今でもときどき、「神学無用論」を耳にすることがある。
その主張とは、以下のようなもので、かなり真理があると言える。
「現代の神学は、私が読んでも、さっぱり意味がわかりませんし、仮に意味がわかったとしても、その価値を認める気にはなれません。
使っている用語もわからないし、私には教会の現実とは離れている絵空事を論じているだけに思えます。
牧師が神学を学べば学ぶほど、その説教はわかりにくくなりますし、教会には届きにくくなるのではないでしょうか。
というのも、神学自体が教会の現実から離れすぎているからです。
そんなことを学ぶのに膨大な時間を使うよりも、もっと実際的な伝道や牧会を、神学校はなぜ教えてくれないのでしょう。
あのような抽象的な議論と、教会で起きていることは、全然別のことですよ。
難しい神学書を理解できたとしても、より祈り深くなることもなく、神への熱心さが燃えるわけでもないなら、なんのための神学ですか。
また、神学すればするほど、信徒が耳にする説教が難しくなるとするなら、牧師は神学を学ばない方がよいということにはならないでしょうか。
そんなことなら、単純に聖書を読んで祈る方が、ずっとよい訓練になるでしょう。
神学がわからなければ、聖書はわからない、というようなことも、ありえないと思います・・・」
神学が教会の実態や現場から乖離しているという課題は、今に始まったものではない。
ドイツなどのプロテスタント教会が文化的にも爛熟しているところでは、「神学教師」が教会には行かない、ということがよくあるそうで、私も聞いてびっくりしたことがある。
かの有名な神学者パウル・ティリッヒも教会には行かなかったし、ルドルフ・ボーレン教授も教会に行くことに乗り気がしなかったが、加藤常昭先生が強く誘って礼拝に出席した、というエピソードを、加藤先生の本のなかに読んだことがある。
もし、日本の神学教師で教会にまったく行かないという人がいたら、牧師や信徒によって「あの人の考え、大丈夫でしょうか?」とその神学は疑問符に付されるだろう。
実際には、日本では神学教師も非常に強い責任感を教会に抱いておられるし、教会と神学校の関係は良好だと言える。これはある意味、日本の教会がなお教会と神学校の関係において、健全な証拠ではないかとも思える。
教会の聖書研究会などで、現代の聖書学に基づいた講義など、信徒は聴けたものではない。
現代の聖書学は、聖書を切り刻んで分析し、なお研究者がわからないところを推測で埋めるというような、「何でもあり」のカオスの世界だからだ。
聖書学は教会の素朴な信仰との乖離が最も甚だしい分野と言える。保守的な教派が聖書学を毛嫌いするのも、私自身は信仰者としてよく理解できる。
日本では、自由教会が教派・超教派神学校を支える、という伝統でやっているため、ドイツほどに乖離が起こりにくいのだろう。
実際的に、神学校も教会も、互いに互いなくしてはやっていくことができないのだ。
もし、たとえばだが、莫大な公的なお金で神学校に運営されるようになったら、あの「乖離」は深刻に進むだろう(日本ではまずこれからも、そういうことは起こらないだろう)。
とはいえ、それでも神学が教会の信徒の現実から離れているため、また牧師の実践を本当に助けてはいないから無用であるという論法には、部分的に真理がある。事実そういう面があるからだ。
これは「神学の専門化」という、より深い課題も含んでいる。
つまり、いまや神学もまた単純なものではなく、複雑に専門分化しており、「神学」とひとくくりにできるものでもない。新しい神学の分野のフロンティアも拡張を続けている。
神学が専門化するほど、より微細なところまで論じられるようになり、これが教会からの乖離をさらに進めることにもなる。
信徒からすればどうでもよいことについて、神学者が互いに怒鳴りながら大激論しているというのは、教会史で繰り返されてきたよくある風景のひとつだ。
この問いは、ある意味神学の在り方を問う根源的なところがあるので、そう簡単に答えて済ますことができるものではないと感じる。
「今後、神学はどういった在り方をしていくのか」を考えるうえで、重要な問いかけではないか。
つまり、「神学は今後、時代の学問の潮流に合わせて、これまで通りの専門化を深めつつ、教会の現実とはどんどん離れていっても、時代の学問の潮流からはそっぽを向かれないようにしていく」という、ひとつの道がある。
たとえば、なんらかの聖書に関わる「学会」で神学教師が発表を準備するとき、そこに出席している信仰を前提としていない学者から、「あなたが言っているのは、教会や信仰を前提にしている人にしか通用しない話です」と批判されないような話しか準備しない、という在り方だ。
そういった人々とも、対等にやり合っていくだけの理論構築をしていくことになるが、教会からの距離が今後も更に広がるのは避けられない。
もう一つは、「たとえ時代の潮流にそっぽを向かれてでも、教会の現実に歩み寄り、教会にとって益となり、教会の牧師と信徒の伝道と現実の理解に奉仕する学問として、軌道修正しながら進んでいく」という道だ。
こういう話を前の「学会」でしたら、「あの人は教会の御用学者だ」とか「あの人の学問は教会の御用学問で、主観的なものに過ぎない。もはやアカデミズムではない」などと悪口を言われることになる。
しかし「それでいい。それが私の立ち位置だ」と開き直って、進んでいくことになる。一方、教会の牧師や信徒からは「あなたはよく私たちの課題を汲んで、私たちの問題意識を掘り下げてくださっています。ありがとう」と感謝されることになる。
この両者の道は、互いに対立的な関係にあると言わざるをえないだろう。
一方の道を徹底すれば、他方の道からは離れていくことになる。両者の「統合」というのは、無理だ。
それは実質的に、「信仰と不信仰の統合」ということになり、それは不可能だからだ。
以上の選択肢について、「塾」や「専門学校」のような形で神学校を運営している比較的小さなところは、後者の道をより容易に選ぶことができるだろう。
それ以外に役割もないからだ。神学においては純粋であることができる代償として、規模は小さくならざるをえない。
一方、私の母校もそうだが、「大学」の体裁を守っていかなくてはならないところは、後者の道を選んでもなお、前者の道も捨てるわけにはいかない。
そこで、前者とも折衝・折衷していこうとせざるをえないだろう。
その代償として、規模はある程度維持できても(現代ではそれさえ、非常に困難だが)、神学の立ち位置としては、教会からの乖離をゆっくりとでも起こしていくことは、否定できないだろう。
両者の道を「対立」ととらえず、「統合」も無理としても、なんとか「両立」で行こうという考えも当然ありうるし、これが最も実際的な道かもしれない。
しかし、この世に対しても、教会に対しても責任を果たそうとするなら、「この世に対しては、信仰のない学者にも通用する議論を展開し、教会に対しては教会の現実に合った話をする」という、ダブル・スタンダードの「使い分け」をしなくてはならないという、ジレンマを神学教師は抱えていることになる。
要するに、「教会のための神学」なのか、「学問としての神学」なのか、という課題だ。
この課題は「本質論」とからみながらも、ひどく実践的なものであり、「解決」についてはそう簡単に書くことができない。
今回は状況を描くのみで終えるが、また改めてこの主題を取り上げたい。