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実践的神学用語解説④ 「教会の外に救いなし」

 Theological Preaching–Rich and Deep | The Heavy Laden Bookshelf


洗礼を受けようかと求道していたころ、真面目にキリスト教入門書か、神学書かを読んでいたとき、古代教父のキプリアヌスが語ったといわれる「教会の外に救いなし」という言葉を読んで、思い切り躓いたことがある。

 

「なんだ、この高慢かつ独善的な言葉は!」と憤慨した。

 

もちろん、正統的な教理を突き詰めれば、こういった言葉が出てくるのも無理はないというのはわかる。


しかし求道者でひどく迷っていた私には激しくこたえるもので、「こういう独善的なところが、キリスト教の嫌なところだ」と感じた。

 

こういった教会の内部や、教会の働きの独自性を強調する神学へのアンチ・テーゼとして、「ミッシオ・デイ(神の宣教)」といわれる神学が盛んに言われた時期がある。

 

これは「教会の外」においても、キリストは働いておられ、このキリストの愛の業に参与することを求める神学である、と私は理解している。

 

教会の外では、もちろんキリストの働きを人々は認識しない。


しかし、なお見えない形でキリストが働いているなら、そこにキリスト者が出かけて行ってそのキリストの業に参与することで、教会の外の人がキリストを知るために用いられることになる、ということだろう。

 

こういった神学により、「教会の外」でのキリスト者の働きを考える視点が生まれたのはよかったかもしれないが、逆に教会そのものがこの世へと溶解していく危険もまた、確かに存在するし、事実こういった神学を突き詰めると、教会のアイデンティティは希薄化する一方になりがちだ。

 

「教会の内にのみ救いがある」、「教会の外にも救いがある」といった考えのぶつかり合いだろうが、こういった考え方の難点として感じるのは、どちらにしたところでフォーカスしているのが「教会」である、というところだ。

 

「教会の外に救いなし」という言葉は、「教会こそが救いである」ということではない。

 

また、ミッシオ・デイにしたところで、「教会の外のなんらかの活動や団体が救いである」ということでも、もちろんない。

 

もっというと、「教会の内にも救いがない」ことがあるかもしれないし、「教会の外にも救いがない」こともあるかもしれないことについては、なにも言われていない。

 

なにが言いたいのかというと、「教会」にフォーカスする思考法だと、教会は人間の群れであるため、完全ではありえず、どこまでいっても地上では罪から完全に清められることはない。

 

「教会」になんらかの形で救いを期待するという考え方全般には、そもそも根本的な無理があるということだ。

 

「教会も含めて人間には、どこにも救いはない」と言って過言ではない。救いは、ただ神にしかないのだ。

 

つまり、どこまでも「三位一体の神こそが救いであって、それ以外のどこにも救いはない」という信仰の思考法を身につけないと、「教会」との関連性のなかで救いを考える限り、信仰生活における失望や挫折から解放されるのは難しいということだ。

 

「教会に傷つけられた」「教会で嫌な目にあった」「教会でも人間は、次々に問題を起こしていた」

 

こういって教会を去っていく方はかなり多いが、「そもそも教会は救いそれ自体ではない」としたら、どうだろうか。

 

教会に臨在され、教会で讃美礼拝される「三位一体の神」だけが救いであり、教会に救いがあるとするなら、それはこの神がそこに臨まれているから、という理由だけだ。

 

「救いを求める対象」について、「教会」と「神」とを混同していると、苦い失望や信仰の挫折を味わってしまうところがある。

 

「主を信じる者は、だれも失望することがない」(ローマ10:11)とある。

 

「神を信じる」ことと、「教会を信じる」ことは、その「信じる」の内容が異なっているのだ。

 

三位一体の神については「私たちの救い主」として信じるが、教会については「そこに神が臨まれ、働かれている」ことを信じるのであって、教会自体はこの神なしには、滅びゆく罪人の群れに過ぎない。

 

「教会はキリストのからだ」とは言われているが、「キリストは教会のからだ」とは言われない。

 

「教会」と「キリスト」の間には区別があり、キリストは教会よりもなお、大いなるお方だからだ。

 

さらに言うと、「キリスト教」に救いはないが、「キリストご自身」こそが救いなのだ。

 

もっと微妙な判別しにくい線に行くと、「聖書」に救いはないが、聖書が証しする「キリストご自身」こそが救いなのだ。

 

この辺の議論はかなり細い道を通るもので、賛否あると思うし、カトリックの伝統的神学は以上のようにではなく、むしろ積極的に「教会=救い」というロジックを展開しようとする。また、「逐語霊感」を重んじる教派の方々は、「聖書=救い」と考えるかもしれない。こういった点は今回触れないでおく。

 

とにかく、「救われるべき名は、天下にイエス・キリストの名のほかない」(使徒4:12)ということを、信仰的に「身につける」ことで、「他の何者にも救いを期待しない」メンタリティが養われることが、安らかな教会生活のために、ぜひ必要なことなのだ。


実践的神学用語解説③ 「宗教」について

 Theological Preaching–Rich and Deep | The Heavy Laden Bookshelf


植村正久の著作のなかによく出てくる言葉に、「宗教」がある。


植村の著作集のいたるところで、「宗教」という用語を使って記述をしている。


このことと、たとえばカール・バルトがよく語る「宗教は不信仰である」「宗教は偶像崇拝である」「宗教の揚棄としての啓示」といった一連の宗教批判の命題とは、どういった繋がりがあるのだろうか。


また、ボンヘッファーも『獄中書簡』のなかで「非宗教的解釈」を提唱しつつ、「宗教」が語る神を「機械仕掛けの神」として批判している。


植村は「宗教」を肯定的・積極的に使用し、弁証法神学者の多くは、「宗教」を批判している。両者の「宗教」のニュアンスや意味合いは、明らかに異なる。


バルトが宗教批判をするとき、その念頭にあるのはシュライエルマッハーの神学だ。


つまり、シュライエルマッハーが「宗教」とは「絶対依存の感情」であるとして、当時の教養ある人々に宗教の意義を説明したが、この神学は「人間を救う神」よりも「神を信じる人間」にフォーカスしていく、という傾向がある。


バルトは、「結局のところ、大事なのは神ではなく人間なのだ」という傾向全体に「否!」を唱える神学を展開した。


バルトは「宗教」という用語を通して批判する時、「神を信じる人間」という意味合いで使っている。


そして、バルト神学などが「福音は宗教ではない」という主張をするとき、それは「福音は人間を救う神の恵みであって、それを信じる人間の側の事柄ではない」ということだと私は理解している。


「宗教を信じる」というのは、一般的に「教祖が編み出した教えの体系を信じる」といったニュアンスを含んでいるが、私たちは教義や教理を信じているのではなく、むしろ「教理を通して神を信じている」のだ。「宗教」や「教義」と「神ご自身」は、明白に区別をしなくてはならない。


「宗教」=「神」では、ありえないのだ。


一方、植村正久が宗教について熱く論じるとき、彼は常に「日本人と日本社会」というコンテクストに向けて、信仰や聖書の教えの意義を弁証しつつ伝道する、という動機で語っているように思える。


当時の日本社会はご存じの通り、キリスト教に対してまったくといってよいほど理解がなく、偏見や差別的な言辞、アレルギーや拒否反応に満ちていた。


そういったなかでは、少しずつでも受け入れられるためには「キリスト教は日本社会にとって、こういったメリットがあり、このような役割を果たすもので、結果的に日本社会にとって非常に重要な意味がある」ということを、逐一説明していかなくてはならない。


そこで、植村は「宗教論」を日本伝道の「足場」としながら弁証・伝道する方法論を用いた、と言える。


キリスト教の宗教的意義を弁証することで、日本社会の「土壌」を変革し、キリスト教が受け入れられる地盤を作ろうとしたのだ。


バルトと植村の違いは明白だ。


巨大な教会が満ち、住民はほとんどが幼児洗礼を受けており、教会税さえ存在しているような「キリスト教社会」での課題は、「本物の信仰が世俗化し、薄らいでいく」ことだが、仏教や神道が大多数の人々に支持される日本社会では、「信仰が定着する」ことが課題になる。


このようなヨーロッパと日本の教会的コンテクストの違いが、バルトと植村の「宗教」に対する扱いの違いを引き出しているのだ。


バルトと植村は、基本的にほぼ同じ路線に立っていると私は理解しているが、置かれているコンテクストが異なるなら、神学的課題の扱い方も異なって来る。


こうしたことから、神学用語の意味は、その神学者が置かれている社会的・文化的「コンテクスト」が非常に重要な規定要素であって、ここを無視してただ用語上だけを受け止めると、大きな混乱が生じることを、改めて覚えておきたい。


バルトの宗教批判については、おそらく『ローマ書講解』が立場が明晰でわかりやすいが、こちらの入門書から読んではいかがだろうか。




実践的神学用語解説② 「支配」について

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神学校で学んでいたころ、組織神学の先生から教わったなかで、自分にとっては非常に有益でインパクトがあったものがある。

 

それは、「神学用語は聖書や教会の伝統から規定されるもので、この世での意味をそこに読み込んではならない」ということだ。

 

つまり、神学や信仰の世界での「用語」は、聖書と信仰の伝統から意味が定まるものであって、この世のコンテクストとは違う意味で用いられていることが多い。

 

その部分を理解することができず、この世的意味で聖書や信仰書、神学書を読むと、妙な誤読をすることになる。

 

その最もよい例として、「支配」という言葉がある。

 

私自身、求道者のころ、聖書で「その支配は代々限りなく」などと読むと、神に対してそこはかとない不安を覚えるものだった。

 

というのも、当時の私にとって「支配」という用語は、多分にネガティブな意味を含んでいるものだったからだ。

 

世界史や日本史をひもとくと、王や権力者の「支配」によって苦しめられる民衆の姿が出てくる。


人間の歴史においては、「支配者」というのは、人間的にろくな者ではないことが多い。

 

高慢で人を見下し、戦争に民を駆り立て、自らは贅沢に暮らす、という「支配者」についての消し難いイメージがある。

 

こういった人間の歴史における「支配」の言葉やイメージ、連想などを、聖書が語る「神による支配」のなかに読み込んでしまうと、「神は人間の支配者のように、恐ろしく過酷な存在だ」というイメージを、神の存在のなかに読み込んでしまうのだ。

 

この世での連想イメージから、「神の支配」が、「恐ろしいもの」に感じられてしまう。

 

こういった「誤読」があまりに昂じると、聖書や神ご自身の存在への理解や信仰が大きくゆがんでしまい、信仰生活が苦しく、つらいものになりかねない。

 

聖書が語る「支配」とは、「神の愛による統治」のことであって、罪人の支配者とは異なり、慈愛と祝福に満ちた私たちに対する保護と導きの業であると言えるのだ。

 

聖書、神学が語る「支配」という用語と、この世が培ってきた「支配」の用語の間には、大きな「ずれ」がある。

 

この「ずれ」をしっかりと理解し、「聖書が語っている神の支配とは、恩寵と慈愛そのものであって、この世が語るような抑圧的かつ過酷なものではありえないのだ」ということを、はっきりとわきまえなくてはならない。

 

こういった「ずれ」というものは、ほとんど「教会とこの世」を対照するとき、あらゆる文脈で出てくるものだ。

 

たとえば、教会の「役員会」と、会社の「役員会」は、同じ用語でも意味がまったく異なっている。


会社での意味を、教会に持ち込んでしまうと、教会形成のやり方を間違えてしまう。

 

教会での「祈り」と、この世の「祈り」の内容も、大きく異なっている。

 

教会で使われる「奉仕」と、この世の「奉仕」も意味が違う。

 

ほとんど、どんな用語にも、こういった「ずれ」というものがあるのだ。

 

その点をしっかりと理解することをしないと、教会とこの世が妙な形で「同化」してしまう危険を犯すことになる。

 

「神学用語辞典」といった類の書物は、上に述べた意味で重要な役割を担っていると言える。用語の意味を間違えたまま使っていると、とんでもない誤解も生みかねない。



実践的神学用語解説① 「共同体」について

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いつの頃からかわからないが、多くの牧師が「共同体」という言葉を多用するようになった。


おそらく、20世紀後半の神学、哲学からの影響だろうと思う。

 

アルフレッド・アドラーという心理学者も、「共同体感覚」という重要概念を提唱し、最近では「白熱教室」で有名なマイケル・サンデルという哲学者も「コミュニティ」という概念で共同体的なものを論じている。一つの、時代の潮流と言える。

 

教会はあくまで「共同体」であって、「個人主義はダメだ」という論調で使われることが多い。

 

多くの牧師が使う「個人主義」という言葉の意味は、「個人が宗教的満足、慰め、平安を求めることで事足りるとする信仰の在り方」を指しているようだ。

 

ボンヘッファーも『獄中書簡』のなかで、「機械仕掛けの神」について論じていくなかで、「宗教」について「宗教は個人主義」であるという主旨で批判している箇所がある。

 

旧約聖書から考えると、確かに聖書の神は「イスラエルの神」であり、「神の民の間で讃美される神」だ。

 

新約聖書でも、イエス・キリストは常に弟子の共同体のただなかにおられた。


そして、聖霊ご自身もまた、ペンテコステに「一同が一つになって祈っている」なかに注がれた。

 

以上の点について、20世紀前半までのプロテスタント教会が、それほど自覚的でなかった、もしくはまっすぐに受けとめなかった、という歴史的経緯に基づいて、「共同体論」が強調されているのだと思う。

 

確かに、たとえばスポルジョンの説教を読むとき、そこに「共同体」の響きはない。19世紀までは、この側面は看過されていたことは、否定できない。

 

そういう意味では、大いに必要な議論だと思うし、これからも教会論を進めるなかで、共同体論については深めていかなくてはならない課題だ。

 

上記のことを前提にしたうえで、ただ一つ気になるのが、多くの人は「個人主義はダメだ」というが、「共同体主義はダメだ」とは言わない、ということだ。

 

「個人主義」という用語を使って批判するなら、「共同体主義」の批判もありうるはずである。

 

たとえば、日本社会はすぐに「絆」や「みんな一緒」、「助け合い」、「一緒に頑張ろう」というフレーズを強調するかなり強力な「共同体主義」の社会だと言える。


日本の「集団主義」というのは、古くからある日本論の主題の一つだ。

 

教会の門を叩いて洗礼を受ける「一代目キリスト者」となる人は、こういった日本の「共同体主義」の世界のなかで人生が破綻したり、うまくいかなくなった人が多い。


共同体主義でうまくいっているうちは、教会に来る必要はほとんど感じないはずだ。その道が閉ざされたから、新しい道を求めて教会に来る。

 

すると、日本の共同体主義に躓いて教会に来たという人は、いわば「単独者」「個を引き受けた者」になっているのであって、教会はそういう人の「個性」「個人の尊厳」といった個人としての側面をまっすぐに受けとめる方が、ある意味伝道的であるといえるのではないか。

 

日本の共同体主義に破れて教会に来た人に必要なのは、「個」を受けとめてもらえる、ということだろう。


そういったコンテクストを無視して、教会で「個人主義はダメだ。教会は共同体だ」と言い続けることは、新来者、求道者の心中に不協和音を生むことになるのではないか。

 

個々のキリスト者が教会に仕えるようになる、本当の意味での共同体意識に目覚めるのは、かなりの時間が必要だ。


洗礼を受けて、神と教会に「個」をしっかり受けとめてもらったあと、霊的に成長していく過程でそういった意識が強くなっていく。

 

「単独者」として教会に来る求道者に、いきなり「共同体」論の強調を浴びせるのは、伝道的ではないのではないか、という疑問を私自身は抱いている。


「個人主義のままでいい」ということではないが、それを「ダメ」と言ってしまっては、その先が展開されないように感じる。

 

むしろ、「神の前に『個となること』を引き受けて教会に来た」という事実を、真正面から理解することが、まず大切だろう。

 

同時に、「教会の共同体主義」という問題もあると言える。


「神の眼差しではなく、教会員の眼差しを気にして自分の行動を律し、考える」というところが、私たちにはあるのではないか。

 

もしくは、個人の創造性や新しいアイデアを、集団の名のもとに潰そうとする傾向があるのではないか。


そういった新しい考えが、教会にとって破壊的なものなら、壊すのは当然かもしれないが、教会にとって重要な意味をもつ価値のある考えさえも、圧殺するところがあるのではないか。「足の引っ張り合いによって、個人の独創性、創造性の芽を摘む集団主義の傾向」ということだ。

 

そうであるなら、教会という共同体もまた、悪い意味での「共同体主義」の弊害を持っていると言わざるをえない。


「見えない教会」にはそれがないが、歴史を担う「見える教会」にはこうしたことが現実的によくある。

 

旧約聖書でも、神は「イスラエルの神」だが、「アブラハム、イサク、ヤコブ」の神であり、「モーセ、エリヤ、ダビデの神」だ。

 

新約においても、キリストは弟子たち一人ひとりを、「尊厳ある個」として徹底して受け入れ、愛してくださった。

 

聖霊もまた、一人ひとりの魂に内住され、無意識の底にまで浸透して人間を清めてくださるのだ。

 

つまり、「個人主義はダメだ」というなら、「共同体主義もダメだ」という批判も同時にするべきで、「個人と共同体」の双方の真理契機をまっすぐに受けとめないなら、信仰的にバランスを失ってしまう、ということだ。

 

教会は、「個人」が自由を与えられ、自由にされた個人が喜びをもって「共同体」に奉仕し、群れを形成するという意味で、「個」と「共同体」の双方が生かされる交わりだ。

 

「共同体」が強調され過ぎて、「個人」が置いてきぼりにされることがないよう、またその逆もまたないよう、在り方を改めて吟味してみたい。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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