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「聖化の神学者」カルヴァン

 ジャン・カルヴァン[22214001434]の写真素材・イラスト素材|アマナ ...


神学生時代、信仰のことで不安定になり、いろいろ迷って苦しくなっていたとき、神学校の先生に相談した。

 

するとその先生は、「あなたの課題については、ルターというよりもカルヴァンから学ぶといい」と言われた。

 

先生はその意味について、こういう趣旨のことを言われた。

 

「ルターは『義認』にフォーカスした神学者で、『どうすれば義とされるか』を生涯追求した。だから、ルターはある意味で生涯の最後まで迷っている。


その分、ルターの神学は主の十字架の深みを示してくれるが、疑いや不安というものと最後まで戦っていくことに意義を見出す面がある。

 

 

それに対して、カルヴァンの神学は『聖化』にフォーカスしており、『救われた後、どう生きるか』を教えてくれる。


カルヴァンは義とされたことを大前提にして、その後を考えることを教えてくれる。信仰が不安定になって、不安や疑いがあるときは、カルヴァンの教えに学ぶといい」

 

私のそのときの悩みは、「義認」についての疑いの悩みだったと記憶しているが、先生は私の悩みをしっかりと見抜いたうえで、カルヴァンの神学によって「義認」を超えた先の道を示してくれた。そのときの先生の指導をいまでも大変感謝している。

 

カルヴァンは、確かに『キリスト教綱要』のなかで「聖化」に特に集中していると言える。単純に、割いている分量から言って第三編、第四編の「信仰」や「聖霊」、「教会」を論じるところに力を注いでいることがうかがえる。

 

そればかりか、カルヴァンが及ぼした歴史的影響からして、彼の「聖化」にかかわる神学的傾向は明らかになる。

 

リチャード・バクスターなど、カルヴァンの影響を受けたピューリタンの文献を見るとはっきりするのは、「生活の合理化と効率化」ということだ。

 

「よりよく生活し、より大きな神の栄光を顕す」ということは、生活を合理化・効率化することによって、「神の栄光が増されるために」という目的のために自分自身を最適化していくことを意味している。

 

そのことは、「自分は救われるのだろうか」という疑いが少しでも残っているなら成り立たない。この疑いと最後まで戦うことがルターの神学の深みなら、カルヴァンの神学はこれを乗り越えていった先で営まれる。

 

「救い・義認」についての疑いが完全に払拭されたあとに、「神の栄光に向かって自分を最適化していく」歩みが可能となる。

 

カルヴァンの教えは、「義認」や「救い」についての疑いと不安をぬぐい去り、その後の歩みを神の栄光のためにささげていく「聖化」の歩みを教えてくれるという意味で、「信仰の安定と確立」のためにおおいに役に立ってくれる。

 

「自分は本当に救われるのか」といった疑いに取りつかれているときは、カルヴァンの教えに耳を傾けることを、ぜひお勧めする。力強い慰めがあるだろう。

 

以下は『キリスト教綱要』の要約。チャプターがそれぞれ濃密な7行にまとめられており、全体像を把握するためには非常によい。


ジャン・カルヴァン 「自己認識」と「神認識」

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カルヴァンの『キリスト教綱要』の初めの部分に、非常に興味深く、的確なことが書かれている。

 

それは、人間の自己認識と神認識は繋がり合っている、ということだ。

 

神を知ることなくして、自分を知ることはできない。自分を知ることなくして、神を知ることはできない。

 

この両者の間には、深い関連がある。

 

個人的な経験を話そう。

 

私もよくキリスト者として生活していると、「これはひどい罪を犯してしまった」と思うことがある。

 

なにかひどく神の愛にさからうようなことをして、罪を犯すまでは、無意識的にどこか「自分はよい人間なのではないかな」というほのかな感覚を持っている。

 

ところが、罪を犯して神の前に沈むと、自分はやはりとんでもない罪人でしかなかった、ということを思い知る。自分が正しく、善い人間であることなど、幻想であり、自分は神の前に反逆者でしかないのだ、と知る。

 

ところが、こうして自分の罪を認めてへりくだると、不思議なことが起こるのだ。このことによって、神の愛がより深く示されるのだ。

 

それまでは、なんとなく自分は善い人間であると思う・・・という感覚が邪魔をして、神の慈愛を見えなくさせていたのだ。

 

ところが、自分が破滅するしかない罪人であることを知ると、こんな自分は神に頼む以外にないことがはっきりとし、そして同時にこんな自分をなお愛して下さるキリストの恵みを深く心に味わう。

 

そして、神を信頼し、その恵みを味わうほどに、自分はこのお方なしには滅びる以外にないことを思い知る。


自己認識においては、神の前にどこまでも低くへりくだり、神認識においてはどこまでも神の力の偉大さを讃える。これこそが、「信仰」の基本だろう。

 

自己認識と神認識がどこまでも深められ、広められていくのが信仰生活だ。

 

この本質的な理解を最初に書き記しているのは、「さすがカルヴァン先生です。お見事です」という以外にない。



ジャン・カルヴァン 「固い食べ物」のような教え

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カルヴァンという神学者で私が連想するのは、パウロが語っている「固い食物」(Ⅰコリント3:2)だ。

 

カルヴァンの神学は、「堅固・堅実・確実」な印象を受ける。

 

カルヴァンの神学は、よく噛んで味わうと、非常に養われる。

 

信仰がふらついている人にはもってこいだ。

 

「堅実な安定した信仰が持ちたい」人は、カルヴァンをよく読むといいと思う。

 

堅固な解釈、正統な信仰の筋道を提示することにかけては、カルヴァンの右に出る者はいない。

 

ルターは論理的な「矛盾・否定・破れ」といったものを利用しながら神学するのが得意だ。


ルターの文章は逆説的で、読む人が読むと激しい影響を受ける。


だが、わからない人にはまったくわからない。


ルターの神学は詩的な部分があるのだ。読むと感情をかきたて、御言葉の影響力が襲いかかって来る。

 

しかし、カルヴァンの神学は論理的に整合性・調和性が高い。論理的に矛盾している、ということがカルヴァンには我慢できないようだ。


カルヴァンは聖書において矛盾している箇所を、丁寧に解き明かすことが上手だ。

 

『キリスト教綱要』は、じっくり読むべき著作だ。これに取り組めば、信仰が確実に安定してくると思う。

 

カルヴァンの弱点は、私見だが論理的な「矛盾」を取り除こうとするあまり、聖書の豊かさを押し殺している点ではないだろうか。

 

「教理的・論理的正しさ」を、「聖書の具体性」よりも高めているところがあるように思う。

 

だから、カルヴァンの神学にかぶれると、信仰の論理ははっきりして安定するが、同時に信仰の感情的な部分が、どうも削り取られる感じがする。「理性優位」の感がある。

 

しかし、カルヴァンが歴史的に最高の神学者の一人であることには変わりはないと思う。

 

信仰的安定を求めている人は、カルヴァンにひたすら親しんでみてほしい。

 









齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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