パウル・ティリッヒの評伝を読んでいて、非常に単純だが重要なことに気づかされた。
それは、「ティリッヒは教会に行かない神学者」だったということだ。
彼はかなり若い時期に、教会そのものに失望し、教会に行かないことを誓ったという。
その背後には、生真面目で堅物の牧師として教会で働いていたティリヒの父に対する猛烈な反抗心があった。
20世紀に「教会に行かない神学者」があらわれ、しかもその神学が大きな影響力をもったという事実に、「世俗化」の時代の先取りを見る思いがする。
彼の『組織神学』には、「潜在的教会」という言葉をもって、教会を論じているところがある。
「潜在的」というのは、実際には教会に行ってはいないが、神の存在は信じているという人々を指しており、いわばティリヒ自身のことだと言える。
「潜在的教会」についてなぜティリヒが語るのか、その理由は彼自身が父に反抗して教会に行かない歩みを正当化する意味もあったことは否定できない。
「教会なしの神学」をティリヒは行ったわけだが、たとえばカール・バルトにとってはこれはまったくのナンセンスなことだった。
バルトは『教会教義学』という膨大な著作を書いたが、神学は教会のために営まれるものであることを明確にしている。
ティリヒの神学は、明らかに「教会形成的」なものではない。
教会を建てるという意図が、彼にはほとんどないからだ。
むしろ、ある面においては教会の存在意義を希薄化していく点で「世俗化・非宗教化された世界」を推進する神学とさえ言えるかもしれない。
そういう意味で、慎重に読まなくてはならないものだ。
しかし、同時に彼の神学はバルトのような「教会神学者」の神学に対する、「補足・修正」の意味を担っているところがある。
バルトはキリストや教会を強調するあまり、信仰者個人に対しては、それほどフォーカスしないところがある。
だから、信仰者個人の魂の「癒し」や疑いの解決といった課題を、神学的にすっ飛ばしていくように見える。
ティリヒはバルトが扱うことができなかったような、信仰者の繊細な魂の課題を取り上げたという意味で、間接的におおいに教会に貢献した。
同時に、彼が「教会に行かない神学者」だったという事実は、非常に困難な課題を教会に突き付けている。
つまり、「教会に行かない神学者」を今後も生みだし続けないために、なにが教会に必要なのか、という問いだ。
これは、「世界の世俗化」に対して教会はどう答えるのか、という今世紀最大の課題と重なっている。ティリヒは今後もこの問いを発し続けるだろう。