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リチャード・ニーバー 『啓示の意味』について 「過去の解釈としての啓示」

 

H・リチャード・ニーバー — Google Arts & Culture


リチャード・ニーバーの『啓示の意味』という著作は、200頁に満たない小さなものでありながら、その内容の深さと包括性において、カール・バルトを超えていく立場を示していると思う。


私も何度か読んだが、読むたびに発見があり、まだよくわからないところが多くある状態だが、少しご紹介したい。

 

彼は、神の啓示とは「過去を解釈することを可能にする」ものだと考えている。

 

聖書に語られているイエス・キリストのご生涯、十字架、復活の出来事は、人間や教会の過去の歴史を解釈するうえで、認識上の「範型(パターン)」を示してくれる。


このパターンを受け止めることで、私たちは自分自身、教会、人類の過去を新しい光のなかで理解することができるようになる。

 

聖書から新しい啓示の理解とパターンが汲みだされ、それをもって人間の過去が解釈されることで、私たちは自分自身、教会と人類の過去のなかに、啓示によって統一性や秩序といったものを見出すことができるようになる。


それによって、過去を受け入れ、和解し、過去を他者と他の共同体と共有することができるようになる。

 

自分自身の過去、教会、教派の過去、ある国家の過去、ある組織や共同体の過去を、神の啓示の光のなかで解釈することで、私たちは他者や他の共同体とも和解し、共に歩むことができるようになる。

 

ルターやカルヴァンのみならず、トマス・アクイナスやアウグスティヌス、ウェスレーやフォックスまで、教会の過去を形成した人々の神学的伝統を、聖書に示された神の啓示から解釈するべきで、その逆ではないのだ、という刺激的な発言をする。

 

過去をうまく理解できず、解釈できないことから、分断と敵対、闘争が生じる。過去が理解されず、分裂状態であることが、現在の争いの原因なのだ。

 

しかし、神の啓示から新しく過去を解釈し直す作業をすることで、過去のなかに啓示による統一性が見いだされ、個人と個人、教会と教会、教派と教派、人間の共同体同士が、啓示の光のなかで和解することができる。

 

具体的にいうなら、聖書に新しく取り組み、聖霊による導きで新しい認識と理解が与えられるとき、それをもってキリスト者と教会の過去が照明されると、過去が新しく理解でき、癒され、平和が与えられる。


これが教会で遂行されている礼拝説教の業であるわけだが、これは説教ばかりか、神学的にもこうした作業に従事するものであることをニーバーは解き明かしていく。

 

ニーバーは、聖書を直接的に神の啓示と同一視するのではなく、聖書から読みだされた新しい認識の光をもって、教会と人類の過去を解釈し続けるという、終末に至るまで継続され、前進し続ける新しい解釈と理解の運動として、神の啓示を考えているのだ。

 

そういう意味では、聖書という「上から」の要素と、人間の理解という「下から」の要素を、非常に巧みに統合した、バルトとトレルチを昇華した新しい枠組みの啓示の理解となっている。

 

そこのところがよく理解されていないのか、日本ではリチャード・ニーバーは語られることが少ないように感じる。


彼の著作は小さいものが多いが、そこにはバルトとトレルチの先を描いた神学的エッセンスが輝いている。

 

彼の神学を新しく受けとめ、彼の路線を先へと進める形で、神学に従事する人々が出現してほしいと願う。

 


リチャード・ニーバー 「バルトとトレルチの間」

 H・リチャード・ニーバー — Google Arts & Culture

 

リチャード・ニーバーの神学的立場は、わたしにとって非常に親近感をもてるものだ。

 

彼は『啓示の意味』という著作のなかで、彼は自らの教師について、「バルトとトレルチ」だ、と述べている。

 

バルトは、いわずと知れた「啓示の神」について、最後まで考え続けた神学者だ。


「人間、社会、歴史、自然が問題なのではなく、神学が問うのは神なのだ」ということを、はっきりと宣言した。

 

それに対して、トレルチは信仰を社会的・歴史的コンテキストのうちにあるものとして考えた。


トレルチの考察の方向性は、バルトの「垂直型」と比較すれば、「水平型」とも言える。「上からのキリスト論」がバルトだとすれば、「下からのキリスト論」と言えるかもしれない。

 

とにかく、トレルチは信仰、教会という主題を、具体的な社会と歴史の文脈にしっかりと置く中で、思索をした。

 

えてして、「バルトとトレルチ」というのは、その方法論や神学の性格からいって、敵対的な関係にならざるをえないものを持っている。


バルトから見れば、トレルチは「神学の独自性を放棄している」ように見えるだろうし、トレルチからすればバルトは「歴史や社会を抽象する、思弁的神学だ」と見えてしまうかもしれない。


互いに、立ち位置が異なっている。

 

リチャード・ニーバーは、この互いに対立しかありえないかに思える「バルトとトレルチ」を自らの教師とすることで、互いの「真理契機」を汲み取り、両者を新しく昇華するような神学を求めた、と言える。

 

リチャードは、「神の啓示がなによりも大切だ」とはっきりと言う。


キリスト者も教会も、神の啓示なしにはまったく存在がありえないことを語る。


神の啓示を希薄化していくような流れに対しては、まったくのノーをつきつける。

 

同時に、「神の啓示は現実の歴史と社会のコンテクストにおいてしか起こりえない」ことを、しっかりと受け止める。


現実から思考がふらふら遊離していくような、「仮現論」的な神学に決別する。


地上を生きる教会とキリスト者の現実以外に、神学の位置はない、と断言する。

 

バルトは、「啓示こそ大事だ」と言いつつ、社会から遊離していく面がある。


トレルチは「具体的現実こそ大事」と言いつつ、神の啓示と信仰まで相対化していくところがある。

 

リチャード・ニーバーはこの両者の弱点を批判しつつ、「啓示」と「社会的・歴史的コンテクスト」のあいだにあって、しっかりと大地に根差して神を仰ぐ信仰と神学の道を説いているのだ。

 

彼の著作は非常に短く、簡潔なものが多いが、難解でもある。


しかし、その内容の密度や重要性においては、他の神学者の間で卓越していると思う。


現代の教会的神学は、彼のたどりついた立場から、新しく発展していかなくてはならないと、個人的に強く思っている。




リチャード・ニーバー 『キリストと文化』について③

 H・リチャード・ニーバー — Google Arts & Culture

私の母校、東京神学大学の現在の学長の芳賀力先生の教えから、「キリストと文化」について大事な示唆を受けたので、それを分かち合いたい。

 

ニーバーによると、キリストと文化の関係性には二つの「両極」の類型と、その間にある三つの「グレーゾーン」のバランスのとれた類型がある。

 

「文化に対するキリスト」 文化とキリストの対抗関係


「文化のキリスト」 文化とキリストの一致関係

 

「文化の上のキリスト」 文化とキリストの総合関係


「矛盾におけるキリストと文化」 文化とキリストの矛盾的・弁証法的関係


「文化の変革者キリスト」 文化とキリストの変革関係

 

ニーバーは、最後の「文化の変革者キリスト」の関係性が、最も望ましいと考えているようだ。


というのも、この類型は「文化の上のキリスト」と、「矛盾におけるキリストと文化」の弱点を受け止めたうえで、この両者を昇華するような類型だからだ。

 

しかし、芳賀力先生に教えられたことだが、これを「日本社会」というコンテクストで考えると、どうだろうか。

 

日本のキリスト教会は、日本文化の変革者として、歩むことができるだろうか。


日本の教会で語られているキリストが、日本文化をキリスト教的なものへと変化させていく力になっているだろうか。

 

もちろん、これに対してある程度の肯定を与えることはできる。


日本社会は、キリスト教の思想や倫理から多大な影響を受けてきたし、今も受けている。


西洋的なものの考え方を取り入れるということが、間接的にキリスト教神学の影響を受けることでもある。

 

しかし、日本の人口の1%に満たないキリスト者の群れにあって、日本文化をキリスト教的なものに変革するというのは、あまりにも「荷が重い」のではないだろうか。


「非現実的」ではないか。

 

「文化の変革者キリスト」の類型は、その文化のうちでのキリスト者の人口比率が高いところでは、現実的になるが、日本のようなコンテクストにおいては、実現可能性が非常に低くなる。

 

類型としては好ましいのは理解できるが、その実現に無理があるのならば、私たちの文化に適合した類型を改めて検討しなくてはならない。

 

そこで芳賀先生が言われるのが、「文化に証しするキリスト」の類型だ。

 

これは、その社会の文化に対して、「別の文化の在り方もあるのだ。キリスト教的な文化という、代替的な文化もあり、これが一般文化にはない、独自の素晴らしさがあるのだ」ということを、文化に対して証ししていく類型だ。

 

一般の文化を「変革」できるかどうかは、わからない。


しかし、文化に対して、「キリストにある生き方」を証しし、それに基づく文化や社会の在り方を忍耐強く提言・証言していく。

 

そうした証しによって、長期的に一般の文化に対してキリスト教的な影響を与えていこうとする立場だ。

 

私は、日本社会においてはこの類型が最も適切だと思う。

 

文化を変革することはできなくても、少数者ながら、文化の別の在り様を模索・提案し続け、それによって「地の塩」として「キリストの香り」を日本文化に与えていくことしか、日本の教会はできないのではないか。

 

ある意味では、これが聖書的な類型でもあるように思う。


新約聖書においては、キリスト者が社会の人口比率の多くを占める、という事態が想定されているとは思えない。


むしろ、キリストを信じる者はどの時代においても少数者であり、この小さな者がキリストの霊的影響力を保持し、社会に静かなインパクトを与え続けるのではないか。

 

一般の文化に対して、地道に忍耐強く「キリスト教的文化」の可能性を提言し続ける教会でありたい。



リチャード・ニーバー 『キリストと文化』について②

 H・リチャード・ニーバー — Google Arts & Culture


『キリストと文化』では、まず「両極端」の類型を挙げる。


「文化に対するキリスト」と「文化のキリスト」だ。前者は、キリストと文化が対立関係にある類型であり、後者は文化とキリストが手を取り合っている類型。

 

この両極の間の「グレーゾーン」に、ニーバーは三つの類型を描く。


それが、1「文化の上にあるキリスト」、2「矛盾におけるキリストと文化」、3「文化の変革者キリスト」の類型だ。

 

1の「文化の上にあるキリスト」とは、「文化」と「キリスト」を段階的・階層的な秩序としてとらえて、文化とキリストを総合しようとする見方だ。


ニーバーはこの代表者としてトマス・アクイナスをあげている。

 

トマスは「恩寵は自然を破壊せず、これを完成する」と考えた。


神の恵みを受けることは、教会生活するのみならず、市民的生活、職業生活、政治生活、家庭生活などの領域に対して、助力を与えるものであるとする。


こうしたキリスト者でない人々にも共通している生活のうえに、キリストを信じる信仰生活がある。


両者は段階的で階層的な秩序のうちにあり、どちらも大切であるのだが、キリストにある生活の方をより尊いもの、尊厳あるものと見ようとする。

 

こうした神学体系によって中世社会は成立していた。


日々の生活の上層に信仰生活があり、そのさらにうえに修道生活がある。

 

この類型は文化とキリストの両者をしっかりと受け止めるという点で優れている。


しかし、ニーバーはこの類型の弱点は、キリストにある生活の独自性や特異性が掘り崩されてくる側面がある、と指摘する。


つまり、こうした文化とキリストを総合しようとする見方においては、どうしても「文化」の方が比重として大きくなってきて、「キリストにある生活」よりも、「キリスト教世界・文化」を維持することに腐心するようになってしまう危険性があることを見て取る。

 

2の類型として、ニーバーは「矛盾におけるキリストと文化」をあげる。


これは、「両極」のところであげた「文化に対するキリスト」とは違うものだ。

 

「矛盾におけるキリストと文化」の類型は、「神」と「人間」が根本的に敵対関係にあることを認める。


人間には深刻な罪があり、その罪は文化の全領域に浸透している。


文化全体が罪の支配のもとにある。


人間は神と和解し、神の恵みを受けることによって、罪の文化に対して矛盾的で緊張した関係に立つことになる。


キリストと文化はまったく異なるものだと認識しつつ、その文化に関わり、文化の罪の性質についてわかっておりなっがらも、なお文化をさらに推進するように歩むことになる。

 

この類型の代表者として、ニーバーはマルティン・ルターをあげている。


ルターが「二項対立的」な矛盾と緊張の関係性に立ちつつ、その緊張のなかから前進していこうとする神学を構想したことを描いている。

 

この類型の弱点は、文化を「変革」しようとはせず、「保守的になる」ことだとニーバーは語る。


キリストと文化を区別するあまり、それによって文化を保守的に守っていくことに汲々とするようなあり方になってしまう危惧がある。


文化を変革する、という推進力が出てこないのではないか、というのだ。

 

そして最後の類型として、「文化の変革者キリスト」がある。この代表者はアウグスティヌスだ。

 

この類型は、1「総合」の類型とも、2「矛盾」の類型をも引き継いでいる。


キリストと文化を受け止めることにおいては1を受け継ぐし、キリストと文化の区別や違いを認めることにおいては2を受け継ぐ。

 

1と違うところは、この3の類型はキリストにおける生活をその独自性においてしっかりと受けとめる。

 

2と違うところは、この類型は文化という創造の秩序は、罪に染まっていながらも、なお神による創造において「善」である、という点を見失わない。

 

神の恵みを受けることによって、キリスト者は罪のうちにある文化を、よりよく改善するよう召されている。


神と和解したキリスト者は、文化そのものが罪なのではなく、それが罪によってゆがめられていることを自らの課題とする。


そして、文化のうちに備えられている神の善を働くことを通して回復しようとするのだ。

 

文化と自らを切り離すのでもなく、一体化するのでもなく、距離を保ちつつ、批判的に関わり、文化を神の創造の善の姿に回復させるために、働きかけていくのである。

 

ニーバーは、この3の類型が最も好ましいと考えているようだが、しかし他のすべての類型にも「真理」があることをしっかりと認識する。


そこで、最終章では「信仰の相対性」について語られる。信仰の真理は絶対的なものではなく、断片的なもの、相対的なものだからこそ、私たちは自分たちにできる限りの認識をして、真理に対して決断していかなくてはならない、と語る。

 

ニーバーはこれら5つの類型を取り上げることで、教会が文化にどう相対してきたのか、そのモチーフを簡潔に描いてくれている。


非常に教えられるところが大きい。この類型について知っているのと知らないのとでは、文化を考えるときの「前提」が完全に違ってくる。


これは「必読」の類の書物であると感じる。

 

この主題について思うところを、また別の記事に書きたいと思う。



リチャード・ニーバー 『キリストと文化』について①

H・リチャード・ニーバー — Google Arts & Culture

リチャード・ニーバーの残した重要な著作は、『キリストと文化』だろう。


ニーバーはこの著作のなかで、教会が文化とどういう関係性をもつのか、それを5つの類型に分けて考察している。

 

ニーバーは、まず代表的な類型を二つあげる。これが教会と文化の関係性の、「両極」にあたるものになる。

 

第一は、「文化に対するキリスト」の類型だ。つまり、「文化」と「教会」が互いに「対抗関係」にある、という形だ。

 

古代から、非常に熱心なキリスト者たちが、世俗の文化を完全に否定する形で信仰をとらえた。ニーバーはその代表としてテルトゥリアヌスやトルストイをあげている。

 

世俗の文化は、悪魔的なものであり、神と敵対状態にある。


「文化」は罪に染まっており、これに対する態度としては、文化を「避ける」ことが最善である、という立場だ。

 

ニーバーは、こうした立場に、徹底的に神を信じた熱心なキリスト者たちの姿を認めている。


こうしたキリスト者たちは、世俗の文化の腐敗や無神性と闘争したという限りにおいて、偉大であると言える。


しかし、この立場の熱烈な情熱については理解を示したうえで、ニーバーはこのあり方はまったくもって不十分だ、と批判する。

 

文化を否定し、文化を避けようとしても、それは人間には根本的に不可能なのだ、ということに示されている。


そもそも、こうした文化否定的なキリスト者も、文化から借りてきた思考法や言葉を使って神学をしている面があるのだ。

 

なにより、主イエスご自身も当時のユダヤ文化のなかの言葉や論理をもって、神を説かれている。


もっといえば、聖書そのものがエジプトやオリエントといった文化圏のコンテクストのなかで編集されてきたものだ。


文化の神学的な全否定は、結局のところ神学不能の状態にまで導くことになってしまい、自縄自縛になってしまう。

 

もう一方の極としてニーバーがあげるのが、「文化のキリスト」の類型だ。つまり、「文化」と「キリスト」がまったく合致・一致している、という類型だ。

 

つまり、教会と世俗の文化が互いに協力し、互いに摩擦や緊張関係がなく、共に前進していくようなケースだ。


「文化」と「教会」が互いに手を取り合っている関係性だ。

 

ニーバーは「自由主義プロテスタンティズム」のなかにこの類型を認めている。

 

さきほどの「文化に対するキリスト」の正反対の形だが、ニーバーはこれにもよい点があることをしっかりと語る。


教会と文化が協力することで、福音が社会のコンテクストに根付いて前進した面があったことをはっきりと認める。

 

しかし、同時に弱点があることも指摘する。


この類型では、教会は文化と同調することによって、教会本来の独自性を失ってしまう、ということだ。


教会や信仰理解が文化によって規定されるあまり、文化とは異なる教会の在り方まで、文化によって浸食されてしまうのだ。


つまり、教会が世俗化してしまうということだ。

 

ニーバーは、この二つの「両極」の類型をまず描くことによって、教会を極端な文化理解から導き出そうとする。


文化は悪魔的なものか、神的なものか、といった「あれか・これか」で割り切ってしまう浅薄な理解を退けるのだ。

 

私たちは、白黒はっきりさせてしまった方が、それ以上考えなくてよくなるので、精神的に楽だ。


しかし、ほとんどの場合、真理は白と黒の間の「グレー」のところにある。


「キリストと文化」という課題においても、この「グレー」の領域に、命の道が備えられているのだ。

 

この両極端の類型ではなく、「中道的」なバランスのとれた理解として、ニーバーは三つの類型を提示する。


それを次の記事で書きたいと思う。


リチャード・ニーバー 『責任を負う自己』について

 H・リチャード・ニーバー — Google Arts & Culture

ラインホールド・ニーバーは有名だ。


日本でも彼を研究している人は多い。しかし、弟のリチャード・ニーバーについては、どうも影が薄い気がするのは気のせいだろうか。

 

しかし、私自身は兄のラインホールドよりも、リチャードの方が「教会的」であると感じる。


兄は政治的にも大きな影響力があったし、有名でもあった。


彼の神学的功績を疑う者はいないだろう。しかし、リチャードの方が地道に神学し、教会に貢献してくれたように思う。

 

カール・バルトなどの弁証法神学をまっすぐに受け継いで、それをアメリカの土壌で発展させたのは、リチャード・ニーバーであると個人的には考えている。


カール・バルトがそこまで進みきれなかった、福音の「文化」や「社会」に対する射程を、リチャードは明らかにしてくれた。

 

『責任を負う自己』には、私自身大変感謝している。この書物によって、キリスト者の生き方をおおいに教えられた。

 

ニーバーは倫理的類型を三つに分ける。

 

「製作する人間」

これは、ビジョン・理想・青写真を心に抱いて、そのイメージに基づいて人生や社会、物事を形成していこうとするあり方だ。


経営者やビジネスマン、芸術家など、このあり方を求められる働きは非常に多い。


この生き方をするときに追求していくのは、「善」だ。


「なにが善であるのか」を追求し、その善を実現しようと、奮闘していく。

 

「法則に従う人間」


これは、人間として守るべき正しい法則をたてて、それをどこまでも遵守するようなあり方だ。


「市民的人間」としての在り方としてニーバーは特徴づける。


教育や政治などは、この領域と言える。


追求するのは、「正しさ」だ。「なにが人間として正しいことであるのか」を追求し、これを実現しようとする。

 

「責任を負う人間・応答する人間」


これは、自分を取り囲む共同体や社会、特に神ご自身からの「問いかけ」を聞き取り、それに進んで応答していく在り方だ。


自分の周囲に響いている声に耳を澄ませ、「なにが起こっているのか」を見分ける。


そして、「今起こっているのは、こういう事態である」とその出来事を解釈し、それに基づいて自分なりに適切な応答を試みる。


行為の「善」や「正しさ」というよりも、「ふさわしさ・適切さ」が追求される。

 

ニーバーは、前二者について、捨て去ろうとは言わない。


これらを否定しない。これらを大切な在り方として受け入れたうえで、しかしこれらだけでは不十分であると結論する。


第三の倫理的類型である「応答する人間・責任的人間」の在り方が、要請されていると考える。

 

前二者については、「個人」の枠を突破することが難しい。


個人的な成功や幸福といったことについてはよいかもしれないが、社会的な課題や共同体的な事柄については、なかなか射程内にはいってきにくい。

 

社会的かつグローバルな課題が山積する現代において、前二者で事足りると考えることはできない。


やはり、時代の声に耳をすませ、現実で起きていることをしっかりと見分け、それに適切に応答し、解決を提供していくことができるような生き方が求められている。

 

聖書を読むこと、教会に出席することは、こうした「現実の解釈」の基盤を提供してくれる。


御言葉によって「責任を負う自己」としての土台が形成されるのだ。

 

キリスト者は、神の言葉を聞き、教会の声を聞き、社会の声を聞き、時代の声を聞くことで、それらに対して適切に応答し、ソリューションを提供するよう召されていると言える。

 

ニーバーは、極めて「現代的」な神学者なのだ。

 

彼の著書の弱点は、抽象度が異様に高いことだ。


ぼんやり読んでも、なにを言っているのか、わからなくなってしまうことが多い。


精神的に集中して読むことを求められるので、読むのがしんどく感じられることもある。

 

しかし、彼の著書をよく読み、理解することは、生涯の財産となることは確実だ。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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