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信仰とはなにか⑨ 信仰における「感動」の位置

 国が豊かであるほど信仰心は薄いが、アメリカだけは例外であることが判明…海外の反応 (2016年7月23日) - エキサイトニュース



牧師として説教したり、祈ったり、教えたりしながら生きていると、時にこう言われることがある。


「今日の説教はよかった。感動しました」


そう言って頂けることは語っている身としては、すこぶるうれしい。それで、初めて言われた時などは、いい気になったこともある。


また、他の牧師から「自分が感動していない説教で、人を感動させることができるわけがない」なんていうことも言われたこともある。


そこで、以前私は説教準備をしている時から「自分が感動できる説教」を求めていたし、人を感動させる説教がよいものと思っていた。


ところが、この感動というものには落とし穴がある、と気付いたのが最近のことである。その落とし穴とは、説教や礼拝に感動を求めるとき、私たちは感動と恵みを同一視してしまう、ということである。


「恵まれた礼拝」「恵まれた説教」=「感動的な礼拝」「感動的な説教」という見方がだれもあまり口に出さないけれども広く根付いているような気がしてならない。


そして、感動と恵みが同一視されてしまうとき、実は私たちは恵みをゆがめてしまっているのでないか。


恵みとはなにか。それは神からの一方的かつ無条件な愛であり、それはイエス・キリストによって啓示されているものである。


つまり、恵みというのはこの私がどう考えるか、感じるか、どう信じるか、ということよりも先んじて、私たちに与えられているものであって、主観的であるよりも客観的なものである。


子供を抱っこする母親がいるとする。


子供はお母さんに抱っこされて、安心をおぼえている。この安心を子供に与えているのが、子供を抱っこしているというお母さんの存在である。


客観的な事実である。子供の安心というのは、このお母さんに依存しているのであって、子供が自分で生み出しているものではない。


恵みというのは、この例からするならばお母さんであって、子供の側の安心こそ人間の感動に当たる。


つまり、人間の感動というのは完全に神の恵みに依存しているのであって、恵みこそが感動を生み出している。


恵みは感動の源であって、この両者は同じものではない。


恵みの方がはるかに重大なのだ。感動は、ただそこから生じる結果に過ぎない。恵みは、感動よりもはるかに大きなものである。それは神に根付いている。


子供は、安心がある、ということによって救われているのではない。お母さんの腕のなかにいることによって救われているのである。


説教や礼拝で感動するとき、私たちはその感動によって救われているのではない。神の恵みが与えられている事実によってこそ救われているのである。


そうであるなら、感動するか否か、というのは最重要ではない。


礼拝や説教で、感動することもあれば、しないこともある。感動した礼拝はよくて、しなかったのは悪い、という評価は信仰生活を不安定にする。


そこでは感動が礼拝よりも上になってしまっている。


問題は、そこで神の恵みが与えられていることを信じるかどうか、なのだ。


感動しようと、しまいと、神が私たちのことを無条件に愛しておられ、イエス・キリストによってその愛を完成してくださっていることを私たちが信じるならば、それこそが救いになる。


感動のないときも、信仰があるのならばそれは「恵まれた礼拝」であり「恵まれた説教」である。感動は、ただ信仰に従うのである。


恵みを信仰をもって受け取るときに、感動はそれに伴う。しかし、伴わないときもある。恵みを受け取っていることこそが救いなのである。


神はなぜ私たちに感動をお与えになるのだろうか。


親は子供が弱くなっているときには、特別に配慮して、子供に栄養剤を与えたり、ビタミンを多めに与えたり、薬を与えたりする。


しかし、健康な時は普通の食事だけで済ませることが多い。


同じように、神も私たちの信仰が弱まって、特別な配慮が必要とされるときに感動を与えて私たちを強めてくださるのではないか。


そして、そうでない通常の時は、感動が特になくても、恵みを信仰によって受け取るという通常のやり方で私たちを養おうとされるのではないか。


そうだとすると、感動を説教や礼拝の評価の基準としてしまうのはやめた方がいいことになる。


私たちの基準とすべきは、普段の食事であって、特別な時の食べ物を信仰の基準とすべきではない。


感動というビタミンは、必要な時には神が必ずお備えくださる。


私たちは、恵みを信仰をもって受け取っているのなら、そこにまず満足すべきである。感動が与えられたら感謝であるが、ないとしても感謝である。


恵みはどちらにしても与えられているのだから。


 私たちはみ言葉の恵みを信仰をもって受け取ることを第一とし、それに感動が伴うか伴わないかについては、神にゆだねる。


信仰生活の安定にとっては大事なポイントではないか。


「感情」と「信仰」の問題については、マルティン・ルターに学ぶのが最適。



 




信仰とはなにか⑧ 「ビジョンを描くこと」の是非と意味

 国が豊かであるほど信仰心は薄いが、アメリカだけは例外であることが判明…海外の反応 (2016年7月23日) - エキサイトニュース


受験をひかえていた高校3年生だったとき、一時「計画的にやる」ことにはまったことがある。


一日にやるべき課題のリストを一日のスケジュールに組み込んだものを作るのだ。


「A問題集を10ページを9時から11時までやる」「B単語集から単語50個覚えるのを5時から7時までやる」というように、一日のスケジュールを、消化しなくてはいけない課題に沿って書いたものである。


これを作って取り組むと計画的に課題をこなせる、と思ったからだ。


このペースで課題をしていけば、3カ月後にはこれだけの結果が出る、というようなことも推測できると思ったのである。


ところが、これを実行してみると、大抵頭のなかだけで考えたスケジュールの多くは現実には実行できず、また実際にやってみるとはるかに早くに終わるものもあり、結局「こんなもの作ろうと作るまいと、結果は同じなんだ」と放り出してしまった。


それ以来、「計画」というものに対する不信感を抱くようになった。どんなによく考えて計画しても、現実というものはその計画よりもはるかに複雑かつ重厚で、自分の頭で考えだしたような計画はその現実の前にもろくも崩れてしまうものに思えた。

 

クリスチャンになってからは、この「計画」への不信感はさらに強まった。私たちの将来は神の御手のうちにあり、将来のすべてを握り、創造されるのは神であるので、将来は神の領域なのだ、


だから私たち人間はその将来を予測することも計画することもできないし、仮にしたとしてもそれを神は簡単に覆すことがおできになる、という考えを持つようになった。


「今を集中して生きる、そうすれば将来は神がお備えになる」


この考えは私の心に深く根を張って、私の一部となった。現在するべきことをしているのならば、将来については考える必要ない。


「明日のことを思い患うな」


こうして、「今」を一番大切にし、「今」自分の出会っている問題に全力を尽くしていればそれでいい、という考えを抱いて、しばらくの時を過ごした。


その時には、「計画」≒「無意味」と思っていた。場合によっては、人間の計画というのは神の計画と矛盾する罪深いものと思っていた。


ところが、ある時外国人のクリスチャンから「あなたのビジョンはなんですか」と聞かれたことがあった。


そこで自分はビジョンとか計画とかいうものを信じていない、それは神が知っていてくだされば十分だ、と話したらその人は「でも、神は私たちの計画をお用いになります。修正を施して」と言った。



その言葉が気になったので、この「ビジョン」とはなんなのか、調べてみた。


すると、特に経営学の世界、ビジネスの世界では「ビジョンを持つ」というのは常識となっていることがわかった。


どこの企業でも、大抵は「ビジョン」や「ミッション・ステートメント」を掲げている。


また、教会でも、特にキリスト教が盛んな国ではこのビジョンについての考え方をおおいに取り入れていることがわかった(どうやら、それを導入したのはピーター・ドラッカーから経営学の方法論を学び、それを教会活動に取り入れたカルフォルニアのサドルバック教会のリック・ウォレン牧師らしい)。


そこで、改めて信仰にとってのビジョン、計画の意味について考えてみることにした。将来は神の御手にある、人間には不可知であって神がお造りになる、ということと人間が将来を描く、ということはどう調和するのか。


これは、神の業と人間の業の関係ということにもなろう。創世記によると神は無から世界を創造されたわけだが、その創造の頂点として人間をお造りになり、世界の管理を委託された。


つまり、神の創造の業は人間が働くための前提であって、決して人間が働くことを不要とするのではなく、人間が働くようにそれをお任せになるのである。


かといって神は創造の業を人間に任せてご自分はなにもしないのではない。


むしろ、神は創造の業を続けるために、人間をお用いになる。


神は人間にご自分の業に参加するよう求められるのである。これが神の業と人間の業の関係である。


このことからすると、将来は神の御手のうちにある、ということは真実であり、また将来は神が創造される、ということも確かであるが、しかしそれは人間の計画、ビジョンを不要にはしない。


むしろ、神はそれを求める。私たちには神の偉大な計画、ビジョンが与えられている。それは天地創造に始まり、終末に至る聖書の描く神の計画である。


そして、その計画を実現するために、神は私たちを用いられるのである。


この計画を実現するために、私たちに働くことを求められる。私たちがビジョンを描く、計画を立てることは、神の計画の実現に参加することなのである。


神が希望に満ちた将来を実現しようとしておられるなら、私たちもそれを自分にできる限りのことをして思い描き、計画する。こうして、私たちは神のビジョンの実現に参加するのである。


そして、私たちのビジョンが正当であるのは、ただそれが神のビジョンと合致している時だけである。


もし合致していないなら、神はそれを覆される。しかし、合致しているなら、そのビジョンを実現するのは神ご自身である。

 

「将来は神のものだから、ビジョンは必要ない」というのは神の業に参加しないクリスチャンの怠慢となるし、「人間のビジョンによって人類の将来は作られるのだから、神は必要ない」というのは人間の傲慢となる。


この両者は共に間違いである。「神がご自分のビジョンを実現されるために、私たちはビジョンを描くことによってその神の業に参加させていただく」のである。

ビジョンを描くことは、神の与えてくださる将来を真剣に考えるのならば、

私たちのだれにとっても一つの大切な課題である。


私たちは自分に与えられている責任の範囲に応じて、ビジョンを描くことを神に求められているのである。

 



信仰とはなにか⑦ 「無となる」こと

 国が豊かであるほど信仰心は薄いが、アメリカだけは例外であることが判明…海外の反応 (2016年7月23日) - エキサイトニュース



 信じるとはなにかを「得る」ことなのだろうか。「なにか価値ある者」になることだろうか


信じるとは、人から誉めてもらえるような価値なのだろうか。


信じるとは、なにかそこに有意義なものが存在しているような、そういうものなのだろうか。


人はだれしも、「自分自身のパワー」を持っている。もしくはなにかしら価値あるものを持っている。


だれでも、そういう「これだけは自分は人に誇れるぞ」というものを努力を重ねて手に入れて、そしてそれを道具として生きているのだ。


そういう「私のパワー」「私の価値」に私たちはしがみつきながら、これを自らの生きる源としながらやっているのである。


だが、信仰が与えられるとはこういったいろいろな価値あるものにもうひとつの価値が加えられるということなのだろうか? 


信仰は「付加価値」なのだろうか? 


自分がいろいろな価値あるものを持っていて、それにもう一つ信仰というものが加えられて「よかったよかった。私はまた一つ豊かになった」と喜ぶことができるようなものなのだろうか?


信仰によって、私たちはより豊かにされ、価値ある者とされ、より人に尊ばれる存在となるのであろうか? 


私たちは信仰によって「あの人は信仰があるから、やはり一味違う」と言われる人物になるのだろうか? 


信仰とはそういう、人と差異化をはかることができる「善いもの」なのだろうか? 


信仰が与えられることによって、「私のパワー」が増し加えられてより一層幸せになる、そういうものなのだろうか?


私は長くこのような誤解をしてきたように思う。信仰するとは「有」になること、「価値あるもの」になること、「私のパワーが増強される」こと、そういうものと考えていたふしがあった。


しかし、実は信仰はそういうものではまったくなかった。神の恵みを受け入れる信仰とは、実はその正反対のこと、つまり無になることだったのである。


「私の価値」「私の知識」「私のパワー」こうしたものが死んでしまうことである。私の内側にある様々なものが死んで、私が空っぽになることなのである。


私が空っぽになるとどうなるのか。そこに神の恵みが入ってくる。この世は人間の「私パワー」で回っている。これをどう利用するかがこの世の知恵なのだ。


この「私パワー」を引き出し、増強し、拡大することがこの世の教えの示すことである。


だが、信仰はこれとは逆方向を行くのだ。つまり、私はむなしくなり、空っぽ、無になる。


すると、そこに「私パワー」とは質のまったく違う、永遠の神の力が流入してくる。


そして、この世ならぬ力によって私は生かされるものとなる。私が無となったとき、そこは神の力が働く場となる。


こうして、この世では通常考えられない恵みの世界を体験させていただける。これが信仰である。


この世のすべての方向性は、「私パワー」を高めることに向けられている。


この世の書籍も、音楽も、すべてはこのパワーの増強が目的なのだ。


だから、こういうものに染まっているときには、信仰の力には考えは及ばない。


ところが、こうした私の力が消えて、私が空っぽになっていくとき(そういうことをだれしもいつか経験するのだが)、実はそこにまったく新しい神のエネルギーが入ってくる契機となる。それを受け入れるのが信仰である。


そして、不思議なのはここから先である。


私が「私パワー」に死ぬと、まったく無力に弱くなるように思える。それは実につまらない、ひ弱なことのように思える。


しかし実はそのときこそ「私パワー」は神によって清められて、その本領を発揮することができるのである。


私が無になって、信仰に生きれば生きるほど、私が「私パワー」ではなく神の力に生きれば生きるほど、私はいよいよ輝き、喜びと充実、感謝と賛美、力と忍耐は強められるのである。


私自身が無になってこの世のものならぬ神の力によって空っぽの私が満たされる、私を通して神が働かれる、これこそが信仰であり、真実の力なのだ。

 






信仰とはなにか⑥ 「信仰による約束の実現」反論への回答

 国が豊かであるほど信仰心は薄いが、アメリカだけは例外であることが判明…海外の反応 (2016年7月23日) - エキサイトニュース


前回、主イエスの「あなたの信じた通りになるように」という御言葉を紹介しました。

 

私たちの生きる現実というのは、私たちが心底からそうだと信じた通りになるように動いていく、ということでした。

 

今回は当然予想される反論について、考えてみます。

 

「すべてが信じた通りになるなら、あなたは信仰によってリンゴは三角形にできますか」

 

「自分は死なないのだと信じたら、本当に死なないのですか」

 

「大富豪になると信じるなら、そうなるのですか。私、なってないですけど」

 

大体、このような反論がありえます。

 

こうした課題を考えるうえで、大前提を確認したいのです。

 

主イエスが「あなたが信じた通りになるように」と言われているとき、人間の側はキリストに対して「御心ならば、~してください」という願いをしているということです。

 

つまり、神の御心に反していることをいくら願っても、その通りになるはずがありません。

 

御心に合致しているとき、実現に必要な時間的な長短はありますが、信じた祈りはその通りになります。

 

では、神の御心とはなんなのか。

 

それは、「神の召命の目的に合致している」ということでしょう。

 

神を信じるだれもが、神の計画の一部を担うように、神の目的に向けて召し出されています。

 

それぞれに、特定の領域で働くよう、務めが与えられています。

 

私たちにはそれぞれ、家庭を守る、職業を通して社会に貢献する、健康を保持する、教会形成を担う、といった神がお与えになった「召命」があります。

 

召命を遂行することで、神の計画に仕えるためです。

 

神は、私たちがこの「召命」を遂行するために、必要なものはなんでもお与えくださいます。

 

本当に必要とあらば、「なんでも与えてくださる」のです。

 

自分の「召し」に合致していないことを大胆に信じても、無駄に終わることになります。

 

しかし、自分の「召命」に合致していることについては、とてつもなく大胆にその通りになるように信じて、祈らなくてはなりません。

 

召命について慎まし過ぎて、志と器が小さいクリスチャンになってしまうのは、おそろしくもったいないことです。

 

私たちに与えられている「召命」の枠内であるなら、私たちはだれからも「無理だ」と言われるような大いなる目標を、神の力によって追求することが許されています。

 

 

 

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そろそろ、「信仰」について論じるのも長くなってきたので、今回はこれまで論じてきた重要な点をまとめて、「信仰」の連載は終わりとします。

 

1:「信仰は、神の言葉を聴き、祈ることによって神ご自身から与えられるもの」

 

「信じる」というとき、私たちの「意志」が起点になるようなイメージがあります。

 

だから、意志の力と努力によって自分で自分の心に奮い起こさなくてはならないような気がしてきます。

 

しかし、信仰は基本的に、「自分で生み出すもの」ではなく、「神から与えられるもの」です。

 

私たちの努力によってではなく、神の言葉と祈りによって、神ご自身から私たちの魂に植え付けられます。

 

礼拝(説教と聖礼典)にあずかることで、信仰は神ご自身によって養われていく性格を持ちます。

 

2:「信仰は私たちの魂にイエス・キリストを迎え入れるもの」

 

信仰の最も主要な働きは受動的なもので、キリストを私たちが受け入れるための「器」「通路」「管」となるというものです。

 

イエス・キリストを受け入れることで、私たちはキリストと一つのものとされ、私たちの罪がキリストのものとなり、キリストの義が私たちのものとなるという「霊的結婚(マルティン・ルター)」が起こります。

 

このキリストを受け入れるということが、いわゆる「救い」の本質です。

 

これを「信仰義認」とも言います。

 

ただ信仰だけが、キリストを受け入れ、神との和解をすることができます。

 

3:「信仰は神の約束と計画を成就するもの」

 

私たちは信仰においてキリストを受け入れるが、このキリストは「神の約束」の実現として来てくださったお方です。

 

だから、私たちは自分が生かされている日常の現実世界のなかでも、神の約束と意志、そのご計画が成就していくことを能動的に「信じる」ように求められています。

 

私たちの生きる現実は神の約束とは異なるもののように見えるが、しかし神の約束の方がむしろ力があり、現実化していくことを信じるのです。

 

神は私たちの必要が満たされ、救われる人々が増し加えられる、神による「祝福」の将来もまた、約束してくださっています。

 

これを「能動的」に信じていくこともまた、信仰の働きです。

 

約束の地を見ることができたヨシュアとカレブのように、確認できなくてもなお「信じます!」と告白する信仰によって歩むことが求められています。

 

逆に、荒野で滅ぼされた民は、ヨシュアやカレブのように信じることをせず、カナンの地の人々を神以上に恐れることで、かえって自分たちを約束の地から除外してしまいました。

 

主イエスが、「あなたの信じた通りになるように」とおっしゃる、神の計画の成就は、この信仰によってこそ味わうことができるのです。

 





信仰とはなにか⑤ 「信仰の領域」・「信仰による約束の実現」

 国が豊かであるほど信仰心は薄いが、アメリカだけは例外であることが判明…海外の反応 (2016年7月23日) - エキサイトニュース


今回は、これまでとは、少し違う視点で「信仰」を描いてみます。

 

私たちは、生活の全体を神の御前で営むものですから、およそあらゆる課題を信仰のこととして、とらえることができます。

 

「今日の天気」から、「今の健康状態」や「足を机にぶつけたこと」まで、信仰のこととして受けとめることも可能です。

 

しかし、「すべての課題」について信仰でとらえようとすると、かなり無理があるものもあります。

 

以前聞いた印象的は話ですが、ある神学生が青い顔をして「自分は神に見捨てられているのではないか」という不安を訴えたとき、その話をじっと聞いた牧会指導者は、「あなたがそんなに不安なのは、どこか体の調子が悪いからではないか」と言ったというのです。

 

そして、事実体の調子がよくなると、不安や恐れも消えたというのです。

 

私たちが主観的に感じる「不調」や「痛み」や「不安」などのすべての原因が、「罪」のような信仰的な領域にあるわけではありません。

 

身体的な要因もあるし、寝不足や過労といったことで恐れに取りつかれることもあります。

 

私たちが覚える苦しみのすべてを信仰的に解釈してしまうと、解決のために間違ったアプローチをしてしまうこともありえます。

 

とにかくゆっくり寝なくてはならないときに、罪の赦しを求めて深夜まで祈る、ということをしたら、状態はむしろ悪化してしまう可能性もあります。

 

「神への信仰と倫理」という信仰が関わる領域と、そうではない領域を区別し、課題に対してふさわしいアプローチをするという「知恵」が要請されます。

 

私たちが神を信じるときには、ある課題について「それが信仰の問題であるかどうか」ということをも、ある程度判別することができるようになる必要があるのです。

 

こうした知恵は、キリスト者として聖書の学びを深めると共に、他の分野の知識をも学んでいくことで、培われていきます。

 

信仰だけで現実のすべてを解釈するのは、無理があるため、私たちは神の導きのもと、さまざまな分野の学びをも深める力を、神から頂いているのです。

 

このような「知恵」を、神に願い求めつつ、信仰生活を進めていきましょう。

 

 

 

 

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主イエスは、「あなたが信じたとおりになるように」(マタイ9:29ほか)と、よく言われます。

 

このみ言葉は、かみしめると、本当に心に深く響き渡る真理に満ちています。

 

私たちは、どれだけこの主イエスの御言葉を信じているでしょうか。

 

おそらく、ほとんど信じていないことが多いのではないかと思います。

 

もし、本当に「私が信じたとおりになる」と思っていたら恐ろしくなるようなことも、私たちは日々心に思い、口にしているのではないでしょうか。

 

「一生懸命やっても、どうせダメさ」

 

「わたしは、だれにも認められていないし、愛されていない」

 

「あの人との関係は、結局だめになるだろう」

 

「伝道は難しいから、教会は衰退していくに決まっている」

 

こうしたことを日々心のうちに考えて、自分自身そう思い込んでいるとしたら、「あなたが信じたとおりになるように」という言葉は、むしろ「裁き」として働いてしまいます。

 

私たちがこのような考えに深く陥れば陥るほど、私たちの生きる現実にも、こうした考えが徐々に反映されてくるのではないでしょうか。

 

逆に、「私の人生はどんどん良くなる」、「教会は成長し、前進していく」、「あの人との関係は、すばらしいものになる」などと信じ切っていたら、やはりそれは現実に反映されるとも言えます。

 

そう信じている人は、現実が改善されるために考え、日々力を尽くして働くので、事実そのように生きる現実もまた変えられていきます。

 

上の例は、「ポジティブ思考」にも通じるような、ごく人間的な次元での話ですが、「あなたの信じたとおりになるように」という御言葉は、そうしたレベルにおいても真理だと言わざるをえません。

 

しかし、聖書で主イエスが言われているのは、こうした人間的次元においてのことが第一ではありません。

 

むしろ、私たちが主イエスの慈愛の御心に信頼するとき、主がみ言葉をもって約束したことが私たちの現実に成就する、というのが第一義的な意味です。

 

神の約束は、私たちが信じる、信じないにかかわりなく、厳然として成就します。

 

しかし、私たちが主イエスの慈愛の力を信じないなら、神の約束の成就の喜びとすばらしさを、私たち自身は味わうことができません。

 

神の約束の成就を見ることができるのは、ただ信仰においてのみです。

 

出エジプトをした第一世代で、神を信頼したヨシュアとカレブだけが、約束の地に入ることができたように、信じる者は神の約束の成就を目撃します。

 

信仰とは、神の約束が私たちの人生に現実化するのを、心のうちに受け入れることです。

 


信仰とはなにか④ 信仰は「空の器」・「手放す」こと

 国が豊かであるほど信仰心は薄いが、アメリカだけは例外であることが判明…海外の反応 (2016年7月23日) - エキサイトニュース



「信仰義認」という教えがあります。

 

「イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、私たちはあらゆる罪が赦され、神と正しい関係を回復することを許される」ということです。

 

この教えから、「神様の愛も、無条件の愛ではないのだな。信仰という条件がないと、神様は愛してくれないのだ」と短絡的に考えてしまうこともあると思います。

 

信仰を、「私たちが神に差し出すべきなにか」として考えてしまうのです。

 

「信仰」という神にとっての「メリット」を出すことによって、「救い」をそのお返しに買うことができる、そういう相互関係があるように感じてしまうのです。

 

しかし、これはまったくの誤解です。

 

「信仰」とは、神に私たちが差し出すことができるような、神のメリットになるようななにかではありません。

 

むしろ、ただ「すでに神がキリストにおいて、愛してくださっている」という、この「すでに」の愛を、私自身がただ受け取り、受け入れることを言うのです。

 

信仰は、たとえて言うなら、神に差し出す「捧げもの」というよりも、神に命の水を求める「空のコップ」なのです。

 

信仰に実体があるのではなく、信仰はただ神の恵みを受け取る器に過ぎず、信仰そのものに価値があるわけでもありません。

 

その信仰を通して私たちが受け取ることが許されている神の恵みにこそ、絶大な価値があるのです。

 

ただ、その恵みは信仰によってしか受け取れない、ということです。

 

「あの人は信仰深くて立派だ」とか、「わたしの信仰は薄い」という言い方があります。

 

もちろん、その「空のコップ」が大きいか、小さいか、ということは、ある程度人によってあるでしょう。

 

神を求める情熱にも、各人によってそれぞれ違いがあります。

 

しかし、その信仰というコップが「空である」ということには、違いはないのです。

 

コップの大小ではなく、そのなかに注がれている神の恵みの水にこそ、私たちを救う力があるのです。

 

以上のことは、微妙な問題かもしれませんが、重要な意味があります。

 

それは、「本当に大切なのは、私たちの信仰というよりも、その信仰を根本から満たしている神の無条件の恵みなのだ」ということです。

 

私たちの信仰は、不安定なものです。動揺することがあります。

 

しかし、神の恵みは動揺しませんし、変わることがありません。この神の恵みへの信頼が、私たちの信仰を確固としたものにするのです。

 

 

 

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「神を信じる」ことは、「恵みを受ける」「祝福される」というプラス面がありますが、もう一つ大切な面があります。

 

それは「自分に死ぬ。無になる」ということです。

 

私たちは神に向き合うとき、「もっと恵んでください。もっと祝福してください」と、恵みや祝福ばかりを祈りがちであると思います。

 

それは信仰の一つの側面として、許されていますし、神の御心の実現を求めて、おおいにそのような祈りに打ち込むべきこともあると思います。

 

しかし、同時に必要なのは、私たち自身の内部にある、「さらに恵まれ、祝福されるのを邪魔しているなにか」が打ち砕かれ、取り除かれるということです。

 

この「死ぬ」「砕かれる」「取り除かれる」というところがないと、新しい恵みを受けることはできないのです。

 

私たちが病気になるとき、挫折するとき、人間関係が破たんするとき、それは大きな苦しみですが、同時に「自分に死ぬ。無になる」という意味においては、恵みを受けるための準備を受けているときでもあるのです。

 

神は、私たちという「器」を試練を通して空っぽにします。

 

「傲慢」「自己保身」「自己満足」「安逸ばかりを求める心」・・・こうしたものを、神は私たちに苦しみをお与えになることによって取り除かれるのです。

 

これは神の手術のようなもので、非常に痛くて悲しいため、だれもが嫌がることです。

 

しかしこれを受けないと、新しい恵みが私たちのうちに入ってくることができないのです。

 

神は新しい恵みのための余地を私たちのうちに開くために、このような手術をされるのです。

 

私たちは「裁かれることを通して救われる」存在なのです。

 

私たちは、日々自らを省みて、「悔い改め」をするように求められています。

 

「悔い改め」は、神に全身全霊を向きなおることですが、同時に自分にうちなる信仰の障害物を「捨てる」ということです。

 

神に従うことを妨げているのを、「捨てる」ことが悔い改めの一部なのです。

 

私たちが信仰に停滞し、行き詰っているときは、なにかを「捨てる」ことを求められているのかもしれません。

 

「自分に死ぬ」「無になる」「捨てる」ことによって打ち開かれてくる世界があることを、心のうちに覚えたいと思います。



信仰とはなにか③ 「信仰の諸相」

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今回は「信仰」を、三つに分けて考えてみます。

 

「信仰」「信頼」「信念」です。

 

「信仰」とは、神の「存在」に関わります。

 

神が三位一体のお方として存在しておられる、神の「存在」の厳然たる事実を信じます。

 

礼拝を通して神と出会い、神の恵みを経験することで、神の存在について私たちは信じるようになります。

 

これが信仰の根本です。

 

第二に、神の「ご性格」を信じる「信頼」です。

 

神は、ご自分がなした約束を破ることがありえない、「誠実」なお方です。

 

また、私たちの教会と生涯全体に対して、善き計画をしておられる「慈愛」に満ちたお方であり、私たちのためにご計画を成し遂げるために、どんな困難と罪をも取り除くことがおできになる「全能」なるお方です。

 

私たちは日常生活のただ中で、実践的・具体的課題と取り組む日々のなかで、神のこうしたご性格を理解し、このお方に信頼します。

 

私たちの出会うすべての出来事の真っただ中で、神がなお誠実で慈愛に満ち、全能のお方であることを信頼し、仕事に取り組むのです。

 

ここに信仰の安定と力強さが生まれます。

 

第三に、神の「働き」を信じる「信念」です。

 

私たちは、「どうせダメさ」とか、「結局、結果は同じさ」などと、すぐあきらめてしまう癖があるかもしれません。

 

しかし、もしそれが神ご自身の働きであるなら、安易にあきらめてしまうことは不信仰になります。

 

私たちが取り組んでいる働きのすべてを通して神が働き、神がご自身の働きを推進され、目的を達することがおできになるのだという、「信念」を抱く必要があります。

 

「信念」があって初めて、世の人には無理だと思われていたような難事業でも、成し遂げることが可能になるのです。

 

 

「信念」があるから、私たちは努力と前進を継続することができるからです。

 

神の存在を信じる「信仰」、神のご性格を信じる「信頼」、神の働きを信じる「信念」。

 

これらが私たちの日常のただ中で豊かに交錯し、働いてこそ、私たちの信仰生活・教会生活は生き生きとしたものになるのです。

 

場合によっては、「神の存在は信じているけれど、神のご性格には信頼していない」「神の慈愛は信じているが、神の働きについては無視している」といった形で、信仰のバランスを欠いてしまうことがあります。

 

私たちは「信仰」「信頼」「信念」を具体的な日常で実践してこそ、堅実かつ力強い信仰者として歩むことができるのです。

 

 

 

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また、私たちが「信じる」というとき、そこには二つの側面があります。

 

私たちがイエス・キリストを信じ、救いを受けるときは、信仰は「受動的・受容的」に働きます。

 

主権をもって私たちの救いのために働いてくださるのは、三位一体の神ご自身であって、私たちはそれを「認め、受け入れる」のです。

 

「信仰義認」という教えがありますが、これはイエス・キリストを私たちが受け入れる信仰によってのみ救われるということで、ここでは信仰は最後の最後まで「受け身」です。

 

神を礼拝し、御言葉を受け、聖霊の働きにあずかるのも、まったく「受動的」なものです。

 

私たちが神に向き合うときには、信仰の根本はこのようなものなのです。

 

このような「受動的・受容的」な信仰により、神ご自身から恵みのエネルギーと生命を受け取り、天国の希望を心に灯されるのです。

 

神の恵みを受け入れる信仰がないなら、私たちの信仰生活は成立しません。このような信仰の受動性によって、私たちの力の源が確保されます。

 

しかし、私たちが礼拝から職場や家庭、地域に出かけていくときには、事情は異なります。

 

私たちは神の御前においては「受動的」ですが、礼拝から信仰の実践の現場へ出ていくときには、「能動的」になります。

 

つまり、私たちが週日の生活を営む現場は、家族、同僚、隣人、友人、信仰の友など、さまざまな人々に囲まれています。

 

私たちはこの人々の間で、積極的に「隣人愛」を実践する者として、その現場に派遣されているのです。

 

そこでは、神から受動的に頂いたエネルギーを、「発揮」していくことが求められています。

 

神から受けた恵みを原動力として、目の前にある隣人の課題に力を尽くして取り組むのです。

 

そこでは、信仰は「能動的」に働いています。

 

私たちが関わる人々が、神の愛を知り、神によって救われ、幸いな日々を歩むことができることを信じて、仕事に取り組むのです。

 

神がその現場で力強く働いていてくださることを信じて、努力を続けるのです。

 

しかし、こうして働くことは、「疲れ」をもたらします。

 

霊的なエネルギーがだんだん枯渇していきます。

 

そこで、日曜日に改めて神の前に出て、神からの一方的な恩寵にあずかる必要が出てくるのです。

 

礼拝→日常の働き→礼拝・・・という一連の流れのなかに、信仰の「受動性」と「能動性」が繰り返されながら、神の恵みをこの世にもたらすのがキリスト者の使命なのです。

 


信仰とはなにか② 「信仰の本質」と「隠れた神」

 国が豊かであるほど信仰心は薄いが、アメリカだけは例外であることが判明…海外の反応 (2016年7月23日) - エキサイトニュース



「信仰」というとき、「何を信じているのか」ということが当然大切になります。

 

この「何を」ということについては、「信仰対象」と「信仰内容」があります。

 

「信仰」と「信仰内容」と「信仰対象」の三者は、切り離すことができません。

 

「信仰対象」は、言うまでもなく三位一体の神ご自身です。

 

この神は肉的な感覚では確認できない霊的な存在ですので、私達はこのお方を「信じる」のです。

 

信仰は根本においては、この人格的な三位一体の神への「信頼」です。

 

私たちが親友や伴侶を信頼しているように、人格的な、生きて働いているお方を信頼しているのです。

 

これは信仰の意志的な働きです。

 

しかし、三位一体の神を信頼するというとき、この神がなにをしてくださるお方であるのか、私たちに対してどう働いておられるのか、それがわからなければ、「信頼」は成り立ちません。

 

このことと関わるのが「信仰内容」です。

 

「三位一体の神とは、いかなるお方なのか」ということを私たちが理解して初めて、このお方を「信頼」することができます。

 

この「信仰内容」を語っているのが、「聖書」であり、「信仰告白」です。

 

私達は聖書を読み、信仰告白に学ぶことを通して、「三位一体の神はいかなるお方なのか」を理解します。

 

この理解に基づいて、神を信仰の対象として、信頼するのです。信仰の理性的働きです。

 

そして、最後にこうした信仰内容を理解し、神を信頼することへと踏み出すために、「信仰決断」という契機があります。

 

神によって心に感動が与えられ、神を信じて生きる素晴らしさを味わって、私達は信じる決断をすることができます。

 

神にある喜びを味わうことで、信仰への一歩を踏み出す決断がなければ、理解や信頼を深めていくことはかないません。

 

信仰の感情的働きと言えます。

 

つまり、「信仰」というときには、上の三つのレベルがあるのです。

 

「神への人格的信頼(意志的働き)」・「信仰内容への同意と理解(理性的働き)」・「信じる決断(感情的働き)」の三つです。

 

私たちが洗礼を受けるときも、受けて後も、これら三者が織り合わされながら深められていくのが、信仰生活なのです。

 

これら三つがバランスよく成長することが必要なのです。

 

私たちに与えられている「知性・感情・意志」のすべてが用いられて、信仰は深められるのです。

 

 

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地震をはじめとした、「想定外」なことが私たちの人生に起こるとき、多くの人は「神はなにをしておられるのだ」という疑いと不信の念に苦しめられます。

 

自分の思い通りに現実が動いていかないとき、聖書に書かれていることが非現実的なものに思えるのです。

 

私たちの目が見ているのは、自分が予想もしていなかった現実であって、そこに神がおられるなどとは、とても思えない。

 

この現実のどこに、神が働いているのか、わからなくなるのです。

 

マルティン・ルターはこうした現実を、「隠れた神」という言葉で表現しました。

 

神が私たちのまなざしから隠れておられ、神の働きを認めることができなくなるのです。

 

神が御隠れになり、神の恵みの導きが見えなくなります。

 

ちょうど、主イエス・キリストが十字架にかかられたとき、神は最も深くお隠れになりました。

 

あの十字架のどこに神の働きが認められるでしょうか。

 

神の慈愛とは正反対のことが、あの十字架で起こったのです。

 

しかし、まさにその主イエスの十字架により、神は人類の救いを成し遂げられたのです。

 

神が深く隠れておられるようにしか思えない現実にあって、なお神は恵みの御業をしておられるのです。

 

最深の暗闇が、最高の神の勝利となりました。

 

私たちの信仰の眼差しがそれを認めることができなくても、なお神は働かれている。神は私たちから隠れておられても、なお神の慈愛の業は続けられている。

 

そのことを、「わからなくても、ただ信じる」のです。

 

このような隠れた神の御業は、私たちはただ「信じる」ことができるだけです。

 

もはや、神の働きを確認することができなくなっても、「それでも、なお私は信じる!」と、「隠れたところで恵みの御業をしておられる神」を信じるのです。

 

私がもはや現実のなかに神の愛を見ることができなくても、なお神は私たちを愛しておられることを信じるのです。

 

嵐がやってくるとき、地上は闇に閉ざされますが、雲のうえには太陽はなお輝いています。

 

そのように、神はこの困難のただ中でもなお恵みの御業をしておられる、そのことを信じるのが「信仰」の働きです。

 

やがて、時が満ちたとき、私たちは「まさにあの時こそ、神は大いなる力をもって働いておられたのだ」ということを、振り返って悟ることになるでしょう。

 



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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