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目的主導型教会への疑問④ 「ペラギウス主義」的・「行為義認」的在り方

 Rick Warren wasn't always a lightning rod for controversy - CNN.com

 最後の、最も大きな目的主導型教会への疑問を記す。


 リック・ウォレン牧師の説教で、一つの決定的な命題を私は聞いた。


 それは、"Love is a choice."(愛とは選択である)。


 この命題には歴史がある。


 古代末期、アウグスティヌスという古代教会の最大の教父がいた。彼と大論争した人物がいる。ペラギウスという人だ。


 ペラギウスは大変厳格な生活を守る修道士だった。


そして、人間の意志の力を信じていた。


人間は自分の自由意思で善を選択する力がある、というのがペラギウスの主張だった。


 ところが、アウグスティヌスはこれに反論した。


人間の自由意思は罪に捕らわれており、人間は自分で善を選択する力を失っている、としたのである。神学の世界では有名な「ペラギウス論争」である。


 論争に負けたのはペラギウスだ。なぜなら、人間が自分で善を選択する力があるなら、自分で自分を救済することができる。


つまり、救い主はいらなくなる。キリストの十字架が無意味になるのだ。


 これと同じタイプの論争が宗教改革期にも起こった。


それはエラスムスとマルティン・ルターの論争である。エラスムスはペラギウスと同じ線に立ち、人間の自由意思の選択する力を主張した。


それに対して、ルターは『奴隷意志論』を書いて反撃した。人間の意志は罪の奴隷であり、善を意志する力を失っている、としたのである。


当然、福音主義教会はルターを支持した。


 これらは神学の伝統において、「自由意志論」として、ひとつの根本問題だったのである。


 「愛は選択である」という命題は、より詳細に理解するとどうなるか。


それは、人間が自分の自由意志によって、愛することを選択することができる、ということだ。


つまり、この命題はペラギウスやエラスムスに連なる、自由意思肯定の命題なのである。


 このことの帰結は明らかだ。イエス・キリストはいらなくなる。人間が自分の選択によって、愛して行くことができるからだ。


 そもそも、罪とはなにか。それは、自己愛によって神と隣人に背くことだ。つまり、自分を愛するあまり、神と隣人を愛する選択ができない、ということが罪の根源的な姿なのである。


どんなに神と人を愛そうとしても、いつの間にか自己愛に陥ってしまっている。マルティン・ルターの悩みもそこにあったのだ。


 こうした自己愛の泥沼から救い出してくださるのが主イエスなのである。


主イエスは私たちに対する神の絶対の愛を示し、私たちのすべての罪を赦し、覆って下さるのだ。私たちはこれに応答して、神と人を愛するようにされていくのである。


 もし「愛は選択である」であるとするなら、キリストなしで私たちは神の国を実現できる。


 英語がわかる方は、インターネットでリック・ウォレン牧師の説教を聞いてみて頂きたい。


その説教がテーマとしてなにを中心にのべ伝えているかに注意して頂きたい。そのほとんどすべての説教のメイン・テーマはイエス・キリストではない。


 テーマは、人間の幸福なのだ。


「経済的自由の獲得」「祝福された人間関係」「ストレスからどう解放されるか」要約すると、こういうことを実行すれば幸せになる、という教えなのである。


神の御心が問われているわけではない。


イエス・キリストはもはや中心ではない。人間の幸福がメインであり、イエス・キリストはあくまで背景、人間が幸福になるための手段に過ぎないのだ。


 「愛は選択である」という理論の避けがたい帰結である。


 これが、最後の、最も大きな疑問である。


 なぜ4回にも渡って目的主導型教会への疑問を書いてきたのかというと、それは私自身の迷いからだ。


 日本の地方教会は、本当に疲弊していく現実にある。礼拝出席者も減り、献金も減って行く。


そんななか、牧師も信徒も、だれもが「どうしたらいいんだ」と悩んでいる。


本をいろいろ調べると、必ずどこかでこの「目的主導型」の理念に突き当たるだろう。


私自身もそうしてこの理念に改めて出会った。


 これらの理念を学ぶと、「これなら日本の地方教会であっても、伝道できるかもしれない。成長するかもしれない」と、牧師も信徒も飛びつきたくなる。


藁にもすがる思いだ。私もそうだった。


現実に、多くの方々がそうした動機からこの理念を学んでいるように思える。


 ところが一方、神学校で学んだ教会の伝統である神学と、この理念はどこかで決定的に食い違っているのだ。これに触れていると、いつもそういう感触がする。


「なにかがおかしい」といつも思う。


けれども、どこが違うのか、はっきりわからない。


実に上手に、本質がオブラートにくるまれている。使っている用語も聖書的だ。しかし、なにかがおかしいのだ。


 そうした迷いのなかで模索するうちに、ようやく整理ができてきた。そして、この教えは要注意だという結論を下さざるをえなくなった。


少なくとも、この教えは宗教改革の伝統からの大幅な離脱としか思えない。


つまり、聖書で言えばパウロをないがしろにしてヤコブの手紙を徹底的に強調した教えである。


 牧師や信徒の方々で、この理念の正当性について、私と同じように迷っている方々の参考になればと思い、疑問を書いた次第である。


 これらの疑問が私の単なる勘違いであり、的外れであることが明らかになるなら、いつでも取り消したいと思う。


そして、その方が私自身も感謝である。これだけ多くの人々が関わっているものがもし間違いだとしたら、ダメージも大きい。


しかし、今のところ、私はこれらの疑問をぬぐい去ることがまったくできない。


 

目的主導型教会への疑問③ 「企業的戦略中心」の伝道

 Rick Warren wasn't always a lightning rod for controversy - CNN.com


三つ目の疑問は、その伝道に対する考え方だ。


 『健康な教会への鍵』が提案する伝道のやり方は、基本的に企業の戦略論と同じである。


 「伝道対象を絞る」 → 企業で言えば 「顧客のターゲット層を絞る」


 「伝道しやすい人々を見つける」 → 「潜在的顧客を把握する」


 「戦略を開発する」 → 「ニーズを把握し、そこに製品を届けるネットワークを構築する」


 こうしたことを、リック・ウォレン牧師はすべて聖書から跡付けている。つまり、これが聖書的な伝道スタイルだ、と強調しているのである。


 しかし、こうした企業の戦略論とまったく同じ伝道スタイルが、聖書の示しているところなのか? 聖書が語る伝道とは、こうしたものなのか?


 使徒言行録を開くと、そこに初代教会の伝道している姿が描かれている。そして、そこに描かれているのは、徹底的に神に導かれて伝道している使徒たち、信徒たちの姿だ。


 サマリアに福音が告げられたのは、決して意図的な戦略などからではない。ステファノの殉教によりエルサレム教会が迫害され、信徒が散らされたからだ。


 フィリポがエチオピアの宦官に出会ったのは人間の戦略だろうか? フィリポは聖霊の導きで「寂しい道」に行った。戦略的に言うなら、絶対に投資してはならない場所である。


しかし、そこに宦官との出会い、新しい歴史のスタートが刻まれた。人間の戦略とは真反対である。


 サウロが回心し、伝道者となったのは教会の戦略だろうか。そんなこと、主イエス以外だれも意図していなかった。むしろ、教会の人々は「あの人の回心は本当だろうか」と怖がったのである。


 ペトロを通して異邦人が救われたのは、教会が計画を立てて戦略を練ったうえでしたことだろうか。ペトロ自身も、神によって幻を見せられ、自分でもよくわからないままコルネリウスの家に導かれたのだ。


これは神以外のだれも意図しないことだった。


 パウロはアジア州で伝道しようとしたが、聖霊に禁じられた。そこで思いがけなく、マケドニア伝道が幻で示されたのだ。人間の戦略が挫折したところで、神の戦略が始まった。


 これらの例からはっきりするのは、神の救いの計画は人間の戦略や意図を遥かに超えて働くものであるということだ。


人間がだれも意図していないところで、だれも計画も作戦も練っていないところで、なお神が働いて救いの計画が進められる。


 神が大いに働き、進められる計画に、人間は後からひょこひょこついていくだけなのだ。


 この聖書の例からすると、伝道はあくまで神の戦略に沿って展開される。神が計画し、働き、救いを広げられる。


人間はそれに、自分の意図に反しながらも、驚きながら従って行くのだ。


 しかし、『健康な教会への鍵』が提示する伝道方法は、1から10まで人間の戦略である。人間の働きだけで完結している。


それに従って回っているだけで自動的に人を集める集客の構造的システムだ。率直に言って、「神が働かなくても人が自然と来るシステム」なのである。


 もちろん、神は人間を用いて伝道される。人間の戦略が用いられることもある。だから教会はトラクトを配ったり、伝道集会を開いたりして、福音を伝えようとする。


 しかし、そこで必ず出てくるのは「つまずき」の問題である。


 つまり、主イエスを信じるのは、人間の力では無理なのだ、ということである。


 おそらく、多くの人々が聖書を読んだり、説教を聞いたりしたとき、「なにを言っているのか、全然わからない」という経験をしたことがあると思う。聖書や説教は、聖霊が働いたときに初めて理解できるものだ。


福音は、神が向こうから扉を開いてくださったとき、初めて信じることができるのだ。


 教会に来続ける、というのも、神によって召され、内から促されて初めて可能になる。神によって教会に引き寄せられていないなら、どこかでつまずいて離れてしまう。


人間の努力や知恵を超えた神の力が働いて初めて、教会に来続けることができるのだ。


 目的主導型教会の伝道方法は、すべてを人々のニーズに合わせて戦略的に構築することで、このつまずきを全面的に取り除くやり方なのである。


つまり、神の力によってではなく、人間の力によってだれでも信じることができるよう福音と教会の働きを変えるのだ。


 これは、伝統的な教会の教理である「選びの教理」を根本的に否定することへと導くのではないか。神の働きを人間の戦略が閉めだしてしまう道ではないか。

 

そしてキリストの福音を、この世に合うようにどこまでも変質させていくことになるのではないか。


つまり、この教えを徹底していけば、いよいよもって教会を企業へと変えて行く以外にないのではないだろうか。


 これが疑問なのである。



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目的主導型教会への疑問② 「マーケッティング」による教会形成

 Rick Warren wasn't always a lightning rod for controversy - CNN.com


目的主導型教会への第一の疑問は、本来結果である行為が目的化することで、行い中心の教会になってしまうのではないか、ということだった。


 第二の疑問はその教会形成の手法にある。それは「マーケッティング」の手法だ。


  リック・ウォレン牧師の言葉には「ニーズ」という言葉が多用される。これは、教会に来る人々のニーズのことだ。


こうしたニーズを敏感に聞きとり、そのニーズを満たすように教会活動を形成するのである。


 例えば説教。説教は会衆が最も聞きたいことを語るように工夫する。会衆が聞きたいのは「自分はどうしたらよいのか」ということだ。そこで、「こういうときはこうしなさい」という教えが中心となる。


 また、教会のミニストリー(奉仕の働き)。これは地域社会のニーズを満たすことが目的だ。そこで、夫婦問題のケア、子供の教育、貧困からどう脱出するか、その他バラエティに富んだ数々のプログラムを用意する。


これらによって地域のニーズを満たすことで伝道しようとする。


 そして、礼拝。讃美歌は現代の会衆が最も好むポップス調。基本的にロックバントのライブとあまり変わらない。


歌っている歌詞に「ジーザス」や「ロード」が出てくるので、それが讃美の歌だと気づく。


おそらく、英語が全然わからない人が聞いたら、だれもそれを宗教的な歌だとは思わないだろう。こうした讃美が礼拝のなかで多くの部分を占める。


 こうしたすべての教会形成手法の根元にあるのは、「顧客のニーズを吸い上げ、それを明確に満たすものを提供する」というシンプルな原理である。


 これは、企業がやっているマーケッティングの手法とまったく同じものである。商品を売り込むために企業は顧客のニーズを把握することを徹底する。


そして、ニーズをしっかり満たすことで自然と売れる製品を作る。


 リック・ウォレンはどこから教会活動にマーケッティングを取り入れたのか。その源は経営学者のピーター・ドラッカーにある。


サドルバック教会はドラッカーの経営学と、伝統的な教会との融合によって生まれたものである。ドラッカー流に教会を再解釈し、経営学の原理をキリスト教会に導入したのだ。


それが目的主導型教会の本質である。


 マーケッティング、経営学の原理で教会形成がなされた場合、どんなことになるのか。


 マーケッティングどは、「顧客のニーズ」の把握を第一とする。この場合、顧客とは教会の会衆や地域の住民だ。


こうした人々のニーズを満たすことを優先していくと、大事なことが置いてきぼりにされる。


 それは「神のニーズ」だ。教会は基本的に人間のニーズを満たす場所ではない。むしろ、神が求めておられることをなしていくのが教会なのだ。


神を求めるなかで、結果的に人間も満たされるのである。


 神が求めておられることをするためには、時に人間と対立することもありうる。旧約の預言者や使徒たちが「人間よりも神に従わなければなりません」と戦ったように。


ところが、マーケッティングは人のニーズを神よりも優先することになりがちだ。


すると、「神よりも人間に従わなければなりません」という人間中心の教会とならざるをえない。神はその人間をよりよくするためのツールに過ぎなくなる。


 最も影響が大きいのは、教会が企業となることだ。マーケッティング手法は、企業の原理であり、教会はそれとは別次元で動かなくてはならない。


ところが、この手法により教会は企業となっていく。するとこうした教会の特性として、この世での経済的繁栄、事業拡大、利益追求の体質となっていくことを免れることができない。


十字架と復活のキリストのお姿からほど遠くなっていってしまう。


  これが目的主導型教会への疑問だ。


 教会は人間の組織というより、神の組織だ。だから、神の恵みの力によって世の終わりまで存続する。


  ところが、教会が人間中心の人間の組織に変容してしまったら、企業に当てはまるのと同じ法則が当てはまる。


つまり、人間の知恵と力が尽きたとき、これらが通用しなくなったとき、その組織も没落する。


 これが目的主導型教会への疑問である。インターネットや書物の情報を見る限り、私はどうしてもこの疑問を払拭することができない。

 

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目的主導型教会への疑問① 「結果」の「目的化」によるゆがみ

 Rick Warren wasn't always a lightning rod for controversy - CNN.com


カルフォルニアのサドルバック教会を開拓したリック・ウォレンという牧師がいる。


オバマ大統領の就任式で祈祷をした。『人生を導く5つの目的』『健康な教会への鍵』の著者である。アメリカで最も影響力のある牧師の一人という評価を得ている。


 私も以前『健康な教会への鍵』を読み、「いろいろ参考になるところが多い」という感想を持った。ところが、これについて今私自身は大きな疑問を持っている。


  この本は「目的主導型教会」を提案している。この提案を単純化して言えば、「神が教会に定めた目的を知り、それに向かえば自然と教会は成長する」というものである。


 そして、リック・ウォレン牧師は5つの目的を提示する。それは「礼拝」「奉仕」「伝道」「交わり」「成熟」である。これらをバランスよく活動のなかに実現することで、教会は健康となり、自然と成長する、というのである。


 この主張には真理が含まれている。確かに、これらは教会がしていくべき活動であることに私は同意する。


  しかし、これらは果たして「目的」なのか、ということが疑問なのである。


  キリスト者はこれらを目指して、これらを達成していく存在なのだろうか? これらをすることがキリスト者の存在理由なのだろうか?


 礼拝にしろ交わりにしろ伝道にしろ、これらは神の恵みへの応答である。神に救われ、愛されていることへの応答としてなされる行い、働きである。神の働きが原因であり、人間の応答がその結果である。


  ところが、「目的主導型教会」では結果であるものが目的となるのである。


 結果とは、原因に自然と後からついてくるものである。原因があれば、自然と結果が起こる。


  ところが、結果を第一に目的として追求するとどうなるか。原因がないがしろにされるのである。


 ものすごく抽象的な話を具体的にしよう。


 受験勉強するとき、私たちはほとんど、大学に受かることを目的としている。ところが、実はこれは間違いだ。


しっかりと着実に学び、内面世界を広げた結果として、大学に受かるのである。受かるのは結果である。ところが、受かることを目的とするとどうなるか。「受かればそれでいい」という学びになるのだ。


つまり、現実認識を深めて行く、意義ある学びではなく、単なる丸暗記、情報の鵜呑みになる。そして、大学に受かったらあとは全部忘れてしまうのだ。


 社会のなかで、企業で働くとき、私たちは多くお金を稼ぐことを目的としている。ところが、これも間違いだ。


提供するサービスや製品により、顧客が本当に満足し、「これを買ってよかった」と思える働きができたとき、お金は後からついてくるのである。自然と利益はあがっていく。


ところが、お金を稼ぐことを目的にしたらどうか。


隠れてさぼったり、手抜きをしたり、人に見えないところで法を犯していても、お金がもらえるならその方がいい、という風に働きに愛を込めなくなる。そして、働きそのものが喜びではなくなる。お金のために嫌々することになる。


 結果の目的化は原因の貧困化を招く。これがセオリーなのである。


  これを目的主導型教会にあてはめるとどうなるか。


  礼拝や交わり、伝道などを目的にすると、これらを新しく造り出す神の働き、恵みという原因がないがしろにされるのだ。


 別の言い方をすれば神の働きを受けとめ、讃美する「信仰」が消えて行くのである。


 行いはいよいよ増えて行くかもしれない。活動はどんどん拡大するだろう。


 だが、内面はいよいよ置き去りにされていく。神の恵みに魂が潤されることなく、無理に活動に駆り立てられていく。


 これはファリサイ派の道ではないだろうか。


数々の律法を打ち建て、それを一生懸命守ろうとする。ファリサイ派にとっては、律法の遵守が「目的」なのだ。そして、こうした人々の行いは輝いている。


ところが、内面はおろそかにされているのだ。主イエスの批判の通りである。


  私は恐れるのだが、リック・ウォレン牧師がしている説教をインターネットで見ると、ほぼすべて「行い」が説かれている。「こういうときはこうしなさい」という教えが説教の8割を占めているように思える。


これらを守ることを会衆が「目的」とするなら、ファリサイ派の姿とすっかり重なってしまう。


  これが目的主導型教会への疑問である。


 最も根本的な問いは、「教会の目的は礼拝や交わりというような行いではなく、神ご自身なのではないか」という問いである。


 私たちにとってはなにかの活動が目的なのではなく、神ご自身を求めることが目的なのではないだろうか。神と交わることそのものが目的なのではないか。


 活動はその結果として後についてくるのだ。


 行いがいよいよ輝き、信仰の喜びがいよいよ消えていく、そのような道を、目的主導型教会を標榜する兄弟姉妹たちがたどらないように祈りたい。

 

 


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齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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