『神の痛みの神学』の北森喜蔵先生のある著書を読んでいたとき、「自分は佐藤繁彦先生に大変大きな影響を受けた」と書いているのを読んだ。
そこで、佐藤繁彦の『ローマ書講解に現れたるルッターの根本思想』という著書を読んでみたが、これが大変深いもので、教えられるところが甚大だった。
青年時代に読んだものなので、記憶違いも相当あるかもしれないが、そこで展開されているのはルターの十字架の神学であり、「隠れた神」の思想についてだ。
神は怒りのなかに憐れみを隠される、ということを主イエスの十字架に基づいて描く。
神は「右手の業」と「左手の業」をなさる。
「右手の業」とは「祝福・慈愛・救い・生命の業」であり、「左手の業」とは「呪い・怒り・裁き・死の業」だ。
ルターが繰り返し語るのは、「神は人間を活かし、祝福し、慈しみ、救うために、まず死・呪い・怒り・裁きに引き渡す」ということだ。
主イエスが十字架を担ったがゆえに復活されたように、私たちも祝福と救いを味わう前に、古い自分が死ぬために苦しみを受けるのだ。
神は「左手の業」によって人間の高慢・間違った自信・罪深い生き方を打ち砕く。人間は無のなかに没して、どうしたらいいのかわからなくなる。
そのとき、神は「右手の業」によって人間を罪に満ちた「エジプト」である罪と高慢の地から導き出し、約束の地へ、つまり祝福・慈愛・救いの恵みのなかに受け入れてくださる。
神は怒りと裁きを通して、私たちを救いと歓喜へ至らせられる。
これは、一代目の多くのキリスト者が経験する現実だ。
この世で苦しみを受け、さまようなかでキリストの御腕に抱きとめられる。自分とこの世の限界と矛盾に苦しむことが、救いに目が開かれるための備えとなるのだ。
そこに神の「左手と右手」の御業が示されている。
主イエスの十字架は、このことの究極の啓示だ。主イエスが神の怒りと刑罰を担い、十字架につけられたまさにそのときに、神の慈愛と救いの業は究極に達した。
神がご自分の怒りと刑罰を、ご自分の御子の犠牲によって退け、慈愛と救いの勝利を啓示されたのだ。
私たちはキリストを信じることで霊的な約束の地を受け継ぐのだが、キリスト者となっても繰り返し人生の只中で神の「左手の業」に出会う。
それは、キリスト者のうちに残存している「古い自分」「肉なる自分」が死ぬためだ。へりくだらされ、キリストによりすがる者とされる。
私たちの古い肉の自分が死に没したとき、神は「右手の業」により、キリストに似た新しい人を復活させてくださる。
これが「聖化」の歩みの本質だ。
ルターは、怒りのなかに慈愛を隠される神を語ることで、苦しみと悲嘆、孤独のうちにあるキリスト者に希望を鼓舞する。
「まさにこの死のなかから、神の右手の業が始まる」ことを告げるのだ。
ルターの十字架の神学、隠された神の教えは、御利益信仰的な在り方を脱却して、真実に深い信仰を身に着けるために、不可欠のものだ。
「自分は神に怒られている」という人間の根源的な経験が、同時に神の愛の経験となるという逆説を、ルターは解き明かしてくれる。
佐藤繁彦先生の著書を、ぜひお読み頂きたい。