日本伝道について④  伝道の二つの路線「遠心力と求心力」

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最近、ネット上の情報を見ていると、伝道について大きく二つの異なる路線の違いがあり、これが少なからぬ対立や葛藤をしているように見える。

 

一方の路線は、教会の信仰の濃度を高め、これを純粋なものとしてストレートに伝えて行こうというもので、ある意味伝統的路線であり、多くの保守的な牧師や信徒はこういった道を進もうとする。

 

もう片方は、教会の信仰の濃度をある程度薄めつつ(「教会の敷居を下げる」とよく表現される)、この世の多くの人々の意識においても受けとめることができるところで伝えるというもので、ある意味ではリベラル路線と言える。

 

この二つの立場は、互いに長所と短所を持つことは、ほぼ明らかだろう。

 

前者の弱点は、アピールすることができる人々の範囲は、ごく限定的であるということだ。

 

ある意味、教会に信仰を求めてきているような人々にはアピールするが、世の中の大多数の人には見向きされないことが多い。

 

長所としては、世の中で試練や挫折の経験などを通して、信仰の覚醒を経験する人は一定数、いつの時代にも起こされるため、こういった人々を着実に神の御元に導くことができるという意味で、「着実性」がある。

 

一方、後者の長所は、世の中のより広い範囲の人にアピールすることができるところにある。

 

その弱点は信仰そのものが曖昧となり、場合によってはその内容までも変わってしまうようになりうることだ。

 

この両者を、「求心力」と「遠心力」とも表現できる。

 

信仰の守ることで「外から内へ」の力を高める伝道と、信仰の力を外へと拡大することを目指す「内から外へ」の伝道だ。

 

この両者の伝道路線の対立が、いろいろな形であらわれてきているように思える。

 

前者は、「礼拝説教」や「福音理解」、「信仰の本質」、「聖書的であること」といったものを重要視し、これを深めていくことを主として志向する。

 

後者は、福音の「伝達方法」や「伝達の在り方」、「社会におけるインパクト」を重要視し、これをもってより広く社会の人々に福音が伝わることを志向する。

 

これらは、シンボル的な用語として、いろいろと表現することができるだろう。

 

前者:ガチ勢、まじめ、深化徹底、体育会系、コンテキストのテキスト化、高挙的、超越的、上からのアプローチ・・・

 

後者:エンジョイ勢、ふざけ、文脈化、文化系、テキストのコンテキスト化、受肉的、内在的、下からのアプローチ・・・

 

前者は、後者について「福音の実質からどんどん外れている」という風に見えるので、それを批判する。

 

後者は、前者について「社会にはまったく通用しない、非常識的な離れ小島となっている」と見えるので、それを批判する。

 

ところで、この両者は「対立・葛藤」の関係にある課題なのだろうか。それとも、「補足・修正」の関係にあるのだろうか。

 

以下からは私の考えだが、この見解の相違については「その伝道の路線の主張者が、どのような『生活の座』にあるのか」ということで、ほぼ説明がつくのではないかと思われる。

 

「牧師」であるなら、明らかに前者の路線を主張するだろう。それが職務の本質だからだ。

 

そして、牧師は他の牧師に対しても、前者の路線を担うように求めるだろう。

 

しかし、主張をしているのが「信徒」であり、「他の専門分野」を担う人であるなら、後者を主張することも多いだろう。

 

というのも、信徒は社会の隅々にまで出かけて行き、その地域や職場で働くものであり、信徒が週日に出会う大多数の人々はキリスト者ではないからだ。

 

そこで地道に証しをしていかなくてはならない、という場合は前者の在り方だけでは通用しないことは、当然のことだ。キリスト者でない人に、文脈にもそぐわないところで突然「福音の本質」を語ったら、一発でその場所での信頼関係も終わりかねない。

 

つまり、この二つの路線は「牧師(教職者)」と「信徒」の間の路線に内在しているものであり、どちらかが正しいのではなく、「どちらも教会に必要であり、互いに補い合ってこそ、役割を果たすことができる」ものであるのは、明白だろう。

 

前者がしっかりと役割を果たすから、「正しく救われる」ことが起こるのであり、後者がしっかりと役割を果たすから、「救いが広がる」ことが起こる。

 

どちらかが欠けると、「間違った救い」や「広がらない救い」となってしまい、共に教会の衰退の大きな原因となる。

 

前者は、「信仰が深まっていくためには不可欠」であり、後者は「信仰の入り口として不可欠」なのだ。

 

前者は後者が、後者は前者が自らの立場と視点が異なるため、「間違っている」ように見えるが、実は「生活の座が異なる」ということに根差した「視点の違い」によるものであることを、わきまえなくてはならないだろう。

 

さらに、「互いの真理契機を取り入れる」ことで、この課題はより生産的に解決されるべき事柄だ。

 

つまり、前者は後者に「福音の本質は変えないにしろ、その用語の使い方や伝達方法や在り方は時代によって変えていくべきである」ということを学ぶ必要がある。

 

後者は前者に、「用語や伝達方法は変えていくにしろ、福音のメッセージの内容が変わってしまっては伝達自体が無意味となるため、その本質をよりよく理解してこれを守ること」を学ぶということだろう。

 

互いに、「異なる賜物と職務を担っている」ものとして、双方に対して敬意をもち、異なる形であっても神に用いられる幸いを感謝していけば、教会の円滑な前進と成長につながるに違いない。

 

この課題を適切に整理し、伝道の路線に関わる真理契機を取り入れつつ、建設的に教会が前進していくことを祈りたい。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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