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エドゥアルト・トゥルナイゼン 「人間的なものの死」としての説教

 Eduard Thurneysen – NAMENSgedächtnis

『神の言葉の神学の説教学』という書物に収録されている、トゥルナイゼンの「説教の課題」という文章は、ある意味ではバルトよりもはっきりと、独自の立場を打ち出しているように思える。

 

この文章は、人間的なものの周囲を旋回する説教を激烈な言葉で批判しているもので、読んでいると胸が苦しくなるような迫力がある。

 

バルトは『ローマ書講解』で、「神と人間の無限の質的差異」を強調して、「人間ではなく、神こそが問題なのだ!」ということを徹底的に展開した。

 

トゥルナイゼンはこの「説教の課題」という比較的短い文章のなかで、この調べをさらに先鋭化して、次のように語っている。

 

「『わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく・・・十字架につけられたキリストを宣べ伝える(第一コリント1:23、第二コリント4:5)。人間およびいっさいの人間的なるものの死を宣べ伝えること、これ説教の課題である。」(189p)

 

トゥルナイゼンが激越な文章で批判しているのは、説教の中心が結局のところ、「神ではなく、人間」になっていくという、流れ全体なのだ。

 

シュライエルマッハーは、人間のうちに湧き出る「絶対依存の感情」こそが宗教の本質であることを語ったが、この理解だと「大切なのは神がなにをなさるかではなく、人間がそれをどう感じるかである」ということになる。

 

自由主義神学も、人間と神の連続性を考えるカトリック神学も、同じように「神よりも、結局は人間が大事」という流れに屈してしまうものである、とトゥルナイゼンは考える。

 

説教の主題と中心が人間的事柄になるなら、礼拝のなかで、結局礼拝対象もまた神ではなく人間となってしまう。

 

危険なことに、人間を第一に据えた説教のほうが、人気が出て教会がにぎわったりもする。

 

トゥルナイゼンは、こうした「神よりも人間を!」という人間の自己中心的潮流のすべてに、「否!」を投げつけているのだ。


「自分自身や人間のことではなく、キリストを宣べ伝えよ!」ということを、先鋭化して表現しているのだ。

 

彼は、二つの「規則」をあげている。

 

第一は、「雄弁は用いるな!」だ。

 

人間的なテクニック、情熱的演技、感情的弁舌、心理的理解など、すべては「神を語る」という至上命題の前には、無意味となる。

 

雄弁を用いることそのものが、牧師自身の魅力、教会の魅力、人間的事柄を高めていくためのものになってしまい、結局神の真理が覆い隠されてしまう。

 

第二は、「聴衆の需要に応えるな!」だ。

 

聴衆が抱えている人間的問題や人間的悩み、宗教的欲求などに応えようとしているうちに、結局神のことを語るのではなく、人間が主題となってしまい、人間の問題解決のために説教が終始してしまう。


むしろ、そういうことは度外視して、「神がなにを語り、神がどう働いているのか」に集中せよ、という。

 

以上のトゥルナイゼンの論述には、賛否両論があると思うし、彼の方法論のままを現代に適用すると、おそらくその教会の会衆は「先生の説教は厳しい。難しい。ついていきにくい。抽象的な感じ」という印象や感想を抱くように思う。

 

ただ、彼が語りたかった最も重要なことは、「説教の主要な課題とは神を語ることであって、人間を語ることではない」ということだ。


このことについては、一片の疑いもなく、「アーメン」と答えることができる。


この論説においては、この決定的な点を受け止めることができればいいのだと私は思う。

 

説教において最も重要な真理を先鋭化して強調したものとして読むと、得るところが大きく、説教について実践するなかで迷いが生じたときに、何度でも原点に立ち戻らされる、そういう「悔い改め」をもたらしてくれる文章だ。


エドゥアルト・トゥルナイゼン 「牧会」における「断絶線」

 Eduard Thurneysen – NAMENSgedächtnis

エドゥアルト・トゥルナイゼンは、彼自身の神学においてよりも、「バルトの親友」として有名なのかもしれない。

 

バルトが田舎で牧師をしていたとき、隣の村に住んでいたトゥルナイゼンのところに自転車で長時間かけて行き、暗くなるまで夢中になって神学のことを語り合った、という思い出の記述をバルトの評伝に読んだときは、バルトを心底うらやましく感じた。

 

田舎で牧会していて、そこまで深く神学的に響き合うことができた友人がいたというのは、トゥルナイゼンにとっても大いなる祝福だっただろう。

 

この二人は神学的盟友として、その後もずっと歩みを共にすることになる。

 

トゥルナイゼンの著作については、『牧会学』が最も有名だろう。

 

この書は、説教とは教会の会衆全体に対するみ言葉の宣教であるのに対し、牧会は個人へのみ言葉の宣教であると定義している。

 

「牧会」というと、最近の心理学をふまえた「牧会カウンセリング」の大きな影響で、「傾聴すること」が第一に据えられている印象がある。

 

「傾聴すること」の大切さは、たしかに特筆すべきことだ。


牧師という「教える職務」が習慣化してくると、「人の話を聞かずに、しゃべりたがる」という癖がどうしてもついてしまうため、「傾聴」の教えは常に重要だ。

 

しかし、トゥルナイゼンは、「傾聴すること」を「み言葉を伝える」ことの前段階とする。傾聴だけで牧会が尽きるとは、考えていない。

 

牧会を求めているキリスト者は、常識的・心理的・人間的問題を、牧師に打ち明ける。


職業、夫婦関係、子育て、金銭問題など、ほとんどキリスト者といえども、牧師に助言を求めて語るのは「この世な問題」だ。

 

牧師はそれを、傾聴しなくてはならない。それも、相手の心が透徹してくるほどに、真剣に聞かなくてはならない。

 

トゥルナイゼンは、この「聴く」態度を、クリストフ・ブルームハルト(子ブルームハルト)から学んだようだ。

 

彼はブルームハルトが助言を求めてきた人の話を、「異常な真剣さ」で取り上げる姿勢に、深く感銘を受けている。

 

この「聴く」ことが、「語る」ことの重要な準備となる。

 

牧師はまったく人間的・この世的問題を聞いたとき、これを聴きながら聖書を通して解釈している。聖書的角度から、この問題を見分けているのだ。

 

牧師は相手の話を取り上げ、質問し、導いていくが、あるとき「断絶線」にさしかかる。

 

つまり、「人間的・この世的問題」が、牧師の聖書的角度からの解釈によって、「信仰とイエス・キリストへの服従の問題」へと、一線が踏み越えられて変容する瞬間がくるのだ。

 

人間的・この世的問題を聖書に照らして聴き続けることで、この問題にみ言葉がなにを語っているのかが見えてくる。それを、牧師は相手に伝える。

 

これが、個人へのみ言葉の宣教なのだ。断絶線を越えて、相手は信仰の領域に引き込まれる。


そして、自分の抱えている問題が聖書と信仰のパースペクティブからして、どのように理解できるのか、なにが神から自分に求められていることなのか、それを牧師から聴くことができるのだ。

 

以上がトゥルナイゼンの語る「牧会」の姿であって、「傾聴」を通して「み言葉の宣教」へ至り、これにあずかったキリスト者はキリストへの服従を決意して牧師のもとを去っていく。

 

以上のトゥルナイゼンの論述は明晰そのもので、深い感銘と理解をもたらさずにはいないものだ。彼は心理学もまた、牧会の補助学として機能するもので、心理学を学ぶ重要性も語っている。

 

トゥルナイゼンの牧会学の教えは、ある意味では「説教学」でもあり、「伝道学」でも「弁証学」でもある。

 

私は彼の「牧会学」から、説教についても深く強く教えられる思いがするし、日本のような伝道地のコンテクストでも十分耐える内容があると思う。

 

罪に満ちた人間的・常識的・この世的問題が、「断絶線」を越えて信仰と主イエスの光のなかに取り上げられ、新しい世界の恵みのなかで認識されることは、説教・伝道・証しの営みの本質でもある。




齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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