日本伝道について⑤ 「卒業クリスチャン」と「信仰のフェーズ」について

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伝道について考えるとき、大きな信仰における「両極」として、「幸い」と「犠牲」、「死」という三つの段階を仮定して、考えてみる。

 

つまり、「神を信じることによる幸い」と、「神を信じることによる犠牲」、そして「神のために死ぬ」という三つのフェーズだ。

 

おそらく、多くの人は教会に来るとき、この世的価値観・世界観で生きることに行き詰まり、新しい救いの世界認識を求めて教会にくる。

 

それは、「この世的ではない、神による幸いを得たい」ということだろう。

 

多くの人は、教会で神に出会い、この世が与えることができない霊的幸いと平和を見出して、洗礼を受ける。

 

神を信じることで、孤独が解消され、「主が共におられる」幸いを心に覚えるようになる。

 

これは、福音書に照らしてみると、主イエスがガリラヤ伝道をなさっていた時の状況に似ている。

 

つまり、病気やわずらい、心の痛みに苦しむ人々が主イエスのもとにきて、主の御業によって解放され、新しい生活に向けて恵みと癒しを与えられ、主を信じる者となる。

 

ガリラヤの主イエスのみもとには、本当に大勢の人々が群がっていた。男女合わせると、数千人の人に囲まれていたこともあるだろう。

 

そこで、人々は主イエスに「幸い」を求めて、押し寄せてきた。

 

第二のフェーズとして、教会に来て洗礼を受け、神による幸いを見出した人々の多くが、3年以内に教会を去っていく、という痛ましい現実がある。

 

「卒業クリスチャン」などと言われたりもするが、教会を卒業して、この世に戻って行ってしまうのだ。

 

つまり、教会生活というのは、「幸い」だけではやっていけない側面が厳然としてある。


教会生活をするなかで、神のために「犠牲」を払う、という契機が必ず出てくる。

 

「奉仕」という形で「エネルギー」を犠牲にすることもあれば、「献金」というお金の面での犠牲もあり、「交わり」において人間関係で痛みを負うという「犠牲」もある。

 

こういった「犠牲」という局面にぶつかると、多くの人は「教会も結局、この世と同じだ」、「牧師もただの罪人だ」という感想を抱いて、失望して離れていく。

 

これを福音書に照らしてみると、主イエスがエルサレムへ向けて旅路を歩まれ、ファリサイ派や律法学者と論争が激化し、権力者ににらまれ、人間的な意味での旗色が悪くなり、多くの人が主イエスのもとを去って行った、とある箇所に符号する。

 

主イエスに従うためには、人間的に犠牲や痛みを求められる局面が出てくると、「幸いだけがほしい」という人は去っていく。

 

主イエスが選ばれた弟子たちはみもとに留まるが、ただ「幸い」だけを求めていた人は見切りをつけてしまうのだ。

 

そして、第三のフェーズがある。

 

教会生活をしているとき、人間的にプライドが打ち砕かれ、まったく自我や自尊心が死ななくてはならないような、苦難や試練といったものが存在する。

 

文字通りの「死」も、迫害下では起こるだろうが、そうでなくても教会のなかでのなんらかの争いとしてあらわれることもあるだろう。


個人的な人間関係のなかで、死のような力で魂を痛めつけることとして起こることもあるだろう。

 

信頼していただれかが裏切ることもあるし、まったく理解不能な魂の苦しみを背負うことになることもあるだろう。

 

つまり、「死」に似た完膚なきまでの「打ち砕き」をもたらす試練が生じる。

 

あのマザー・テレサが、世界中の人に慕われる一方、恐ろしい魂の苦悶や暗闇、孤独と毎日闘っていた、というのは死後に明らかにされた有名な話だ。しかもそれは彼女の生涯、ずっと続いたという。

 

そういった「死」に似た状況に飲み込まれた場合、ほとんどの場合、教会に留まることはむずかしくなる。「死」に似た苦しみを味わい、引き受けなくては、そこにいることはできない。

 

そして、その苦しみはだれにも理解できないので、ただ神と自分だけで耐えなくてはならないものだ。

 

しかもそういったとき、神の臨在や愛、慰めはまったく経験できないような、「暗闇」のなかに置かれる。神に叫んでも沈黙と闇しかないなかを、歩まなくてはならない。いわゆる「魂の暗夜」だ。

 

これは、ゴルゴダで十字架にかけられた主イエスの状況と符号する。

 

主イエスが十字架にかかったとき、主イエスはただお一人だった。女性たちは主の十字架を見守っていたが、彼女たちもそこでなにが起こっているのか、まったくわかってはいなかったし、理解などしていなかった。

 

主イエスはただお一人で、永遠かつ絶対の神の怒りを耐えしのばれた。

 

教会生活には、こういった「幸い」から「犠牲」、「死」に至る信仰のフェーズがあり、第一のフェーズほど大勢の人々が集まるが、「犠牲」が求められると多くの人は去っていき、「死」においてはひどい孤独と理解されない苦しみ、魂の苦悶との闘争がある。

 

こういって観点からすると、「信仰の成長」というのは、「神のためにより大きな痛みを担うことができる」ということだと言える。

 

主イエスは「十字架」という人間には担うことが不可能な「地獄の痛み」を担われた点で、神の子として「長子」である。

 

しかし、神の「養子」として受け入れられたキリスト者も、なんらかの形で痛みを引き受けることができるよう、霊的に成長し、信仰が鍛錬されていかなければ、ガリラヤ伝道のときの群衆と同じように、痛みに耐える状況が訪れたとき、すぐに教会を捨てて去ってしまう。

 

少なくとも、信仰にはこういったフェーズがあり、なんらかの形で「痛み」が生じてくるということを前提にしておいた方がいい。そして、教会生活のなかで「幸い」を見出せない時期があっても、それは信仰の成長の一つのフェーズであることもおおいにありうる。

 

あまりに安易に教会から離れることは、信仰の成長の否定となることを、明記しておきたい。

 

もしある教会で問題が耐えがたいほど大きくなったら、転会して新しくやり直せばいい。教会や信仰それ自体を捨ててしまうなら、やがてすべてがこの世の暗闇の中に包まれてしまうだろう。

 

日本で「卒業クリスチャン」がこれ以上増えないためには、なんらかの「信仰のフェーズ・段階」の考え方が、もっと広がる必要があるように思う。

 

伝道して福音を広げていくには、第一段階の「信仰の幸い」をどうしても強調する必要がある。これがないなら、そもそも信仰の道に入る意味も、多くの人にはわからない。

 

一方、信仰が成長していくことにおいて、「痛み」の契機はやはり不可避なのだ。主イエスご自身が、十字架にかけられたお方だからだ。十字架を担うことで、私たちは主と似た者とされていく。ここをどう理解するかが、教会生活が続くかどうかの核心となる。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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