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「プロセス神学」について 「全知でも全能でもない神」

 Чарльз Hartshorne - Charles Hartshorne - qwe.wiki


SNSでつながっている方から、当ブログにプロセス神学について書いて欲しい、と言われたので少し勉強してみた。

 

その方がこの神学を「批判してほしい」ということなのか、「理解したい」ということなのか、わからないが、この文章が意に添わなくてもお許し頂きたい。


考えたところを正直に書かせて頂こうと思う。

 

プロセス神学についてこれまでまったく書かなかったのは、個人的にこの神学とは自分は根本的に「合わない」と感じていたし、「なにを言っているのか、この神学にどんな意味があるのか、一向にわからない」という印象があったからだ。

 

ネット上にPDFで貼られている長文のプロセス神学紹介の文章を読んでみた。


「プロセス神学の思想 ~神は全知でも全能でもない。だからこそ信じるに値する~ 著:大塚 稔 」というものだ。


「プロセス神学の思想」で検索すれば出てくるだろう。

 

この文章のなかで、かなり詳しくチャールズ・ハーツホーン(タイトル画像)の思想を紹介している。


プロセス神学の「神観」がいかに正当であるかについて、論じられていく。

 

結論から先に書くと、私はプロセス神学にまったく魅力を感じなかったし、この神学を日本に広める必要性も見いだせなかった。


この神学が保守的神学を批判する論調にも、まったく同意できなかった。

 

一つ有意義な点があるとすれば、仏教や神道などの「他宗教との対話」という点においてだが、プロセス神学は聖書が語る神とはどうも違う神理解を抱いているように思う。


そのような神理解で「対話」してしまうと、結局「妥協と同一化、多元主義化」になってしまい、あまり意味がないようにも思う。

 

プロセス神学は、私の理解では「理神論」に非常に近い。


つまり、「人間の理性で納得できる神」を求める、という動機に支配されているということだ。

 

哲学の基本は、基本的に反論できない「第一原理」(アルケー)というものを措定して、この原理から現実のすべてを説明しようとするものである。

 

プロセス哲学を創始したホワイトヘッドという哲学者は、これまでの西洋哲学は「存在論」に根差していたのに対して、「生成論」に基づく哲学を構築した。

 

「存在論」では、ある程度安定し、静的な存在概念を中心に現実を描くが、「生成論」の場合は現実は動的・流体的に動き続けるものであり、「変化し続ける」ことに本質を見る。

 

ギリシア哲学でいえば、プラトンやアリストテレスが「存在論」なら、「生成論」は「万物流転」を主張したヘラクレイトスの立場だ。

 

ホワイトヘッドは「過程」(プロセス)を現実と現象の根本に見る。


変化し続け、動き続ける過程が現象の実質なのだ。

 

プロセス神学は、ホワイトヘッド哲学を、神学にまで展開しようとするものだ。

 

つまり、神を理解するうえで、「過程・変化・動き」というものを原理的な立場として、理解し直してみよう、という動機がプロセス神学の根底にある。

 

そこから導かれる神観念は、「全知でも全能でもない神」だ。


保守的なキリスト者なら、「なに言ってんの???」となるだろう。

 

つまり、あらゆる現実の実質に「過程・変化」を認めるなら、「神」に対してもそれを見出さざるをえない。


神に「過程・変化」を認めるということは、「神は永遠に変わらない存在で、すべてを御存じで、全能の力がある」ことを否定しなくてはならないのだ。


これを受け入れると、神のうちに「過程・変化」がなくなってしまうからだ。

 

プロセス神学の神観念では、神は全知でも全能でもないために、神もまたこれまでの過去の人間の知識や歴史を受け取りながら、現在新しく行為している、とする。


つまり「不変の神の計画」はないのであり、将来なにが起こるのかは、神もわからない、将来は人間が日々決断しながら、神と共に継続的に創造していくものである、というのだ。

 

この世界が「偶然性」に満ちており、悪意のない人間が死んでいく現実について、「神も仏もあるものか」という人もいるが、プロセス神学では「神は全能ではないから、もともと神にもそういう人は救えない」とバッサリ言う。

 

神といえども、人間が心を開いて神の指導に従わないなら、無力である、とする。


神は苦しむ人々に寄り添っておられるが、強制的に介入はしないし、心を開かない人を無理に救いに導いたりもしない。

 

神はただエネルギーを与えて人を助けようとする「理解のある親」のような存在であって、人間の現実を無理に変えたりしないし、変えるための計画や力があるわけでもない、ということだ。

 

以上のようなプロセス神学の神理解は、実に「納得しやすい」ものかもしれない。非常に理に適っており、常識的な理解の範疇で、さほど抵抗感を持たせない神の理解だと言える。

 

多くの人にとって、「つまずき」となるところは、この神にはないだろう。

 

しかし、根本的に問題なのは、このような神は理性や常識には合致しているかもしれないが、私たちがより頼むことができる存在ではないし、私たちの平安や力、慰めの源となることもないし、つまるところ「信じるに値しない神」だということだ。

 

私には、こういった神理解は「理神論」や「ユニテリアニズム」、神人協力のペラギウス主義、ユダヤ教の道徳主義を連想するものであり、宗教的生命力をほとんど感じない信仰理解だと感じる。

 

「圧倒的な神の恵み アメイジング・グレイス」は、プロセス神学の神においては、説教できないということだ。

 

私はこのような神を信じていないし、聖書もこうした神を教えていないと信じる。私自身はこういう神を賛美する気にもならない。

 

また、こういった神学が輸入されることによって、日本の教会は弱体化や混乱はするが、強められ、前進することはないと思う。

 

この神学が伝える「神」からは、信徒一人ひとりがこの世のものでない平安や力を受け取ることができるようには思えないからだ。

 

プロセス神学が主張する「万有在神論」については、他宗教との対話のこともふまえて展開していく価値があるとは思うが、少なくともこの神学が言うような形では、私は受け入れない。

 

ほとんどネガティブな批判に終始してしまったが、プロセス神学が好きだという方、すみませんでした。

 

今後、もっと深く学んでいくうちに、プロセス神学のポジティブな面がわかって整理できてきたら、また記事を書きたいと思う。

 

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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