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教会とはなにか⑩ 教会が行う「社会活動」の是非

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教会は、社会活動をすべきなのか、すべきではないのか。


ここでいう「社会活動」は、広い範囲の事柄を含んでいる。


 教会は、教会として地域貢献を行っていくべきか。


 老人ホームや幼稚園・保育園をたてて地域の育児や介護に貢献し、


福祉施設を経営して地域の福祉に貢献し、催し物をすることで地域の観光に貢献すべきか。


 教会は、教会として政治活動を行っていくべきか。


 教会は原発に反対の署名活動をすべきか。


教会はチームを作って基地反対の座り込みをすべきか。


教会は選挙の時、ある特定の人を応援すべきか。


差別撤廃のための決起集会を行うべきか。


 教会は、教会として弱さのなかにある人を、さまざまなプログラムにより援助すべきか。


 教会は、様々な慈善活動を行うことで貧困と戦うべきか。


教会は、精神的に病んでいる人のカウンセリングを引き受けるべきか。


教会は、病のうちにある人をなんらかの形で援助すべきか。


 上の事柄は、政治活動は賛否両論あるとしても、善きこと、大切なことであることを疑う人はいないだろう。


これらの社会への貢献の働きは、誰かが担っていかなくてはならないし、


これらを通して隣人に対して愛の業、善き業をしていくことは大切なことである。


 しかし、これらを「だれが」するのか、ということがやはり大事な点である。


 上の事柄は、「教会」が主体としてするべきことだろうか。


つまり、教会の役員会や総会の議事として決定して実行すべきことだろうか。


それとも、「信徒」が各自、個人の召命の領域で取り組むべき事柄なのか。


 私は、これらは信徒各自が担うべき課題であって、


教会の役員会や総会の議案として「教会としての意思決定」をする事柄ではないと考えている。


つまり、これらを「教会が主体」となってすべきではない。


教会は、こうしたことではなく、「伝道」に集中すべきだ、と考える。


 なぜなら、上の事柄はすべて、教会以外の組織であっても、


むしろ教会以外の組織の方が専門性を発揮して引き受けることができる分野だからだ。


 地域貢献は、確かに大切である。だが、教会とは別の組織が担って運営することができる。


 政治活動にしても、教会がこれらを担うとすると、キリスト者は政治的な信条さえ皆同じ、という前提がなくてはならない。


ところが、キリスト者のなかには右寄りの人も左寄りの人もいる。


それなのに教会が主体として政治活動したら、明らかに教会は分裂する。


政治活動をするには、教会とは別の組織が必要だ。


 弱さのうちにある人々への援助にしても、確かにこれは教会が伝統的に重んじて来たことではあるが、


しかし現代においては別に組織を設けて、その組織がプロとして当たることがふさわしい。


 それでは、教会はそうした教会の外の別の組織にこうした社会活動を任せてしまって、


自分たちはこうした社会問題に対して、なんの貢献もしなくていいのか?


 いや、教会はこうした社会問題に、実に大きな貢献をすることができる。教会独自の貢献ができるのだ。


 教会は伝道に集中することによって、聖書の精神を身に着けた信仰者を育てる。


そうして成長した人々が、上にあげたような分野の組織に入り、その中でその人が地の塩として祈り、働くことによって、その組織の使命を推し進める。


聖霊による影響力が、こうして社会に広まる。それが、社会を清め、腐敗から守る「地の塩」としての働きになる。


こうして、教会は間接的な仕方であるが、社会問題の解決に貢献するのである。


 教会は、直接社会活動にコミットするべきではないが、しかし間接的にコミットするのだ。


聖書のスピリットに満ちた信仰者を豊かに育てることを通して、そうした人々が信仰をもって、社会問題の解決という課題を担って働くのである。


 教会は、伝道こそが存在理由だ。伝道に集中することによって、その独自の意義を果たすことができる。しかし、このことの射程距離は非常に広い。


御言葉によって養われた信仰者たちは、奮いたってこの世において、様々な課題を解決するために、地の塩・世の光として働くのだ。


こうして、教会を通して学んだ聖書の精神、キリストの支配、聖霊の力が、社会全体に信仰者の働きを通して、よい影響を与えて行く。


 これが、教会が社会問題を解決するやり方である。教会は伝道し、信仰者を育て、それによって間接的に社会問題の解決に貢献していくのだ。


 教会が役員会や総会で、上のような分野について決定をくだし、それらを教会が主体となって担って行くとどうなるか。


 一つは、「伝道」の衰退である。他分野に時間と力を取られてしまい、伝道に力を注げなくなって、教会がどんどん停滞してくる。


 もう一つは、教会の混乱である。教会は明らかに、上の他分野を担って行くような専門性を備えた組織ではない。


教会にできるのは伝道であって、他の事柄ではないのだ。


だから、こうした教会があまり得意としない、他分野の事柄に熱中すればするほど、いよいよ教会は力を失い、いろいろな混乱が生じてくる。本来の力を発揮できなくなる。


 教会は霊的な事柄、伝道に集中するからこそ、それによって教会の本来の力と独自性が発揮されて、かえって社会に対して大きな貢献ができるのだ。


教会は、伝道によって間接的に社会に関わった方が、結果的により大きく社会に貢献できるのだ。


 教会が、また牧師が他分野の事柄について「学ぶ」のはよいことだろう。御言葉を世に向かって語るために、こうしたことは十分理解しておくべきことである。


 また、教会で震災の支援金を募ったり、社会委員会を作って地域の課題を議論したり、といった次元のことであるなら、十分可能であろう。


 だが、これらの他分野に対して教会が主体となって、伝道する力をも大きくそちらに回してまで、「直接関わって活動する」ことはすべきではないと考える。


そこまで深くコミットするとするなら、別の組織にそれぞれが入って活動するべきだろう。


  伝道こそが、教会の使命なのだ。教会は、伝道によって社会問題の解決に貢献する。


伝道に集中してこそ、教会は社会に対しても独自の役割を果たすことができるのだ。


 








教会とはなにか⑨ 「教会が停滞する原因」

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教会の前進と成長について書いた。では、なぜ教会が停滞するのか、と考えたい。


 教会が前進するのは、御言葉の種がまかれ、それが成長して収穫に向かい、新たな畑に播かれていくからだ。


当然、この神の農作業(御言葉の種まきと収穫)の循環がどこかでとどこおって、妨げられるなら、教会は停滞する。停滞の原因はいくつか考えられる。

 

     「説教」が説教になっていない

 

御言葉の種まきである説教が、御言葉の命が聖霊によって豊かに根付き、成長するようになされていないなら、当然教会は停滞する。


聖書の御言葉から、祈りと学びを通して、豊かに恵みをくみ上げるように牧師が準備しているかどうか。


 むしろ、聖書のうちにあるキリストの命以外の事柄に熱中して、聖書の外の事柄を話すことの方に傾いていないか。


聖書の御言葉を説教しているのか、もしくは自分の思想やこの世の考えを説教しているのか。


 もし牧師が聖書の示すキリストの命を説教していないなら、教会は当然停滞する。


牧師が自分に与えられている時間や労力を、聖書から命をくみあげることに集中しているのか、それとも別の事柄に大半を使ってしまっているのか、が問われている。


牧師が自分の時間をもっとたくさん説教に注いでいれば、教会は更に前進するはずである。


 現代の牧師は、明らかに祈りと説教準備以外のことをしすぎである。


付帯施設の働きや、様々な会議や、牧師同士の付き合いなどなど。


牧師が祈りと説教準備の時間を削れば削るほど、教会の停滞は深刻化せざるをえない。

 

②会衆のうちに祈りの生活が形成・確立されていない

 

牧師の説教の責任は重大である。


しかし、それだけではない。


会衆が、自宅や職場、その他どんな場所でも聖書を読み、祈る生活を形成していないなら、会衆のうちに聖書の御言葉の力が働くのが妨げられる。


 説教がまずいのが最も根本の問題だが、会衆が本当に聖書に親しみ、祈りの生活を送っているときには、なお教会は前進することができる。


会衆が祈りの生活を形成し、確立していないなら、教会の堅固さ・着実さ・確実さは鈍ってくる。

 

③罪が放置されている、罪との戦いがなされていない、神に応答していない

 

御言葉の命が与えられていても、私達の罪はその成長を妨げ続ける。


 御言葉を聞くことで、神の命の力が私達のうちで働き、成長し続けるが、しかし私たちが犯す罪が、その前進と成長をいつも妨げる。


だから、その罪との継続的な戦いがなされなくてはならない。


また、罪を犯したときには、悔い改めて主の道に立ち戻らなければならない。


聞いた御言葉への応答が捧げられなくてはならない。


こういった領域には、厳しさもあり、戦いもある。


 こうした戦いや悔い改めがなされることがないまま、罪が放置されて漫然と時間だけが過ぎて行くことになってはいないか。


牧師も、会衆も、共に罪に対する悔い改めと戦いをすることによって、御言葉の力は豊かに私達のうちに輝いて来る。罪が私達に勝ち続ける限り、教会は停滞を続ける。


 特に、個人でも家庭でも教会でも、御言葉を受けて祈ること、神に応答することにおいて怠慢であったり、その重要さをあなどっているとするなら、教会の停滞は明白にあらわれてくることは間違いない。


 「今の時代は、特に日本は伝道が難しい」と言われるときの、教会停滞の原因の外部的要因については、様々なものがある。


歴史的なものもあろうし、日本人の精神性によるものもあろうし、現代の特殊な状況に起因するものもあろう。


だが、これらは本質的ではない。これらがあることによって、もちろん伝道はより困難になるが、しかしこれらは絶対的な障害ではありえない。


 困難な時代には、教会はよりゆるやかに前進する。


順調な時には、大きく前進する。


教会はどんな時代にも前進し、成長する。


しかし、もし前進と成長を全然しない、ということならば、その原因は私達の罪にあるのだ。


他の事柄に責任転嫁してはならない。


 牧師が説教に全力を注ぎ、会衆は祈りの生活を確立し、牧師も会衆も共に罪を悔い改め、共に罪と戦い続けて行くなら、前進しない教会はない。


成長しない教会もない。


 これが私達の確信であるべきだ。

 







教会とはなにか⑧ 教会の「前進と成長」

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教会の教勢が「停滞している」と言われて久しい。確かに、日本基督教団だと、どこの教会でも「受洗者がなかなかいない、高齢化が進んでいる」と言われている。


確かに、教会は停滞しているように見える。


 ところで、教会の「前進」とは一体なんなのだろう。もしくは教会の「成長」とはなんだろう。


 洗礼を受ける人が出て、人数が増えることが前進であり成長なのか。


 献金が増えることが前進であり成長なのか。


 教会の雰囲気が明るくなるのが前進であり成長なのか。


 礼拝出席者ひとりひとりがやる気を出して、奉仕に勤しむことができるのが前進であり成長なのか。


 これらは、確かに前進であり、成長のひとつの姿であろう。それを否定することはできない。だが、私自身は、これらは教会の前進というよりも、むしろその結果ではないか、と考えている。


 礼拝出席者が増え、受洗者が与えられ、献金が増え、情熱が加えられ、生き生きとみんなが奉仕や伝道に勤しんでいる。これらの姿はすばらしいものだ。


だが、本当の教会の前進・成長は、こうした姿の、もっと深いところ、水面下で起こるのだ。つまり、信仰者ひとりひとりの心の深みで起こるのである。


 礼拝を通して、また自ら聖書を読み、祈るなかで私達の心に御言葉の種が播かれる。聖書の言葉を通して、ひとつの「悟り」が与えられる。


心の深みに、なにか変化が起こる。神の恵みの種が心に植えられたのだ。しかし、おそらく他の人々も、本人も、あまりそれに気付いていない。だが、なにか新しい変化が心に起こったのだ。


 礼拝に出て、聖書を読み、祈る生活を続けて行くなかで、心のうちに生じた御言葉による変化は、だんだん大きくなっていく。


水面に石が落ちたとき、その波紋がじわりじわりと広がって行くように、御言葉による神の命の力は、私達の心のうちで働いて、だんだんと心の深みから表面へと向かう。


聖霊なる神が神の恵みの種を養い、豊かに成長させてくださる。


 やがて、本人も自分が少し変わっていることに気がつく。


心に安らぎや喜びがきざしている。それが顔の表情や、態度や、言葉にもあらわれてくる。


すると、周囲の人も「あの人は最近明るくなった」とか「神によって変えられたのだなあ」と気がつく。


 そして、心の深みから表面にまであらわれた御言葉の力は、さらに広く周囲の人、さらに周囲の人へと恵みのなかに巻き込んでいく。


その人が霊的な影響力を発揮し始める。この人の祈りや奉仕によって、周囲の人が恵みを受けることになる。


 その人の言葉や態度、祈り、その人のすべてがキリストの香りと力を伝える器とされていく。その人と触れる人は、キリストの恵みに触れることになる。


 すると、この人のキリストにある霊的影響力に触れた人が、「私も教会に行ってみたい」という風に、一人、またひとりと導かれて行く。こうして、教会に受洗者が与えられ、前に記したようなすべての教会の好循環の状況が立ち現われてくる。

 

これが、教会が前進し、成長する、ということなのだ。


私たち一人ひとりの心の深みに御言葉が宿り、それが豊かに成長し、実を結び、他の人々を養い、新たに導いていく。


 教会の前進と成長は、私たちが御言葉を聞くことによって以外は起こらない。他のすべての場所にアプローチしても、本当の前進にはならないのだ。


 御言葉を聞くことによって、私達ひとりひとりの心に変化が起こり、それが新しい霊的影響力となっていかないかぎり、建物をたてても、土地を買っても、ビラをまいても、集会を企画しても、徒労となることを覚えたい。


御言葉の力が私達の間に、私達の心に、豊かに生き生きと働いて大きくなっていくことが、教会の前進であり成長なのだ。


他のすべては、これに伴って来る結果に過ぎないのである。






教会とはなにか⑦ 「伝統」を受け継ぐ

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神学校に行っていたころ、近くにあった家系のラーメン屋にはまっていた。ここのスープがものすごく濃厚で、はらわたの隅々にまで沁み渡るすばらしい味だった。


そこで、夏の暑い盛りのときなどは、修士論文を書く手を休めて、よく食べにっていた。その店には大学生くらいの年齢の若い店員がおり、ラーメン作りの訓練を受けている様子だった。


 私が学部生だったころは、店の主人がすべてラーメンを作っていた。ある時行ってみると、たまたま主人が休んでいて、その若い店員がラーメンを作った。


 食べてみると、まるで味が違う。深みがまったくない。なにより、麺が固すぎる。私はまるで自分の説教を聞いたような気持ちになり、心のなかで「頑張ってください」と声援を送って店を後にした。


 その後、何度か行ったが、すべて主人が作っていて、その味はすばらしかった。それからさらにしばらくして、私は大学院を卒業し、大分に出発しなくてはならない数日前になった。私は最後の別れを告げるような気持ちで、またそのラーメン屋に行った。


 するとなんと、あの若い店員がラーメンを作っていて、主人は奥の方にいてじっとそれを見守っていた。私は内心どきどきしながら注文をした。


じっと観察していると、ラーメンを作る動きが主人と本当に似ていた。


麺の水分を切る動作までが、タイミングなどまで同じだった。

 

ラーメンがきて、スープをまず飲んだとき、電撃のようなものが走った。それは、あの主人が作ったラーメンとまったく同じ味で、すばらしいものだった。麺を食べてみた。


すると、少し固さがあった。しかし、この固さがかえってラーメンをよりよいものにしていた。


 食べているうちにあの若い店員がどれだけ努力したかを思い、感動して涙が出てきた。神学校を出て任地に赴く自分と完全にだぶって、「ああ、この若い店員も、ついにこのラーメン屋の伝統を受け継いだんだ」と思った。


  あの若い店員の持ち味と、主人のうちにあった伝統が出会って、そこに伝統を受け継いだ新しいラーメンが生まれていた。


 よく、「オリジナリティ」や「独創性」、「個性」のことが芸術の世界などでは話題になる。個性的な作品、独創的な作品と言われたら、だれでもそれをほめ言葉だと受け止める。これらは決して悪いものではない。


私たちは個性や独創性をおおいに発揮すべきだろう。


 ところが、こうしたものはなんの下地もないところから、なんの基礎もないところから出てくるものだろうか。そうではないであろう。


 なんの基礎もないところから出たものは、ほとんどすべて昔だれかがやったことである。それはまったく新しいものではない。


「新奇」なだけである。悪くすると、「異端」に過ぎない。


 本当に独創的なもの、個性的なものは、実は伝統を十分に受け継いだ後に出てくるのである。


つまり、伝統とその人の持ち味が出会うときに、徐々ににじんでくるもの、と言えばいいであろうか。


 伝統を受け継いだうえで、初めて私たちは自分自身の新しい一歩を踏み出すことができる。伝統を受け継がないところでなされる歩みは、以前だれかのしたことか、もしくは道を踏み外すことになってしまう。


 伝統を受け継ぎ、それを自分のうちで消化し、そこから持ち味を出していくときに、私たちは本当の独創性を発揮することができるのである。


 考えてみればクリスチャンも、教会の伝統を受け継ぐものである。教会にはすばらしい伝統がある。この伝統は旧約聖書に根差しつつ、2000年以上にわたって教会を建て上げてきたものである。


 この伝統を受け継ぐ、というのは並大抵なことではない。それをしているだけで一生終わってしまうやもしれない大事業である。


しかし、私たちは教会の伝統を学ぶことによって、初めて新しい信仰の一歩を踏み出すことができる。


 教会の伝統を受け継がないところで新しい神学をやるとか信仰の形を作りだすとか、そういうものはまったく無理なのである。


私たちは十分に教会の伝統を受け継いだのちに、初めて新しい一歩を踏み出すことができる。


 それまでは、伝統を学ぶことに時間を費やさなくてはいけない。そうでないと、同じことの繰り返しと異端に迷い込んでしまう。


 教会の危機の時代、伝道の危機の時代に、私たちは新しいことを始めなくてはならない。しかし、その新しいことの大半は、おそらく過去のだれかがしていることである。そして、失敗もすでに経験されている。


 私たちは新しいことを始めなくてはならない今だからこそ、教会の伝統に今一度立ち返ることが必要ではないか。


伝統を受け継ぎなおすことによって、私たちは再出発することができる。新しいことは伝統を受け継ぐなかで生まれていく。


過去は現在となり、将来を照らすのである。


 私たちの時代は新奇なこと、異端的なことが横行している。なにが正しいのか、判別しにくい。そしてなにか新しいことをしようとしても、なにをしたらいいかわからない。こうしたことを教えてくれる宝庫が伝統なのである。


 教会の新しい将来は、伝統に立ち返り、伝統を受け継ぎつつ、それぞれのキリスト者が持ち味を出していくなかで切り開かれていくのではないか。


伝統が現在と出会い、現在を強め豊かにし、そして将来に送り出してこそ、教会は前進できるのだ。


教会とはなにか⑥ 教会が「キリストの教会」であるために

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 「教会」とはなんだろう。「私たちはキリスト教会である」と言うことができる、その根拠はなんだろう。


 「キリストの教会」について、聖書は数々の約束を与えてくれている。「主が共にいてくださる」。


「必要なものはなんであれ加えて与えられる」


「大きな困難がやってこようとも、神がそれをとりのぞいてくださる」


「あらゆる罪が赦される」「永遠の命が与えられる」・・・。


 すべて、神が教会に与えてくださっている約束である。なんと頼もしい約束であることか。これらさえあれば、恐れるものはなにもない。


 これらの約束すべてが実現するのが教会だ。


だから、教会が本当に「キリストの教会」になっているならば、恐れるものはなにもない。世俗化がなんだろう。厳しい日本の現実がなんだろう。


高齢化がなんだろう。予算が減って行くことがなんだろう。新来者がいないことがなんだろう。巻き起こる数々の課題・宿題がなんだろう。


 もし教会が真実に聖書の約束が実現していく「キリストの教会」になっているならば、こうしたすべての課題・宿題が解決されるのは時間の問題に過ぎない。


神が真実をもって、これらすべての困難に対処してくださる。


どんなに教会に厳しさがあるとしても、心配する必要はなにもない。聖書の約束によって神が、すべての困難に打ち勝ってくださる。私たちはただ前進あるのみだ。


 だが・・・一つの疑念が浮かぶ。もし、ある教会において「~教会」という看板は掲げられているが、その本質が「キリストの教会」であることを失ってしまっているとしたら??


 そこの礼拝では聖書が開かれ、讃美歌が歌われ、活動がなされているにもかかわらず、もし「教会」が「キリスト教会」でなくなり、別の組織に変質してしまっているとしたら??


 これこそが、教会にとって真の「危機」なのではないか。


 教会が真実に「キリストの教会」である限り、聖書の約束が実現し続ける限り、なにも心配はない。しかし、もし「キリストの教会」ではなくなっているとすれば、聖書の約束が実現することがなくなってしまう。神の力が働かなくなる・・・これが教会を脅かす本当の要因なのではないか。


 では、「キリストの教会」にとって、その本質とはなんだろう。それを失ったら教会ではなくなってしまう、その「なにか」とはなんだろう。


 宗教改革者は、それこそは「純粋な御言葉の説教と、正しい聖礼典の執行」と語った。これが真の教会のしるしであり、これがなければキリストの教会はそこにない。しかしこれがあるならば、教会に罪や弱点があったとしても、そこにキリストの教会はあるのだ、とした。


 「正しい聖礼典」については、今回は立ち入らない。現在日本基督教団でも、多くの議論がなされている。


 問題にしたいのは、「純粋な御言葉の説教」だ。「純粋な」とはいかなることか。


 「御言葉」をとりあえず「聖書」と単純に理解しておこう。


 すると「純粋な御言葉の説教」とは「聖書という源泉から汲みあげられ、聖書以外の他の源泉から汲みあげられた言葉・思想と混ざり合っていない説教」と理解することができるのではないか。


 「他の源泉」とはなにか・・・これはなんでもいい。経営学、経済学、心理学でもいいし、社会学、政治学でもいいし、この世の諸思想、文学、イデオロギー、商業言語、どんな情報、どんな言葉であっても、「聖書以外の他の言葉の源泉」のことだ。


 これらの他の源泉から汲みとられた言葉と、聖書の言葉は、まったく性格が違うことははっきりしている。


他の源泉から取られた言葉の背後には、多様なこの世の世界観が前提にされている。この世のスピリットのもとで語られている言葉だ。しかし、聖書は聖霊なる神の導きのもとにある言葉だ。


 この両者が、微妙な形でか、明確な形でかはともかくとして、「融合・混交・混同」される、ということがたびたび起こり得る。


 牧師がこの世の諸思想の魅力に幻惑されて、そちらを前提にして聖書を読むとき、そうなるのだ。


 成功哲学に基づいて聖書を読む・・・心理学に基ずいて聖書を読む・・・マルクス主義を前提にして聖書を読む・・・こうしたことによって、聖書の言葉と他の源泉の言葉が混ざり合う。


 すると、そうして語られた礼拝説教は、「聖書とこの世の言葉の混ざり物」になる。


 これが「純粋でない説教」だ。これが語られているところでは、教会は「キリストの教会」ではなくなってしまう。説教が変質してしまい、神の約束が捨てられてしまう。


 逆に、「純粋な説教」とは聖書から汲みあげられた説教だ。


代々の教会が聖書との格闘の歴史から生み出してきた、聖書の正しい理解である基本信条や教会の基本的な伝統に即しつつ、聖書から汲みあげられた説教。他のこの世的な源泉と混ざり合っていない説教。これが純粋な説教なのだ。


 更に踏み込むと、「御言葉」という言葉によって、これをヨハネによる福音書1章から、「イエス・キリスト」だという風に言うこともできる。キリストこそ真の神の言葉・啓示であられるからだ。

 

すると、「純粋な御言葉の説教」とは、「聖書から汲みあげつつ、この世の何者でもなく、ただイエス・キリストを語る説教だ」とも言いうる。


イエス・キリストの御名が聖書を通して告げ知らされ、キリストの御名が祈り求められ、この御名のもとに人々が集うところに、まさにキリストの教会はあるのだ。


 こうした説教がしっかりと語られ、正しく聖礼典が執行されているならば、恐れるものはなにもない。


 しかし、混ざり物の説教がなされ、聖礼典が正しくなされていないならば、教会は「キリストの教会」であることを失ってしまっている。


 「純粋な御言葉の説教と正しい聖礼典の執行」に立ち返り、神の約束が実現していく教会となることが、この困難な時代を乗り越えるおそらく唯一の道だろう。

 






齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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