牧師として説教したり、祈ったり、教えたりしながら生きていると、時にこう言われることがある。
「今日の説教はよかった。感動しました」
そう言って頂けることは語っている身としては、すこぶるうれしい。それで、初めて言われた時などは、いい気になったこともある。
また、他の牧師から「自分が感動していない説教で、人を感動させることができるわけがない」なんていうことも言われたこともある。
そこで、以前私は説教準備をしている時から「自分が感動できる説教」を求めていたし、人を感動させる説教がよいものと思っていた。
ところが、この感動というものには落とし穴がある、と気付いたのが最近のことである。その落とし穴とは、説教や礼拝に感動を求めるとき、私たちは感動と恵みを同一視してしまう、ということである。
「恵まれた礼拝」「恵まれた説教」=「感動的な礼拝」「感動的な説教」という見方がだれもあまり口に出さないけれども広く根付いているような気がしてならない。
そして、感動と恵みが同一視されてしまうとき、実は私たちは恵みをゆがめてしまっているのでないか。
恵みとはなにか。それは神からの一方的かつ無条件な愛であり、それはイエス・キリストによって啓示されているものである。
つまり、恵みというのはこの私がどう考えるか、感じるか、どう信じるか、ということよりも先んじて、私たちに与えられているものであって、主観的であるよりも客観的なものである。
子供を抱っこする母親がいるとする。
子供はお母さんに抱っこされて、安心をおぼえている。この安心を子供に与えているのが、子供を抱っこしているというお母さんの存在である。
客観的な事実である。子供の安心というのは、このお母さんに依存しているのであって、子供が自分で生み出しているものではない。
恵みというのは、この例からするならばお母さんであって、子供の側の安心こそ人間の感動に当たる。
つまり、人間の感動というのは完全に神の恵みに依存しているのであって、恵みこそが感動を生み出している。
恵みは感動の源であって、この両者は同じものではない。
恵みの方がはるかに重大なのだ。感動は、ただそこから生じる結果に過ぎない。恵みは、感動よりもはるかに大きなものである。それは神に根付いている。
子供は、安心がある、ということによって救われているのではない。お母さんの腕のなかにいることによって救われているのである。
説教や礼拝で感動するとき、私たちはその感動によって救われているのではない。神の恵みが与えられている事実によってこそ救われているのである。
そうであるなら、感動するか否か、というのは最重要ではない。
礼拝や説教で、感動することもあれば、しないこともある。感動した礼拝はよくて、しなかったのは悪い、という評価は信仰生活を不安定にする。
そこでは感動が礼拝よりも上になってしまっている。
問題は、そこで神の恵みが与えられていることを信じるかどうか、なのだ。
感動しようと、しまいと、神が私たちのことを無条件に愛しておられ、イエス・キリストによってその愛を完成してくださっていることを私たちが信じるならば、それこそが救いになる。
感動のないときも、信仰があるのならばそれは「恵まれた礼拝」であり「恵まれた説教」である。感動は、ただ信仰に従うのである。
恵みを信仰をもって受け取るときに、感動はそれに伴う。しかし、伴わないときもある。恵みを受け取っていることこそが救いなのである。
神はなぜ私たちに感動をお与えになるのだろうか。
親は子供が弱くなっているときには、特別に配慮して、子供に栄養剤を与えたり、ビタミンを多めに与えたり、薬を与えたりする。
しかし、健康な時は普通の食事だけで済ませることが多い。
同じように、神も私たちの信仰が弱まって、特別な配慮が必要とされるときに感動を与えて私たちを強めてくださるのではないか。
そして、そうでない通常の時は、感動が特になくても、恵みを信仰によって受け取るという通常のやり方で私たちを養おうとされるのではないか。
そうだとすると、感動を説教や礼拝の評価の基準としてしまうのはやめた方がいいことになる。
私たちの基準とすべきは、普段の食事であって、特別な時の食べ物を信仰の基準とすべきではない。
感動というビタミンは、必要な時には神が必ずお備えくださる。
私たちは、恵みを信仰をもって受け取っているのなら、そこにまず満足すべきである。感動が与えられたら感謝であるが、ないとしても感謝である。
恵みはどちらにしても与えられているのだから。
私たちはみ言葉の恵みを信仰をもって受け取ることを第一とし、それに感動が伴うか伴わないかについては、神にゆだねる。
信仰生活の安定にとっては大事なポイントではないか。
「感情」と「信仰」の問題については、マルティン・ルターに学ぶのが最適。