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2050年 日本基督教団の絶望と希望

 




日本基督教団では「2030年問題」について言われて久しい。


2030年前後、現住陪餐会員の平均年齢が平均寿命を超えるということで、日本基督教団の多くの教会が存続を問われる事態になっているだろう、という。


統計的にはそう言える、という話に過ぎないが、数字に基づいている以上、やはり蓋然性はそれなりにあると考えざるをえないだろう。


ここでは、一つの想像として、「2030年」のさらに先、「2050年」を考えてみよう。


この記事の著者は2022年現在43歳だが、2050年には71歳になっている。


要するに、現在40代の牧師たちの多くが隠退を考えるような時期、日本基督教団はどうなっているのか、思い描いてみる、ということだ。


(もちろん、それまでに主イエスの再臨があるなら、ここに記すことはすべて気にしなくてよいものとなるのだが・・・)


ごくシンプルに考えて、そこには絶望と希望がある、と自分には思われる。


絶望的な部分について触れると、現在存在している日本基督教団の多くの教会は、そのとき存在していない可能性が大きい。


牧師や信徒の人数も、そのときには過去と比較して、激しい悲しみと胸を焼かれるノスタルジー以外なにも抱くことができないようなものになっているだろう。


ヨーロッパで、過去の栄光を物語る歴史的な大聖堂が、いまやほとんど集う信徒もなく閑散としている姿、あれは2050年の日本の教会の姿とほぼ重なると考えていい。


日本でも、2050年前後には日本教会史に名前を残しているような大教会が、跡形もない状態になっている、という例がいくつも散見されるに違いない。


日本基督教団の将来に見えるのは、一面においては、こういった絶望的な、廃墟のようなビジョンだ。


どんなに包み隠そうとも、問題を真摯にとらえ、現在の流れをありのままに見つめている限り、こういった将来を回避することは困難だろう。


一方、希望を持つことができるビジョンもある。


現在の危機的な時代にあっても、なお日本基督教団には御言葉の説教や聖礼典、伝道や教会形成といったことについて、ひるむことなく揺らぐことなく、使命を果たし続けている教会があるのだ。


衰退の流れに押し流されることをよしとせず、これに激しく抵抗し、なおイエス・キリストの不変の恵みを信じ続けている牧師と信徒の群れだ。


そういった群れにおいて、またそういった群れを導く牧師においては、上に描かれたような絶望的状況は該当しない。


聖書の約束が実現していくからだ。


むしろ、そういった教会は「残りの者」として、神によって祝され、新しい教会の時を生み出す拠点となっていくだろう。


日本基督教団の多くの教会が廃墟のような状況になっていくときにも、イエス・キリストの信実を信じ続けた牧師と信徒は、新しい時代を拓く礎となる。


つまり、日本基督教団の牧師と信徒の数は減り続け、ついにはまったく無に等しいような状況にまでなるかもしれない。


それでも、なお「残りの者」(「バアルに膝をかがめなかった7千人」(列王記上19章)のような・・・)がそこに存在している限り、その人々が新たな時代を築く、教会の母体として用いられる。


その人々から信仰を受け継いだ世代は、私たちが見ることができなかった新しい世界を見ることができるかもしれない。


いま、私たちは神によって「ふるいにかけられている」のだ。


絶望的な将来への道を行くのか、希望の将来への道を歩むのか。


「バアルに膝をかがめる大半の人々」の一員になるのか、「残りの7千人」の一人となるのか・・・。


ふるいにかけられた先に、絶望と希望とに、私たちは分かたれているだろう。


これは「だれか」の問題ではなく、「わたし」と「あなた」の問題なのだ。



日本基督教団の特性④ 「ロゴス的」であること

 日本基督教団の特性として、「ロゴス的」というわかりにくい表現を使って、考えてみたい。

 

「ロゴス」とは「言葉」「理性」「論理」「法則」などを意味するギリシア語だ。

 

ヨハネによる福音書1:1以下でイエス・キリストが神の「言」と言われているが、この「言」は原語で「ロゴス」となっている。

 

世界を創造された神の言葉が、イエス・キリストであったことが言われている。

 

人間の理性や言葉は、イエス・キリストが創造されたものとして、ご自身の特性を多少なりとも反映している。

 

聖書や説教を読み聞きして、信仰に目覚めていくのも言葉という媒体による。

 

他者の内面との交流は、基本的には言葉においてしか成立しない。これは非常に重要な点だ。

 

根本論はさておき、「理性的」「論理的」「言語的」な部分を探求し、実践していくことが、日本基督教団の特性としてあるのではないか、ということだ。

 

これはなにも、日本基督教団ばかりか、宗教改革の精神を継承するプロテスタント諸派すべてに共通することだ、というのはそうだろう。

 

だが、他の諸派と比較しても、日本基督教団独自の「ロゴス的」な部分があるのではないかと思われる。

 

日本基督教団は「合同教会」であって、多くの教派が合同して成立している。

 

「日本基督教団信仰告白」を教えの面での基本的な一致の基礎として合同しているわけが、これは「簡易信条」であって、教派的な一致の「最低限のライン」を示すものにほかならない。

 

「これだけにおいては最低でも一致し、他の部分については自由かつ創造的に展開する余地を残す」ものとして、日本基督教団信仰告白はあると言える。

 

ある意味では日本基督教団は、その信仰告白において最低限の一致をし、「最大限」の部分については各教派の伝統や新しい神学的な学びと実践などを蓄積することで、創造的に伝統を構築してそのフロンティアを拡大していくべきものとして構想されている、ということではないかと思う。

 

各旧教派的な伝統(メソジスト、改革長老、会衆、バプテスト・・・)が、それぞれの引き継いでいる伝統を背負いながら会議によって教団の形成を進めていくということは、そこで不可避的に伝統の「すり合わせ」が要求されることになる。

 

つまり、「自分とは相対的に異なる教えを受け継いでいる人との対話」が要請され、これに応答しなくてはならない。

 

教団の場合は、これが「合同教会」である以上、「半強制的」とも言えるものになっている。

 

「ある特定の教派的伝統の枠内の議論だけで満足していることを許さない」ということが、教団の構造には含まれている。

 

地区や教区、教団でなんらかの会議をするとなれば、これは避けることができないものだからだ。

 

自分とは異なる伝統を抱く他者との交わりや対話を通して、自分のこれまでの伝統や神学的立場が問いに付されるということは、「信仰の言葉や神学的論理の面で、常に問いに付され、新たに思考し直すよう、チャレンジされ続ける」こととなる。

 

ある立場に「安住する」ことを許さないことによる、ロゴス的な探求と創造性の発露、ということが日本基督教団の構造などには意図されているのではないか。

 

そういった刺激を栄養分としながら、信仰告白を最低限の一致点として、信仰の豊かさの「最大限」のフロンティアを拡張していくように、「言葉」を取り入れ、研ぎ澄ませていく、という特性が日本基督教団にはあると言える。

 

平たく言って、「理性的に聖書に向き合い、信仰の広がりと深みを言葉で探求していく」ために、必要な栄養や資源、教派的な構造などが日本基督教団には与えられている、ということだ。

 

そこに属する牧師や信徒も、「ロゴス的」「理性的」なものに自分との親和性を見出す人が多くなる、ということでもあるだろう。

 

さらに、「学問」的なものとの関連性も多くの意味で深くならざるをえない。

 

教会の特性として「議論」したり「語り合う」こと、「学ぶ」ことを重要視する、という特性も生じうる。

 

「パトス(情熱的)」と「エトス(倫理的)」という言葉を持ち出すと、こういった特性を主とする教派(ペンテコステ派、バプテスト派、ホーリネス、カトリックなど)も連想されるが、日本基督教団と比較すると興味深い。

 

もし、日本基督教団が「ロゴス的」な特性を持っており、この探求が重要な要素としてあるなら、礼拝の文脈では「説教」や「祈祷」の在り方が、日本基督教団の霊性や神学、信仰において本質的に重要な位置を占めるのは言うまでもない。

 

こういった部分で、ロゴス的な深さや広がりが消え、内容が枯渇していくなら、それが日本基督教団の衰退の本質にもなるだろう。

 

またこれらはいったいどのように回復していくのか、という問いが、教団の再生への問いにもなる。

 

ごく単純に「牧師がどれくらい勉強しているのか」が、反映しやすいのが教団であると言えるかもしれない。

 

また、「理性やロゴス的なものに、現代の時代精神がどれくらい許容的・積極的か、もしくは消極的・否定的か」によって、教団の「教勢」はかなりの影響を受ける、という社会学的な議論もできる。

 

この主題は非常に深く、また広範なものなので、正直広げ始めるときりがない。

 

とりあえずはここで終わりたいが、また別の文脈でも論じていきたいと思う。

 



日本基督教団の特性③ 「教会関係組織を通しての伝道」


日本基督教団の特性の三番目として、「関係組織を通しての伝道」をあげたい。

 

「関係組織」とは、キリスト教主義学校、キリスト教主義福祉施設、キリスト教主義保育園などを通しての伝道ということだ。

 

これは実践的には、教会関係組織を通して「キリスト教へのアレルギーを取り除く」「受洗者を生み出すために、日本の霊的土壌を改善する」ということを意味している。

 

「教団年間」の最後の部分に、教団と関わりのある組織についての一覧が掲載されているが、その数と多様性は他教派に類を見ないものだ。

 

教団の教会の礼拝出席者数は、必ずしも多くはない。

 

そもそも、都市部にメガ・チャーチを建てる「局所集中型」の教会形成よりも、全国津々浦々に教会を建て、そこで礼拝を守っていくという「全国分散型」の教会形成を取っているため、これは当然の帰結とも言える。

 

ところが、日本基督教団と関わりのある学校や保育園、社会福祉事業に関わっている、キリスト者ではない職員や学生、園児などまで視野を広げると、その伝道的な「裾野」は他教派と比較して、非常に広大なものがあると考えてよいだろう。

 

そこでキリスト教主義のなんらかの教育やサービスを受けることで、教会に対するアレルギーや偏見を取り除かれ、伝道が進展するうえでの土壌が作られていることは、非常に重要な伝道の一部を占めている。

 

日本基督教団の教会は社会的に広いフィールドにまたがる裾野が与えられているという点で、こういった組織を通して地域にアプローチしていく伝道の道がある。

 

これがうまく機能すると、御言葉が広がっていくうえでの大切な拠点となりうる。

 

歴史的にいっても、日本で教会や「キリスト教」というものが認知され、国民に受容されるために、こうした組織が果たした役割には甚大がものがある。

 

これらがなければ、なお多くの日本人は「キリスト教」というものを、「邪教」扱いすることから、抜けることは難しかっただろう。

 

現在の教会が平穏に伝道に従事できるのは、先人たちのこういった分野での働きが極めて大きいという点で、本当にありがたいことだ。

 

一方、別の困難な問題も起こっている。

 

牧師が教会以外の関係組織の「長」(福祉の施設長、幼稚園の園長など)となることで、そちらの組織のマネジメントをはじめとした伝道以外の働きに時間や労力、思考力などを奪われてしまうことがある。

 

すると教会の職務がおそろかになり、結果的に教会の衰退を招いてしまう、という特質もまた、日本基督教団には深く根差していると言える。

 

「キリスト教主義~」という組織や団体が伝道のフィールドとして豊かに与えられているからこそ、教会や牧師とこういった施設との関係性はどうあるべきかについて、確かな神学的な吟味もまた必要とされている。

 

少なくとも、教会関係組織を通しての伝道は、直接的に洗礼に結びつくものというよりも、現実的にはそこで働いている職員や園児などはキリスト者ではないことが多いため、「土壌改善」の働きに留まることが実際的に多いことについては、しっかりと考えなくてはならない。

 

特に現在では、こういった全国のキリスト教主義組織において「キリスト者のリーダーや職員」がいなくなり、「キリスト教主義の理念」を存続することが困難となる、という事例が相次いでいる。

 

こういった組織の長をつとめることができる専門知識のある信徒がおらず、牧師がやむをえず長にならざるをえない事例も多い。

 

日本基督教団の特性として与えられている豊かな可能性である関係組織が、存続困難になることでかえって教会との関係性に課題を生じさせる、ということも生じうる。

 

結局のところ、「教会が受洗者を生み出し、こういった人々が関係組織で働くようになり、その人々の働きと証しによってまた受洗者が生まれる」というのが理想像であり、伝道の好循環となる教会と関係組織の関係の青写真だ。

 

ところが、現実的には「教会が受洗者を生み出せず、キリスト者ではない人々が関係組織で増えていき、結果組織も理念を希薄化していき、それを収拾するために牧師が組織の長となり、意識が教会の職務から離れ、教会が衰退していく」というのがよく起こっている事例だ。

 

「教会関係組織」である以上、やはりそこでの「キリスト教主義の理念」の鍵を握っているのは教会なのだ。

 

教会が伝道し、受洗者を生み出すことがなくては、どのように応急手当を試みても、最終的には機能不全となり、やがてまったく理念を失って世俗化した組織と、衰退しきった教会だけが残されることになる。

 

マイナス面にずいぶん触れてしまったが、この部分は日本基督教団の伝道の特性上、非常に重要かつ可能性に満ちたものでありながら、今現在は課題となってしまっているという点で、深く理解しなおし、悔い改めて取り組んでいくべき、最も大きなところだろう。

 

「教会が受洗者を生み出す」ということが、こういった関係組織での伝道が機能するうえでの前提である以上、最終的にはこの領域においても小手先の技術や応急処置ではなく、教会が御言葉を広げる働きを全力で推進すること以外に救いはないことを、心に刻みたい。




日本基督教団の特性② 「伝道による一致と合同」

 


日本基督教団の特性として、「教派主義」という観点から考えてみたい。

 

歴史的に日本基督教団は「合同」して成立したものだが、その根は日本伝道初期のキリスト者たちが目指した「公会主義」にある、と考えられる。

 

植村正久はじめ、当時の指導的キリスト者の一部が、「日本のようなキリスト教になじみのない地で伝道していくためには、欧米の教派を移植するのではだめだ。教派の壁や区別をなくし、『公会』ということ一本でいこう」と考えたことによる。

 

これは「聖なる公同の教会」を地で行こうとする、ある意味で非常にロマンに満ちたものだったが、現実の厚い壁に砕かれてしまう。

 

その後も「伝道のために教派の障壁をなくして、合同しよう」という合同運動の機運が何度かに渡って盛り上がるが、そのたびに教派主義の壁によって潰えていた。

 

ところが1941年、戦時中の政府からの圧力によって、それまで求めてきた合同が実現してしまうことになる。

 

これはなんとも皮肉な話のように見えるが、教団は「教憲」の中でこうした歴史的な出来事の背後に、神の導きの御手を認めている。

 

もし、こういった出来事を純粋に「政府による強制」という側面からしか理解しなかったら、戦後教団は完全にあらゆる教派に「分裂」して終わっていただろう。

 

ところが、戦後教団から離脱した教派もあったが、残った教派も多くあった。

 

それは歴史的に「日本伝道のために教派主義を乗り越える」という先人たちの志を継承した教会とキリスト者がいたからにほかならない。

 

戦後離脱せずに残った教派が、日本基督教団という形で現在まで働きを継続してきている。

 

教団にその教会や教派が残っているということは、「日本伝道のためには教派主義を強くしていく路線よりも、一致協力した方がよい」というビジョンを継承・共有している、ということだ。

 

「教派主義」を強めるべきというなら、教団から離脱して他の教派に合流するのが妥当だからだ。

 

以上の経緯からすると、日本基督教団が「合同教会である」ということの意味と背景は、第一義的に「日本伝道のため」である、という理由があることを、忘れるわけにはいかない。

 

「教派主義」が日本伝道のためには「よりメリットが薄い」という認識を共有しているから、「合同」が成り立つのだ。

 

歴史を振り返るなら、教団が「合同」しているのは、「豊かさ」のためではなく、「多様性」のためでもない。

 

もしくは「互いに支え合う」ことさえも、第一の位置を占めてはいない。

 

これらすべては「日本での伝道のため」であって、教団の「合同」自体が先人たちの志と認識によるなら、「伝道のため」にほかならないのだ。

 

別の言い方をするなら、「伝道」という部分での「一致」が教団としてできなくなると、そもそも「合同」の意味もなくなってしまう、ということになる。

 

「伝道のための合同」であって、その逆ではありえないし、また他に合同の目的もないからだ。

 

教団のシステム自体も、「教団の諸教会が日本伝道という点で一致している」という前提でこそ機能するもので、たとえば「もう伝道などはしなくていい」というような意見が重要な会議で通るようになると、もはや「合同」の意義も消えてしまうことになる。

 

教会の役員会、教区の常置委員会、教団の常議委員会などで、「日本伝道のために」という先人たちの志が継承されているうちは、「合同教会」としての力や機能も発揮でき、教団として前進することができる。

 

だが、この点の一致がないなら、教団は歴史的な意味において実質的な解体か分裂、存亡の危機にあるということだ。

 

教会や教区の「個性」的なものはある程度までは当然許容されると思われるし、そこに多様性は当然ある一定の範囲内で認められるだろう。

 

しかし、「日本伝道」という「大義」が「お題目」や「建前」、「定義上の問題」になってしまって実質を失うなら、もはや教団は先人たちがそのために苦闘したような「伝道のために教派主義を乗り越えて一致し、合同した教団」ではなくなっているのだ。

 

この点は、深い熟慮を求められるところだろう。

 

先人たちの志と神学的認識を、新たに受け継いでいきたいものである。



日本基督教団の特性① 「全地域伝道」


「日本基督教団の特性」について、書いてみたいと思う。

 

「灯台下暗し」のことわざにあるように、私自身「日本基督教団」という「教派」について、学ぶことはあっても、じっくりと自分の言葉で考えてみたことがなかった。

 

最近、今後の教会のことを考えていくうえで、この教派のことを考える促しも覚えているため、個人的な考えの整理のためも含めて、書かせて頂きたい。

 

なお、教派の問題というのは奥深く、非常に微妙な点も含んでいるため、ここに書いていることは私自身の「個人的見解」であり、これをだれかに押し付けるつもりもないので、ご了承願いたい。

 

ここでは教団の「強み」や「よい点」にフォーカスしているため、弱点についてはまた別に考えることする。

 

日本基督教団に属している教会としては、どんな将来像やビジョンを描くことができるのか。

 

これが極めて重要な問いとなってきている。

 

これから、この教派に属している多くの教会は、歴史的に衰退をしていくなかで、「必死に伝道するのか、統廃合するのか、無人教会となっていくのか、更なる別の道か」という今後の「方向性」をだれもが問われることになる。

 

そのとき、「日本基督教団とはなにか」ということがわかっていなければ、そもそもその問いについて考えることも難しい。

 

そのための参考として、書いてみたい。

 

まず、「宗教年間」から、教派のデータを引用してみたい。

 

これは

 

https://www.christiantoday.co.jp/articles/26725/20190408/shukyo-nenkan-2018.htm

 

のウェブサイトにあるので、ご参照ください。

 

2017年12月31日時点 クリスチャン人口

 

        教会数 教師数(うち外国人)信者数

1カトリック   785 1383(519 44万3721

2日本基督教団  1521 3298(70) 11万9223

3聖公会     279  269(29)  5万0512

4バプテスト連盟 284  444(47)  3万4830

5福音ルーテル  122   84(3)   2万1941

6セブンスデー  175   77(12)  1万4797

7同盟基督教団  245  481(84)  1万2405

8アッセンブリー 164  409(44)  1万2162

9日本キリスト教会 136  160(2)  1万1637

10イムマヌエル  114  212     1万1579

11キリスト改革派 144  112(4)  9810

12正教会     56   36(2)  9518

13日本イエス   128  216(3)  8248

14ホーリネス   161  248(7)  7594

 

以上のデータで、「日本基督教団」と他の教派を比較した場合、最も特徴的なことは、なんだろうか。

 

顕著なのは、「教会数」だ。

 

カトリック教会でさえ、全国に785個の教会だが、教団はその二倍ほどの数も教会がある。

 

一方、教団の信徒数はカトリック教会の4分の1程度に過ぎない。

 

他のプロテスタントの教派と比較しても、教団は「教会数」が突出して多い数になっている。

 

「バプテスト連盟」と比較すると、バプテストのひとつの教会の「平均信徒数」は100名を超えることになるが、一方教団の一つの教会の平均信徒数は78名程度ということになる。現住倍餐会員としては、ということだろう。

 

ところがこれは実態とはまったく異なる。

 

礼拝出席者数は、教団は『教団年間』によると2016年で「31名」だ。


この平均数も、都会の大きな教会が引き上げているものであって、教団の「地方教会」は20人以下のところが圧倒的に多い。

 

礼拝出席がある信徒数は、教団は現在50521人と、2019年教団年間にはある。

 

以上の統計から出てくるのは、日本基督教団という教派は他の教派と比較して、重要な独自性、特性を持っている。

 

それは「規模としては小さくても、どのように人口の少ない地域であっても、全国に教会を建て、礼拝を守っていく」という特性だ。

 

合理性や効率性を考慮するなら、都市部や人口密集地域に教会を建て、それをメガ・チャーチへと成長させる、そういう教会を全国の都市部に複数生み出す、というビジョンも当然ありうるし、他の教派はこういった考え方が多いように思う。

 

他の多くの教派は、教会として相当以上に大きくなる可能性のある地域にしか、教会を建てようとはしない傾向があるのではないか。

 

ひとつの教会の出席者数を多くする代わりに、教会の数を伝道の可能性の大きい人口が多い地域に集中させ、教会の数は積極的には増やさない、という道だ。

 

一方、教団の「教会数」がカトリックの2倍ほども多いということは、教団は小規模でも全国津々浦々まで教会を建て、そこで礼拝を守っていく、という理念やビジョンのもとにある、と考えていいように思う。

 

これはだれかがそのように戦略的に意図したというよりも、教会として「合同」した歴史的な「結果」であると言える。

 

ただ、そうした結果が歴史的に出ていることは、そこに神の御心や意志というものを読むことも、許されるのではないかと思う。

 

以上のような、他の教派が教会を建てないような地域にも、教会を建てていく、「すべての地域で伝道する」という理念が教団の在り方に内在しているとするなら、ここからどのような考え方が導かれるだろうか。

 

人口が少ない地域にも教会を建てていくということは、当然そこでの教会の規模はどうしても小さなものにならざるをえない。

 

「地域の人口」と教会の人数は、なんだかんだと言っても、比例関係にならざるをえない。

 

人口が多い街の教会は大きくなりやすいし、人口が少ない地域の教会は小さくなりやすい。

 

そういったところにも教会を建てるというなら、「教会同士の協力関係」がないと、その地で礼拝と伝道を推進していくこととができないことは、明白になる。

 

つまり、より人口が少ない地域の小さな教会は、牧師を養い、教会を維持することさえ難しい。

 

教団が「全地域伝道」の理念を持つとするなら、「より大きな教会が、より小さな教会を支える」ということ、そして「どの教会も福音伝道に心を注いで従事することで、日本全体の伝道の責任を持つ」という考え方にならざるをえない。

 

つまり、「各個教会の単位で伝道していくことを前提に、それを教団や教区をはじめ、教会同士の協力関係によって支えていくことができるネットワークや可能性が大きい」ことが、教団としての「強み」ということになる。

 

またなにより、地方の他の教派の教会がないようなところでの伝道の経験や知識、ノウハウを歴史的に蓄積していくことができるのが、他の教派にはすることができない、教団として独自の特性だろう。

 

日本で教団以上に力を注いで「地方伝道」に従事している教派は、存在しないと言える。これは非常に大きな点だ。

 

そしておそらく、教団の教会は日本の教派の中で最も、地方教会や他の教会を覚えて祈り、支えるために献金していると思われる。

 

前の平松という大分県知事が 「グローバルに考え、ローカルに行動する」と言ったが、これを多少展開して言うと、教団の理念はこういうことになるかもしれない。

 

「グローバルに神学し、ナショナルに(全国の諸教会のために)祈り、ローカルに伝道する」

 

教団のことを知るには、『教団年鑑』の年表や統計を眺めるのが、てっとり早いので関心のある方はご覧ください。

 



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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