」とも表現できる。

 

信仰の守ることで「外から内へ」の力を高める伝道と、信仰の力を外へと拡大することを目指す「内から外へ」の伝道だ。

 

この両者の伝道路線の対立が、いろいろな形であらわれてきているように思える。

 

前者は、「礼拝説教」や「福音理解」、「信仰の本質」、「聖書的であること」といったものを重要視し、これを深めていくことを主として志向する。

 

後者は、福音の「伝達方法」や「伝達の在り方」、「社会におけるインパクト」を重要視し、これをもってより広く社会の人々に福音が伝わることを志向する。

 

これらは、シンボル的な用語として、いろいろと表現することができるだろう。

 

前者:ガチ勢、まじめ、深化徹底、体育会系、コンテキストのテキスト化、高挙的、超越的、上からのアプローチ・・・

 

後者:エンジョイ勢、ふざけ、文脈化、文化系、テキストのコンテキスト化、受肉的、内在的、下からのアプローチ・・・

 

前者は、後者について「福音の実質からどんどん外れている」という風に見えるので、それを批判する。

 

後者は、前者について「社会にはまったく通用しない、非常識的な離れ小島となっている」と見えるので、それを批判する。

 

ところで、この両者は「対立・葛藤」の関係にある課題なのだろうか。それとも、「補足・修正」の関係にあるのだろうか。

 

以下からは私の考えだが、この見解の相違については「その伝道の路線の主張者が、どのような『生活の座』にあるのか」ということで、ほぼ説明がつくのではないかと思われる。

 

「牧師」であるなら、明らかに前者の路線を主張するだろう。それが職務の本質だからだ。

 

そして、牧師は他の牧師に対しても、前者の路線を担うように求めるだろう。

 

しかし、主張をしているのが「信徒」であり、「他の専門分野」を担う人であるなら、後者を主張することも多いだろう。

 

というのも、信徒は社会の隅々にまで出かけて行き、その地域や職場で働くものであり、信徒が週日に出会う大多数の人々はキリスト者ではないからだ。

 

そこで地道に証しをしていかなくてはならない、という場合は前者の在り方だけでは通用しないことは、当然のことだ。キリスト者でない人に、文脈にもそぐわないところで突然「福音の本質」を語ったら、一発でその場所での信頼関係も終わりかねない。

 

つまり、この二つの路線は「牧師(教職者)」と「信徒」の間の路線に内在しているものであり、どちらかが正しいのではなく、「どちらも教会に必要であり、互いに補い合ってこそ、役割を果たすことができる」ものであるのは、明白だろう。

 

前者がしっかりと役割を果たすから、「正しく救われる」ことが起こるのであり、後者がしっかりと役割を果たすから、「救いが広がる」ことが起こる。

 

どちらかが欠けると、「間違った救い」や「広がらない救い」となってしまい、共に教会の衰退の大きな原因となる。

 

前者は、「信仰が深まっていくためには不可欠」であり、後者は「信仰の入り口として不可欠」なのだ。

 

前者は後者が、後者は前者が自らの立場と視点が異なるため、「間違っている」ように見えるが、実は「生活の座が異なる」ということに根差した「視点の違い」によるものであることを、わきまえなくてはならないだろう。

 

さらに、「互いの真理契機を取り入れる」ことで、この課題はより生産的に解決されるべき事柄だ。

 

つまり、前者は後者に「福音の本質は変えないにしろ、その用語の使い方や伝達方法や在り方は時代によって変えていくべきである」ということを学ぶ必要がある。

 

後者は前者に、「用語や伝達方法は変えていくにしろ、福音のメッセージの内容が変わってしまっては伝達自体が無意味となるため、その本質をよりよく理解してこれを守ること」を学ぶということだろう。

 

互いに、「異なる賜物と職務を担っている」ものとして、双方に対して敬意をもち、異なる形であっても神に用いられる幸いを感謝していけば、教会の円滑な前進と成長につながるに違いない。

 

この課題を適切に整理し、伝道の路線に関わる真理契機を取り入れつつ、建設的に教会が前進していくことを祈りたい。


日本伝道について③ 「天皇」をどう理解するか

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神学校時代に教えを受けた松谷好明先生の『キリスト者への問い あなたは天皇をだれと言うか』の著書を頂いたので、読ませて頂いた。

 

これは先生の長年の問題意識の発露で、歴史的に天皇制について検証し、キリスト者が抱く素朴な問いについて、鋭利な批判を加えている。

 

この書が問題としている問いに、「天皇はキリスト者になりうるか」ということがある。

 

これは、素朴で熱心なキリスト者が夢想するような種類の問いであって、「もしそんなことが奇跡によって起これば、日本はキリスト教国になるに違いないから、これを祈り求めよう」というような動機から出ているようだ。

 

本書はこういった問いへの答えとして、「天皇がキリスト者になることはありえない」ことを、歴史的に検証し、論じていく。

 

キリスト者が抱いているような想いを幻想として打ち砕き、より現実的な地盤に立つことを求めている点で、確実な歴史的リアリティに裏打ちされているものだ。

 

もうひとつの課題として、天皇制についてのキリスト者の理解を問い直す作業を行っている。

 

天皇制をキリスト教と「両立するもの」と考える理解を批判し、天皇制はキリスト教信仰とは相いれない、という認識を歴史的にとらえていく。

 

これまで日本の多くのキリスト者が、天皇制について妥協的な理解をし続けている点について、「それでいいのか」という厳しい問いかけを行っており、この課題への理解と真摯な姿勢が随所に示されている。

 

ここで紹介されている知識や歴史的情報は、ほぼ正確なものだと考えていいだろうし、カトリック教会と天皇家との関係など、多くの人が知らないような事実もまた、綿密に調べられ、書かれている点で、これまでの研究の一線を踏み越えたものではないかという印象を受ける。

 

こういった書物を書くこと自体、非常に勇気がいることは明らかだが、著者の伝道者としての信念と矜持、これまでの日本の教会の歩みへの痛切な反省にうながされて、この領域の研究のまとめとして、出版されたようだ。

 

いろいろな教派の有名な指導者を、名前をあげながら、天皇制への姿勢が不十分で妥協的であるとして批判している点で、かなりリスキーな橋を渡っているが、それもすべて覚悟の上であって、大変勇気があるものだと言えるだろう。

 

(もちろん、批判をされている先生方にとっては、不快な思いをされているかもしれない。

ただ、著者の人柄をほんの少しばかり知っている者から一言だけ書かせて頂くと、松谷先生は信念の人で、まったく悪意などもっておられず、ただ純粋に神学的・理論的な方面から純粋な思いで批判されているだけであることは、ご理解いただきたいと願っている。

非常に手厳しい面があるのは否定できないとしても)

 

この著書は今後、現実的に天皇制といったことにどう向き合っていくかを考えるうえで、参考となる資料となるだろう。

 

ただ、歴史や情報についてはその通りだろうが、一点私が読んでいて違和感を覚えた部分があるので、それについて触れてみたい。

 

天皇制という課題は、リチャード・ニーバーが描いた「文化とキリスト」の課題と重なるものとして理解できる。

 

本書では、ニーバーが語った「対決型」の理解で、天皇制と向き合うようにアピールしているように思えるが、私にはどうしても、それでは日本伝道は難しいと思う。

 

つまり、信徒の方々、特にご年配の方々のなかに、かなり多くの天皇家や天皇のファンがおり、素朴に天皇に敬意をもっておられ、また天皇制についても疑いをまったく抱いてはおられない。

 

年配者ばかりか、比較的若年の世代でも、天皇やこの制度についてことさらにネガティブな思いを持っていない人は多い。

 

そういった多くの人の間で、天皇制のネガティブな面を示しながら「対決型」で接していくことは、いろいろな意味でお互い、実践的・現実的には「身が持たない」のではないかと思う。

 

本書の著者はおそらく、ニーバーの類型ではこれまでのキリスト者の理解が、天皇制と教会の「一致型」であったことを反省し、批判しておられる。

 

それを「対決型」に転換するように、ということだろう。

 

私はこの点については正直、無理だと感じるし、ついていけないところだ。

 

かといって、ニーバーがいう「変革型」については、「まったく現実性がない」ことを、著者は歴史的にはっきりと示されている。

 

カトリックが採用しているような「総合型」の行き方も、いろいろな面でプロテスタントには無理だと言わなくてはならない。

 

であれば、天皇制について違和感も抵抗感も持っていない信徒や地域の方々に対して、忍耐強くすべてを統治するキリストの主権を証しながら、そういった方々を地道に愛していく以外にないように思われる。

 

ことさらに天皇制への対決型を打ち出すと、かえって抵抗感を醸成して、伝道するうえでの人々の心理的な壁を高くしてしまうのではないかという危惧がある。

 

天皇制へのプロテストよりも、「世俗化」の潮流へのプロテストの方が、現代ではより教会の生命にとって緊急の課題であるようにも思える。

 

こういった立場も、「妥協案」ということになるのかもしれないが、今のところは自分としてはこういった考えであることを、参考までに書かせて頂いた。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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