日本伝道について⑨ 「信仰のレジリエンス」について

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「卒業クリスチャン」にならないために ~信仰の「フェーズ」と「レジリエンス」~


『舟の右側』(地引網出版) (以下 2019年1月号に掲載された拙文を編集長の許可を得て掲載します)

  

今でも忘れられない経験があります。

 

私が受洗したのとほぼ同時期に洗礼を受けた方がおられました。その方が信仰告白式のとき、次のような証しをされました。

 

「仕事の帰り、電車のなかでじっと神様のことを考えていたとき、自分が神様に愛されていることに目が開かれ、涙が止まらなくなりました。そのとき、聖霊がわたしに降り、わたしを捕らえてくださったのだと思います。

 

迷っていましたが、その経験で受洗の決意が与えられました」

 

感動的な証しを聴きながら、このような深い霊的体験をされる方がおられるのだな、と励まされた思いがしました。

 

ところがその2~3年後だったと思いますが、「そういえば、あの体験をされた方はどうしたのだろう」とふっと思い起こしたことがありました。というのもその方は3年後くらいには、もう教会に出席されることがなくなっていたからです。

 

他の教会に転会された、ということも記憶になかったため、そういった思いが湧いてきたのでした。

 

あの方の「聖霊体験」は、幻想ではありませんでした。

 

もちろん、「演技」などでもありません。実際、聖霊がその時働いて、魂を燃やし、洗礼への決意を与えてくださったのではないかと思います。

 

ところが、そういった深い霊的体験をされた方でも、3年後には教会に出席されなくなる、というこの現実が、私の心に異物のようにずっと残っています。「なぜあの人は、教会に来なくなったのだろう」と思い起こすことがありますが、もはや確かめるすべもありません。

 

地方に赴任してから、駅前で集会のビラ配りをしていると、時々「わたしも若いころ、一時期教会に行っていた」とおっしゃる方がおられます。


「洗礼を受けたのですか」と聞くと、「ええ、受けましたよ」と言われたりもします。かなりの頻度でそういう方にお会いするのです。

 

そういった方々は、なぜ教会に行かなくなったのでしょうか。いろいろな方のお話を聞くなかで、見えてきたのは、「教会生活に伴うなんらかの『痛み』や『矛盾』を納得できなくなり、教会から離れてしまった」ということが背景にあることが多いということです。

 

人間的な課題で言うなら、牧師に対する不信、役員会での孤立や対立、教会での交わりで味わったなんらかの痛みや恥、教会があまりにこの世的である、などがあります。

 

また信仰的課題でも、信仰の熱意が徐々に消えて行くという「霊的倦怠」の問題や、信仰から来る慰めや喜びの摩滅と減少という「霊的荒廃」といった現実もあります。

 

教会生活において味わう「霊的体験」自体が、信仰の日常化に伴って次第に減っていく、ということもあります。

 

以上のような人間的・信仰的課題を経験するなかで、これをどうしても納得したり、消化したりできなくなると、信仰と教会自体に見切りをつけてしまうのではないかと思われました。

 

重要なのは、上のような課題は、なんらかの特定の罪によって生じるというよりも、むしろ「教会生活を続けていくなら、どの教会であっても不可避的に経験せざるをえないような種類の痛み・苦しみである」ということです。

 

つまり、こういったものをどう理解し、納得し、乗り越えていくか、という課題がどんなキリスト者にも課せられるのですが、それがクリアできないと、信仰生活に失望して「卒業」してしまうのです。

 

「卒業クリスチャン」とならずに主の道を全うするために、教会生活に伴ってくる痛みや苦しみについて、どのように考えればいいのでしょうか。

 

私たちは、洗礼を受けたころの熱い心が冷めてしまったり、説教から慰めが受け取れない時が続いたり、牧師自身の言動の不一致や教会の混乱などを間近に見ると、自分も含めて教会が罪人の集いであって、教会もまた矛盾や不合理な過ちに満ちていることを認めざるをえなくなります。

 

そして「教会も結局、この世と同じような罪と課題に満ちている」ことがわかってしまうと、もう「そんな教会にくる意味もない」と考えがちになります。

 

 こういった考え方では、「教会生活において罪や課題、それにまつわる痛みや苦しみというものは、あってはならないものであり、教会では解消が困難な苦しみや痛みを背負うということは、異常事態に他ならない」という理解が背景にあるのではないでしょうか。

 

私自身は、このように教会を倫理的に理想化して、そこになんの問題性もないことを期待する考え方そのものが、「卒業クリスチャン」を生み出し続けている、最も重大な温床になっている気がしてなりません。

 

「教会」という概念やイメージのなかに、「痛み・苦しみ」の契機が含まれていないかのような、理想化された像が心の奥底にあるのではないでしょうか。

 

そういった像と、現実の教会生活の「ギャップ」が解消できないほど大きく感じられると、「もう行く意味もないので、やめよう」と考えざるをえなくなるのではないかと思います。

 

 しかし、聖書に照らして、教会のなかには痛みや苦しみはそもそも、存在しないものなのでしょうか。教会では、不合理な罪による納得できないような苦しみが、起こらないのでしょうか。

 

むしろ、聖書はその点についてまったく包み隠さずに、旧約から新約まで貫いて、神の民の中に痛みと苦しみの現実が存在することを描いているのです。そして、教会生活における痛み・苦しみへの「耐性・弾力性・回復力(レジリエンス)」を聖書によって培うことが、「卒業クリスチャン」を脱却するために重要な課題です。

 

ある意味、聖書からすると「どれほど神のために苦しみを担うことができるのか」ということが、「信仰の成長」という課題と、相即の関係にあると言っても過言ではありません。

 

というのも、イエス・キリストというお方は、神のもとに私たちを連れ戻すために、十字架という地獄の苦しみを担ってくださったお方であり、このお方のあとに続いていくのがキリスト者の成長の歩みだからです。

 

私たちが主イエスに似た者となることが信仰の成長だとするなら、それはどれほど神のために十字架の痛みを担って歩むのか、という課題と深い関係があると言わざるをえません。

 

私たちは多かれ少なかれ、「御利益的信仰」にあまりに慣らされています。身近に経験するところでは、神の恵みによるメリットを語る説教は「人気」が出ます。「いいね!」が容易につきます。

 

しかし、「十字架を担う」ことを語る言葉には、それがほとんどつかずに黙殺されます。場合によっては「低評価」がつきます。

 

だから、「伝道のために、まずは信仰のメリットを語らないと」と牧師も考えて、説教もそちらが主たる流れになります。一方、信仰的な「レジリエンス」はそういった説教によっては養われません。ここに、大きなジレンマがあります。

 

改めて、「教会生活には痛みや苦しみがなんらかの形で伴ってくるが、それは聖書的にも自然なことであり、これについてどう理解し、どう耐える力を養うのかということこそ、信仰を貫く上で重要な課題である」という事実を、受け止める必要があるのではないでしょうか。

 

特に、福音書が描くイエス・キリストの御生涯に照らして考えてみましょう。そこから見えてくるのは、信仰には大きく三つに分けることができる、「フェーズ(段階)」を仮定することができる、ということです。

 

 主イエスの公の御生涯は「ガリラヤ伝道」から始まります。そこで、主イエスは身体的・精神的病気の癒し主として働いてくださいました。多くの人が主イエスの力によって癒され、悩み苦しむ人々が大挙して主イエスの御元に押し寄せてきました。

 

これは、私たちがこの世でなんらかの苦しみを味わい、そこから救って頂こうと教会の門をくぐる時に似ています。私たちの魂が霊的に渇いており、救いを慕い求めていくとき、私たちは礼拝で語られる説教や讃美、祈りによって痛みと渇きが癒されるのを経験していきます。

 

私たちは教会で、この世が決して与えることができない主イエスによる「霊的幸い」「霊的平和」「霊的癒し」を味わうのです。これが信仰の第一のフェーズです。

 

こういったなんらかの信仰による霊的な「御利益」を味わうことがないなら、洗礼を受ける決意も湧かないでしょうし、そもそも教会に来る意味さえ見出すことができません。

 

教会に出席することで、自分が出会っている困難な「人生問題」が神への信仰によって解決される、そこから救われるという経験をすることが、洗礼への大きな一歩になると言えます。

 

(後半 次回の記事へ続く)

 

齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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