教会は、社会活動をすべきなのか、すべきではないのか。
ここでいう「社会活動」は、広い範囲の事柄を含んでいる。
教会は、教会として地域貢献を行っていくべきか。
老人ホームや幼稚園・保育園をたてて地域の育児や介護に貢献し、
福祉施設を経営して地域の福祉に貢献し、催し物をすることで地域の観光に貢献すべきか。
教会は、教会として政治活動を行っていくべきか。
教会は原発に反対の署名活動をすべきか。
教会はチームを作って基地反対の座り込みをすべきか。
教会は選挙の時、ある特定の人を応援すべきか。
差別撤廃のための決起集会を行うべきか。
教会は、教会として弱さのなかにある人を、さまざまなプログラムにより援助すべきか。
教会は、様々な慈善活動を行うことで貧困と戦うべきか。
教会は、精神的に病んでいる人のカウンセリングを引き受けるべきか。
教会は、病のうちにある人をなんらかの形で援助すべきか。
上の事柄は、政治活動は賛否両論あるとしても、善きこと、大切なことであることを疑う人はいないだろう。
これらの社会への貢献の働きは、誰かが担っていかなくてはならないし、
これらを通して隣人に対して愛の業、善き業をしていくことは大切なことである。
しかし、これらを「だれが」するのか、ということがやはり大事な点である。
上の事柄は、「教会」が主体としてするべきことだろうか。
つまり、教会の役員会や総会の議事として決定して実行すべきことだろうか。
それとも、「信徒」が各自、個人の召命の領域で取り組むべき事柄なのか。
私は、これらは信徒各自が担うべき課題であって、
教会の役員会や総会の議案として「教会としての意思決定」をする事柄ではないと考えている。
つまり、これらを「教会が主体」となってすべきではない。
教会は、こうしたことではなく、「伝道」に集中すべきだ、と考える。
なぜなら、上の事柄はすべて、教会以外の組織であっても、
むしろ教会以外の組織の方が専門性を発揮して引き受けることができる分野だからだ。
地域貢献は、確かに大切である。だが、教会とは別の組織が担って運営することができる。
政治活動にしても、教会がこれらを担うとすると、キリスト者は政治的な信条さえ皆同じ、という前提がなくてはならない。
ところが、キリスト者のなかには右寄りの人も左寄りの人もいる。
それなのに教会が主体として政治活動したら、明らかに教会は分裂する。
政治活動をするには、教会とは別の組織が必要だ。
弱さのうちにある人々への援助にしても、確かにこれは教会が伝統的に重んじて来たことではあるが、
しかし現代においては別に組織を設けて、その組織がプロとして当たることがふさわしい。
それでは、教会はそうした教会の外の別の組織にこうした社会活動を任せてしまって、
自分たちはこうした社会問題に対して、なんの貢献もしなくていいのか?
いや、教会はこうした社会問題に、実に大きな貢献をすることができる。教会独自の貢献ができるのだ。
教会は伝道に集中することによって、聖書の精神を身に着けた信仰者を育てる。
そうして成長した人々が、上にあげたような分野の組織に入り、その中でその人が地の塩として祈り、働くことによって、その組織の使命を推し進める。
聖霊による影響力が、こうして社会に広まる。それが、社会を清め、腐敗から守る「地の塩」としての働きになる。
こうして、教会は間接的な仕方であるが、社会問題の解決に貢献するのである。
教会は、直接社会活動にコミットするべきではないが、しかし間接的にコミットするのだ。
聖書のスピリットに満ちた信仰者を豊かに育てることを通して、そうした人々が信仰をもって、社会問題の解決という課題を担って働くのである。
教会は、伝道こそが存在理由だ。伝道に集中することによって、その独自の意義を果たすことができる。しかし、このことの射程距離は非常に広い。
御言葉によって養われた信仰者たちは、奮いたってこの世において、様々な課題を解決するために、地の塩・世の光として働くのだ。
こうして、教会を通して学んだ聖書の精神、キリストの支配、聖霊の力が、社会全体に信仰者の働きを通して、よい影響を与えて行く。
これが、教会が社会問題を解決するやり方である。教会は伝道し、信仰者を育て、それによって間接的に社会問題の解決に貢献していくのだ。
教会が役員会や総会で、上のような分野について決定をくだし、それらを教会が主体となって担って行くとどうなるか。
一つは、「伝道」の衰退である。他分野に時間と力を取られてしまい、伝道に力を注げなくなって、教会がどんどん停滞してくる。
もう一つは、教会の混乱である。教会は明らかに、上の他分野を担って行くような専門性を備えた組織ではない。
教会にできるのは伝道であって、他の事柄ではないのだ。
だから、こうした教会があまり得意としない、他分野の事柄に熱中すればするほど、いよいよ教会は力を失い、いろいろな混乱が生じてくる。本来の力を発揮できなくなる。
教会は霊的な事柄、伝道に集中するからこそ、それによって教会の本来の力と独自性が発揮されて、かえって社会に対して大きな貢献ができるのだ。
教会は、伝道によって間接的に社会に関わった方が、結果的により大きく社会に貢献できるのだ。
教会が、また牧師が他分野の事柄について「学ぶ」のはよいことだろう。御言葉を世に向かって語るために、こうしたことは十分理解しておくべきことである。
また、教会で震災の支援金を募ったり、社会委員会を作って地域の課題を議論したり、といった次元のことであるなら、十分可能であろう。
だが、これらの他分野に対して教会が主体となって、伝道する力をも大きくそちらに回してまで、「直接関わって活動する」ことはすべきではないと考える。
そこまで深くコミットするとするなら、別の組織にそれぞれが入って活動するべきだろう。
伝道こそが、教会の使命なのだ。教会は、伝道によって社会問題の解決に貢献する。
伝道に集中してこそ、教会は社会に対しても独自の役割を果たすことができるのだ。