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パウル・ティリッヒ 「教会に行かない神学者」

 Mind Charging vol.89 『パウル・ティリッヒの名言』 | 正智深谷NEWS ...

パウル・ティリッヒの評伝を読んでいて、非常に単純だが重要なことに気づかされた。

 

それは、「ティリッヒは教会に行かない神学者」だったということだ。

 

彼はかなり若い時期に、教会そのものに失望し、教会に行かないことを誓ったという。

 

その背後には、生真面目で堅物の牧師として教会で働いていたティリヒの父に対する猛烈な反抗心があった。

 

20世紀に「教会に行かない神学者」があらわれ、しかもその神学が大きな影響力をもったという事実に、「世俗化」の時代の先取りを見る思いがする。

 

彼の『組織神学』には、「潜在的教会」という言葉をもって、教会を論じているところがある。


「潜在的」というのは、実際には教会に行ってはいないが、神の存在は信じているという人々を指しており、いわばティリヒ自身のことだと言える。

 

「潜在的教会」についてなぜティリヒが語るのか、その理由は彼自身が父に反抗して教会に行かない歩みを正当化する意味もあったことは否定できない。

 

「教会なしの神学」をティリヒは行ったわけだが、たとえばカール・バルトにとってはこれはまったくのナンセンスなことだった。

 

バルトは『教会教義学』という膨大な著作を書いたが、神学は教会のために営まれるものであることを明確にしている。

 

ティリヒの神学は、明らかに「教会形成的」なものではない。


教会を建てるという意図が、彼にはほとんどないからだ。

 

むしろ、ある面においては教会の存在意義を希薄化していく点で「世俗化・非宗教化された世界」を推進する神学とさえ言えるかもしれない。


そういう意味で、慎重に読まなくてはならないものだ。

 

しかし、同時に彼の神学はバルトのような「教会神学者」の神学に対する、「補足・修正」の意味を担っているところがある。

 

バルトはキリストや教会を強調するあまり、信仰者個人に対しては、それほどフォーカスしないところがある。


だから、信仰者個人の魂の「癒し」や疑いの解決といった課題を、神学的にすっ飛ばしていくように見える。

 

ティリヒはバルトが扱うことができなかったような、信仰者の繊細な魂の課題を取り上げたという意味で、間接的におおいに教会に貢献した。

 

同時に、彼が「教会に行かない神学者」だったという事実は、非常に困難な課題を教会に突き付けている。

 

つまり、「教会に行かない神学者」を今後も生みだし続けないために、なにが教会に必要なのか、という問いだ。

 

これは、「世界の世俗化」に対して教会はどう答えるのか、という今世紀最大の課題と重なっている。ティリヒは今後もこの問いを発し続けるだろう。

 


パウル・ティリッヒ ティリッヒの「裏の顔」と「二重性」

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パウル・ティリヒ自身が書いた著作には、神学的な「癒し」や「自由」が豊かにあるので、読むと心が支えられ、励まされるものだ。

 

「癒し」と「自由」を著作のなかで書き続けたティリヒだが、彼自身の私生活には、いささか異常なものがあったという。

 

彼はお酒が好きだった。


というより、「好き」というレベルをこえて、ほとんど中毒的なものがあったようだ。

 

彼は務めていた大学から相当な高給をもらっていたようだが、家計はいつも厳しい状態だった。


その大きな理由のひっとうは、彼がもらうお金を、飲み歩くために使ってしまうからだった。

 

台所に座って高級なワインを友人と語りながらひたすら飲み続け、深夜や朝方に千鳥足になってふらふら帰るのが日常だったという。

 

また、彼は女性に対して異常な執着と偏愛を抱いており、およそ神に仕えているはずの「牧師」のイメージとはかけ離れた趣味や異性関係を持っていた。

 

彼は妻がおりながら、大学の秘書と長年にわたって男女の関係にあったようだし、サド・マゾ的な趣味を満たすための店にも通っていた。

 

また、ポルノ小説の収集とその朗読会という、およそ彼の著作からは考えにくいような習慣も、若いころからずっと続けていた。

 

このような、ティリヒの「ダークサイド」と、彼の著作にあらわれている「ライトサイド」は、おそらく表裏一体の関係にある。

 

彼は著作と大学での講義のなかで「癒し」と「光」を提供しようと集中したが、その反面自らの内面に「混乱」と「暗闇」を背負い込み、これを解消し続けなくてはならない、という強烈な矛盾の状況に置かれた。

 

彼のこうした状況をどう理解し、解釈するかということは、ある意味キリスト教につきつけられた非常に大きな現代的な課題だと言わざるをえない。

 

つまり、「神」という「光」の徹底的な強調が、人間の内面に「暗闇」を抑圧し、圧迫し、混乱をもたらす側面があるのではないか、ということだ。

 

この課題は奥が深すぎて、自分自身、どう解決したらいいのか、なお道が見えない。

 

事実、キリスト教をなんらかの形で否定していったフロイトやユング、アドラーといった心理学者の理論も、世界の「世俗化」「脱宗教化」も、キリスト教の「抑圧性」ということと深い関係があるのだ。

 

「恵み」「正義」「光」「癒し」「自由」をもたらす「神」への信仰が、同時に人間の無意識の底にそれと反対の「ダーク」を抑圧的にもたらす側面があるのは、「すべて」のキリスト者にとってはそうではないにしても、少なくとも一部のキリスト者にとっては真実だろう。

 

ティリヒの「裏の顔」と「二重性」の課題は、このことを鋭く問いかけている。「抑圧的キリスト教」をどう乗り越えていくのか、という課題だ。



パウル・ティリッヒ ティリッヒ神学の特徴:「調停」

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ティリッヒ神学の特徴は、「調停」というところにあると思う。これは彼自身が自伝のなかで語っているところでもある。

 

カール・バルトと比較すると、バルトは聖書・教会・教義学など、キリスト教の独自の領域を「キリスト論的集中」をもって、徹底的に深めていくタイプだった。


『教会教義学』という彼の主著の題名が示しているように、バルトは「教会」というフィールドをとことん掘り続けた人だった。

 

それに対して、ティリッヒは、「教会の外」と「教会の内」をいかにして「調停」するのか、「教会の内の真理」を、「教会の外の真理」に対して、どう弁証していくのか、という課題を担って生涯戦った。

 

ティリッヒの思考法は、「教会の外」の哲学・芸術・心理学などと、「教会の内」の神学をどこまでも対論させ、その「境界線からどういう風景が見えるのか」ということを著書に書き続けた。

 

バルトとティリッヒは、お互い批判し合っているわけだが、それは互いの見ている風景の違い、立ち位置の違いに起因するところが大きいだろう。


もちろん、バルトは改革派でティリッヒはルター派という違いも浮き彫りにはなっているが、しかし神学的な方法論上の相違の方が要素としては大きい。

 

ティリッヒは哲学をことのほか愛していた。


哲学と神学の矛盾というものは致命的なものではないと考えていた。


ティリッヒにとって哲学は問題提起を豊かに供給してくれるものであり、神学は解答の源泉だった。

 

この世のさまざまな諸思想とどう向き合えばいいのか、ということを悩んでいるキリスト者に、ティリッヒは非常にスマートかつクリアな道筋を示してくれる。

 

彼の神学に親しむことで、いたずらにこの世の思想に対して、無意味な不信感を抱いたりしなくてもよくなるだろう。


ティリッヒは、この世の思想の部分的な真理性を見抜いて、それを神学に生かすことにかけては、天才的な能力を持っていたと言える。

 

そして、この世の考え方との関わり方がわからずに悩んでいる人に、ティリッヒ神学は枯れることのない癒しを提供してくれていることも、付言しておきたい。

 

彼の神学は、「癒し」に満ちている。ルターの言葉が心の傷を癒すような力を、彼の神学も秘めている。

 

教会で、また社会で働きを担うなかで傷ついている方には、ぜひティリッヒ神学に親しんでいただきたい。


特に、知的な面での疑いや不安と闘っている人に、彼は癒しに満ちた福音を説く力がある。そういう意味で、良きルター神学の継承者と言えるだろう。


パウル・ティリッヒ 「相関の方法」とティリッヒ神学の弱点

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パウル・ティリッヒの神学には一時期お世話になったが、この神学にはかなり明白な弱点があると思う。

 

それは、彼の神学が基づいている「相関の方法」に関わる弱点だ。

 

「相関の方法」とは、彼の神学の方法論だ。この世の美術や文学、哲学などの文化的な営みにあらわされている「人間の問い」に対して、聖書は答えを与えるものである。


だから文化に根付いている「人間の問い」と、聖書に記されている「神の答え」が互いに相関し、リンクさせることで、人間の救いが開かれると考える。

 

彼の説教を読んでみると、このことがよくあらわれている。


彼は、この世の文化のうちに内在している「人間の実存的な問いかけ」を分析しつつ、それに聖書の示している啓示がどう切り込むのかを、描き取ろうとするのだ。

 

この方法論には長所もたくさんあるし、こうしたやり方で救いに導かれる人もいることを、わたしは疑わない。このやり方には意味があると思うし、この方法論を完全に否定してしまうのも間違いだと感じる。

 

しかし、この方法論には、やはり弱点があると言わざるをないと思う。

 

それは、文化のうちにある「人間の問い」と、聖書の「神の答え」を相関させるというのは、「問い」と「答え」という言葉が示しているように、神の働きが「知性的次元」での営みに還元されてしまう、という危険性がある。

 

ティリッヒは最高度に知的な人間だ。彼の書物も洗練された文体と輝かしいアカデミックな用語に満ちている。彼の説教にはかぐわしいばかりの知的な香りがただよっている。

 

それが、同時に弱点になりうるのだ。

 

神の働きは、もちろん説教を聞くことによって受けとめるのだから、知性的なものも含まれている。しかし、それだけに還元できるものではない。


キリスト者の信仰生活は、身体も人格も、存在が総体的に関わるものだ。知性はそのなかの一部だ。

 

ティリッヒの神学は、その知性的な部分を過度に強調する向きがある。それにゆえ、仮に彼の神学に基づいた説教を聞いて信仰生活していると、おそらく信仰が観念化してくる危険性があるように感じる。

 

つまり、信仰が「頭のなかの問いと答えの欲求に満足を与えるもの」であることになってしまい、それが人生の現場で格闘する信仰者の血肉にまで響くものなりにくいのではないか、という疑問があるのだ。

 

具体的に言うなら、彼の神学に基づいて教会形成すると、そうした知性的な部分の欲求が非常に強い、一部の人にしかアピールしない教会になるのではないか、と思える。


そうした教会は少数精鋭で高度な議論を戦わせることには長けているかもしれないが、実際に労苦して教会の歴史を形成する重荷を担うことができるかどうか、それが疑問だ。

 

神の言葉は、人間の知性ばかりか、身体的、霊的、社会的な部分にまで切り込んで行くものだ。ティリッヒの神学には、知性を重んじるあまり他の部分をかなりの程度軽んじて行くような性質があるのではないか。

 

もちろん、彼の神学もある一つの信仰的断面を示してくれたという意味で、大変学びになるものだ。どんどん学ぶべき真理が彼の神学にはあふれていると思う。

 

しかし、そこにはそれなりの限界があることも、わきまえておく必要があると感じる。


パウル・ティリッヒ 「究極的関心」としての信仰

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ティリッヒの神学で、最も感銘を受け、考えらせられたのは、信仰を「究極的関心」として示した、ということだ。

 

私達はだれでも、「これについて最も関心がある。これが人生の中心的な関心事だ」というものを持っている。

 

ある人にとっては、それが「家族」かもしれない。

 

ある人にとっては、「自分のビジネス」かもしれない。

 

ある人にとっては、「学問」かもしれない。

 

マルクス主義者にとっては、共産主義社会の実現かもしれない。

 

投機家にとっては、株価指数の動向かもしれない。

 

だれでも、自分の心のなかに「究極的関心」を抱いている。それが信仰なのだ、とティリッヒは言うのだ。

 

つまり、「未信者」はいない、ということだ。だれもが、なんらかの「信仰」を持っている。

 

ただ、その「信仰の対象」が、「本当に自分の人生に救いを与えてくれるものか、どうか」は、決定的に問われてくる事柄だ。

 

キリスト教信仰は、その対象に「三位一体の神」を見つめている。この神に救いを見出した人々がキリスト者だ。

 

つまり、「だれもがティリッヒの意味における信仰者だが、その信仰の対象によって違いが出る」ということになる。


その対象に本当の救いはあるものか、どうか。もしそこに救いがないとするなら、その信仰の対象は「偶像」であり、偽の神なのだ。

 

すなわち、「無神論者」はいないのであって、だれもがなんらかの「究極的関心」を持っており、それが向かっている存在を「神」としているだけだ。


このことをティリッヒに示されて、私はなにか心が広げられたように感じると共に、改めてキリスト教信仰の特殊性を思った。

 

だれもが信仰を抱いている、という意味においては同じだが、しかしその対象が違うだけで人生が決定的に変わってしまう。


あなたはなにを信仰の対象としているのか。なにに忠誠を尽くしていくのか。

 

これが人生最大の根本問題だろう。






パウル・ティリッヒ 「象徴言語」

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パウル・ティリッヒの神学に、かなりお世話になった時期があった。

 

自分のなかで、ファンダメンタルな信仰と葛藤し、戦っていたときがある。

 

聖書を原理的に無謬の「神」の位置にまで高めていこうとする信仰について、考えていた。

 

そのとき、ティリッヒは鮮やかな解答を示してくれたのだ。

 

聖書は、象徴言語であり、それ自体が直接の「神の啓示」なのではなく、「神の啓示」である神の御心を象徴的に表現しているものなのだ、というのだ。

 

これを読んだとき、自分のなかでファンダメンタルな信仰との葛藤が溶けて行くように思った。

 

聖書は、神を象徴的な言語形式で表現しているのであって、神ご自身ではない。


神を指し示しているのが聖書なのだ。ここでは、神と聖書がはっきりと区別されている。

 

もちろん、聖書を通してでなければ神の御心に触れることはできないが、しかし聖書を神ご自身にしてしまうのは、微妙な形の偶像崇拝だ。

 

こうした聖書理解にも、おそらく限界はあろう。

 

このようなあまりに「穏健過ぎる」理解によっては、「聖書を読むことに熱心な教会」は形成できない、という牧師の先生方からの批判も出てくると思う。

 

しかし、ティリッヒの理解は、「あまりに保守的・原理的過ぎる信仰に抑圧されて苦しめられている人」には、大きな助けを提供してくれる。


もちろん、こうした聖書理解で完全だ、ということはない。


これからも神学は深められていくなかで、こうした理解もまた塗り替えられていくだろう。

 

しかし、ティリッヒの神学がさまざまな形で、人の心を抑圧から解放するような、神学的な癒しを提供しているのは確かだと思う。

 

神学的な癒しを求めている方は、ぜひ彼の著書を読むようにお勧めする。

 

『存在への勇気』という著書が特に有名だが、彼自身が内面の分裂と苦しみを経験しながら記しているだけに、魂に迫る力がある。おすすめ。









齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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