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齋藤真行著書紹介⑥ 『ただ信ぜよ』の意図


本書は『必要なことはただ一つ』よりは読まれていないが、『ただキリストを伝えよう』よりは読まれている、という面白い立場にある。

 

その理由は、やはり「信仰を主題として論じている点で、信徒の方々の立場に近い」と多くの人が感じるところにあるからだろう。

 

それはともかく、本書は三部作のとりあえずの完結編として、教会が衰退していく時代を貫く、「まことの信仰」の性格について考察したものだ。

 

本書では、いろいろな角度から信仰について取り上げているので、一口にまとめることはできない。

 

本書が描いているのは、他のどの神学者も描いたことがない新しい視点がかなり含まれているのだが、おそらくお読みになったほとんどの方はそれにお気づきにもなっていないだろう。

 

本書の信仰理解のあり方は、カール・バルトとリチャード・ニーバーの路線を、現代的形をとりながら実践的に一歩進めることだったと私は考えているが、そういったことに関心のある方が、そもそも少ないし、神学的素養なしにはわからないので、別に構わない。

 

ただ、読まれている専門家や牧師の方々にさえもほとんど気づかれなかったというのは、個人的にかなり悲しい。

 

よほど神学的に注意深い方にしかわからないような、隠された形で書いていたのだが、このブログで今、自分で明らかにしてしまったので、そんなことはもうどうでもいい。

 

とにかく、「福音への信仰」という「主観的側面」について、相当立ち入った考察を展開しているもので、まだこれから果たすべき役割を担っていると私は考えている。

 

キリストへの信仰によって、旧約聖書が語るところの「祝福」、新約聖書が語る「永遠の生命」が私たちのうえに実現していく。

 

そのような信仰が私たちのうちに根付いていないために、教会に「神の約束」が成就することがなくなり、衰退状態に陥っているのではないか、という論考を展開している。

 

最後にまとめとして、教会が成長していくための「チェック・リスト」を付録しておいた。

 

これはまったくだれの注目もひいていないが、個人的には気に入っているものだ。

 

このリストを現実的に実践し、活用すれば、衰退している教会にも大きな変化が生じることが期待できる、と思っているが、おそらくほとんど重く受けとめられていないために、素通りされているのが現実だろう。

 

もしくはこのリスト通りにしてしまったら、牧師も教会員も、「不都合」なことがありすぎて、「到底実践できない」として無視しているのが現状だろうと思う。

 

ただ、このリストはこれまでの三部作から導かれた結論をまとめたものなので、ごく短いものでも本質をえぐっているものとなっている。

 

どのような形であっても、ご活用いただければありがたいと思っているし、各自がふさわしい形に応用して使うことも十分可能であると思っている。

 

『必要なことはただ一つ』では「福音が語られる教会」について、『ただキリストを伝えよう』では「教会で語られる福音」について、『ただ信ぜよ』では「教会での福音への信仰」について論じてきたが、この三つの課題で基本的な部分はポイントを押さえることができたと思っている。

 

最後にすべてのタイトルに入っている「ただ」という言葉に触れたい。

 

マルティン・ルターは教会の信仰の本質を抉り出すために「のみ」という言葉を使った。

 

私の著書の場合は、ルターの「のみ」の神学を継承して、これを実践的領域で展開するという意味で、「ただ」という言葉を使わせていただいた。

 

つまり、宗教改革的な「のみ」の神学は、実践的には「ただ伝道する」という形に結実すると思われるからだ。

 

「ただ伝道する」というごく単純かつ福音主義的な在り方を牧師も教会員も体得していったとき、もはや「日本の教会は衰退している」などとは、だれにも思われないし、そんなことは到底言えないような活力と希望が生まれてくるのではないかと思っている。

 

今後とも、これらの三部作をご活用いただければ、著者として幸せである。



齋藤真行著書紹介⑤ 『ただキリストを伝えよう』の意図

 


個人的にこの著書は思い入れをもって書いたものだが、それと反比例するかのように、それほど読まれていないものだ。

 

その理由は、この著書が牧師の説教の課題を主として扱っている、という風に思われて、信徒の方々は「自分とは関係のないこと」という印象を受けるからだろう。

 

もちろん、本書は説教を「する」側の課題についても描いている。

 

しかし、実は本書がより焦点を向けているのは、説教を「聴く」側のことだ。

 

そこがご理解いただけていないために、おそらく「きっと難しいのだろう」という印象を与えており、敬遠されていることが推測される。

 

本書は、礼拝説教がどこまでイエス・キリストを中心としたものであるのかを、いろいろな角度から問いかけており、教会の中心にキリストがいてくださる教会形成の在り方を展望している。

 

そのことによって「説教をどう聞くか」、また「牧師と共に、会衆はどういう理解と前提を共有しながら成長していくのか」という課題を解き明かしている。

 

説教者は自らの説教奉仕を改善していく責任があるが、教会の会衆は説教の「聴き方」を改善していく責任がある。

 

安定して成長する教会には、必ず成熟した会衆の存在があり、その人々は教会の伝統を正しく受け継ぎつつ、説教を聴く在り方を体得している。

 

そのため、牧師が辞任して新しい牧師が着任しても、その教会は何事もなかったかのごとく、成長を続けていくことができる。

 

それは、牧師の実力よりも会衆の「信仰に基づく聴き方」がよく訓練されており、優れているからだ。

 

会衆が成熟していない場合は、牧師の交代によって教会が激変したり、衰退したり、場合によっては分裂したりすることもある。

 

教会の実力というものは、牧師だけによるものではないからだ。

 

むしろ、福音を聴き、それに応答する会衆の成熟の度合いが、教会の実質的な実力そのものであると言える。

 

牧師が説教者として成長し、会衆が説教の聴き手として成長していくことが、教会の成長の内容だ。

 

そこで、本書では「宗教改革の伝統を継承する福音の純粋な説教とはなにか」という最も基本的な部分を確認することで、そういった教会の姿勢に資することを期待して、書かれた。

 

本書をじっくりと繰り返して読み解くことで、説教を聞いたとき、「どこに課題があるのか」を鋭敏に見抜く感性が養われていくことを願っている。

 

「なにが福音であり、なにがそうでないのか」

 

「本物の説教とはどういった性格のものであるのか」

 

こういった「真理感覚」が養われることで、教会は成熟に向けて新しい歩みをすることができる。

 

これまで本書は、それほど多くの人には読まれてこなかったという印象が強いが、このブログをきっかけにご参考にしていただければ感謝である。

 

ここで差し出されている問いは、なお多くの事例において未解決のままにとどまっており、なお本書は伝えるべきメッセージを担っていると個人的には思っている。

 

齋藤真行著書紹介④  『必要なことはただ一つ』の意図

 

この著書は賛否両論の議論を、ごく小規模にではあるが起こしたという点で、これまでの段階で一定の奉仕を教会にすることができたと考えている。

 

この著書から続く三部作は、「教会の衰退の原因と対策」を主題としながら、「教会が本来の姿を取り戻す」ことを目指す論考と言える。

 

本書では

 

・日本の教会が衰退しているのは、牧師と信徒の礼拝への集中性が低下して、霊性が希薄になっているからであること。

 

・現在置かれている状況下では、すべての資源を礼拝や祈りの生活に一義的に集中することが大事であること。

 

・施設の運営、市民活動、社会問題の解決などに、教会特に牧師が御言葉の黙想や祈りから、時間と力を振り向けるほど、教会の衰退は深刻化するだけである。

 

以上のような明確な立場を打ち出している。

 

これはいろいろなところで描いてきたように、もちろん「日本の教会のコンテクスト」に該当することであって、他の国の教会にも普遍的に当てはまるものと思われては困るし、念頭にあるのは最初から最後まで日本の教会であることは言うまでもない。

 

この著書が描いているのは、教会がこの時代を生き抜くための「理念型」や「モデル」であって、「現実の実践問題」や「各論」を第一として詳細に取り上げているわけではないこともまた、著書のなかでも各所で触れられている。

 

日本の多くの教会の現状をじっくりと、公平かつ冷静な目で見ていただき、「どの教会が成長し、どの教会が衰退しているのか」について、偽ることなく見つめてほしいと願っている。

 

私なりの理解では、「成長している教会」とは「礼拝に霊的パワーがみなぎっている教会」であり、「衰退している教会」とは「礼拝の霊的パワーが枯渇し、死んだような空気が流れている教会」だ。

 

「霊的パワー」とは、祈り、説教、賛美歌、献金などすべてを通して、神ご自身の臨在が溢れ、出席者一人ひとりが神の取り扱いを受けて救われている、という恵みの現実が起こっていることにほかならない。

 

こういった霊的臨在、霊的活力といったものは、牧師と教会員一人ひとりが礼拝を通して三位一体の神ご自身を愛する日々の信仰的姿勢の蓄積として生まれてくるもので、「方法論」や「プログラム」などの問題ではない、ということを本書では力説している。

 

なによりも、こういった姿勢で教会に属する一人ひとりが生きていくためには、特に牧師は与えられている週日の時間を、神との関係を深めつつ、御言葉を黙想し、御心の実現を祈り求め、福音を宣べ伝えていくことに費やさなくてはならない。

 

そのためには、牧師は伝道や御言葉の奉仕以外のいろいろな関心事を脇へ置き、神への黙想や瞑想、祈祷や神学研究などを深めることに集中していく必要がある。

 

現実的には、牧師は保育園、幼稚園の園長や、市民活動や、地域での行事や、その他あらゆることに取り囲まれて、神と教会のために自らの時間を使う余裕を失い、また生きていくためにいつもお金がなくなる心配をしていなくてはならず、上記のような基本的な霊的修練がおろそかになってしまうような課題が存在する。

 

こういった状況をふまえて、いろいろな「礼拝・教会」とは「別の分野」であるものを、生活可能なところまでは、ある程度手放し、神と教会の事柄に集中していくことで、「霊的活力」が回復していき、教会は衰退の時代をも貫いて生きていくことができることを、示したつもりであった。

 

もちろん、本書は私がまだ経験や知識がかなり不足しているときに書いたものなので、不備や批判点なども多くあるだろうが、今後の時代を生きる教会の一つの「理念型」としては、現在でも用いられるところがあると考えている。

 

本書の主張が間違いであるとおっしゃっている方も大勢おられると思うし、私はそれについて取り立てて釈明しようとは思わない。

 

本書が間違いを示すためには最も有効であるのは、牧師が保育園や幼稚園をはじめとした園長職や、他の様々な「伝道に関連性が低い分野の奉仕」を多数引き受けている状態で、教会において着実かつ地道に受洗者が起こされ、信仰的に成長していく姿を、具体的に示していただきたいと願っている。

 

そういった状況が実現しているという実例はまったく存在しないかどうか、私にはわからない。

 

ごく少数ながら、そういった実例はあるかもしれないと思っているし、そういった教会がしっかりと立っているなら、その地域にあって神の国の希望の灯をともす拠点となっているだろう。

 

しかし、大半の教会はそうなってはいないということが実態であるなら、本書が現実に該当する蓋然性はなお高いということは、実践的領域から示されるのではないかと思う。

 

本書は理念型とはいえ、現実に実践することで立証することができるものだからだ。

 

本書がいろいろな意味で間違っていると証明されるなら、それは私にとっても喜ばしいことだ。日本の教会が成長して、神の国が広がっていくことが第一に重要なことなのだから、全体として教会が豊かに成長していく姿は、すばらしいものだ。

 

ただ、今のところそういったところが見られない限りは、本書にもまだ、果たすべき役割が残っているのではないかと思われる。

齋藤真行著書紹介③ 『光なき時も ~聖書が語る苦しみの日の慰め~』の意図


タイトルの著書は、多くのキリスト者の方々にも、そうでない方々にも歓迎していただき、個人的には相当の方々に読んでいただいたと、本当に感謝している。

 

この著書の執筆動機は、リーマン・ショックや東日本大震災などの、人知で操作できない巨大な苦しみを見たことにある。

 

苦しんで死んでいく人々を見て、自分が本当にできることについて、神に祈り、問いかけていた。

 

ボランティアとして駆け付けたり、自分の持っているお金を献金することも、もちろん考えたが、これらは自分にできる最善のことではないと思った(もちろんささやかなことでも、可能なことは行ったが)。

 

私は地方教会の牧師であり、幼い子供を養うべき父親であり、お金はいくらあっても足りない状態であるのに、教会は慢性的な財政危機続きだった。

 

同時に、そういった教会を導いていくだけで疲れ果ててしまうほどエネルギーを注いでいたので、震災支援といった領域で私ができることは、限定的で些細なものにすぎないと思えた。

 

そんな折に、サッカーの長友選手が東日本大震災のただなかで、「自分としてはサッカーの試合でよいプレーをすることで、苦しんでいる人を勇気づけたり、励ましたりできればと思う」という主旨の言葉を聞き、深く心を打たれた。

 

「そうか、自分にできる最善のことをすれば、それでいいのだ」という考えが与えられ、「自分としては聖書の言葉を解き明かすことが、できる最善のことだから、そういった本を書くことで苦しんでいる方々に、聖書の慰めを伝えることに集中しよう」と考えた。

 

それで生まれたのがこの著書である。

 

書いているときは、とにかくしんどかった。理由はよくわからなかったが、恐ろしいばかりの重圧が毎日のしかかってきた。

 

おそらく苦しみの状況に対する共感を維持したまま、聖書を説くことの厳しさだろう。

 

お読みになった方はほぼおわかりになると思うが、この著書は私たちが人生で遭遇する「限界状況」「極限状況」と言えるところに置かれたとき、聖書がどんな言葉を語るのか、という視点で、創世記から黙示録まで聖書箇所を選択的に取り上げて、ごく短い言葉で解き明かしたものだ。

 

詩のような文体を採用したのは、言うまでもなく苦しんでいる方々は文字を読む気力も湧かないほど弱っており、本に視線を固定することも疲労を覚えることがほとんどであるため、文字数を少なくして、フォントを大きくすることは、そういった役割を果たす著書として絶対の条件であることを承知していたからだ。

 

結果的に、震災で苦しむ方々ばかりでなく、特に病気や人生の挫折の渦中にある方々に読んでいただき、著者としては大変ありがたいものだった。

 

この著書は以上のような動機で書かれているため、おそらく「限界状況」「極限状況」を深く味わっている方ほど、本書のメッセージに高い共感性を示してくれることが、私には経験的にわかっている。

 

逆に、ある程度以上にこの世的に「幸せ」な人生を生きている方ほど、本書を素通りする傾向があることも知っている。

 

それは、その人々の状況が本書を「必要としていないから」だ。

 

そして、それは幸いなことだと思う。本書を読まなくて済むなら、その方がずっとよい。必要としたときに、思い出していただければ、著者としては満足だ。

 

とにもかくにも、本書は今後も、苦しみ悩み、人生の挫折や極限状況にある方々の歩みのうえに、ごく小さなものでも聖書が示す希望の灯がともるために、用いられることがあれば、書かせていただいた者として大変幸せである。

齋藤真行著書紹介② 『信仰の救急箱』の意図

 

タイトルの著書を書いた意図としては、以下のようなものがある。

 

求道者や信仰者が牧師のもとを訪れたり、電話して助言を求めたりするというとき、「解消できない悩み」がそこに当然ある。

 

その「解消できない悩み」は、更に二つに分かれる。

 

「適切な情報が得られれば、解消できる」悩みと、「情報が得られても解消できない悩み」だ。

 

後者の例については、特に魂の根深いところに原因があるようなタイプのもので、これは時間をかけて向き合い、神による解決を祈っていかなければ、どうすることもできない種類のものだ。

 

こういったものは、とにかく礼拝説教で神に導かれつつ、長期的に解決していく以外にない。

 

一方、適切な情報があるだけで容易に解消するような種類の悩みも、実は非常に多い。

 

そして、そのような情報について、求道者や信仰者は持っていないことが多いため、牧師を訪れて質問したりする。

 

そのような「悩みのもとになる代表的な質問」というのは、情報が得られれば解消されるので、牧師に直接会わなくても、適切な回答が得られればそれでよいということになる。

 

牧師自身も、いろいろと忙しいときには、そういった「情報によって解消される質問」をされたときは、正直「適切な本を読めばわかりますので、そちらを読んでください」と言いたくなるだろう。

 

そういった状況があることをかえりみて、特に求道者や信仰者が抱きやすいタイプの「代表的質問への回答」をまとめたのが、『信仰の救急箱』ということになる。

 

この著書では、求道者や信仰者が信仰の初歩的段階で最も抱きやすい疑問を取り上げて回答しており、大変多くの方に用いて頂いている。

 

この本を今でも読んでいる、というお声を聴くことが、ごく稀にあるくらいだ。

 

この本にまとめられているものは、非常に基本的なものが多いわけだが、私なりの立場はここに書かれているものと現在で、ほとんど変わっていない。

 

その立場というのはは、「保守寄りの穏健な福音主義(宗教改革の伝統を継承している、という意味)」というものだ。

 

一番最初に出版したこの著書と現在で、多少の差は出ているが、立場としてはほとんど同一であると言っていいので、この本を今から書き直すという必要は、私自身は感じていない。

 

私の著書はすべて、「保守寄りの穏健な福音主義」という立場から書いていると自分では思っているので、読者の視点によってそれぞれ違った形に映ることもあると思うが、自分のなかには全体として神学的・論理的一貫性がある。

 

せいぜいこのタイトルについて、変えたいところがあるとするなら、「表紙を今風のものに変えたい」ということだ。

 

今後とも、牧師の皆様は信徒の方々への牧会の一助として、信徒の皆様は基本的な疑問解消のための質疑応答集として、用いて頂ければ、ありがたい。

 

そういった意図のもとに書かれていることをご考慮いただき、本書をご利用いただければ幸せである。

 

なお、紙版のものの在庫が売切れたら表紙を変える予定でいるので、その点についてはご了承いただきたい。

 

齋藤真行著書紹介① 「著書紹介の意図」

 

当ブログで、まことに僭越ながら、拙著の紹介をさせて頂きたい。

 

こういったことをすると、「このブログの狙いは、そこにあったのか! 結局金儲けだな」と憤慨される方もおられるかもしれない.

 

その狙いは、本当のところつい最近までまったくなかった。

 

ただ素晴らしい神学者や神学書の紹介だけをしていればいいと思っていた。

 

ところが、最近になって、自ら著書をかなり書いているものだが、恐ろしいくらいに理解されていないことを実感している。

 

私が書いている意図や基本的な目的と動機さえも、ご理解いただけていないことが圧倒的に多い。

 

正直あまりの無理解と、あまりに無内容な批判を聴くたびに、心底閉口している。

 

ご批判頂くことは、私は著者としては当然のことだと考えているものだが、的外れな批判や、基本的意図さえ誤解している批判の場合は、もう答える意欲さえも湧いてこないので、沈黙だけで済ませている。

 

というのも、そういったご批判をしてくる方々が、私の著書を本当にまじめに読んでくださっていないことは、明らかだからだ。

 

真剣に読んでいれば、決してありえないはずの批判が多いため、自らの著書の紹介をさせて頂くこととした。

 

これは、「強いられた恵み」であると、個人的には思っている。

 

驚かれるかもしれないが、私は目立つことがひどく嫌いな人間だ。

 

自分の業績をみせびらかすことは、人間として最も嫌いなことの一つであるという信念は今でも変わっていない。

 

ところが、このような態度でいることで、多くの批判者はつけあがってしまい、私が無知で無害な人間であると錯覚して、見当はずれな批判をしてくる。

 

これによって、私自身は自らの著書の「説明責任」を果たすよう、神ご自身によって招かれていると、考えざるをえない。

 

そこで、当ブログで不本意ながら、自らの著書の基本的意図を中心とした紹介をさせていただきたいと思う。

 

まことに高慢かつ苛立たしい試みだ、と思われている方がおられるかもしれない。

 

そういう方々は、カテゴリのなかの、このぺージについては閲覧しないようにお願いしたい。

 

私自身はこのブログで売名行為と思われることはしたくないとずっと考えていた。

 

拙著のリンクを張っているのも、このブログそのものも、はっきり言えばこれまで、私が思う通りにはほとんど用いられていないと言えるし、私自身の手間や労力、考えるエネルギーの方がはるかにかかっている。

 

このブログから受け取っている純粋な経済的利益などは、本当に悲しくなるほど微々たるものだ。というよりも、無きに等しい。

 

このブログを運営しない方が、私は人生を楽しむことができる、と言えるほどなのだ。

 

しかし、こういった態度のダークサイドにもはや耐えられなくなったので、仕方なく態度を転換して、ここに恥を忍んで書かせて頂くことにする。

 

これは嘘ではなく、私自身の本音だ。

 

そういった意図であることをご了解いただき、この「齋藤真行著書紹介」ページにお付き合いいただければ感謝である。

 

他の神学書の紹介は、今後も読むたびに継続していくので、読んでいただければありがたい。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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