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カール・バルト 最大誤解:「神の言葉となる」ことについて

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...

 

多くの保守系のキリスト者の方から、「新正統主義(弁証法神学)はまずい。というのも、聖書について〈神の言葉である〉のではなく、〈神の言葉となる〉と教えているからだ」と言われる。

 

「バルトの神学はこういった点について不徹底だったため、教会に悪影響をもたらした」とされ、「だからこそ、逐語霊感説という最も保守的な教理を守らなくては、教会は立つことができない」と言われる。

 

私自身が問いかけたいと思っていることは、こういった議論をされる方は、バルトの『教会教義学』のなかの「神の言葉論」、特に「聖書論」を全部読んだのだろうか、ということだ。

 

おそらくだが、こういった議論をされている90%以上の方々は、「聞きかじりの批判」をしているに過ぎないと感じる。

 

現実に『教会教義学』の「神の言葉」論のところを全部読めば、こういった批判はまったく該当しないことが了解される。

 

バルトの神の言葉論からは、以上のような議論は的が外れていることが明白だからだ。

 

ほとんどの「聖書は神の言葉となる」ということについて「ダメだ」という方々のバルト神学の理解は、バルトが論じているなかでの「主観的」な領域だけにとどまっているのではないかと思う。

 

つまり、「キリスト者が聖書を読んだり、説教を聴いたりしているときに、聖書のメッセージが神の言葉として聴取される瞬間が与えられる。

 

そのとき、そのキリスト者にとって聖書が神の言葉となっている」という点についてのみ、「神の言葉となる」ということを理解している。

 

以上のロジックは範疇としては、「聖霊論」的な部分ということになるが、これはこれとして真理の一面だ。

 

ところが、以上の理解はバルトの神の言葉の神学の「部分」でしかない。

 

バルトが最も重要として重んじているのは、神の言葉の「客観的」な部分なのだ。

 

つまり、「イエス・キリストが現実に肉体をもって地上に来られ、神の救いの業を成し遂げられた」という「イエス・キリストご自身とその御業」という「客観的部分」こそが最も重要な「神の言葉」である、とバルトはしている。

 

そして、こういったキリストご自身と御業によって聖霊なる神が人々に注がれ、キリスト者を教会へと召し出し、救い、神の民へと変革してくださる。

 

聖霊を受けた人々がその恵みの歴史を「記録」して「聖書」が編集され、教会が聖書を通して「宣教」する業によって、世界へと福音を宣言していく業が継続される。

 

これにより、多くの人が「教会の説教」を聴くようになり、救われることになる。

 

つまり、「キリスト者が聖書や説教を聴いて、それを神の言葉として受ける」ということは、「神の啓示」の最後の部分の「主観的」領域であり、それ以前に「イエス・キリスト」、「聖霊の注ぎ」、「聖書」、「教会の宣教」がある、という重大事実をバルトは強調しているのだ。

 

究極的には、バルトは「イエス・キリスト」を「客観的啓示」そのものとして讃美することを、自らの神学の絶対的中心として考えている。

 

これらの「客観的・霊的事実」を最大限に重んじるのがバルト神学の特徴であって、これを理解することなく表層的に「神の言葉になる、はダメだ」というのは、まったくバルト神学の批判としては機能しないし、事実とも異なっている。

 

「神の言葉となる」というのは「キリストの受肉」、「聖霊の注ぎ」、「聖書の執筆や編集」、「教会の宣教」、「キリスト者の信仰」の「すべての領域」で考えなくてはならないことであって、最後の「キリスト者の信仰」の部分だけを考えていては、まったくバルトの意図をとらえそこなっているとしか言いようがない。

 

特に説教論においても、「神の言葉となる」という出来事は、「説教の聴取」という会衆の次元ばかりか、「説教の準備」をする牧師の次元においても起こっている、その両者が出あう「礼拝」においてこそ、「神の言葉となる」ことが起こる、という非常にトータルな理解がバルトの論述にはあると私は受け止めている。

 

つまり、「神の言葉となる」ことは、「主観的領域」というところにおいても、「キリスト者が説教や聖書を聞き、読んだたとき」ばかりでなく、「牧師が準備しているとき」「実際に語られた礼拝の聖なるとき」もあり、さらには「会衆が礼拝の準備をしている週日のとき」もある。

 

以上のような広い領域のなかでバルトは「神の言葉を聴く」「神の言葉となる」ことを論じている。


ただキリスト者個人が「聖書や説教を聞いた時」という、狭い領域での議論ではないのだ。

 

もし「神の言葉となる、という神学はダメだ」という論で、バルト神学を論破されたいという場合は、『教会教義学』の「神の言葉」についての一連の著作は最低でも一度は通読してから批判して頂きたいと願っている。

 

そうでないと、いつまでもバルトが語っていた事実と異なる情報が増えるだけとなり、非建設的な状況が拡大するだけになるだろう。

 

バルトの書物は「とにかく長い」ものなので、読みたくないという気持ちはわかるが、少なくとも本当に批判すべきというなら、該当している著作を全部読むのは、「基本的礼儀」として最低限、必要なことだと思う。

 

バルトの本はほんとど、非常に分厚くてしかも品薄となっており、また高価であるため、図書館で読むことをお勧めしたい。




カール・バルト バルト神学を「超える」?② 「主観・客観図式」の批判的検証

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...


「教会教義学」を読むと、バルトがカントをはじめとした哲学をも非常によく読み込んでいることがうかがえる。

 

バルトは教義学を構築するうえで、かなりの用語を哲学から借用している。

 

「現実存在」「実存」「アプリオリ」など、実存哲学やカント哲学からの借用が多い。

 

一方、バルトもまた時代の子として、知らず知らずのうちに、哲学用語の制約のもとに神学していることを、否定することはできない。

 

私が読んだ範囲では、バルト神学を最も深く規定している哲学用語は、「主観・客観」ではないかと思う。

 

バルトは、「客観的啓示」とか「主観的~」といった用語を使いながら論じることが非常に多いし、彼自身はこれらの用語について、教義学者としてそれほど批判的に検討することをしていないようにも見受けられる。

 

つまり、バルトはキリストの御業を「客観的」な領域、聖霊の御業を「主観的」な領域として大きなフレームワークを構築して、区別しながら、神学を展開していく。

 

ところが、この「主観・客観図式」と言われるものは、ルネ・デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の命題からくる、近代哲学を最も包括的に支配したもので、バルト神学もまたこの図式のおおいなる制約のもとにあるように思える。

 

つまり、神の業を論じるうえで、「主観・客観図式」は非常に役立つものだが、この図式を安易に取り入れすぎることで、かえって独自の神学を展開することができなくなる、ということも起こる。

 

たとえば、キリストの業を「客観的」な領域での神の啓示として整理することはできるが、キリストは客観的ばかりか主観的にも内在されるし、「主観・客観図式」ではとらえにくい、「我と汝」の対話的関係性のなかに臨在されるお方だ。

 

同時に、聖霊なる神もまた、「主観的」に私たちのうちに働かれるばかりか、客観的に外から私たちに注がれるお方であり、それだけでなく人間と物質、自然、人間関係や組織や制度といったところにまでその影響が広げられていくものだ。

 

そうすると、「主観・客観図式」を採用しながら神の御業を論じていくということ自体によって、神の業について「見過ごしにされる」部分や、「とらえることができない」部分、「影となってわからなくなる」部分が出てくるのではないか。

 

バルトは、デカルト的図式である「主観・客観図式」を、相当程度に前提として神学を構築しているため、この図式に縛られて、展開することができなかった領域が広くあるのではないか。

 

「主観・客観図式」という哲学のフレームワークを、まったく別のパラダイムで乗り越えることができれば、おそらくバルト神学をも超えていく道が見えてくるのではないかと思う。

 

たとえばの話だが、東洋思想には「主観・客観図式」ではなく、「全体論」や「流体論」、「場所論」「身体論」と言えるような、西洋哲学の伝統とは異なる図式のフレームワークがある。

 

西田幾多郎の哲学は、「場所論」を展開したことで有名だし、気功などは「流体的」な空間認知を考えるものだ。また、禅仏教などは、「身体論」としても、学ぶところがあるように思う。

 

これらは、もちろん西洋からすれば「異教」の哲学であるわけだが、認識的な「フレームワーク」を抽出して、批判的に応用しながら用いることは神学的にも可能だ。

 

神学がおかしな領域に踏み込んでしまい、「日本化」しすぎる大きなリスクがあるが、細心の注意を払いながら、こういったリスクをも取っていかなくては、新しい神学的認識などは見出すことはできないだろう。

 

かなり突飛な発想になるかもしれないが、こういった「主観・客観図式」ではない、別のフレームで神学を構築することで、バルト神学が展開できなかった領域まで、神学的議論と認識を拡大することが可能であると思う。

 

こういった作業は、日本のコンテクストでは「京都学派」といわれる方々が以前から行っているが、なお十分な可能性の開花には至っていないように感じるし、少なくとも「教会的神学」にはまったくなっていない。

 

また、バルト神学に対しても有効な対論ができるほどのものは、出て来ていないように思う。

 

「主観・客観図式」自体に含まれている問題性が、バルト神学をもかなり規定しているとすれば、バルトを超える新しい神学は、この図式自体を新たに有効な形で問いに付して、別のパラダイムから出発するところに、営まれるところがあるのではないか。

 

もちろん、別のフレームを使えば、別の課題と問題に突き当たるし、それもまた時代的・相対的なものに過ぎないものとして、やがて批判されて消えて行く。

 

しかし、その新しい踏み出しによって、見えてくる新しい神学的風景があるなら、その風景によって導かれる人が一人でもいる可能性があるなら、それはやるだけの価値があるのだ。

 

以下は京都学派関係の著作。内容はそれぞれ深いものがあるが、バランスも含めていろいろな意味で、神学的にうまくいっているとは言えないと個人的には考えている。更なる新しい展開が待たれているのではないか。


カール・バルト バルト神学を「超える」? ①「三位一体論的神学」

 キリストの十字架は、キリスト教の始まりではなく、すべての宗教の ...

 

カール・バルトの神学を「超える」という挑戦的なタイトルで、書いてみたいと思う。

 

ここに書くのは、バルトの神学を批判的に乗り越えていくための道を検討することで、バルトを超える神学自体を構想することではない。

 

おそらくその課題は、専門の職業的神学者にしかできないことだろうし、そのような神学の著述をすることは、いまの私には到底不可能だ。

 

ただ、バルトを超える道について、ごくアウトラインだけを、考えてみたい。

 

まず、バルトの神学は、後に来た世代である私たちが「超える」ことが極端に難しいという事実をまっすぐに受け止める必要がある。

 

彼を「超える」からには、「教会教義学」の内容について、少なくともその本質と概要だけはしっかりと理解しないと、「超える」話さえも始まらないが、実はこれだけで非常に難しい仕事だ。

 

これをするだけで、バルトに取り組み続けたとしても、数年間はかかることはほぼ確実だ。

 

ほとんどの場合、バルト神学を理解する以前のところで早合点し、バルトを理解したつもりになって批判してしまうので、その批判はほとんど当たらないものとなる。

 

北森嘉蔵のバルト批判は(北森先生には大変申し訳ないが)、その最たるものではないか、と感じる。

 

彼はバルトが「第一戒」を自らの神学の中枢に据えた、と考えてバルトを「律法的」として批判を展開したが、ほとんど急所をつけなかったように思うし、北森先生ご自身の神学を裏付けるだけの結果になってしまったように感じる。

 

また、バルトは宗教改革者を非常に注意深く研究して神学を構築しているため、いたずらにバルトを批判すると、同時に宗教改革者や善き教会の伝統まで批判することになり、墓穴を掘るケースも多い。

 

つまり、バルトはある意味、私たちが「批判すべき」神学者ではなく、「超えていく」べき神学者であって、バルトの語っていることにひたすら真摯に向き合ったものだけが、この仕事に従事することができるのだ。

 

ほとんどの「バルト批判」は、バルトの言葉の「聞きかじり」をして、「こんなことを言っているのはけしからん!」というものになっているが、バルトは別のコンテクストでは、真逆のことを語ったりもするため、ほとんど意味のない批判になってしまうことが多い。

 

バルト神学の全体像をとらえたうえで、これを「超える」道を見出すことが、教会と神学に課せられている使命だろう。

 

ルドルフ・ボーレンが「聖霊論」の視座から、バルトを継承しつつ「超える」道を模索して神学を構築したことは、重大な意義がある。

 

ボーレンはバルト神学が、「キリスト中心」を徹底するあまり、「聖霊論的」な領域を切り捨てて行くような傾向を示していることを見抜いて、そこに新しい展開可能性を見出したのだ。

 

おそらく、ボーレンがその道を歩んだように、バルト神学を超える道は、彼の神学の中心である「キリスト論的集中」を、方法論的に乗り越えていく以外にないように思う。

 

ボーレンは、「キリスト論的集中」を「聖霊論」的に超えようとした。

 

しかし、仮に神学的に「聖霊論的集中」をしたとしても、なおそこに対する「超える」契機は残るだろう。

 

おそらく、バルト神学を「超える」のは「聖霊論的」にではなく、「三位一体論的」にしか、ありえないのではないか、と思う。

 

バルト神学に見られる「キリスト論的集中」の「かたより」と「偏向」を、「三位一体論的」な「バランス」と「調和」、「一致と区別」の視座から乗り越える、という道だ。

 

これは神学的に未知の領域であるため、私もまだそれがどのようにしてなされるのか、よくわからない。

 

ただ、中世カトリック教会が「神論」に集中し、近代から20世紀までのプロテスタントが「キリスト論」に集中した。


そして、現代の多くのペンテコステ派などの教派が「聖霊論」に集中しているとする。


とすると、これから後に来る「バルトを超える新しい神学」は「三位一体論的統合」の方法論からしか、歴史的には出てこないのではないか。

 

これは、非常に壮大な展望であるため、ほぼその予測は不可能だが、もしバルトが生きており、彼自身も満足が行くような「超える」道があるとするなら、それは三位一体論的方向だけではないか、と感じる。


カール・バルト 「福音」としての「選び」

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バルトは、『教会教義学』のなかで従来の教義学から新しい一歩を踏み出し、新境地に踏み込んでいる。


そのなかでも、特にバルトの描いた「選びの教理」は、その斬新さにおいて卓越している。

 

カルヴァンの路線を引き継ぐところでは、選びの教理は「神が救われる人間を天地創造の前から選んでおられる」という教えとして語られる。


つまり、人間の信仰の決断に先行して神の選びがあるのであり、人間は神の絶対的な選びの意志のもとにある者に過ぎない。

 

「自分の意志や自力による救い」を最後まで抜き去り、「恵みのみによる救い」を徹底するところに、従来の選びの教えの意義がある。

 

しかし、バルトはこうした選びの理解は非常に硬直化・固定化・静的されたものであるとして批判する。

 

むしろ、神の選びはダイナミックなものであり、「すでに決まっていることをただ進めるだけ」というような決定論的なものではない、とする。

 

バルトは選びの教えにおいても、「キリスト論的集中」の方法論でまっすぐに切り込んでいく。

 

神が第一義的に選んでおられるのは、私たち人間というよりも、御子イエス・キリストなのだ、というところから出発する。

 

神はキリストを選び、ご自分の救済の計画を成就された。キリストの十字架と復活の御業のうちに、「選びと遺棄」が示されている。

 

つまり、キリストは神の「選ばれた」御子として遣わされたが、人類の罪を背負って十字架につけられた。


人間の救済のために、「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、命を犠牲にされた。

 

まさにキリストこそ私たちに代わって神によって「捨てられた」者、神によって「遺棄」された者なのだ、とバルトは宣言する。

 

私たち人間が神によって、罪のゆえに捨てられる以前に、キリストが罪を担い、神の遺棄を引き受けてくださったのだ。

 

キリストが私たちに代わって神によって捨てられてくださったことで、神は「人間が神によって捨てられてしまう」という罪による地獄的な状況を、消し去ってくださった。

 

つまり、「自分は神によって捨てられている。自分は神に選ばれていない。


自分は神によって遺棄されている」という人間の状況は、キリストによってすでに勝利されている「影」のようなものとしてしか、存在しなくなった。

 

「神による遺棄」という地獄的状況は、キリストによってすでに打ち破られた。


つまり、神はそのような「捨てられる」可能性を、ご自分のうちに死の苦しみをもって引き受けてくださったのだ。

 

「神に捨てられる」「神によって選ばれない」という可能性は、人間が愚かにもキリストの十字架の御業を受け入れず、信じないことによる。

 

つまり、すでにキリストによって抹消されているはずの「遺棄」の死の影を、キリストを認めないがゆえに、愚かにも改めて引きずり出し、自分をその闇にさらしてしまうのだ。

 

バルトは「イスラエル」と「教会」、「選ばれない人間」と「選ばれた人間」の関係性を論じながら、「神によって選ばれない」という現実は、「不可能の可能性」なのだ、とする。

 

つまり、キリストによってすでに勝利され、不可能とされているはずのものを、わざわざそれを認めない不信仰によって自分の身に現実化してしまう、人間の愚かさを言っているのだ。

 

神は、人間の罪による「遺棄」の苦しみと悲惨を、ご自分で担い、引き受けて、勝利してくださった。


だから、神は人間を救いと生命に選んだのだ。神はご自分を犠牲にすることによって、人間を愛することを、自ら選んでくださった、ということだ。

 

しかし、人間が自分でキリストへの信仰を選ばないということによって、自分自身を救いに値しないものとして、神から切り離している。


信仰者はキリストへの服従を選び取ることによって、神によってすでに退けられた「遺棄」の暗闇を後にして、神の選びの光のなかに分け入っていく者だ。

 

カルヴァンの選びの教えにおいては、神は人間を救いと滅びに選び、予定しているということで、「二重予定説」と言われた。


この教えは、「神に選ばれていないなら、どんなに信じようとしても無意味だ」というようなネガティブな意味にとられ、おおいに誤解されるもとになった。

 

カルヴァンの教えた神は「冷徹な絶対的意志で不可解にも人間を救い、殺すような血も涙もない神」というような偏見を与えてしまった面はあるように思う。


これがカルヴァンの教えの誤解だとしても、そういう理解を引き起こす要素が、彼の教えのなかにまったくなかったとは言い切れない。

 

しかし、バルトは神がキリストにおいて「遺棄」をご自分に担われた、という主イエスの十字架の御業を語ることで、選びの教えを根本的に深化・発展させてくれた。

 

このバルトの神学的功績は、おそらく歴史を振り返ったとき、20世紀の神学的前進の大きな一ページを飾ることになるのではないか、と感じる。

 

つまりバルトは、「選び」が「福音」であり、「恵み」であることを、新たに神学的に実証してくれたのだ。


カール・バルト 神の「客観性」

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バルト神学の長所について再度論じたい。

 

彼の神学の大きな特徴に、「神の客観性の強調」ということがある。

 

「近代自由主義神学」は、「信仰の主観的側面」を非常に強調した。

 

バルトは、「人間がどう考えようと、どう信じようと、関わりなく厳然として実在しておられる、恵み深み神」を考え続けた。

 

つまり、「神学において大切なのは、人間ではなくあくまで神なのだ」ということだ。それをさまざまな論理をもって叫び続けた。

 

それとは逆に自由主義神学は、「人間が神をどう考えているのか、それこそが重要なのだ」という形で、人間の側の神への理解や解釈、意識などを第一の課題とした。

 

バルトは、自由主義神学が「神」のことを語りつつ、結局「人間学」となってしまうことを憂慮した。


神が人間的次元に矮小化されてしまうなら、人間自体に疑問符がつきつけられる困難を迎えるとき、その問題が克服される道が失われる。

 

バルトにおいては、これは具体的に第一次世界大戦という形で襲いかかった。


人間の主観を語ることに熱中する自由主義神学の、彼自身の教授たちが、みな戦争に賛成する姿を見て、「この神学ではだめだ」と考えるにいたった。

 

人間そのものが問題化するときには、人間を超越する問いの立て方や、人間を超える存在が示されない限り、問題は解決されない。

 

バルトは、人間そのものが問題となってしまった時代に、「人間はもともと問題と疑問だらけのものだが、神は確実であり、神こそ真理なのだ」と語ることで、人間に失望している人々に神の光を告げ知らせた。


それが彼の処女作『ローマ書講解』の意義だと言える。

 

このように、「神の客観性」を強調し続けることで、バルトは人間を超越する次元からの救いを描いた。

 

神を人間的次元で論じることは、一面においては神が「身近な存在になる」という長所がある。


これは同時に、「人間とは絶対的に異なる、神ご自身の力と権威」が希薄になる、という決定的な弱点をも含んでいる。

 

イエス・キリストというお方は、罪人の身近で御業をなされたが、同時に罪人とは完全に違う世界を見ておられ、違う世界の力をもって救いをなされた。


この「類似性」と「差異性」の両者に、イエス・キリストの真理がある。

 

バルトは、「神は人間と同じようなものだ」という方向に進み行く人々に対して、人間を超越する神の力を示すことで、当時の教会と牧師たちを励まそうとした。


人間には希望がなくとも、神にはそれがあるのだ、ということを言いたかったのだ。

 

信仰生活の局面でも「自分の側としてどう神を信じているか」という主観的側面と、「信仰に関わりなく、神が私たちに臨んでくださる、無条件の恵み深さ」という客観的側面の両方がある。

 

信仰の「主観面」と「客観面」をしっかりと把握してこそ、信仰生活は安定する。

 

バルトは、神の無条件の恵み深さという神の御業の「客観面」を強調することにおいて神学的天才であったし、彼の教えは教会にとって非常に重要な財産であり続けるだろう。


カール・バルト 「弁証法神学」とはなにか

 

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カール・バルトの弱点の記事を自分なりにいくつか書いたので、今度は彼がなにを問題としたのかについて考えたみたい。


バルト神学には「近代自由主義神学」に対する批判が根底にある。


「自由主義神学」は、「正統主義神学」に対するアンチ・テーゼだ。


「正統主義神学」は、教会の「教理」に対する忠誠のもと、営まれる。信仰告白や信条が語る教理を、可能な限り広く深く展開することがそのモチベーションにある。


一方、「自由主義神学」は教会の「教理」に対する懐疑や批判が前提としてある。


教会の教理を、なんらかの形で不十分な、ネガティブなものとして考え、それに対する別の選択肢を模索するものだ。


前者の弱点は、教会の教理にどこまでも拘束されるため、思考が固定化してくる面がある。


生命的な信仰の躍動感が消えて、「スコラ主義」的になってくる。


長所は、少なくとも教理を守るという動機が強いため、「教会形成」においては、建設的に働くところだ。


後者の弱点は、教会の教理を批判するあまり、ついには「教会の否定」や「信仰の否定」にまで行き着きかねない。


教会破壊の働きをしうるものになる。長所は、教理による拘束を逃れたところから新しく見える風景を提示することで、新しい視点を導入することができる。


バルト神学は、「正統主義神学」と「近代自由主義神学」を、「昇華」したものだ。


ここから、「弁証法神学」という呼び方が生まれている。


「弁証法」とは哲学者ヘーゲルの方法論だが、ある命題と、それを否定する反対命題が葛藤することを通して、これらを乗り越え、昇華した第三の命題が生まれてくる、という論理の流れを描いたものだ。


バルトは、「正統主義神学」の長所と、「自由主義神学」の長所が共に活かされるような、昇華された神学を生みだした。


それが「弁証法的」であるから、「弁証法神学」と呼ばれる。


バルトは、正統主義神学をも建設的に批判し、自由主義神学も建設的に批判するところで神学を営んだ。


だから、ある意味では両者から叩かれ批判されるし、両者から「いいとこ取り」され、利用される宿命のもとにある。


バルトの後の「正統主義的」な神学者は、彼のそうした部分を利用し、「自由主義的」神学者は、彼のそうした部分を利用した。


お互いに、「バルトはこう語っている」と言うが、バルトはその両者を「昇華」した立場から語っているのだ。


バルト神学の分量はとてつもなく多いため、「バルトはこう言っている」という短い引用はほとんど意味がないと言える。


バルトは別の文脈では、まったく別のことを語っていることもあるからだ。「どんな文脈で語られている言葉なのか」ということが、とても大切だ。


バルトの立場は、「正統主義」と「自由主義」が「弁証法」的に「昇華」されたものであると認識して読まないと、結局彼の神学を自分の立場のために「利用」するだけになってしまうのではないか、と懸念される。


カール・バルト バルト神学の弱点②

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最近、自分なりにではあるが、自分が学んだ範囲でのバルト神学を総括したいという心の動きがあるのか、バルトについてネガティブな部分を書きたい思いがある。

 

誤解しないでいただきたいが、私は洗礼を受けてから今日に至るまで、自分の神学の根底はバルト神学だと考えているし、彼の神学について大部分において肯定的に考えている。

 

ただ、これから自分なりの一歩を進めていくために、ネガティブな部分について整理しておきたいので、ここに書かせていただいている。


バルトが好きでたまらないという方には恐縮だが、お許しいただきたい。

 

バルト神学の弱点について思う第二点は、彼の神学が「神」を過度に強調しすぎたのではないか、ということだ。

 

これは、もちろん彼の神学の最大のポジティブ要素でもある。


彼は「人間」ばかりを強調してきた近代神学が、結局人間の感情に流されて妥協に次ぐ妥協を重ねていく有様に苦しみ、「問題なのはただ神であり、人間ではないのだ」というメッセージをとてつもない情熱で叫んでくれたのだ。

 

人間の罪の泥沼に沈もうとする混乱を経験していた人々にとって、彼の叫びはまさに神の言葉として響いたといえる。

 

しかし、この彼の神学の最大のポジティブ要素が、実は別のコンテクストにおいてはネガティブに反転するものではないのか、ということを考えるのだ。

 

つまり、現代の日本のような、キリスト教会が日本のコンテクストに広く深くはまだ土着していないような文脈だと、彼の神学の叫びは日本の土壌から教会を遊離させてしまいやすい。

 

「大切なのは神であって人間ではないのだ」というメッセージは、キリスト教的世界があまりに人間臭いものになってしまったヨーロッパの土壌では、素晴らしい解放の光を放ったと思う。

 

だが日本という教会の文化が深くは根づいていないところだと、彼の叫びが超越的であればあるほど、それは現実的には「会衆席のうえをすっぽ抜けていく説教」になりがちになるのではないか。

 

つまり、日本の文脈だと、「神を強烈に強調する神学」が、それを受け取ったところが「文脈から外れた、仮現論的信仰」に変質してしまいはしないか、という危惧があるのだ。

 

もちろん、こうしたことは彼の神学を誤解することからくることは明らかだ。


彼の神学を真実に受け入れるなら、こうしたことにはならないと思う。


しかし、こうした傾向を引き出すような「なにか」が彼の神学にあるのも確かだと思えるのだ。


日本においては、バルト神学がするよりも、もう少し「人間」の側に強調点を置いた神学の方が、「日本伝道」という至上命題のためには、貢献するところがあるのではないか、という思いがする昨今である。


ところが、バルトは自らの歩みの最期のところで、「聖霊論」への示唆を残している。


『神の人間性』という論文で、それまでの神学的足跡を新たにするような形で、「神と人間の距離」をまったく塗り替えるような、「聖霊論」への示唆を示している。


ここまでイエス・キリストをひたすらに考え抜いた人が、最後に新しい地をのぞみ見ているような思いが垣間見られるようで、バルトの認識の広さと神の懐の奥深さをおぼえ、胸が熱くなる。


彼は自らの神学の弱点をも把握したうえで、これをさらに継承していく道をも示し、後に続く者たちへの栄養として自ら墓に横たわったのではないだろうか。


カール・バルト バルト神学の弱点(私見)

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神学生時代の最初の二年間は、私の頭のなかはほぼすべてが「バルト神学」だった。

 

明けても暮れても『教会教義学』を読み、これについて考え続けていた。

 

わたしはバルト神学に完全に酔っていた。これほどすばらしいものは他にないと考えていた。

 

ところが、今現在、私はほとんどバルトは読まない。ときどき、比較的短いものを読むだけだ。

 

牧師として奉仕する実践の現場では、バルトの書物は「重すぎ」「長すぎ」で、なかなか読みにくいという実際的な面もある。

 

しかし、内容的な部分でも、ほのかにバルト神学の「弱点」のようなものを感じるようになってきた。

 

その弱点というのは、バルト神学に最初から存在した、「神と人間との距離」という問題だ。

 

バルトは『ローマ書講解』で出発したが、この書物の原理は「神と人間の無限の質的差異」に基づいている。


つまり、神と人間の距離を近づけることで神を矮小化した近代プロテスタント神学に対する「否!」をつきつけているのだ。

 

シュライエルマッハーを中心としたそうした神学は、神を人間に近づけるあまり、神を人間の側に合わせて小さくしてしまった、だから改めて神と人間の「違い」を徹底的に強調する必要がある・・・それが彼の処女作の問題意識だったと思う。

 

この問題意識が展開して、やがて『教会教義学』にまで発展していくが、後期バルトは神と人間の距離をあまりにへだてるような思想傾向は捨てて、宗教改革的なバランス感覚に満ちているとわたしは思う。

 

しかし、「処女作」にはその思想家のすべてが萌芽として秘められていると言われることには、真理がある。

 

バルト神学の基本には、「神と人間の断絶」がやはり最後まである。


そして、ある意味ではこれがバルト神学の弱点なのではないか、と感じるようになってきた。

 

「弱点」というのは、「日本という文脈で伝道していくうえで」の弱点、という意味だ。

 

つまり、日本で牧師やキリスト者として信仰の実践を行う現場では、「神と人間は断絶しており、神は人間とは違うし、神と人間の間には距離がある」という考え方だと、なかなか通用しない場面が多い。


いや、通用しないというよりも、こうした考えだと信仰の実践をしていくのが非常に「きつくなってくる」のだ。

 

牧師やキリスト者としてキリスト教に対してあまり好意的でない社会で働いて、くたくたに疲れているとき、「神とわたしの間には距離がある」という考えは、「平安」や「安息」になりにくい。


むしろ、「あなたは神の御心には達していないから、ダメだ。信仰が足りない」というメッセージが含まれているように感じられる。

 

バルト神学は理論的にまったく正しいと思うし、宗教改革的にも正しい路線を歩んでいると思う。


しかし、日本の牧師やキリスト者の現場での「実践」として、それがどこまで適合的かと考えると、心もとなさを覚えるのだ。

 

というのは、日本社会でキリスト者として生きることには、社会との距離をいつも感じさせられ、自分は日本では異分子だ、という思いがつきまとう。

 

そういう日本人キリスト者が、「神と人間の間には距離がある」と言われるのは、神とも距離があり、社会とも距離があるということになり、「非常にきつい」のだ。「しんどい」のだ。

 

キリスト教が社会に溶け込んでいる欧米の文脈なら違うかもしれないが、日本においてバルト神学はこうした難点があると思う。


むしろ、「神と人間は人間が考えている以上にずっとずっと近いのだ」と言ってくれる神学の方が、さびしく寄る辺ない思いをしている日本人キリスト者には、しっくりくるように思う。

 

このテーマは、また改めて深めていきたい事柄だ。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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