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アウグスティヌスの説教論②

 アウグスティヌス

(転載 「アウグスティヌスの説教論①の続き)

 

4 キリストの働き

 

・聞き手にとって記憶のうちにある「既知」の知識、経験、イメージが、教師の言葉に導かれて、「再形成」、「再解釈」されるというとき、教師自身は聞き手にとって未知の知識、経験を知っていなくてはならない。


もしそうでないならば、聞き手は自分の知識や経験を想起するのみであって、それらの間にある関係性を知ることはできない。

 

・教師(説教者)が聞き手にとって未知の命題を語るとき、それが完全に聞き手にとって未知であるのならば、まったく理解されない。しかし、部分的に既知であり、その既知の部分同士の間に新しい関係性を見出すときに、知識や経験の「分割化」や「総合(複合、統合)化」が起こる。ここには、一つの新しい飛躍がある。


「既知」と「未知」が出会い、そこに超越と飛躍が起こり、「内なる人」が新しくされる出来事が起こる。

 

・だが、この超越や飛躍は、人間自身の力のうちから出てくるものではない。それは、ただキリストの働きかけによって起こる。キリストが働かれるときに、この超越や飛躍が起こり、「内なる人」は新しくされるのである。

 

・聖書について、キリストについて、聞き手は記憶のうちに、既知の知識や経験を持っている。教師(説教者)は聖書に取り組むことを通して、自分の聖書やキリストの経験と知識を思考し直す(=黙想)。


そして、教師自身が聖書に取り組む作業を通して超越や飛躍を経験する。キリストに出会うのである。その経験から言葉が湧き出てくるときに、聞き手のうちにも超越と飛躍が起こるのである。つまり、聞き手もまたキリストに出会うのである。

 

・教師は、キリストに新しく出会ったことによって、新しい言葉を与えられる。それは、キリストと自分(聞き手)との新しい関係性を示す言葉である。この新しい言葉を語ることによって、聞き手もまた新しくキリストに出会い直すのである。

 

・こうして、キリストとの関係が言葉を通して「再形成」「再解釈」されてそれが緻密化、統合化されてゆくことこそ、キリスト者としての成熟、「内なる人の更新」である。

 

 5 実際的結論

 

・聴衆にとって既知の言葉、聴衆のだれでもがすぐに想起できる、想起しやすい、なじみやすい言葉を用いて説教する。これをするために、聴衆の釈義を十分にする。

 

・聞き手にとって既知の言葉を用いたとしても、それによって聞き手にとって既知のことを語っても仕方ない。それでは出会いは起こらない。


聞き手にとって未知のことを説教する。しかしそのとき、既知のことと関連させることを忘れてはならない。未知なことが多いほど、理解されにくい。その関連付けに、説教者の熟練ぶりが表れる。

 

・そのためには大前提として、キリストについて、キリストと自分や聞き手の関係について、自分や聞き手にとって、新しいことがわかるまで、祈り、聖書を読む。

 

・それがわかったときには、キリストとの出会いを通して飛躍や超越(「突き抜ける」‘’break through’’)が起こるので、教師、説教者自身のうちに「慰め」や「励まし」(内なる人の更新)が起こる。

 

・つまり以上の出来事のなかで、聖書テキストが喜びとなり、慰め、励ましとなるまで、聖書を読み込み、よく祈る。

 

・このような準備がなされた場合には、聞き手自身がキリストに新しく出会い、慰められ、励まされ、新しくされるのである。


これが、説教を通して「養われる」ということである。これのために説教者は召されており、これのために命を捧げなくてはならないのである。そして、説教者がこのことに命を捧げるとき、説教者自身が真実に、会衆と共に生かされるのである。

 

・「説教者には前進あるのみ!」説教者自身が聖書を通してキリストに出会い直さず、飛躍や超越を経験せずに「自分が知っていることを語ろう」とし始めるときから、教会は衰退し始める。

 

 (転載終わり)

 

アウグスティヌスの説教論の優れているところは、「人間的次元」と「神の次元」が両者ともにバランスが保たれて生かされているところだと思う。

 

「教師の言葉」が用いられて、「会衆の言葉」が新しい新しい関係性と豊かさとなるが、「教師」と「会衆」の間には、キリストが立っておられ、このお方の働きによってのみ、「神を新たに知る」という認識が生じる、としていることだ。

 

キリストご自身の「教える」働きなくしては、どんな教師の言葉も実を結ばない。キリストへの祈りなくして、教会の教育は成り立たない。

 

ただ、牧会経験をしてみてわかるのは、実践的には上の理論のようにはなかなかいかないということだ。


説教しても説教しても、力を懸命に注いでもなかなか課題を突き抜けられず、教会が停滞してきてしまうという経験を、牧師は多かれ少なかれ、だれでもするものだと思う。

 

そういった経験のなかから、どう立ち上がっていくか、ということが本当の課題だろう。

 

上の理屈についてリアリティーが薄いと感じられる方も、説教の「原理・原則」を確認するうえでのご参考にして頂ければ感謝である。

 

 


アウグスティヌスの説教論①

 アウグスティヌス


学生のころ、説教についていろいろ調べていたとき、アウグスティヌスの『教師論』と『キリスト教の教え』をまとめた、『アウグスティヌスにおける教育』(著:岩村清太)という書物を読んだ。

 

これが大変刺激的で教えられるところが多大なものがあったので、学生の自主的な学び会で発表させて頂いたことがある。

 

そのときのレジュメが出てきたので、こちらに転載させて頂きたいと思う。

 

これを読み返しながら、ある方からは「この説教論には新しい言葉を聴く啓示という契機がない」と言われて議論となり、ある方からは「大方については賛成だが、いろいろ批判したい点がある」と言われたことなどが浮かんできて、東京神学大学の学生時代の楽しい交わりを、懐かしく思い出した。

 

もうこれを書いたときから、ずいぶん長い時間が経過してしまったようだ。

 

以下のレジュメは私が学生のときに、牧会の経験も積まずに書いたものであるため、かなり「生意気」なものであり、「経験や実感に即していない」面が多々あるが、そういった未熟な点は笑って無視して頂き、アウグスティヌスが語る「教えること」の意義を見て頂きたい。

 

そのときのレジュメが出てきたので、こちらに転載させて頂きたいと思う。

 

以下転載  『アウグスティヌスに見る説教論』 

 

☆これはアウグスティヌスの説教に関する教えの客観的言述ではなく、齋藤によって解釈されたアウグスティヌスに見る説教論である。ところどころ、思い切って言い換えや解釈を大きく加えている。

 

学問的正確さ、精密さにおいてアウグスティヌスの教えを描写したものではなくて、説教者の実践に応用したもの。

 

☆主なテキストはアウグスティヌス著作集2に収録されている『教師』である。

 

1 アウグスティヌスにおける「言葉」

 

・言葉=記号=或るものを指し示している。→「シグヌム(記号)-レス(事物)」図式。「人間は人間ではない」という命題。「ライオン」と語るとき、「口からライオンは出てこない」。

Cf:ヘブライ語「ダーバル」の二つの意味=「言葉」「事柄」

 

2 言葉の機能

 

・言葉そのものは記号に過ぎない。それは耳をただ打つだけ。それだけでは雑音のようなもの。

 

・その耳を打つ言葉(記号)が指し示している対象を既に知っているときにだけ、言葉を理解することができる。

 

・つまり、その言葉(記号)の指し示す対象を前もって知っていない限り、言葉は理解できない。

 

・すでに聞き手が、その対象を見たり聞いたりして過去のどこかで「経験」しており、そしてその対象が「記憶」のうちにイメージ、表象として蓄えられている限りにおいて、現在聞かれる言葉は理解される。

 

・そのとき、言葉はただ「記憶」のうちにあるイメージ、その対象を「想起」させることができるに過ぎない。言葉そのものによって、対象を伝えることは不可能なのである。

 

・ゆえに、言葉によってはなにも教えることができない。言葉はすでに聞き手が知っていることを想起させているだけであって、聞き手が知っていること以外にはなにも教えてはいないのだから。

 

3 教師(説教者)の働きの意味

 

・「知識」=言葉によって表現される一定の命題。

 

・「知識」=言葉の本質や言葉同士の間にある関係を表現したもの。=現実世界の事物、対象の本質や、その間にある関係を記号化したもの。

 

・「思考する」=「記憶のうちにあるイメージを集めたり、束ねたり、結びつけたりすること」。つまり、思考することによっては、新しいものはなにも知りえない。それはすでに知っていることの間にある、つまり雑然としているイメージや知識の間にある関係を捉えなおすこと。

 

・教師(説教者)は言葉、知識を語る。その言葉を聞き手が聞くとき、自分の記憶のうちにある経験、イメージを想起する。まずは一つひとつの単語から、一つひとつの経験やイメージを想起する。そして、説教者の言葉のうちにある単語と単語の間の関係を表現する言葉から、聞き手は自分の記憶のうちにある経験やイメージを集めたり、束ねたり、結びつけたりする。こうして、教師の言葉は聞き手に作用して、思考を促す。思考するのは聞き手自身であるが、教師の言葉はそれを助け、それが正しくなされるように奉仕するのである。

 

・こうして、聞き手の既知の知識、経験が教師(説教者)の言葉によって、複雑化、緻密化、もしくは単純化、総合化される。こうして、聞き手は教師の言葉の導きに従うことによって、新しく自分の知識や経験を記憶のうちにおいて、教師の言葉と自分自身の思考を通して、「再形成」し、「再解釈」するのである。

 

・このようにして、聞き手の人格的内面的総体である「内なる人」は、日々新たにされるのである。こうして、人は知識や経験において、もしくは人格的に成熟してゆく。

 

(次の記事に続く)

 

私が最初に読んで刺激を受けたものはこちら。価格が高いが、なんらかの教育的な働きをしている方は、読む価値はおおいにある。図書館で借りるといいかもしれない。

 



アウグスティヌス 「自由意志論」

 アウグスティヌス

「自由意志論」は、キリスト教神学では古典的テーマだ。

 

ここで言う「自由意志」とは、あくまで宗教的・信仰的な意味での自由意志だ。


ここを勘違いすると根本から間違ってしまう。

 

私が目の前の本に手を伸ばす自由意志はあるのか。

 

私が後ろを振り返る自由意志はあるのか。

 

私がいま、拍手する自由意志はあるのか。

 

もちろん、そんな日常的・常識的レベルのことがここでのテーマなのではない。

 

こうした一般的・常識的意味での自由意志を否定している神学者は、おそらくそういない。

 

汎神論的な神学を追求する神秘主義的神学においては、このような意味での自由意志も問題とし、否定する傾向がある。

 

しかし、一般的な神学ではこうした意味での自由意志は、大抵認められている。

 

重要な課題になるのは、神学的な意味における自由意志だ。


これは主として、「私が神に対して、神の前で、神と関わって神を喜ばせる意志の力という意味での自由意志」のことだ。

 

「人間は自分の意志の力で悔い改め、神に立ち返り、霊的生活を建て上げることができるのか」というのがここでのテーマだ。

 

アウグスティヌスは、このテーマを深く掘り下げた神学者だ。

 

というのも、このテーマについて深刻な論争が起きたからだ。ペラギウス論争だ。

 

ペラギウスは、人間の自由意志には自らを救済に向けることができる力があるとして、「原罪」という人間の根本的な罪を否定した。


人間の意志は神の前での善を選択できる、としたのだ。

 

しかし、アウグスティヌスは人間を縛り付ける原罪の力を深刻に認識していたので、こうした罪の影響のうちにある人間には、自分の自由意志の選択によって神と正しい関わりを持つことなど不可能だ、と考えた。

 

人間が「恩寵のみ」によって救われることを明白にしたのだ。これは宗教改革者にも多大な影響を及ぼすことになる。

 

「自由意志」のテーマは、実は聖書からある。


「ファリサイ派」や「律法学者」など、イエス・キリストと対立したグループは、「律法遵守」が人間に可能で、これによって神の前に義を獲得できると考えていた。これが、自由意志論争の根源と言える。

 

「ペラギウス論争」を越えて、宗教改革時代にも、マルティン・ルターとエラスムスの間で同じような論争が交わされた。

 

現代においても、ペラギウス主義者はさまざまな形で生き残って、影響を及ぼしている。

 

ちなみに、カトリック教会はペラギウス主義の考えを部分的に取り入れた、と言われている。いわゆる「セミ・ペラギウス主義的」なのがカトリック神学であると言われている。

 

カトリック教会が「行い」を強調するのには、このような背景があると言えるのではないか。

 

プロテスタント教会でも、「行い」重視の信仰を強調するグループは、ペラギウス主義者になりやすい。

 

ペラギウス論争を学ぶと、自分の信仰が「恩寵のみ」なのか、「恩寵と行い」なのか、「行い重視」なのかが見えてくる。


「行い」に重点がシフトすればするほど、罪認識と神の恩寵への信頼は薄く、軽くなる。罪認識を深刻にする人ほど、「行い」を考えれば考えるほど、良心の呵責に苦しめられる。

 

なお、アウグスティヌスにおいて、ペラギウス主義の文脈で批判されているのは、あくまで「救われる(義とされる)ために行いが必要かどうか」ということであって、「神の救いへの応答として(聖化される)ために行いが必要か」ということではない。


ここを誤ると、後者まで否定することになってしまい、重要な見落としをしてしまうことになる。


イエス・キリストに似た者とされていく聖化のプロセスにおいて、神への応答としての行いが必要なのは、当然と言える。


「義とされた」ことにあぐらをかいて、神に何の応答もなくして、清められることは困難だ。


ペラギウス論争については、いくつかあるが、自由意志の問題を考えるうえでは、避けて通ることができないものだ。


アウグスティヌス 「幸福」の神学者

 アウグスティヌス

古代末期のアウグスティヌスという神学者は、西方教会、東方教会、プロテスタント教会、いずれの教派にとっても大切な存在だ。

 

ルターやカルヴァンも、アウグスティヌスからキリスト教神学の基本的な部分を非常に多く受け継いでいる。論敵と論争するときに、アウグスティヌスを典拠にしていることが多い。

 

アウグスティヌスの神学に触れると、その「幸福論的」な要素が強いことに気づく。

 

アウグスティヌスは、「人間が至福に生きるにはどうすればいいのか」を考えた。

 

そして、結論として「神を愛し、神を喜ぶことが人間の至福なのだ」と考えた(と私は理解している)。

 

神の創造された被造物ではなく、どこまでも創造主である神を愛して行く。被造物については、これを用いて神への愛に役立てて行く。

 

彼は「マニ教」といわれる宗教にはまりこんでしまったこともある。

 

プラトン哲学の影響も大きく受けていた。

 

アンブロシウスという師と出会って、聖書を霊的に理解する道が初めて開かれた。

 

そこで、決して消えてしまうことのない愛の対象として、神にたどりついた。

 

それまでには、同棲して子供までもうけた女性との別れなど、悲しくつらい過去がある。

 

彼は神を愛する事に全力を傾け、そこに至上の幸福を見出した。喪失しない幸福だ。

 

「信仰者の幸福」について思いをめぐらしたい方には、アウグスティヌスはよい師になってくれるだろう。

 

アウグスティヌスは、人間が本当の意味で「享受する(喜ぶ)」ことができるのは、神だけであることを繰り返し描いている。


神以外の被造物については、それらを神への奉仕のために使うことはあっても、それらに心が縛られることは、不幸以外ではない。


神との交わりこそが、永続的な幸福の源であって、他のところに幸福を求めても徒労に終わることを、彼は魂に嫌というほど教えてくれる。


一方、彼の神学への疑問は、「幸福論的」であろうとすることで、同時に「ご利益的」にもなってしまってはいないだろうか、ということだ。

 

人間が神を信じるのは、霊的に幸福になれるという利益があるからだ、という論理があるように思うが、これの正当性は問われる部分であるように思う。

 

どちらにしたところ、彼はどの教派の教会に生きる者にとっても、よき導き手になってくれるはずだ。

 

一番有名な著書はこれ。後半から、「記憶」についてなどの哲学的議論が始まり、かなり難しい。前半は、アウグスティヌスの生涯を信仰的に振り返っているもので、親しみやすいもの。






齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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