ボーレンの『説教学Ⅰ』の冒頭部分は、多くの神学書のなかでも色々な意味で「神学的傑作」ではないかと思う。
ボーレンは世界の「言語喪失状況」について描き出している。
これは言葉が失われたというよりも、「言葉の実質的内容の喪失」のことだ。
説教者が「神」や「導き」、「信仰」について語るとき、それは使い古された決まり文句、一般社会の人々を救う力を失った「教会用語」になっている。
その言葉を聴いてもなんの変化や効果をももたらさない、内容を失った残骸のようなものとして聞こえる、という現代的状況だ。
一般社会でも「男に二言はない」などと、昔は言われた。
大の大人が、たった一言の発言をしたことによって、地位や生命を失う、といったことも起こりえていた。
そこでは、「言葉」は存在が賭けられているものであって、言葉如何によっては現実的に生命が左右される、という事態があった。
しかし、時代は変わり、「言葉量(情報量)」はとてつもなくふくれあがった。
インターネットの登場は、それを相乗的に加速し続けている。
それと比例するように、「存在と命がかかっているような重大な内容と衝撃をもつ言葉」は、減少していく一方になった。
「言葉を聴く」営みは退屈なものになった。
言葉を聴いても、なにも変化が起こらない。
聴くことの冒険的特質が消えてしまった。言葉の「重み」が消えたのだ。
言葉を聴くことは、人生が永続的に変わるような、おおいなる冒険であったものが、今や眠気を催す退屈な営みになった。
言葉を重ね続ける教会の説教もまた、このような言語喪失の虚無的力を免れていない。
ボーレンは「説教中、目を開けたまま眠ることができる人をうらやましく思う」という、ユーモアと悲しみ、虚無感が入り混じった状況を例としてあげて、言葉の内容喪失の状況の嘆かわしさを皮肉っている。
つまり、ボーレンの『説教学』は、ある意味では「説教の退屈さ」という課題を正面から見据えて、これに神学的応答を試みていると言える。
なぜ退屈になるのか。なぜ言葉は実質を失っていくのか。
そこに、ボーレンは「聖霊の不在」を見出すのだ。聖霊は「言葉を与える霊」であるが、このお方との生き生きとした関連を失っているところに、言葉の生命力が失われてくる原因がある。
そこで、バルトの神学を継承しつつ、聖霊論的に説教を新たに再建していく必要がある。
これが、ボーレンの基本的な問題意識だろう。
その際、決定的に重要な概念を、ボーレンは示唆している、と思っている。それは、「聖なる遊戯としての説教」ということだ。
つまり、説教を「牧師にとって厳しい労働」というカテゴリーではなく、神を喜び楽しむための「遊び」として考えてみる、という提案をしている。
これは、今後の時代を考えていくうえで、重要性が高まっていく提案であり、深い黙想に導かれる事柄だ。
「退屈さ」に対抗するのは「遊びの喜び」である、ということだ。
これは、なにも手抜きをすることではないし、説教準備を楽にすることでもない。
「遊び」といっても、それは非常に真剣で情熱的なものだ。さらに、遊びは厳密なルールに従ってこそ、喜びをもたらす。
子どもは遊びに真剣そのものであり、遊ぶことができなくなると、泣きわめいて抵抗することもある。
遊びがおおいなる喜びと情熱の源だからだ。
同じように、説教について真剣で情熱的、かつ喜びをもたらす「遊び」というカテゴリーで改めてとらえ直してみるとき、新しい視野が開けてくるのではないだろうか。
「遊び」は「創造的」なものであり、「喜び」と「変化」、「出会い」を新たに生み続けていく特質をもつ。
こういった視点から説教をとらえるヒントを、ボーレンは示してくれている。
「想像力」や「文学」などにフォーカスした説教学が生まれているが、それはボーレンの「遊びとしての説教」のコンセプトの延長線上にあると理解している。
そして、これは更なる新たな神学的展開可能性を秘めているのだ。