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ルドルフ・ボーレン 「聖なる遊戯としての説教」

 R・ボーレン教授が死去 ドイツの実践神学者『説教学』など著作多数 2010年2月20日 | キリスト新聞社ホームページ

ボーレンの『説教学Ⅰ』の冒頭部分は、多くの神学書のなかでも色々な意味で「神学的傑作」ではないかと思う。

 

ボーレンは世界の「言語喪失状況」について描き出している。

 

これは言葉が失われたというよりも、「言葉の実質的内容の喪失」のことだ。

 

説教者が「神」や「導き」、「信仰」について語るとき、それは使い古された決まり文句、一般社会の人々を救う力を失った「教会用語」になっている。

 

その言葉を聴いてもなんの変化や効果をももたらさない、内容を失った残骸のようなものとして聞こえる、という現代的状況だ。

 

一般社会でも「男に二言はない」などと、昔は言われた。


大の大人が、たった一言の発言をしたことによって、地位や生命を失う、といったことも起こりえていた。

 

そこでは、「言葉」は存在が賭けられているものであって、言葉如何によっては現実的に生命が左右される、という事態があった。

 

しかし、時代は変わり、「言葉量(情報量)」はとてつもなくふくれあがった。


インターネットの登場は、それを相乗的に加速し続けている。

 

それと比例するように、「存在と命がかかっているような重大な内容と衝撃をもつ言葉」は、減少していく一方になった。

 

「言葉を聴く」営みは退屈なものになった。


言葉を聴いても、なにも変化が起こらない。


聴くことの冒険的特質が消えてしまった。言葉の「重み」が消えたのだ。

 

言葉を聴くことは、人生が永続的に変わるような、おおいなる冒険であったものが、今や眠気を催す退屈な営みになった。

 

言葉を重ね続ける教会の説教もまた、このような言語喪失の虚無的力を免れていない。

 

ボーレンは「説教中、目を開けたまま眠ることができる人をうらやましく思う」という、ユーモアと悲しみ、虚無感が入り混じった状況を例としてあげて、言葉の内容喪失の状況の嘆かわしさを皮肉っている。

 

つまり、ボーレンの『説教学』は、ある意味では「説教の退屈さ」という課題を正面から見据えて、これに神学的応答を試みていると言える。

 

なぜ退屈になるのか。なぜ言葉は実質を失っていくのか。

 

そこに、ボーレンは「聖霊の不在」を見出すのだ。聖霊は「言葉を与える霊」であるが、このお方との生き生きとした関連を失っているところに、言葉の生命力が失われてくる原因がある。

 

そこで、バルトの神学を継承しつつ、聖霊論的に説教を新たに再建していく必要がある。

 

これが、ボーレンの基本的な問題意識だろう。

 

その際、決定的に重要な概念を、ボーレンは示唆している、と思っている。それは、「聖なる遊戯としての説教」ということだ。

 

つまり、説教を「牧師にとって厳しい労働」というカテゴリーではなく、神を喜び楽しむための「遊び」として考えてみる、という提案をしている。

 

これは、今後の時代を考えていくうえで、重要性が高まっていく提案であり、深い黙想に導かれる事柄だ。

 

「退屈さ」に対抗するのは「遊びの喜び」である、ということだ。

 

これは、なにも手抜きをすることではないし、説教準備を楽にすることでもない。

 

「遊び」といっても、それは非常に真剣で情熱的なものだ。さらに、遊びは厳密なルールに従ってこそ、喜びをもたらす。

 

子どもは遊びに真剣そのものであり、遊ぶことができなくなると、泣きわめいて抵抗することもある。


遊びがおおいなる喜びと情熱の源だからだ。

 

同じように、説教について真剣で情熱的、かつ喜びをもたらす「遊び」というカテゴリーで改めてとらえ直してみるとき、新しい視野が開けてくるのではないだろうか。

 

「遊び」は「創造的」なものであり、「喜び」と「変化」、「出会い」を新たに生み続けていく特質をもつ。


こういった視点から説教をとらえるヒントを、ボーレンは示してくれている。

 

「想像力」や「文学」などにフォーカスした説教学が生まれているが、それはボーレンの「遊びとしての説教」のコンセプトの延長線上にあると理解している。

 

そして、これは更なる新たな神学的展開可能性を秘めているのだ。



ルドルフ・ボーレン 「霊の見分け」について

 R・ボーレン教授が死去 ドイツの実践神学者『説教学』など著作多数 2010年2月20日 | キリスト新聞社ホームページ


「霊の見分け」という課題について、これまで何度も考えたことがあったが、正直「実践的にはどうすればよいのか、はっきりわからない」というところがあった。

 

それは、「見分ける」主体となる「人間」の判断は、常に間違うものである、という点をどう克服するか、という課題があるためだ。

 

イグナティウス・ロヨラの『霊操』という本にも「霊の見分け」について書かれており、「魂が覚える異物感」のようなものを手掛かりにしていると記憶している。

 

しかしこれは「客観性」に著しくかけてしまう「主観的方法論」であるため、個人的には非常に疑わしいものだった。

 

「霊の見分け」が「主観的方法」によってなされることは、非常に危険だと感じている。

 

たとえばの話だが、主観的に「霊の見分け」ができるとなると、ある信徒がある牧師の説教を聞いて、「あなたの説教からは悪霊を認識する」と言った場合、その牧師を攻撃する材料にもなりうる。

 

逆の場合として、牧師がある信徒の発言に対して、「あなたの背後にはサタン的なものを感じる」などといえば、それで信徒は大ダメージを受け、教会が嫌になってしまう。

 

これらはグロテスクな例だが、メンタル的に調子が悪いときは、心の「異物感」はよく感じるし、また悪霊的な恐怖や脅威を覚える人もいるだろう。

 

そういうときに「主観的判断」をすることは、医学の素人が重要な医学的判断をするのが危険であるようなもので、非常に危ういものがある。

 

こういった「霊的」な課題においては、「常識性・良識性・合理性・客観性のある程度の確保」が要請されないと、それぞれの信仰者の「主観的判断」によって教会がカオスにもなりうる危険がある。

 

聖書でも、ヨハネの手紙で「霊を見分けよ」と書かれているが、その方法としては「イエス・キリストを告白するかどうか」である、という基準を設けている。

 

つまり、「イエス・キリストの御名」が出てこない説教や祈りは危険である、というのが聖書的基準であり、これは「検証可能」なものであり、「客観性」があるといえる。

 

ある説教を分析し、批評するときに、「イエス・キリストの御名がどこまでこの説教のなかで讃美されているのか」を問うことは、説教批評の根源的・中心的課題だと自分は思っている。

 

逆にいえば、この御名が軽んじられている説教では、「異なる霊」が働いている、とある程度判断できる、ということだ。

 

このことは、私も『ただキリストを伝えよう』という本のなかでかなり長く論じているので、ご参考にして頂きたい。

 

今回言いたいのは、「更なる基準」について、ルドルフ・ボーレンが提案してくれていることだ。

 

ボーレンは、「霊の見分け」の基準について、「福音と律法」という観点から行うことを提案している。

 

主観的方法に頼ることは危険だが、ある説教や信仰的教えがどこまで福音的で、どこまで律法的か、を批判的に検討することで、そこで語られいる言葉から、「霊の見分け」が可能になる。

 

聖霊ご自身は「言葉をお与えになるお方」である。説教や祈りの源であるお方だ。

 

つまり、その与えられた言葉を検証すれば、語っておられるのが聖霊であるのか、異なるタイプのこの世の霊なのかがわかる。

 

その際、聖霊はイエス・キリストを語るお方として、「恵みの霊」であり、「福音の霊」であると言える。

 

つまり、ある説教においてあまりに内容と傾向と流れのすべてが「律法的」であるときは、それは聖霊からのものではない、ということだ。

 

これは、律法自体が悪い、説教において律法を語るべきではない、ということではない。


むしろ、マルティン・ルターのときから、説教者は律法を語るべきことについては、まったく問題はないし、律法のない説教の方こそが問題であるとも言える。

 

問題は、「どこに中心・強調点があるのか。その説教がなにを主たる目的にしているのか」といったところだ。

 

こういった核心部分が「律法」であるなら、それはもはや聖霊的な説教ではない。

 

ある説教の中心が「もっと祈りましょう」ということだったら、それはまずい。むしろ、「もっと祈ることができる力は、だれがくださるのか」を語らなくてはならない。

 

ある説教の中心が「人に配慮しましょう・人を赦し、尊重しましょう」もまずい。


むしろ、「配慮と赦しの心を創造してくださるのは、だれで、どのようにしてか」が中心でなくてはならない。


これはおそらく、説教ばかりか祈祷や生き方全般にも言えるだろう。


福音中心に祈り、生きているのか、律法中心なのか。


そこで「霊の見分け」が可能となる地平があるというのは、教会に生きる私たちが多くの課題を顧みていくうえで、小さくないヒントとなるのではないか。



ルドルフ・ボーレン 「聖霊論的混交」

 R・ボーレン教授が死去 ドイツの実践神学者『説教学』など著作多数 2010年2月20日 | キリスト新聞社ホームページ

ボーレンの神学的概念のうちで、個人的に一番なじみにくかったのは、「混合」という概念だ。

 

これは、聖霊が人間の身体や物質のなかに「混ざる・浸透する」ことを意味している。

 

神ご自身である聖霊が人間に「混ざる」と語ること自体に、人間が「神化」するような「異端的」響きを感じるため、一層誤解され、理解しにくいものとなっている。

 

これを正しく理解するためには、キリスト論に立ち戻ることが必要だ。

 

キリスト論のなかのカルケドン信条には、キリストの神性と人性という二つの本性は、「混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく」キリストの位格に保持され、共存されている、という言葉によって表現されている。

 

イエスは「まことの人間であり、同時にまことの神である」ことを、このようなまわりくどい定式で描こうとしているのだ。

 

大切なのは、イエス・キリストの神性と人性の定式に当てはまることは、聖霊を宿した人間には該当しない、ということだ。


聖霊を宿した人間は、別の定式によって表現することができる。

 

上のカルケドン信条の「混ぜ合わされる」という言葉をボーレンは聖霊論に適用し、神学的概念に昇華したのだ、と私は考えている。

 

つまり、聖霊を宿した人間は、キリスト論の対比すると、以下のような形の定式で語ることができるのではないか。

 

信仰者は聖霊論的に表現すると、「聖霊と混ぜ合わされつつ、聖霊によって変化させられつつ、しかも聖霊からは分離している」ということだ。

 

聖霊を宿した人間は、神になるわけではないし、聖霊ご自身とは永遠に区別され、分離している。人間は人間のままだし、聖霊は神ご自身であることをおやめになることはありえない。

 

それにもかかわらず、聖霊は人間のなかに「混ざる」と語ることができるほどに、浸透してくださり、人間の知性、身体、霊性に至るまで、変革してくださるお方なのだ。

 

ボーレンが聖霊を「混合」の概念によって語ることには、意味がある。

 

それは、聖霊は「物質」のなかに至るまで浸透してくださることを、語ることができるからだ。

 

一般に、聖霊論が語る「人間への内住」というのは、主として魂やメンタルの部分に聖霊が宿ってくださることを意味している。

 

しかし、ボーレンはこれを更に推し進めて、物質や身体に至るまで、聖霊が浸透するものとして語ることを目指している。

 

ボーレンは「聖霊論的混合」を語るとき、使徒19:12でパウロが「身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出ていくほどであった」と記されている物語を語り直している。

 

この物語は、「聖霊の内住」という範疇だと、非常に理解しにくい。聖霊が「心や魂」の問題に限定的に考えられると、パウロの「手ぬぐいや前掛け」に意味があるとは考えることができない。

 

しかし、聖霊なる神の自由の御心によって、パウロの手ぬぐいや前掛けという「物質」にさえ浸透し、その物質を通してさえ御業をなすことがおできなる、そのような聖霊の自由として理解することもできる。

 

ここで、「聖霊論」は「創造論」とリンクすることになる。


聖霊なる神は、三位一体において創造主なる神でもあられ、創造されたすべての「物質」のなかにも、主権的に浸透することがおできになる、ということだ。

 

以上のような議論は、神学的になお深化発展する余地を多く残している領域であって、これまでの伝統的神学をさらに乗り越えていくような思考が要請される。

 

特に現代の環境問題やエコロジーといった課題に対して、大きな視野を拓く可能性に満ちている。こういった課題に対しては、聖霊論なくしてはアプローチすることはほぼ難しいと言える。

 

同時に、ペンテコステ派やカリスマ派の兄弟姉妹たちがなしている祈りの実践も、ボーレンの神学からすると、かなりの程度まで神学的に理解することができる領域にまで広がっていくのではないか。

 

病気の癒しや、知性や身体を脅かす悪霊に対するアプローチは、聖霊が物質にまで浸透することを考えないと、ほぼ神学的には理解することはできない。

 

ボーレンの神学は、こういった現代的課題を考えるための神学的序章を描いてくれている。

 



ルドルフ・ボーレン 聖霊論と「神律的相互作用」

 R・ボーレン教授が死去 ドイツの実践神学者『説教学』など著作多数 2010年2月20日 | キリスト新聞社ホームページ



カール・バルトの神学を学ぶことに神学校時代の前半のほとんどを費やして、しばらくしたとき、ルドルフ・ボーレンの『説教学』を読んでみた。

 

しかし、ボーレンがなにを語りたいのか、いまいちよくわからなかった。


ボーレンが使う用語や書き方も、詩的でエッセイ風の文体であって、なじみにくかった。

 

何度か読み返すうちに、少しずつわかってきたことがあるので、それを書かせて頂きたい。


ただ、今でもボーレンの書物は、本当のところなにを語りたいのか、わからないところが多い。

 

ボーレンの神学的意図は、おそらく以下のようなことだと思う。

 

カール・バルトは「キリスト論的集中」によって、教義学全体をキリスト論の基礎のうえに建てるという大事業を成し遂げ、世界の教会に多大な影響を与えた。

 

しかし、その神学が「キリスト論」に基礎を置き、そこから徹底して展開するタイプのものだったため、キリスト論によっては把握することができない数々の課題については、神学的に展開することができなかった。

 

特に、ボーレンが意識的に取り上げたのは「聖霊論」の神学だ。


バルトは「キリスト論」に集中するあまり、「聖霊論」によって展開可能であった数々の課題を置き去りにしてしまったのではないか。


聖霊論から新たに神学を構築することで、バルト神学には展望できなかったところが見えてくるのではないか・・・。

 

ボーレンは、バルトを否定するのではなく、これをしっかりと継承しつつ、バルトが展開できなかった部分まで聖霊論の射程によって神学を展開する、という動機があったのではないかと個人的には思っている。

 

特に実践神学の領域で、ボーレンは聖霊論的に神学を進めることで、バルト神学では把握できないようなところを発掘しようとしている。

 

その際、重要概念として登場するのが「神律的相互作用」という用語だ。


これは「神人協力説」であるとよく誤解されているが、そういう意味ではまったくない。


ボーレンが「人間が聖霊と協力するパートナーになる」といった表現を使うため、そういった誤解を招いているが、根本的に意味が異なる。

 

「神人協力説」というときは、「救済論(義認論)」の領域の課題だ。


つまり、「人間が救われる際に、人間の自由意思が神の救いの業に協力する」という「半ペラギウス主義的」な意味合いで、これは使われる。

 

しかし、ボーレンが語るのは「救済論」の領域ではなく、いわば聖霊による「聖化論」とそれに基づく教会論や実践神学の領域だ。


聖霊論の領域では、聖霊が人間を主導しつつ、人間は聖霊の働きに参与し、これに自らの存在を投入し、教会形成・社会形成・家庭形成に励んでいく。

 

そういった領域においては、人間はただ神の恵みを受けるばかりか、自らの能力・知識・存在のすべてをもって神の国の建設のために献身していく者として立てられており、その「人間存在」自体を「恵みのみ」の理解によって考察の対象から除外することはできない。

 

もちろん、聖霊が「主」であるのだが、人間がその導きに従う「従」でありつつ、人間の業自身もまた神学的に考察していくことを、ボーレンは提案している。

 

そのため、説教学を扱う際に、人間の業としてのレトリック、修辞学、発話や身振り手振りといったものまで、考察の対象とすることができる。

 

バルトなら、説教で「レトリック」を使おうという意図自体が罪である、と言うだろう。同じくトゥルナイゼンは、バルトと共に説教は「人間的なるものの死」を語るといった。

 

ボーレンはむしろ「聖霊によって生かされる人間的なるもの」を語ろうとした。

 

バルト神学と対比すると、その特徴は明らかだ。

 

バルトは「大事なのは神なのだ! 人間は死すべきものであり、神は永遠に生きる。人間は地におり、神は天におられる!」と神学的に叫んだ。


しかしそれは、他面においては人間自体を神学的課題の領域から押し退けるような作用を持っていたのではないか。

 

シュライエルマッハーを批判的に考えるあまり、ある意味では人間ばかりか「人間のうちに働いてくださる聖霊の業」までも、神学的に押し退けてしまうような傾向があったのではないか。

 

だから、バルト神学の薫陶を受けた説教者たちの説教からはよい意味での「人間臭さ」「泥臭さ」「生活臭さ」が消えてしまい、厳密な講解説教を理想にまで高め、会衆を置き去りにしたところがあるのではないか。

 

改めて、「聖霊論」の領域で「人間」をも神学的考察の対象にすることを、ボーレンは提案し、バルトが熱情のあまり退けた部分の真理契機を拾い上げているように思える。

 

このことはある意味、避けて通ることができない大いなる実践的な問題提起であると言える。

 

というのも、実践的には「牧師の人格や人間性」と教会形成とは、関わっていると言わざるをえないし、それを認めないことは不当にも現実をゆがめることになる。

 

ある牧師がその教会を牧会していたときは成長していたが、別の牧師に交代したら衰退するようになった、という事象はこれまで、どこの国の教会史において何度も何度も繰り返されている。

 

その原因のなかに、「牧師自身の人格や人間性」があるという点を否定することは難しいのではないか。

 

「キリスト論」だけだと、「正しい説教をしていれば、間違いなく教会は前進する」というシンプルな結論になるかもしれないが、聖霊論まで射程に入れると、そう課題は簡単には行かなくなることがわかる。

 

説教者と聖霊の関わりもまた、大きなカギになっていることを考えると、さらに広い領域まで考察が及ぶことになる。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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