日本伝道について③ 「天皇」をどう理解するか

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神学校時代に教えを受けた松谷好明先生の『キリスト者への問い あなたは天皇をだれと言うか』の著書を頂いたので、読ませて頂いた。

 

これは先生の長年の問題意識の発露で、歴史的に天皇制について検証し、キリスト者が抱く素朴な問いについて、鋭利な批判を加えている。

 

この書が問題としている問いに、「天皇はキリスト者になりうるか」ということがある。

 

これは、素朴で熱心なキリスト者が夢想するような種類の問いであって、「もしそんなことが奇跡によって起これば、日本はキリスト教国になるに違いないから、これを祈り求めよう」というような動機から出ているようだ。

 

本書はこういった問いへの答えとして、「天皇がキリスト者になることはありえない」ことを、歴史的に検証し、論じていく。

 

キリスト者が抱いているような想いを幻想として打ち砕き、より現実的な地盤に立つことを求めている点で、確実な歴史的リアリティに裏打ちされているものだ。

 

もうひとつの課題として、天皇制についてのキリスト者の理解を問い直す作業を行っている。

 

天皇制をキリスト教と「両立するもの」と考える理解を批判し、天皇制はキリスト教信仰とは相いれない、という認識を歴史的にとらえていく。

 

これまで日本の多くのキリスト者が、天皇制について妥協的な理解をし続けている点について、「それでいいのか」という厳しい問いかけを行っており、この課題への理解と真摯な姿勢が随所に示されている。

 

ここで紹介されている知識や歴史的情報は、ほぼ正確なものだと考えていいだろうし、カトリック教会と天皇家との関係など、多くの人が知らないような事実もまた、綿密に調べられ、書かれている点で、これまでの研究の一線を踏み越えたものではないかという印象を受ける。

 

こういった書物を書くこと自体、非常に勇気がいることは明らかだが、著者の伝道者としての信念と矜持、これまでの日本の教会の歩みへの痛切な反省にうながされて、この領域の研究のまとめとして、出版されたようだ。

 

いろいろな教派の有名な指導者を、名前をあげながら、天皇制への姿勢が不十分で妥協的であるとして批判している点で、かなりリスキーな橋を渡っているが、それもすべて覚悟の上であって、大変勇気があるものだと言えるだろう。

 

(もちろん、批判をされている先生方にとっては、不快な思いをされているかもしれない。

ただ、著者の人柄をほんの少しばかり知っている者から一言だけ書かせて頂くと、松谷先生は信念の人で、まったく悪意などもっておられず、ただ純粋に神学的・理論的な方面から純粋な思いで批判されているだけであることは、ご理解いただきたいと願っている。

非常に手厳しい面があるのは否定できないとしても)

 

この著書は今後、現実的に天皇制といったことにどう向き合っていくかを考えるうえで、参考となる資料となるだろう。

 

ただ、歴史や情報についてはその通りだろうが、一点私が読んでいて違和感を覚えた部分があるので、それについて触れてみたい。

 

天皇制という課題は、リチャード・ニーバーが描いた「文化とキリスト」の課題と重なるものとして理解できる。

 

本書では、ニーバーが語った「対決型」の理解で、天皇制と向き合うようにアピールしているように思えるが、私にはどうしても、それでは日本伝道は難しいと思う。

 

つまり、信徒の方々、特にご年配の方々のなかに、かなり多くの天皇家や天皇のファンがおり、素朴に天皇に敬意をもっておられ、また天皇制についても疑いをまったく抱いてはおられない。

 

年配者ばかりか、比較的若年の世代でも、天皇やこの制度についてことさらにネガティブな思いを持っていない人は多い。

 

そういった多くの人の間で、天皇制のネガティブな面を示しながら「対決型」で接していくことは、いろいろな意味でお互い、実践的・現実的には「身が持たない」のではないかと思う。

 

本書の著者はおそらく、ニーバーの類型ではこれまでのキリスト者の理解が、天皇制と教会の「一致型」であったことを反省し、批判しておられる。

 

それを「対決型」に転換するように、ということだろう。

 

私はこの点については正直、無理だと感じるし、ついていけないところだ。

 

かといって、ニーバーがいう「変革型」については、「まったく現実性がない」ことを、著者は歴史的にはっきりと示されている。

 

カトリックが採用しているような「総合型」の行き方も、いろいろな面でプロテスタントには無理だと言わなくてはならない。

 

であれば、天皇制について違和感も抵抗感も持っていない信徒や地域の方々に対して、忍耐強くすべてを統治するキリストの主権を証しながら、そういった方々を地道に愛していく以外にないように思われる。

 

ことさらに天皇制への対決型を打ち出すと、かえって抵抗感を醸成して、伝道するうえでの人々の心理的な壁を高くしてしまうのではないかという危惧がある。

 

天皇制へのプロテストよりも、「世俗化」の潮流へのプロテストの方が、現代ではより教会の生命にとって緊急の課題であるようにも思える。

 

こういった立場も、「妥協案」ということになるのかもしれないが、今のところは自分としてはこういった考えであることを、参考までに書かせて頂いた。


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