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キリスト者と「裁判」

 



最近、キリスト者が「裁判」を起こす事例をいくつも耳にしており、心が苦しくて仕方ない。


私の母校も裁判を起こされており、毎日こういった哀しみや虚しさと戦わざるをえず、暗い心と魂の痛みが絶えずつきまとっている。


個人的レベルでも、現代のキリスト者が裁判を起こすことによって問題を解決するという頻度が、過去と比較して上昇していると感じるのは、わたしの主観的な見方に過ぎないのだろうか。


あらためてこの課題について取り上げて考えたいのだが、聖書に裁判について記されている部分があるが、ダイレクトに以下のように書かれている。


コリントの信徒への手紙一 6:1-9 新共同訳聖書より


「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。


あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。


世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。


わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。


まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。


それなのに、あなたがたは日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。


あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。


あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。


兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。


そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。


なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。


それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。


しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。


正しくない者が、神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない」


上の箇所で特に課題となっているのは、「信仰と生活」に関わる部分についてであろうと思われる。


そういった霊的領域においては、私たちの「唯一の規範」は聖書であるため、聖書の教えに従うことが求められる。


一方、この世の枠内で、この世の法の領域にある課題については、裁判によってしか解決ができない課題も存在する。


そういった課題については、キリスト者といえども裁判に訴えることはできる。


パウロ自身も、不正なむち打ちを受けそうになったとき、ローマ帝国の市民権を持ち出して、その不正を訴えている場面がある(使徒22:24~29)。


「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と主イエスがおっしゃっているように、この世の法的領域と、神と教会の霊的な法的領域を区別することが、前提として不可欠だ。


前者については裁判の適用もありだが、後者は神の裁きを待ち望みつつ、忍耐する信仰が求められている、と言えるだろう。


ところで、教会においてはどんな課題も多くの場合、「前者と後者の混交」と「重なり合い」であることが多い。


視座により、前者から見ることもできるし、後者から見ることもできる。


領域として、重なり合っているような事例だ。


混交の割りあいや重なり合いの理解についても、その線引きは解釈の問題となるため、困難がある。


区別について専門的解釈が必要となる微妙な問題が多い、ということになるだろう。


法の素人には区別できない問題に遭遇したら、弁護士など法律の専門家に相談するのは特に必要な事例があると思われるし、法的領域の原則に従って裁判で決着をつけることも必要なことがあるだろう。


一方、「神の裁きを待ち望む信仰」と、「信仰に基づく忍耐」については、聖書の教えの中枢にあるものだ。


このことに対する信頼と畏れの「希薄化」があるのではないか、という問いを、私自身はぬぐうことがどうしてもできない。


現代のような世界史上、最も世俗的な時代にあって、神の裁きと神の公正・正義に対する信頼と畏れが、リアリティを失ってしまっていると、私たちは感じているのではないか。


神の裁判、神の正義に訴えるよりも、目に見えるこの世の法廷に訴える方が、より問題解決のうえで有効かつ適切である、という認識をもちやすい時代精神が蔓延している。


神の正義をあいまい化し、リアリティがないものと思わせる時代精神は、「悪霊」と呼ぶにふさわしいものだが、この悪霊に私たちがやられてしまっていないか、自己吟味が求められている。


仮にパウロが言っているように「奪われるまま」になってしまったとしても、それが神の前で不正であるなら、神ご自身が多くのご自身の手段を通して「取り戻してくださる」という信仰を、私たちは受けとめ直す必要がある。


まずは「私自身の課題」としてとらえ、「神は正義と公正に満ちており、その裁きは正しい」という聖書の最も基本的な教えに立ち返ることが神からの招きなのではないか。


重大な問題に遭遇したとき、裁判を起こすにしろ、起こされるにしろ、取り下げるにしろ、そうでないにしろ、このような基礎となる信仰を「大前提」として堅固に抱いているならば、事態が神の恵みと力により改善していくのは明らかだろうと思われる。




キリスト教社会倫理④ 「隣人愛に基づく人間関係」

 Ethical Issues and Conundrums in Music Education - NAfME


教会の学び会でのレジュメをシェアさせて頂く。ご参考にして頂きたい。

 

・・・・・・・・・・転載以下

 

1 神の愛に基づく隣人愛

 

・隣人愛は、「神の愛への応答」。

神の愛を受けることによって、隣人愛は成立する(神に対して受動的になることで、人に対して能動的になる)。

 

礼拝、聖書、祈祷を通して神の愛を受け取ることなくして、隣人愛は存在しない。

 

「神は、わたしを愛しておられる。同時に、神はわたしの隣人も愛しておられる。

 

だから、この神の愛に応えて、わたしが神を愛するとき、神が愛しておられるわたしの隣人をも愛する」

 例:マザー・テレサの「死を待つ人の家」、社会活動

 

・隣人愛は、「神の赦しが前提」。

 

わたしが隣人を愛することができないことは、神はすでに織り込み済み。

 

わたしに隣人を愛する力があるなら、キリストは地上に来る必要はなかった。隣人をまったく愛せない自分が、キリストによってすでにすべての罪を赦されている。

 

この神の赦しの基盤のうえに、隣人愛が成り立つ。

 

「隣人を愛せない罪と失敗のすべてが赦されているから、少しばかりでも神の赦しに応えて隣人を愛するように努めていこう」

 

 例:ルターの言葉「大胆に罪を犯しなさい。しかし、なお一層強く神を信じなさい」

 

・隣人愛は、「神の清めが必要」。

 

 私たちは隣人を愛せない罪人だが、キリストを信じて礼拝者として神によって新たに誕生した。

 

私たちのうちでキリストは日々働き、罪を清めておられる。私たちの隣人愛も、赦しを基盤として清められていく必要がある。

 

試行錯誤を繰り返しながら、日々罪を悔い改め、愛のない自分をキリストに明け渡し、罪と義の間で葛藤しながら生きていく。

 

このプロセスはキリストによる訓練であり、罪が清められ、天の国に入るにふさわしく信仰者へと徐々に造り上げられる。

 

 例:ローマ7:7-25

 

 

2 隣人愛とはなにか

 

・隣人愛とは、「隣人の存在を肯定すること」。

 

 十戒の後半部分。隣人愛とは、隣人の生命・結婚・財産・名誉等を肯定し、これを増進すること。そのために、自らに与えられている資源(祈り・時間・労力・知識・賜物・お金等)を活用していくこと。

 

隣人が自分自身や隣人を誤って否定している場合(罪を犯しているなど)は、隣人の考えや歩んでいる道を否定することによって、結果として肯定することをも含んでいる。物事の本質を見抜く洞察力が求められる。

 

 例:善いサマリア人のたとえ(ルカ10:25-37)

 例:神殿から商人を追い出す主イエス(マタイ21:12-17他)

 

・隣人愛とは、「隣人を神の元へと導くこと」

 

 隣人の存在を肯定する最高のものとは、主イエス・キリストである。キリストのもとへ隣人を導くことが、隣人愛の最高の行為。

 

わたしが隣人の前から消え去っても、キリストは隣人を愛し続けてくださる。伝道は、隣人の最大の幸いを願い求めて行う隣人愛の行為。

 

 例:みんなで中風の人を主イエスのもとへ運ぶ(マタイ9:1-8)

 

3 隣人愛に基づく人間関係

 

・思い、言葉、行いによる隣人愛

 とりなし祈る、善意を抱く、善き計らいをする、

 挨拶する、認める、ほめる、叱る、楽しく会話する、励ます、

 求められている以上の水準で仕事に取り組む、プレゼントする、食事をする、相談に乗る・・・

 

 

・隣人との関係に困難がある場合は以下の対応がありうる。

 

1 「身から出た錆」ではないか、自分を疑う

 

隣人との関係が悪いのは、「相手に問題と責任がある」と考える以前に、まず自分自身になんらかの課題があるのではないか、と疑う必要がある(マタイ7:1-6「人を裁くな。自分が裁かれないために」)。

 

私たちは隣人の課題はよく見えるが、自分自身の課題については見えていないことが圧倒的に多い。

 

隣人との関係が悪いのは、自分が相手に対して神の御心に反することをしているからではないか、じっくりと祈り、顧みて、自分の課題を発見したならそれを改善していくことが必要。これが隣人関係をよりよくする最大の前提。

 

2 隣人が依存的である

 

隣人がこちらに依存して寄りかかってくる場合、それに応えるとエスカレートしてしまい、隣人を本当には肯定することにならないことがある。関係を切らずに依存をうまくかわしながら、相手に対して、自分自身で立たない限り問題はなにも解決しないことを伝えていく。

 

3 隣人が攻撃的である

 

隣人が攻撃的なときは、耐えることが求められるときもあるが、同時に攻撃をやめさせる必要もある。攻撃をやめさせるには、技術が必要。

 

①あえて相手に親切にする。相手は気持ち悪くなって、攻撃をやめざるをえなくなる。

 

②「戦略的・瞬発的な怒り」を実行する。相手に攻撃をやめさせるための方便として、瞬発的に怒りを発して威嚇すること。相手はドキッとして、「これ以上攻撃すると、もっと怒り出して反撃される可能性がある」と恐れて、攻撃できなくなる。

 

4 隣人が罪を犯している

 

隣人が明らかに神の道に反する罪を犯しているときは、罪の自覚をうながす。

 

そもそも、罪を犯しているという意識がないことがほとんどなので、「わたしの考えでは、あなたのしていることは正しいことではないと思う」という形で、自分自身の認識を相手にフィードバックする。

 

「あなたは罪を犯している」と真正面から断言することは、有効な時とそうでない時がある。

 

5 隣人に自分の問題を投影していないか、自分自身を疑う

 

「どうしても合わない人」がいる。そういう特別心にひっかかる人がいるなら、わたしがその人が嫌いなのは、その人に自分自身の問題を投影しているからかもしれない。

 

怒りっぽい自分が嫌いな人は、すぐ怒り出す隣人に我慢ならない。自己顕示するのを我慢している人は、堂々と自己顕示する人をものすごく嫌いになる。人に甘えたくても甘えられない人は、すぐ甘えられる人が大嫌いになる。

 

自分自身の問題を、隣人に投影して、隣人を嫌ってしまっている。

 

「特別心に引っかかる、嫌な人」に出会ったら、「なぜ、わたしはこの人がこんなにも嫌いなのか」をじっくり考えてみると意外な発見があったりする。

 

意外にも、わたしが嫌いだったのはその人ではなく、その人が備えている、自分自身の嫌な性格の一面だったりする。

 

6 隣人がうまく距離をとれない

 

人との距離をうまく取ることができない人がいる。距離が近くなりすぎると、大抵の場合問題が起こって関係は悪くなる。

 

「ことさらに近づいて来る人からは遠ざかり、ことさらに遠ざかる人には近づく」ことが原則。

 

冷たさと温かさを時に応じて使い分ける技術が求められる。

 

7 隣人をどうしても赦せない

 

 隣人から傷つけられ、怒りと憎しみに身を焼かれている時は、実感がなくてもいいので、神への祈りのなかで「主の御名によってあの人を赦します」とまず祈ってしまう。

 

すると、その告白に伴って、赦しの心がキリストによって与えられる。

 

 

キリスト教社会倫理③ 「公共神学」の是非

 Ethical Issues and Conundrums in Music Education - NAfME

 

『公共神学と経済』(M.L.スタックハウス著)という書物を読んだ。

 

私にはあまりなじみのない思考法や概念が出てくるので理解しにくかったところと、これまでよく考えることができていなかった部分を、クリアにしてくれるところがあり、いろいろな意味で刺激的だった。

 

「公共神学」という用語には、いくつかの意味があるようだが、本書では「国家と個人の間に、公共的な領域を生み出し、考察する神学」ということのようだ。

 

章のタイトルが非常に象徴的で、その事情を語っている。

 

「経済体制のデモクラシー化」

 

「エキュメニズムと経済」

 

「敬虔と権力」

 

「霊性と会社」

 

「サクラメントとテクノロジー」

 

「多元化とスチュワードシップの将来」

 

私なりに解釈すると、スタックハウスが語る「公共神学」とはカルビニズムが言うところの「一般恩恵」と、「現実的・社会的課題」との対話・弁証・分析によって形成される神学だ。

 

つまり、キリスト教神学のコンセプトを応用し、解釈を広げていくことで、「経済」「会社」「テクノロジー」「国家」・・・といった社会的課題においても、聖書や神学の概念がなんらかの妥当性、有効性を持つことを描き、教会の外部に対して「証し」をする、ということだろう。

 

たとえばだが、上のタイトルにあるように、「サクラメント論」の理解を展開しながら、そこに含まれているロジックを応用することで「テクノロジー」の将来への方向性や可能性について、神を信じていない人々にも非常に納得性のある議論ができるなら、それによって聖書の真理性を証しすることができる。

 

「敬虔」であることが、どのように「権力」と関わりを持つか、そこにどんなダイナミクスが働き、権力にどう向き合うのか、といったことの意味や有効性が明らかになれば、「敬虔であること」はこの世の権力と向き合ううえで意味がある、という証しになる。

 

「会社(コーポレーション)」といったものを、どう神学的に受けとめ、評価するのか、また「霊性」が「会社」に対してどんな影響や関連があるのか、といった議論もまた、同様だ。

 

以上のような「公共神学」の考え方について、私は賛同するし、このような考え方や思考法は、教会の神学的世界を豊穣にするものだと思う。

 

本書は、「神学的概念とこの世的概念」の関連について、単純な「一元論」でも両者を分けるだけの「二元論」でもない、「両者の区別を前提にしたうえでの弁証や対話、橋渡しと連携等の可能性」について本質的側面から論じているという点で、従来の偏った立場を是正し、議論を新たに進めるものとして、大変刺激的である。

 

ひとつの可能性として感じるのは、これを「信徒の神学」という形で、多面的に展開できれば、非常に多くの人々の助けになる、ということだ。

 

教会に来ている信徒は神を信じるばかりか、なんらかの分野の専門家だが、自らの専門分野に霊的な導きや方向性を見つけたいと願っているだろう。

 

「公共神学」が、たとえば福祉の実践家に「福祉の神学的理解と方向性」、心理療法士に「心理の神学的理解と方向性」、ビジネスマンに「ビジネスの神学的理解と方向性」などを提示することができれば、教会に集う信徒が今後のビジョンを描くうえで、おおいに助けになるだろうし、教会も活気づくだろう。

 

たとえば信徒によって担われる「キリスト者心理療法士の集い」といった集いをもったときにも、「公共神学」が蓄積した理解から汲みだすことができれば、参考になるところが多いだろう。

 

そういった集いにノン・クリスチャンが参加したときも、「なるほど、キリスト教はこういった理解をしており、確かに納得できるところがある」と思われるなら、よい証しにもなるにちがいない。

 

また、信徒が職場や地域で生活し、働くときに、だれかと信仰や専門分野について議論しなくてはならない状況に立った時も、こういった神学は信徒を背後からおおいにサポートをしてくれるだろう。

 

以上のような「信徒の実践神学」といった可能性が含まれているという点で、「公共神学」のコンセプトは私は好ましいと思った。

 

同時に、疑問点もある。

 

本書を読んでいるとき、終始頭に浮かんだのは、パウル・ティリッヒの姿だ。

 

ティリッヒは、教会には若いころから、行くことはまったくなかったが、学者が集うサロン的な集いで講演することを大変喜んだという。

 

ティリッヒの神学は、文化や心理学、芸術と神学の関係性を追求したという点で、「公共神学」を先取りしていたと言える。

 

「公共神学」を営むためには、実際的には大変な知性が要求されるだろう。

 

つまり、ただ神学がしっかりとわかっているばかりか、他の分野も一般的水準以上には学ばなくては論じることなど、できはしない。

 

そういうことが実践的にできるのは、学問にひたすら没頭できるような相当なインテリ以外にはない。

 

つまりティリッヒのような複数分野を研究できるような「学者」か、それに準じるような働きをしている人しか、「公共神学」などできたものではない、ということだ。

 

牧師がこういった神学ができればいいのかもしれないが、現実的には可能なのは少数だろうし、神学教師のなかでもこういった領域に取り組むことができる人は非常に限られている。

 

「公共神学」のコンセプトは豊かなもので、可能性もおおいにあるが、しかし実際的にはこれに従事できる人は、ごくわずかしかいないのではないか、ということだ。

 

本書の著者のスタックハウスという人も、非常に広範な知識を持っているのがよくわかるが、そんな知識を蓄積するだけで大変なことだ。

 

つまり、この神学の「主体となるのは、だれなのか」ということだ。

 

その部分に、かなりの実践的難点がある。

 

おそらく、「礼拝に出席して説教を聞いて信仰を深めており、自らの専門分野をもまた情熱をもって追求している信徒」が、ふさわしい主体となることができるだろうが、しかし少数ではあるだろう。

 

このような領域についての研究や展開は、確かに必要であるし、豊かな可能性が眠っていると思われるので、「志」がある人が担っていくことができればすばらしいが、そういう人がどんどん起こされるよう、祈っていきましょう、ということだろう。


キリスト教社会倫理② 「解放の神学」の是非

 Ethical Issues and Conundrums in Music Education - NAfME



カトリック教会とラテン・アメリカのコンテクストのなかから、『解放の神学』と言われるものが出てきた。


 『解放の神学』(グスタボ・グティエレス著)

 

上記の書物は1972年に出版されている。日本語訳は2000年だ。

 

神学生時代に一度読んだが、非常に読みにくく、主張がよくわからなかった。

 

今回、改めて読んでみて、この本を批判的に考える機会となったので、ブログの記事としてみたい。

 

まずここでの「解放」とは、特に「政治的解放」、「歴史的解放」、「神学的解放」の三つでとらえられている。

 

「政治的解放」とは、抑圧的で貧困や隷従を強いるような権力者がもたらすひどいシステムを変革することによる解放だ。

 

「歴史的解放」とは、歴史が前進するなかで、人間が自分の運命を引き受けるものとして自由を得ていくという意味での解放だ。これはヘーゲル的な歴史観が背後にある。

 

「神学的解放」とは、聖書が言うような「罪からの解放」であり、人間が新たにされることだ。

 

この書物は、教会が「神学的解放」ばかりを主張して、「政治的・歴史的解放」を語らず、これに参加しないことで、かえって「体制側」「権力側」「抑圧者側」に協力し、これを支えるために利用されてきた、ということを繰り返し批判している。

 

そのときに、批判が向けられるのは「領域区別の思考」についてだ。

 

私がこの本を改めて読もうと思ったのは、この部分へのまとまった批判が書かれていたからだ。

 

というのも、私は自分の著書でも、自分の神学的立場でも、基本的に「領域主権」(アブラハム・カイパー)のコンセプトを受け入れており、これに基づいて自分の神学的な立ち位置を形成している。

 

そこで、こういった立場にまったく立っていない神学者の意見に関心があったため、読ませていただいた。

 

「領域区別思考」とは、「教会」と「この世」の原理原則や在り方を基本的に領域として区別する、ということを前提とした考え方だ。

 

つまり、教会の在り方や方法論をそのままこの世には適用できないし、その逆もまた不可能である、という立場を言う。

 

両者をはっきり区別したうえで、互いに自らの「独自性」や「本質」を守りながら、相補的にか、対立的にかは時代によるが、社会を形成していこうとするものだ。

 

この考え方全般を『解放の神学』の著者は、主たる攻撃対象としている。

 

おそらく、グティエレスの「領域区別思考」への批判点としては、以下の四点がある(おそらく、というのは私には理解がよくできない部分が多かったからだ)。

 

1:司祭と信徒を区別することで、信徒はより強い社会変革へのコミットを求めているのに、信徒の働きを弱めることになる。

 

2:教会そのものが権力と癒着しており、体制と権力の現状維持に利用されている。

 

3:時代の変化により、この世はまったく世俗化して自律的となり、信仰そのものが通用しなくなっている。

 

4:「自然と超自然」などの「二項対立」的神学ではなく、「唯一の救いに対して、自然も超自然も向かっている」というような「統合的」神学が要請されており、「二項対立」は時代遅れである。

 

大体、以上の批判と受け止めた。

 

私自身には、この書物は少なくとも日本のコンテクストにはまったくそぐわないばかりか、教会の働きを更に弱体化するものとして映るため、以下素朴に考えたこの書物への疑問点や批判点を描いてみたい。

 

もちろん、以下に書くことは、「この書物は日本という文脈では難しい」ということであって、「まったく別の文脈ではこの批判は当てはまらない」ことも十分ありうる。

 

また、これはカトリックの立場で書かれており、プロテスタントの牧師が批判すると文脈が異なってしまうため、見当はずれなものになってしまうところもあるかもしれないが、その点はご容赦いただきたい。

 

1:牧師と信徒は「職務」において本質的に区別されるもので、これが混同されるなら教会は本来の職務を果たせず、衰退してしまう。


牧師が御言葉の説教と牧会に励み、信徒が職業生活や社会の改善に取り組むという職務的「区別」を消すなら、ただ教会的混乱が起こるだけだ。

 

2:この書物は「二項対立」を批判しておりながら、「体制と反体制」、「抑圧者と被抑圧者」、「富裕と貧困」などという、別のタイプの「二項対立」概念を導入しており、「統合的神学への志向の主張」という点との関連において、完全な自己矛盾をきたしているのに、そのことに自覚的ではない。

 

3:この世の世俗化の流れに教会や信仰の在り方を合わせるなら、それは「教会の世俗化」であって、「塩が塩気を失う」ことになり、「教会のこの世への解消」を最終的には帰結する。

 

4:「統合的神学」はおおいに結構だが、それは「自然と超自然」などの「二項」について、はっきりとした「区別」をふまえたうえでないならば、「統合」は容易に「溶解」となり、単なるシンクレティズム(混交主義)となる。


そして、この書物はまさに「区別」をネガティブなものとして抹消していこうとする傾向があるため、理論的には「統合」を語りながら、実践的には「混交・溶解」となる危険性が非常に大きい。

 

私は、この書物が「領域区別思考」の批判として、急所をついているようにはまったく思えないばかりか、かえって教会が今後実際的に建っていくためには、このような領域的な思考法は必須であることを、改めて自覚させられた。

 

もう一つ、この書物に対する根本的な疑問がある。

 

ラテン・アメリカの「体制」や「現状」の政治的システムに対する不満や怒りなどが背景にあるのはよく理解できるし、そのひどさというものを、私は経験的に知っているわけではない。

 

もちろん、抑圧や差別、貧困などを放置し、さらに悪化させるシステムを改善・変革しようとするのは、キリスト者すべてが願うところだろうし、これがかなうなら非常に望ましいことだ。

 

ただ、「体制を変革すれば、社会は改善される」というのは、革命を志向する人々が必ず語ることだが、それが実際にそうであるかどうかは、わからないということだ。

 

「革命」が起こって体制がひっくり返るとき、多くの血が流されることが多い。

 

そして、「新体制」が敷かれると、かえってより高圧的・抑圧的で残虐な支配がなされる、という歴史的事例は多数ある。

 

それまで人類愛や理想を語っていた革命家が、粛清や虐殺を良心の呵責もなく行うことも十分ありうる。

 

「それのどこに人類愛があるのですか」と問いかけても、「これがどうしても平和のためには必要なのだ」と、体制を取った革命家は答えるだろう。

 

なにが言いたいのかというと、「政治的解放」や「歴史的解放」といったものは、それが「誰にとって、どのように、どんな意味で解放なのか」ということを問いかけると、非常に曖昧で多義的なものとなってしまう、ということだ。


ただ「終末の神の審判」においてしか「本当のところはどうだったのか」はわからないことは、認めざるをえない。

 

たとえばフランス革命をなした人々には、そこでなされたのは「解放」であっても、そこで殺された人々には「恐ろしい抑圧と恐怖政治」以外のなにものでもないだろう。

 

「それを本当に『解放』と定義できるのは、だれなのか」を考えると、歴史的には非常に主観的であいまいなものとなってしまう。

 

そして、どのような者も、それがひどく道徳的かつ理想主義的な革命家であろうと、原罪と自己中心性から免れている人間はいない。


私たちは、歴史的地平やこの地上的生活においては、「絶対的にこれが解放であり、正義なのだ」と主張できることは、実はそれほど多くないのではないか。

 

だからこそ、「真理」ということにおいては「キリストのみが解放であり、人間の本当の問題は罪なのだ」ということを、語る以外にないのではないか。

 

そこから違う次元のことは、聖書からすると「解釈」や「推測」の域を、決して出ることができないからだ。

 

ほとんど批判だけに終始してしまったが、関心のある方は、ぜひお読みいただきたい。神学的に「政治」や「歴史」を考えるとき、どういうポイントがあるかということを、いろいろな意味でよく学べるものだと思う。

 

最後に改めて書いておきたいのは、こういった批判を覚えるのは私が日本というコンテクストに置かれているからで、もし私がラテン・アメリカで司祭をしていたら、解放の神学についてまったく別の評価になるだろうし、上記の批判とほとんど正反対のことを考える可能性もあることは、はっきり付言しておきたい。

 

あくまで、神学は「コンテクスト」のなかで営まれるもので、これを別のコンテクストで思考すること自体に、大きな限界があるのだ。



キリスト教社会倫理① 「非暴力的抵抗」の是非

 Ethical Issues and Conundrums in Music Education - NAfME



『イエスと非暴力 第三の道』(ウォルター・ウィンク著)という著書を読んだ。

 

ごく部分的に有益な学びがあったが、正直大半の議論に共感できず、疑問と批判が渦巻いたし、こういったアプローチについてより疑いを深める結果となった。

 

この書は私の印象では、メノナイトの神学者ヨーダーの議論を踏襲しつつ、より実践的な方面を探求したものである。

 

主イエスのお教えになった倫理を、そのまま教会ばかりか社会への規範とする「一元論」を展開する点では、ヨーダーを受け継いでいる。

 

ある意味では、神への信仰がない人々にも、「非暴力」という権力への抵抗手段が有効であることを証ししようとしているように読める。

 

「第三の道」という副題があるが、これは「絶対的平和主義(すべての暴力と戦争の否定)」と、「相対的平和主義(限定的・部分的・条件付きの形で暴力と戦争を肯定)」の間の道を探ろうとしているものだ。

 

その内実は、「主イエスの教えに基づき、状況やコンテクスト、権力の形態に即して創造的にユーモアをもって、非暴力の方法論を生み出す」ということだ。

 

つまり、「絶対平和主義」や「相対平和主義」などの、類型や枠組みに満足せずに、その間にある非暴力の道をその都度発見し、作っていくことが重要で、型通りの権力への対応をすることを退ける、という特徴をもつ。

 

リチャード・ニーバーが語った『状況倫理』や『啓示の意味』のロジックを、「非暴力」の文脈で展開したものと言えるかもしれない。

 

そのときどきの抑圧者や圧政に対して、有効なやり方を生んでいく際の条件やプロセス、超えてはいけない部分などについて、論じていくものだ。

 

ある国家や地域で、人間性のすさまじい抑圧や人権侵害の慢性的状況があるとき、「非暴力」という方法論でそれに抵抗するというのは、私自身は一つの選択肢であると思うし、そういった方法論自体を否定するつもりはない。

 

キング牧師も、ガンディーも、また他の平和活動家も、非暴力的抵抗によって権利を獲得してきた歴史を軽んじたり、否定しようなどというつもりは毛頭ないし、仮に日本で人権抑圧のひどい状況が生じたら、自分自身もこういった方法論を真剣に検討するだろうとは思う。

 

ただ、こういった課題を論じるときの「神学的背景」や「思考のための用語」の使用法自体に、受容することができない部分が非常に多くあり、私はこういった議論や提案それ自体に、疑いや批判の心をもたずにはいられない。

 

疑問1:「抑圧者」と「被抑圧者」の図式について

 

まずはここが根本的に疑問だ。


「抑圧者」とは、だれのことか? 企業の社長や、独裁者など、特に政府を運営する権力者が想定されているのはよくわかるが、そういった人々を「抑圧者」と定義すること自体がおおいなる疑問だ。

 

というのも、そういった立場にある人々は、もちろん間違いも侵すし悪も行うが、同時に善も行い、秩序を守ろうとする。


そして、そういった人々自身もまた、他の領域においては容易に「被抑圧者」となる。

 

重圧とストレスを背負って闘っているリーダーは、常に自らの心や厳しい状況、周囲の人々の声から「抑圧」されているし、より大きな力をもっている組織の圧力や競争、攻撃に「抑圧」されている。

 

政府の運営者といえども、変化する世界情勢のなかで、より強大な力をもつ国の間でどう国家を守っていくかを考えると、より強い国に「抑圧」されているように思うだろう。

 

「抑圧者と被抑圧者」というのは、ある状況で、ある基準を適用して成り立つものだが、こうった部分が変動すると、容易に立場は入れ替わる。

 

場合によっては、容易に「被抑圧者」もまた「抑圧者」になることは、歴史的事実が証明している。


革命が起こったとき、それまでの不満と鬱憤によって立場が逆転して、すさまじいばかりの復讐や惨劇が起こるのは、どこの国でもありえることだ。

 

「権力があるか、ないか」というのも相対的な問題に過ぎず、その権力の「性格」や「種類」も当然ひとつではないこともまた、問われうることだ。

 

疑問2:「非暴力」の責任的な主張の可能性の乏しさ

 

「非暴力」を主張するとき、それを他者に勧めているということの重大さを、よくわかっているかどうか、非常に疑問だ。

 

たとえば、ある青年が教会にきて、そこで「非暴力的抵抗」を教えられたとする。

 

その青年が実際にそういった活動を行った結果、権力のリアクションによってその青年が重傷を負ったり、死亡してしまったら、教会はその青年の遺族になにを語ることができるのか。

 

遺族から「教会から教えられたことを行ったことで、うちの息子は事実死んだ」と告発されたとき、「非暴力」を主張していた人は、なんと応答するのだろうか。

 

「それは自己責任です。その人の決断ですから」などと、言えるのだろうか。

 

この著書は、いくつかの箇所で「殉教は避けることができない」(たとえば95P「イエスの第三の道は、まさに迫害や死を避けることができないのです」)というような主旨のことを書いているが、これはある意味恐ろしい文章だと思うし、こういうことを非暴力のコンテクストで語ってはならないと、牧師の良心に照らして深く感じる。

 

というのも、ここで言われているのは聖書が語る「自我の死」や「古い自分の死」ではなく、「事実上の肉体的死」だからだ。

 

こういうことは、自分の良心に照らし、自分自身に対して、ある限界状況での決断としてはありえても、他者に対しては、決して責任的に言うことができる性格のものではないと、私はごく常識的に考える。

 

実際、そういった言辞をだれかが「神の言葉」と信じ込んで、あってはならないことが起こった場合、教会は責任をどう取ることができるのだろうか。

 

「神を信頼して非暴力活動をすれば、そういうことは起こらない」という論法は、まったく間違っている。

 

というのも事実、非暴力活動によって重傷を負ったり、死に至った人もまた、歴史的に大勢いるからだ。

 

こういった犠牲を払うことを、牧師や教会は決して「主張」はできない。

 

各人の決断と責任において、限界状況と神と自分との関係の深淵で、自ら選び取ることだけが、可能なのだ。

 

だれもそれを、教えたり、他者に主張したりはできないはずだ。

 

仮にそういうことを言う人がいて、それを教えている人自身が、まだ殉教してはいないし、そういう限界状況にも置かれておらず、「安全圏」からこういう理論を展開しているとするなら、教師としての人間的誠実さの点についても、私自身は疑問を抱く。

 

疑問3:出てくる例が「成功事例」ばかりであること

 

「非暴力」の選択肢をしたときの、「成功事例」ばかりがこの著書に掲載されていること自体に、客観性や合理性が認められず、資料的な不信感を私は抱く。

 

「非暴力」的抵抗をしたとき、「実際の歴史的事実においては、成功ばかりか、失敗事例において、どんなことが起こっていたのか」ということが、まったく言われておらず、検証もされず、紹介さえされていない。

 

これでは、現実的な非暴力的抵抗の「妥当性」さえ分析できないし、またこの著書は極論をいえば、「非暴力の宣伝」であり、「アピール」でしかない、ということにもなるように思う。

 

それで「効果的」と言われても、まったく納得できないばかりか、「よいことづくめの商品」の宣伝のようで、非常に怪しげであるとさえ思う。

 

 疑問4:「非暴力」は律法である

 

本書は「非暴力」を「賜物」として描いている部分があるが、それは最後の方のほんの一部だけで、実際的には描いているのは9割方、非暴力的抵抗は「こうするとよい」もしくは「こうするべきだ」という「律法」か「プログラム」である、ということだ。

 

これは、福音を求めて教会にくる会衆に語る言葉ではないし、キリスト教に好意や関心をもつ社会の成員に対しても、少なくとも救いや喜びをもたらすものではない。

 

さらに、これが「キリスト教社会倫理」の「スタンダード」であるかのような言い方全般が、ひどい誤解を生みかねない。私はこれはキリスト教社会倫理の大変な「亜流」であると考えている。

 

批判点を4つ挙げたが、もっと詳細に見るといくらでも他の批判ポイントが出てくるが、おそらく私はこれを読み返さないだろう。

 

ただ、ひとつよいところは、こういった考え方に触れることで、自分自身が「どんな立場にたっているのか」を検討し、自覚し、深めるために役立つものであり、そういう意味ではヨーダーの「絶対平和主義」が「問いかけ」と「夢」を語ることで暴力を理論的に相対化しているのと、似たような機能を果たすものであるとして、受けとめた。


 

齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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