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神学の意味④ 「神学無用論」について

 Ten Reasons Why Theology Matters | Christianity Today


今でもときどき、「神学無用論」を耳にすることがある。


その主張とは、以下のようなもので、かなり真理があると言える。


「現代の神学は、私が読んでも、さっぱり意味がわかりませんし、仮に意味がわかったとしても、その価値を認める気にはなれません。


使っている用語もわからないし、私には教会の現実とは離れている絵空事を論じているだけに思えます。


牧師が神学を学べば学ぶほど、その説教はわかりにくくなりますし、教会には届きにくくなるのではないでしょうか。


というのも、神学自体が教会の現実から離れすぎているからです。


そんなことを学ぶのに膨大な時間を使うよりも、もっと実際的な伝道や牧会を、神学校はなぜ教えてくれないのでしょう。


あのような抽象的な議論と、教会で起きていることは、全然別のことですよ。


難しい神学書を理解できたとしても、より祈り深くなることもなく、神への熱心さが燃えるわけでもないなら、なんのための神学ですか。


また、神学すればするほど、信徒が耳にする説教が難しくなるとするなら、牧師は神学を学ばない方がよいということにはならないでしょうか。


そんなことなら、単純に聖書を読んで祈る方が、ずっとよい訓練になるでしょう。


神学がわからなければ、聖書はわからない、というようなことも、ありえないと思います・・・」


神学が教会の実態や現場から乖離しているという課題は、今に始まったものではない。


ドイツなどのプロテスタント教会が文化的にも爛熟しているところでは、「神学教師」が教会には行かない、ということがよくあるそうで、私も聞いてびっくりしたことがある。


かの有名な神学者パウル・ティリッヒも教会には行かなかったし、ルドルフ・ボーレン教授も教会に行くことに乗り気がしなかったが、加藤常昭先生が強く誘って礼拝に出席した、というエピソードを、加藤先生の本のなかに読んだことがある。


もし、日本の神学教師で教会にまったく行かないという人がいたら、牧師や信徒によって「あの人の考え、大丈夫でしょうか?」とその神学は疑問符に付されるだろう。


実際には、日本では神学教師も非常に強い責任感を教会に抱いておられるし、教会と神学校の関係は良好だと言える。これはある意味、日本の教会がなお教会と神学校の関係において、健全な証拠ではないかとも思える。


教会の聖書研究会などで、現代の聖書学に基づいた講義など、信徒は聴けたものではない。


現代の聖書学は、聖書を切り刻んで分析し、なお研究者がわからないところを推測で埋めるというような、「何でもあり」のカオスの世界だからだ。


聖書学は教会の素朴な信仰との乖離が最も甚だしい分野と言える。保守的な教派が聖書学を毛嫌いするのも、私自身は信仰者としてよく理解できる。


日本では、自由教会が教派・超教派神学校を支える、という伝統でやっているため、ドイツほどに乖離が起こりにくいのだろう。


実際的に、神学校も教会も、互いに互いなくしてはやっていくことができないのだ。


もし、たとえばだが、莫大な公的なお金で神学校に運営されるようになったら、あの「乖離」は深刻に進むだろう(日本ではまずこれからも、そういうことは起こらないだろう)。


とはいえ、それでも神学が教会の信徒の現実から離れているため、また牧師の実践を本当に助けてはいないから無用であるという論法には、部分的に真理がある。事実そういう面があるからだ。


これは「神学の専門化」という、より深い課題も含んでいる。


つまり、いまや神学もまた単純なものではなく、複雑に専門分化しており、「神学」とひとくくりにできるものでもない。新しい神学の分野のフロンティアも拡張を続けている。


神学が専門化するほど、より微細なところまで論じられるようになり、これが教会からの乖離をさらに進めることにもなる。


信徒からすればどうでもよいことについて、神学者が互いに怒鳴りながら大激論しているというのは、教会史で繰り返されてきたよくある風景のひとつだ。


この問いは、ある意味神学の在り方を問う根源的なところがあるので、そう簡単に答えて済ますことができるものではないと感じる。


「今後、神学はどういった在り方をしていくのか」を考えるうえで、重要な問いかけではないか。


つまり、「神学は今後、時代の学問の潮流に合わせて、これまで通りの専門化を深めつつ、教会の現実とはどんどん離れていっても、時代の学問の潮流からはそっぽを向かれないようにしていく」という、ひとつの道がある。


たとえば、なんらかの聖書に関わる「学会」で神学教師が発表を準備するとき、そこに出席している信仰を前提としていない学者から、「あなたが言っているのは、教会や信仰を前提にしている人にしか通用しない話です」と批判されないような話しか準備しない、という在り方だ。


そういった人々とも、対等にやり合っていくだけの理論構築をしていくことになるが、教会からの距離が今後も更に広がるのは避けられない。


もう一つは、「たとえ時代の潮流にそっぽを向かれてでも、教会の現実に歩み寄り、教会にとって益となり、教会の牧師と信徒の伝道と現実の理解に奉仕する学問として、軌道修正しながら進んでいく」という道だ。


こういう話を前の「学会」でしたら、「あの人は教会の御用学者だ」とか「あの人の学問は教会の御用学問で、主観的なものに過ぎない。もはやアカデミズムではない」などと悪口を言われることになる。


しかし「それでいい。それが私の立ち位置だ」と開き直って、進んでいくことになる。一方、教会の牧師や信徒からは「あなたはよく私たちの課題を汲んで、私たちの問題意識を掘り下げてくださっています。ありがとう」と感謝されることになる。


この両者の道は、互いに対立的な関係にあると言わざるをえないだろう。


一方の道を徹底すれば、他方の道からは離れていくことになる。両者の「統合」というのは、無理だ。


それは実質的に、「信仰と不信仰の統合」ということになり、それは不可能だからだ。


以上の選択肢について、「塾」や「専門学校」のような形で神学校を運営している比較的小さなところは、後者の道をより容易に選ぶことができるだろう。


それ以外に役割もないからだ。神学においては純粋であることができる代償として、規模は小さくならざるをえない。


一方、私の母校もそうだが、「大学」の体裁を守っていかなくてはならないところは、後者の道を選んでもなお、前者の道も捨てるわけにはいかない。


そこで、前者とも折衝・折衷していこうとせざるをえないだろう。


その代償として、規模はある程度維持できても(現代ではそれさえ、非常に困難だが)、神学の立ち位置としては、教会からの乖離をゆっくりとでも起こしていくことは、否定できないだろう。


両者の道を「対立」ととらえず、「統合」も無理としても、なんとか「両立」で行こうという考えも当然ありうるし、これが最も実際的な道かもしれない。


しかし、この世に対しても、教会に対しても責任を果たそうとするなら、「この世に対しては、信仰のない学者にも通用する議論を展開し、教会に対しては教会の現実に合った話をする」という、ダブル・スタンダードの「使い分け」をしなくてはならないという、ジレンマを神学教師は抱えていることになる。


要するに、「教会のための神学」なのか、「学問としての神学」なのか、という課題だ。


この課題は「本質論」とからみながらも、ひどく実践的なものであり、「解決」についてはそう簡単に書くことができない。


今回は状況を描くのみで終えるが、また改めてこの主題を取り上げたい。


神学の意味③ 「神学する」こと

 Ten Reasons Why Theology Matters | Christianity Today


「神学を学ぶ」という言い方がある。


これは、具体的にはなんらかの神学者の神学書を読むことを意味する。

 

しかし、これとは別に「神学する」という言い方がある。


「神学」の動詞形だ。


「グーグルで検索する」ことを「ググる」というが、「神学を営む」ことを「神学する」という。

 

「神学する」とは、キリスト者においては自らが経験している現実を神学的角度から理解することだ。


教会においては、教会が置かれている状況と現実を、神学的視点から理解し、教会の職務を実行していくことだ。

 

「神学書を読む」ことの目的は、「神学する」ことにある。


神学書を読んで、聖書や教理についての知識が増えても、それだけでは意味がない。

 

神学的知識を通して現実を解釈し、現実に取り組み、神の御前でキリスト者と教会にとって課題を解決し、よりよい道を模索し続ける作業、つまり「神学する」作業があって初めて、神学書は実を結ぶことになる。

 

このところが本末転倒になると、「神学馬鹿」が誕生する。


つまり、神学書についてはやたら詳しく、神学の奥深く、わけのわからない知識を非常に豊富に知っているが、それをもってどう教会とキリスト者の現実に取り組むのか、という視点がまったく欠如しているような在り方のことだ。

 

「神学書を読む」ことは、それ自体が目的というよりも、現実の歩みにおいて「神学する」ことが目的なのだ。


このところを誤解すると、本当に悪い意味での「神学論争」に終始しながら、しかもなんの実りも変化も成長もない、という状態になってしまう。

 

「神学する」ことは、現実の生活のなかで出会う課題と真摯に向き合うことによってなされる。

 

私たちが出会う経験や出来事は、それを解釈する角度と視点によって、まったく異なる姿を見せる。

 

「お金に困る」という経験は、「経済的視点」からも「経営学的視点」からも「文学的視点」からも見ることができる。


キリスト者と教会という文脈では、これを「神学的視点」から理解するのだ。

 

「神学を学ぶ」ことを通して、「神学する」ために必要な知識を受ける。この知識を用い、応用して現実の出来事や生活の課題を、「神学的視点」から理解することができるよう、努める。

 

「牧師」とは、信徒が抱えている課題についての「神学的理解」を示し、導くものだ。


日頃から、見聞きする課題や出来事を、「どう神学的にとらえることができるのか」という修練が必要になる。

 

そのための道具として、神学書は与えられている。


神学書を読むことで、現実を神学的に理解する認識が深められる。


そのことをもって教会に奉仕する。それが神学の意味なのだ。


神学の意味② 「信仰の自己吟味・自己修正」

 Ten Reasons Why Theology Matters | Christianity Today

神学を学ぶもう一つの意味は、「自分の信仰の在り方が聖書と教会の伝統に即して正しいかどうか、吟味する」ことだ。

 

キリスト者も教会も、神の御前に正しい信仰を抱くことによって、前進することができる。

 

信仰が間違うなら、もはや前へ進むことができない。

 

それでは、信仰の「正しさ」というとき、なにを基準にすればいいのか。

 

第一の基準は「聖書」だが、第二の基準は「基本信条・信仰告白」だ。


そして、ある意味では第三の基準が「神学」であると言える。

 

信仰がどこまで正しさを保持しているかというとき、聖書や信仰告白を参照しても、よくわからないこともある。

 

そういうときは、そのキリスト者、教会が属している教会の伝統、つまり教会が属している教派の神学が意味をもつ。

 

教会が守ってきた神学の伝統に照らして、その「正しさ」が吟味されるのだ。


ある特定の教派の教会として、その信仰の在り方がふさわしいものかどうかについて、神学的伝統を参照することによって答えが出る。

 

どの教会でも、なんらかの神学的伝統を背景として持っている。


そこを学ぶことで、その教会で語られている説教は正しいものか、信仰の在り方はどうなのか、それが吟味されるのだ。

 

牧師にとっては、神学を学ばないということは、「正しさ」の基準がわからなくなることを意味する。


牧師が神学を学ばないなら、自分自身のみならず、教会を迷走へと引き込むことになる。「正しさ」の基準を失ってしまうからだ。

 

神学を学ぶことは、キリスト者と教会が説教し、祈り、信じ、奉仕する、そのすべての在り方を「点検」することであり、間違っているところを割り出して改善していくうえで、有益なのだ。

 

この「軌道修正」の作業を継続的に行わないと、教会は牧師も含めて罪人の群れであるため、方向性を間違い、厳しい状況に引き込まれてしまう。


与えられている道を飛び出してしまうのだ。

 

神学はそうしたことから教会を守る、ガードレールのような存在なのだ。


神学の意味① 「神の現実」を理解する試み

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「神学論争」という言葉がある。政治の世界でも、時に使われる。

 

よく調べていないが、おそらくこの言葉が使われるのは、「現実的な意味のない空論」というような意味なのだろう。

 

「神学論争」をこのような意味で使う方々が、どこまで実際の神学書を読まれているのか、わたしにはよくわからない。


おそらく、まったく読まれていないから、疑問もなくこうした言葉を使われているという面もあるかと思う。

 

たしかに、教会史のなかで現実に行われた「神学論争」は、クリスチャンでもない日本人の多くの方々には、まったく意味不明なものに思われても仕方ない面がある。


使われる用語や、その意味内容は日常的な感覚からすると、「ぶっとんでいる」論理だろう。

 

しかし、「こんなもの無意味だ」と断じる前に、神学書を読む意味とはなにか、神学の意味とはなにか、と考えてみたい。

 

キリスト教神学は、基本的にキリスト者である人によって営まれる。神学書は、キリスト者でないと本当には理解できないものだ。

 

神学の一つの意味は、キリスト者と教会の「現実理解」に奉仕する、ということ。

 

たとえばの話だが、ある子供が突然、知らない家庭に連れてこられたとする。

 

その家庭はとても優しい、素晴らしい親が営んでいるところだが、独特な家風やルールもあるらしい。

 

そうした状況に置かれたら、子供としてはそこの親がどういう人なのか、そこの家風やルールや、やり方はどういうものなのか、「知りたい」と願うのではないか。

 

そういうことをしっかりと理解すれば、その家庭でより安心して、より楽しく生活できるからだ。

 

三位一体の神を信じて洗礼を受けるとは、こうした「神の家」の一員になることだ。

 

神の家族の一員として生きるとすれば、その家を治める父なる神はどういうお方なのか、兄弟イエスはどういう存在なのか、家を満たす聖霊なる神の愛はどういうものか、その家庭がどういうところなのか、知りたくなる。

 

このような理解に奉仕するのが神学なのだ。

 

もちろん、このような理解は、基本的に教会での説教によって与えられるもので、これが主であることは言うまでもない。

 

しかし、その理解をより深め、広めていくために、神学は有益だ。

 

キリスト者、教会が生かされている神の現実を理解する営みが、神学なのだ。

 



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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