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「霊的戦い」について⑤ 「自分の傲慢さ」と闘い続ける

 悪くない奴らが成功するには、サタンの存在を信じること - 悪くない奴らが成功できるための日記


ほとほと、傲慢というものは根が深い。小さなころに喜んでやったゲームセンターのもぐらたたきに似ている。


もしくは、抜いても抜いても生えてくる雑草というべきか。たたいても抜いても、次から次に出てくる。


振り返っても、自分自身これまでどれほど傲慢に負けてしまったことか。


気がつくと、「おれはなかなかよくやっているぞ」とか「いまの説教はよかったぞ」とか「今回はよくできたぜ」とか、そういう声が心のうちに響く。


そういう声がだんだん大きくなって、心にしみわたってくると、自分をなにかえらいもののように錯覚する。


そして、自分と親しい人々を傷つけることになる。場合によっては、教会に大きなダメージを与えてしまう。


神の国はからし種に似ているとは主イエスの御言葉だが、私は傲慢もからし種に似ていると思う。


これは悪魔の国の種だ。


最初は本当に小さな傲慢の種が心に落ちるのである。それは、ほとんど本人も気づかないことが多い。


多くの場合、周りの人に「あなたのしたことはよかった」とか、「あなたは正しい」とか、褒められたり認められたりしたことが始まりになる。


そして、素直に「ああ、よかった。自分はいいことをしたんだ」と喜ぶ。このことそのものは罪のようにはほとんど感じられない。


しかし、これが実は傲慢の種なのだ。


 この種は、心に落ちると成長をはじめる。


「自分もできるじゃん」から、「自分は結構いいことしてるぞ」となり、「いや、これは自分じゃなくちゃできない」とか、「自分は重要な人間なのではないか」となり、


そして「自分は実はすごい人間だ」とか「自分はすべての人に尊重されるべきだ」とかまで成長し、そしてついに「自分はえらい」となり、人を見下すに至る。


 人の言葉が聞こえなくなり、自分の意見こそ最も重要だと思う。


すべての人が自分に仕えないと不満に思うようになり、「あなたは正しい」と言われないと我慢できない。


自分を正当化して人を罪に定めることに熱心になる。


こうなると、破滅の一歩手前である。悪魔の一突きで、奈落の底まで落ちる。小さな傲慢の種が、大きな罪となり、決定的な死をもたらす。


 傲慢は、悪魔が最も喜ぶものである。傲慢ほど人間を簡単に破滅させるものはないからだ。


しかも、傲慢はいつも覆いをかぶっていて、本人に全然自覚されないことが多い。周囲の人が気づいても、言えないことが多い。ものすごく恐ろしい代物である。


 どうすれば傲慢を避けることができるのか。それは、傲慢の種を心に落とさないことだ。落ちたらすぐに取り除いてしまうことだ。


 傲慢の種は、日常生活のなかでどんどん飛んでくる。人にほめられる。認められる。


特に自分のやったことについて、「あなたはよいことをした」と言われることはたまらない快感である。


ところが、これが傲慢の種なのだ。これを心に受け入れるのが間違いなのだ。


傲慢はなにを土壌として成長するかといえば、「自分を見つめる心」である。


「あなたのしたことはよかった」と言われるとき、私たちは自然と自分自身を見つめてしまう。


しかし、絶対的に大切なのは自分ではなく、いつでも神を仰ぐ心なのである。神を常に仰いでいれば、傲慢の種は心に落ちようがないし、落ちてもすぐに死ぬだろう。


ところが、褒められたり認められたりすると、一瞬心がゆるんで自分に視線が留まってしまうのだ。


これが傲慢の種が成長する土壌となる。逆を言えば、神に視線をいつも留めていれば、傲慢を避けることができる。


 「神を仰ぎ続け、神にすべての栄光を帰する」ことしか、傲慢を避ける方法はない。


「あなたのしたことはよかった」と言われたら、心のうちで、もしくは口に出して、「神様がしたことですから」とか「神様のおかげです」とか、「主よ、この栄光はあなたのものです」とか、自分に与えられた栄光を全部神に返してしまって、自分にはなにも残さないことだ。


 自分自身には、少しの栄光も残しておいてはならないのである。


もし私たちが栄光を受けるべきなら、それを神から受け、そしてすべてを神に返すべきなのだ。「神にのみ栄光あれ」なのである。自分にはなにも残らない。


私たちの最高の栄光は、神の国が実現したとき主イエスからほめていただくことである。


「忠実なる僕よ、よくやった」これを言われることこそが、私たちの永遠かつ最高の栄光である。私たちは受けることができる栄光はこれだけである。


世にある間は、ほかになんの栄光もない。全部神にお返しするのである。


これは、まさしく本質的な意味での「霊的な戦い」と言える。


自然的な人間本性に抵抗し続ける厳しさがある。


 傲慢を避ける方法は、傲慢の種を心に落とさないように、すべての栄光を神に帰し、そしてもし種が落ちてしまったら、「この栄光を自分のものとしたのは間違いでした」と悔い改めて神にお返しすることである。


これを日常生活のなかでやっていくことしか道はないように思える。







「霊的戦い」について④ 「異言」について

 悪くない奴らが成功するには、サタンの存在を信じること - 悪くない奴らが成功できるための日記


「異言」について、いま考えていることを、整理するためにも書いてみたい。

 

多少、異言について斜めから見ている文章だが、いろいろと研究を重ねて、現在理解しているところを記してみる。

 

第一に「異言を語らない人は、聖霊のバプテスマを受けていない」という意見を耳にすることがある。


これは、ペンテコステ派の一部の方々の理解かもしれないが、聖書的には間違いだと私は思っている。

 

決定的な反論としては、第一コリント12:30に「皆が異言を語るだろうか」とパウロが語っていることからもわかる。


初代教会であっても、聖霊を受けただれもが異言を語っていたわけではないのは明白だ。

 

初代教会における「霊の賜物」は、それぞれのキリスト者に対して、「使徒、預言者、教師、奇跡、癒し、管理、援助・・・(第一コリント12:27-30)」とあるように、一人ひとりに違ったものとして顕現していた。

 

つまり、異言を語る人に癒しの賜物がなかったり、癒しの賜物があっても異言は語れない、という具合に、霊の賜物にはそれぞれ人によって「かたより」があったのだ。

 

だからこそ、「全体の益になるため」(第一コリント12:7)という教えに意味がでてくる。


「かたより」を互いに補い合うことで、教会の賜物はパズルのピースが合わさるように、教会として支えあうことで、全きものへと近づいていく。

 

聖霊のバプテスマを受けても、異言以外の賜物が与えられることは、聖書からしておおいにありうる以上、異言だけに「聖霊のバプテスマのしるし」を限定することはできない。

 

第二に、「異言」がそのまま、直接的に「聖霊のしるし」とはならないことがある、ということだ。

 

「異言を話しているから、聖霊がおられる」という風に言えるような、単純なものではないのではないか。

 

『鎖を解き放つ主』(ニール・アンダーソン著)という「霊の戦い」についての著書に興味深い事例がのっている。

 

ある人は、異言を語ることができたが、生活がめちゃくちゃになっていた。


その魂に向き合ってみると、悪霊的存在が内在していることが明らかになった、という。この霊はイエスを主であるとは告白しなかったのだ。

 

ヨハネの手紙でも、「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうか確かめなさい」(第一ヨハネ4:1)と言われている。

 

特に「生活に出てくる結果」の面で、明らかに聖霊的ではない習慣や出来事が多いなら、その異言もまた疑わしいものになるのではないか。

 

前掲の書は、冷静で経験のあるクリスチャン・カウンセラーの視点から「霊の戦い」の次元を描いており、良識があり、好感がもてるものなので、ぜひお読み頂きたい。

 

 他宗教の世界を見てみても、「異言」は登場する。

 

キリスト教会だけが異言を語るわけではない。


東洋思想、「気功」などの世界にも異言らしきものはあるし、瞑想状態で異言を語ることについては、他宗教や深層心理学、精神世界などではいろいろな異言についての報告がある。

 

そういった「異言」を子細に分析してみると、トランス状態で右脳的に無意識的記憶の文字情報をランダムに再構成している、ということがあるようだ。

 

言語学ではソシュールという人が晩年、「アナグラム」についての研究をしていたが、「無意識的言語記憶のランダムな再構成」という意味での「異言」と、おおいにリンクする面があるように感じる。

 

左脳的ロジックを完全に停止してしまい、文字記憶をランダムにつぶやくだけで、そこに不思議な異言現象が起こるといえる。

 

つまり、ある意味ではなんらかの脳に働きかけるような「異言を語るための訓練」をすることで、異言を「習得」できる可能性は否定できない。

 

「聖霊なる神の業」としてでなくても、異言が発現することがあるなら、異言自体が直接的に「聖霊の内住」を保証するものとはならない、ということだ。

 

「異言」の「すべて」が聖霊なる神に帰することができるわけではない、ということにもなる。

 

第三に、異言は「最高の賜物」ではない。


パウロが語っているように、「最高の道」とは「愛」であって、愛がなくては異言もまた「やかましいシンバル」に過ぎないのだ。

 

異言には「自己の信仰を鼓舞する」という働きがあるようであるし、神の臨在を親しく体験するための手段だろう。

 

しかし、「なんのためにそれをするのか」という「愛」がなくては、ただの自己愛の延長になってしまう。

 

「自らの信仰が鼓舞されること」によって、「神の使命と計画により深く、広く参与し、人々に奉仕する」という「神への愛、隣人への愛」の部分がなくては、異言もまた自己愛に過ぎないのではないか、ということになる。

 

以上の三点を考慮すると、異言自体には、確かに人の心をひくいろいろな要素があったとしても、それほど大きな意味がある、ということにはならないように思うが、どうだろうか。

 

もちろん、異言が語れる人は、聖霊の賜物として感謝しつつ自分と神との関係で語ればいいかと思うし、それをことさらに否定する必要などないのは当然だろう。

 

ただパウロは解き明かす人がいないなら、教会で異言を語っても有益なものではないので、自分は教会では理性で語る方を取る、と言っている。

 

異言を語れるからといって、教会形成にとって意味がそれほど大きくないとするなら、パウロの「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(第一コリント12:31)という教えに従って、異言に安住することなく、更なる賜物を求めて前進を期してこそ、異言にもまた意味が出てくるということになるだろう。

 

かなり「微妙」で「うがった」見方を書いてしまったかもしれないが、牧師の一意見としてご参考にして頂ければ、それだけで感謝である。

 

異言について、まったく別のご意見をお持ちで、本稿でもし心を傷つけてしまった方がおられたら、まことにすみませんでした。



「霊的戦い」について③ カトリック教会の「エクソシズム」

 悪くない奴らが成功するには、サタンの存在を信じること - 悪くない奴らが成功できるための日記


プロテスタントのペンテコステ派やカリスマ派の方々、また「霊的戦い」に関心のある方々は、カトリック教会のエクソシストについてご存じだろうか。

 

カトリック教会ではエクソシストが制度化されており、少数だが専門のエクソシストがいる。伝統的に練り上げられてきたエクソシズムの思想や実践を今でも続けている。

 

『エクソシストとの対話』(島村菜津著)という著書がある。


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ノン・クリスチャンのジャーナリストが突き放した客観的な視点で、カトリック教会のエクソシズムについて取材して、物語風に書き記したものだ。

 

この著書は、「霊的戦い」について関心があるすべての方に、ぜひ読んで頂きたいものだ。


ノン・フィクションとしてとてもおもしろいし、キリスト教に対しても非常に好意的に描いている。

 

また視点が多角的で、心理学的、神学的、社会的なコンテクストをふまえているため、読むと大変教えられる。発見と洞察に満ちている。

 

悪霊的な憑依や力をどう考えたらいいのか、カトリック教会の神父、社会的な状況に取材しながら、実像に迫っていく。

 

サタニズム、魔術、オカルト、性的虐待などが跋扈する世界で、精神的に痛めつけれた人々が、悪霊による「憑依状態」のようなものを経験し、病院をたらい回しにされた挙句の果てに、教会に助けを求めてやってくる。

 

こうした人々に向き合い、エクソシズムを行い、汚れた霊との戦いをする神父たちの様子も克明に描かれる。

 

最後はユング派の心理学者も登場して、エクソシズムは心理学的には一種の「演技療法」ではないか、という仮説も提示して、現代においてはエクソシズムは失われつつある叡智であるとしてこれを評価する。

 

この書のなかにでてくる、「カンディド神父」という、熟練したエクソシストの姿は、圧巻そのものだ。


この本はカンディド神父が亡くなってから、彼の仕事をたずね求めるような形で進んでいく。

 

彼は非常に謙遜な人で、祈りに専念して人目につかないようにしていたが、多くの人が彼を信頼して押し寄せてきたという。


カンディド神父との出会いによって、傷ついた青年、母親、父親、子供たち、高齢者たちが人生を取り戻していく。

 

だれもが信頼して押し寄せる有名なエクソシストであるにもかかわらず、数々の苦難で無一文になった障害がある女性のもとに、30年間問安して祈り続けたという記述を読んだときは本当に涙が出た。


カンディド神父に比べれば、自分は明らかに偽物の牧会者だと思わざるをえなかった。

 

カンディド神父は心理学者とも親しく交流しており、精神的不調をすぐに悪霊によるものと考えたりしない。


カウンセラーとも連携して取り組んでいる。自分のもとへくる97%の人々は悪霊の憑依ではなく、なんらかの精神医学的な病にかかっている、という。

 

私が理解したところでは、カンディド神父のエクソシズムの優れているところは、出会っている人の示す症状や原因、あらわれてくる悪霊的な力がなんであり、どんなものであるのか、といったことよりも、ただ率直に苦しんでいる人を愛するところにある。

 

悪霊の憑依のような異常現象に出会うと、「一体、これはなんだ?」という知的興味が先に立ってしまうきらいがあるが、それを知ることが本質ではないのだ。

 

目の前に事実として苦しんでいる人がおり、その人を苦しみから解放するために奉仕する必要がある。


エクソシズムはその奉仕の一つの形に過ぎない。

 

その核心をまっすぐに見据えて、愛と忍耐をもって立ち続け、信仰をもって神による救いを呼び求めること、それが悪霊的な力との戦いの本質なのだ。

 

悪霊がどんなもので、どんな力をあらわすかなどはある意味どうのようにでも解釈できる課題だ。


神学的、心理学的、社会学的コンテクストで、どのようにも理解できる。

 

問題の核心は苦しんでいる人が解放されるように奉仕する、隣人愛にある。


その愛が欠けているなら、霊的戦いもまた無意味になることが、カンディド神父の姿から教えられる。




「霊的戦い」について② 信仰と祈りによる「癒し」

 悪くない奴らが成功するには、サタンの存在を信じること - 悪くない奴らが成功できるための日記


礼拝や集会、牧会のなかで「病人のために祈る」ということを取り入れている教会は多い。

 

ペンテコステ派やカリスマ派ではない教会でも、牧会祈祷のなかで病人や長欠の兄弟姉妹のために祈るのは一般的だ。

 

しかし、こうした多くの教会で祈りによって事実として病気が癒されるのを信じ、期待しているかどうかは、別問題だ。

 

かなり多くのキリスト者が、「この祈りによっては癒されないだろうが、長期的には医療行為によって癒されるのではないか・・・」というような、生ぬるいあきらめの思いで祈っていることが多くある実態ではないかと思う。

 

この反対に、祈りによって瞬間的に癒されることを強く期待して「病者のための祈り」を実践している教会もある。


このような癒しは奇跡的な性格を持つことになる。

 

私がペンテコステ派やカリスマ派の兄弟姉妹に「真理」を見る一つは、彼らは「心から癒しを信じて祈っている」ということだ。


リスクを冒してでも、癒しを祈る信仰の冒険に踏み出している。

 

だからこそ、事実癒しが起こされ、キリストへの証しもまた生まれている。

 

一方、「主流派」と言われる教会の多くは、病気の癒しも本気では信じていないのではないか、と感じるところがある。

 

主イエスが病気の癒しを行われたのを、「昔話」にしてはならないのではないか。

 

こういった領域については、ペンテコステ派やカリスマ派の方々に教えを乞うのはいいのではないかと感じている。

 

私自身は、「病気の癒しのための祈り」の実践を考えるとき、その実践がいろいろな意味で「危険なもの」にならないための基準を持っている。

 

考え方の面で以下の基準に合致していない場合は、「癒しのための祈り」の実践は危険な領域に入ってしまうことがありうるため、警戒するようにしている。

 

1:すべての人が癒されるわけではないことを認める。なんらかの理由により、癒されないこともある。

 

2:医療行為を否定しない。医療と祈りは同時並行すべきである。

 

3:病気の癒しはあくまで「副次的」なものであり、福音の本質は霊的な「救い」にある。

 

4:癒し手はあくまで神ご自身であって、人間はそのための手段・器に過ぎないことを認める。

 

この主題との関連で、ジョン・ウィンバーの『力のいやし』という書物を読んだ。

 

この人についても、賛否両論あるのは知っている。彼を異端視する人もいる。

 

私も最初は疑いをもって読み始めたが、読んでいくとこの本はバランスがとれており、上記の基準にもまったく合致している。

 

この著者は癒しにまつわる危険も熟知している。

 

私自身は、この本の教えはかなり健全であり、大変学ばせられるところが多いと感じた。

 

神学的にはそれほど深められていないが、豊富な経験に裏打ちされており、私たちの旧態依然とした殻を打ち破ってくれるところがある。

 

「主流派」の教会はなかなか人が来ずに衰退を経験しているわけだが、ペンテコステ派やカリスマ派の方々の教えは、じっくり吟味したうえで受け入れるなら、豊かな「栄養分」と「刺激」に満ちていると私は感じる。

 

彼らの「すべて」を否定するのは、まったくの間違いだ。むしろ、学ぶところは非常に多い。

 

こうした教えをじっくり考え抜くことで、新しい信仰の深まり・高まりが出てくるのではないか。


「霊的戦い」について① 「3つの立場」

 悪くない奴らが成功するには、サタンの存在を信じること - 悪くない奴らが成功できるための日記


今回は、「霊的戦い」について書いてみたい。

 

これは、非常にデリケートな課題であるため、慎重な注意を要する。

 

これを読む人によっては、ここに書いてあることが危険な考えであると響くこともあるかもしれないし、嫌な気分になる方もいらっしゃるかもしれないけれど、お許し頂きたい。

 

「霊的戦い」という言葉を聴くとき、私の理解では3つの反応をする人々がいる。

 

1:なんらかの形で祈りにおける「霊的戦い」を学んで実践している人々で、ポジティブに反応し、学ぶ意欲がある。「主イエスの御名によって、悪霊を追い出す」ことを、生活に取り入れている。

 

2:「霊的戦い」が存在することも知らない人々で、キリスト者の戦いの領域を社会やこの世に限定している。


「悪霊と闘う」というような言葉を聴くと、「現代人の私には到底ついていけないし、そういうのはオカルト以外のなにものでもない」と感じる。

 

3:「霊的戦い」について、またそれを「悪霊との戦い」と考えて実践している人々がいることは知っているが、非常に胡散臭くて不健全だと考えており、これについて聞くとネガティブな反応をする。


「霊的戦い」が存在することは聖書的に認識しているが、非常に穏健なレベルでとらえており、「霊的戦い」とはみ言葉を聴いて祈ることによってなされると考えている。


「主イエスの御名で悪霊を追い出す」ことを、実践的には行わない。

 


ざっくり分けて、以上の3グループが存在していると思う。

 

偏見も交じっているかもしれないが、非常に単純化して、教派で分けてみよう。

 

1グループ:ペンテコステ派、カリスマ派

 

2グループ:リベラル派(自由主義神学派)、社会派

 

3グループ:保守を志向する福音派やリベラル派の中の福音派

 

私は、これらの三つの立場の中で言うなら、基本的に自分は「3」だと思っていた。

 

だが、最近「3」と「1」の非常に微妙なバランスのうえに成り立つ、中間くらいの立場が、最も真理に近いのではないかと感じている。

 

「悪霊を追い出す」ことは、主イエスもなさっているし、主の弟子も行っている。

 

だが、私自身はブルームハルト牧師が経験したような経験もないし、身近な信徒のだれかが悪霊に憑依された、というのを現実的に見たこともない。

 

日本のコンテクストだと、「憑依現象」というのは古代から広くみられるもので、恐山の「イタコ」や、沖縄の「ユタ」の存在は有名だ。

 

最近になって、こうした領域について一度じっくり研究してみようと考えて、時間をかけて他宗教のものや心理学も含めて、いろいろな本を読んでみた。

 

特に役に立ったのは、カール・グスタフ・ユングの心理学で、彼の「コンプレックス」の理論は、「悪霊」の問題を非常にクリアに説明してくれる面があると感じている。

 

もちろん、これだけで「すべて」は説明できないが、少なくとも「霊的存在」の心理学的意義については、はっきり示してくれる。

 

この課題については、自分なりの心理学的・神学的な研究を『心霊現象とキリスト教』という著書としてまとめた。


自分なりにたどりついた結論は、こうだ。

 

教会の成長を祈り、救われる人が起こされることを願っている牧師は、「霊的戦い」を自分なりの再解釈と応用を何度も何度も加えて、自分の文脈に適用可能なレベルにじっくりと昇華したうえで、牧会の実践に取り入れることは人々が救われるうえでプラスになる、ということだ。

 

「3」の立場にいて、「一体、これからどうしたら教会に救われる人が起こされるのだろうか」と悩んでいるとき、「霊的戦い」のさまざまな教えはなんらかのヒントを提供してくれていると思う。

 

ただ、厳重な牧会的・神学的注意と批判的吟味が必要なことは、明白だ。

 

ピーター・ワグナーをはじめとした一連の人々が、霊的戦いのことをいろいろと執筆している。


だが、これらをそのまま日本の文脈に適用はしない方がいいと思うし、これを鵜呑みにすることは危険だとも感じている。

 

彼らの教えを一つの「参考書」「たたき台」として、牧会的・神学的に再解釈と応用を重ねたすえに、まず牧師自らが「霊的世界」がどういうものであるかを自らの経験と聖書によって知るのを深めていかないと、ほとんど適用は無理だ、というのが個人的な感想だ。

 

ただ、彼らの教えは、なんらかの「刺激」に満ちている。少なくとも、キリスト者として忘れてはいけない、「霊的領域」について、なにがしかを示してくれていることは確かだ。


この「刺激」を「刺激」に終わらせず、日本伝道のための「真の栄養」へと高めることが求められているように思う。

 

ピーター・ワグナーをはじめ、こういった路線を歩む牧師・神学者を危険視する方々がおられることは十分知っているし、事実そういう面があると思う。


しかし同時に彼の書物にはなんらかの「真理」もまた含まれており、しかもその含まれている真理が世俗化に脅かされている現代の教会の状況では、かなり重要なのではないか、という気がする。

 

鉱山からダイヤを発掘するつもりで、こうしたものを読むのは、「見分ける・聞き分ける」訓練になる。ご一読と、更なる解釈・展開・深化を期待したい。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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