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マルティン・ルターの「隠された神」

 

マルティン・ルター - Wikipedia

 

『神の痛みの神学』の北森喜蔵先生のある著書を読んでいたとき、「自分は佐藤繁彦先生に大変大きな影響を受けた」と書いているのを読んだ。

 

そこで、佐藤繁彦の『ローマ書講解に現れたるルッターの根本思想』という著書を読んでみたが、これが大変深いもので、教えられるところが甚大だった。

 

青年時代に読んだものなので、記憶違いも相当あるかもしれないが、そこで展開されているのはルターの十字架の神学であり、「隠れた神」の思想についてだ。

 

神は怒りのなかに憐れみを隠される、ということを主イエスの十字架に基づいて描く。

 

神は「右手の業」と「左手の業」をなさる。

 

「右手の業」とは「祝福・慈愛・救い・生命の業」であり、「左手の業」とは「呪い・怒り・裁き・死の業」だ。

 

ルターが繰り返し語るのは、「神は人間を活かし、祝福し、慈しみ、救うために、まず死・呪い・怒り・裁きに引き渡す」ということだ。

 

主イエスが十字架を担ったがゆえに復活されたように、私たちも祝福と救いを味わう前に、古い自分が死ぬために苦しみを受けるのだ。

 

神は「左手の業」によって人間の高慢・間違った自信・罪深い生き方を打ち砕く。人間は無のなかに没して、どうしたらいいのかわからなくなる。

 

そのとき、神は「右手の業」によって人間を罪に満ちた「エジプト」である罪と高慢の地から導き出し、約束の地へ、つまり祝福・慈愛・救いの恵みのなかに受け入れてくださる。

 

神は怒りと裁きを通して、私たちを救いと歓喜へ至らせられる。

 

これは、一代目の多くのキリスト者が経験する現実だ。

 

この世で苦しみを受け、さまようなかでキリストの御腕に抱きとめられる。自分とこの世の限界と矛盾に苦しむことが、救いに目が開かれるための備えとなるのだ。

 

そこに神の「左手と右手」の御業が示されている。

 

主イエスの十字架は、このことの究極の啓示だ。主イエスが神の怒りと刑罰を担い、十字架につけられたまさにそのときに、神の慈愛と救いの業は究極に達した。


神がご自分の怒りと刑罰を、ご自分の御子の犠牲によって退け、慈愛と救いの勝利を啓示されたのだ。

 

私たちはキリストを信じることで霊的な約束の地を受け継ぐのだが、キリスト者となっても繰り返し人生の只中で神の「左手の業」に出会う。

 

それは、キリスト者のうちに残存している「古い自分」「肉なる自分」が死ぬためだ。へりくだらされ、キリストによりすがる者とされる。

 

私たちの古い肉の自分が死に没したとき、神は「右手の業」により、キリストに似た新しい人を復活させてくださる。

 

これが「聖化」の歩みの本質だ。

 

ルターは、怒りのなかに慈愛を隠される神を語ることで、苦しみと悲嘆、孤独のうちにあるキリスト者に希望を鼓舞する。

 

「まさにこの死のなかから、神の右手の業が始まる」ことを告げるのだ。

 

ルターの十字架の神学、隠された神の教えは、御利益信仰的な在り方を脱却して、真実に深い信仰を身に着けるために、不可欠のものだ。

 

「自分は神に怒られている」という人間の根源的な経験が、同時に神の愛の経験となるという逆説を、ルターは解き明かしてくれる。

 

佐藤繁彦先生の著書を、ぜひお読み頂きたい。

 

 

 

マルティン・ルターの「霊性」

マルティン・ルター - Wikipedia 


マルティン・ルターの「霊性」

 

ルターは非常に深い「霊性の神学者」と言える。

 

彼の霊性神学のキーワードは、「良心」、「霊(魂の根底)」、「試練」、「御言葉」、「受動的」などなどだ。

 

彼は、人間を基本的に「三分法」で考えている。

 

「肉体」、「魂(精神)」、「霊」だ。これらは、三つの人間的な在り方の段階でもある。

 

この世的な人間は、「肉体」にフォーカスして生きる。肉体的な欲望の追求や快楽を中心とする。

 

精神的な人間は、「知性」にフォーカスして生きる。学問や知識を愛し、認識の快楽に生きる。

 

キリスト者・霊的な人間は、「信仰」と「御言葉」にフォーカスする。祈り、礼拝、聖書に生きる。

 

この「三分法」による人間論は、キルケゴールやブレーズ・パスカルの人間論にもつながるもので、ヨーロッパ思想史に脈々と流れ続けている人間論として重要な類型を形作るものだと言える。

 

ルターは、それぞれの段階で「試練」を経験するごとに、人間の在り方の段階が変容していくことを語る。

 

つまり、人間は「肉体」に試練を受けることによって、「精神的」になり、「精神」に試練を受けることによって「霊的」になる。

 

この世の欲望や快楽を追求して生きていた人が、病気や挫折を経験して精神の目覚めを味わい、書物や知識を愛するようになる。知識や認識もまた古びすたれていくことを思い、永遠の霊的な愛と認識を求めるようになる、ということだ。

 

この流れは、教会の門を叩く人の多くが経験しているところだろう。私自身も、キリスト者になっていく過程でまったくこの道筋どおりのことを味わった。

 

「外からの試練」を経験することで、次第に内的なものに目覚めていき、ついに「魂の根底」にイエス・キリストを受容して、キリストにおいて死に、生きるようになるのが人間としての本来の在り方であることを、ルターは描き出している。

 

「肉体」から「精神」へ、「精神」から「霊」へと生き方の中心が変わることは、もちろん前の段階を完全に捨ててしまうことではない。

 

「霊」に生きる人も学問を愛するし、飲食を楽しむ。しかし、自分の人生の中心軸と最優先課題をどこに置くか、という根本的世界観・価値観が変容していくのだ。

 

「霊」に生きる人は、自分としてはまったくの無となり、この世を捨てておりながら、イエス・キリストをうちに宿すことで、このキリストの活動力、創造力に従って生きるようになる。

 

だからこそ、肉の力により頼む働きではなく、キリストの香りをただよわせることをするようになる。

 

自分を捨てながら、キリストにあって自分を超越していくのが、ルターの語る「霊性」なのだ。

 

ルターの霊性論を知るには、以下の書が最高だ。読みやすく、わかりやすいことこの上ない。すべてをクリアにまとめてくれている。

 

 

ルターと神秘主義

 マルティン・ルター - Wikipedia


個人的に、最近いろいろ思うところがあって、現代の教会がいろいろな意味で復活するためには「神秘主義の復権」が必要であるように感じている。

 

「神秘主義」と聞くと、多くのプロテスタントの牧師の先生方は、あまりいい顔をしない。

 

神秘主義がなぜ嫌われているのか、わたしはよく背景がわからないが、神秘主義は「そこに陥ってはいけない落とし穴」のようなものとして、表現されることが多い。

 

「そうした解釈だと、神秘主義になってしまう」

 

「そうした信仰は神秘主義的だ」

 

「それは神秘主義的だから、よくない」

 

ときどきこうした言い方がなされるが、わたしはこういうことをおっしゃる方がどれだけキリスト教神秘主義の著書を読んでいるか、よくわからない。


時に、まったく読んでいないような印象を受けることもある。


「神秘」というエキゾチックな言葉が導く「イメージ」に翻弄されている面があるのではないか。


もしくは、「神秘主義とは別世界に浸っているだけの変人を生み出すもの」という偏見があるのではないか。 


「神秘主義」という言葉によって考えられている内容と、実際の「神秘主義」の数々の著書の間に、おかしな誤解に基づく距離があるように思えてならない。

 

特にプロテスタントの方々には、神秘主義に特別なアレルギーがあると思う。

 

カトリックの方々にはアレルギーはない。というのも、カトリックの神秘家のなかに聖人や卓越した神学者が大勢いるから。カトリックでは神秘主義は神学的伝統の大切な一部だ。

 

もちろん、神秘主義には、真面目なプロテスタントが嫌がるような要素があるのも、確かなことだとは言える。

 

たとえば、一部の神秘家は、自己の見出した事柄を突き詰めて語るあまり、「汎神論的」な言い方をするところがある。


自己と神が一体であり、同一であるというところにまで突き進もうとする。こうした部分が、多くの方々には、信仰的に「ぶっ飛んでいる」「ありえない」ように感じられ、敬遠されるもとなのだろう。

 

しかし、彼等は非常に深い宗教体験の深みから語っているので、常識的でない表現を使わざるをえないところがあるのだ。それを理解しようと努めることもなく、一般的・常識的神学で「切って捨てる」ようなことをするのは、大変残念なことだと言わざるをえない。

 

特に思い起こすべきは、宗教改革者マルティン・ルター自身が、神秘主義的神学からおおいに学んで、神学を構築していることだ。

 

彼はタウラー、『ドイツ神学』、ベルナールといった神秘主義神学から、非常に多くのことを吸収している。ルター自身も、深い神秘体験を経験している。

 

そして、ルターなりの神秘主義を自らの神学の一部として展開しているのだ。

 

ルター神学の根底には神秘主義がある。この事実は否定することができない。

 

これは、宗教改革の神学の根本部分に、神秘主義的な信仰が位置づけられているということでもある。

 

そして、現代の教会の信仰がどこか信仰的な生命の躍動感に欠けているのは、神秘主義的な霊性を失っているからではないか、と考えざるをえない部分がある。ルターにはあって、今のプロテスタントにないものは、彼の内面に躍動していた神秘主義的な霊性ではないだろうか。

 

こちらの著書は、ルターと神秘主義の関連を描いたものとして、最高のクオリティとすばらしい内容になっている。これだけ読めば、ルターと神秘主義についてはほとんどの関連について網羅されていると考えていい。

 

心からお勧めしたい。非常に高価だが。

 



キリスト者の自由 「君主」であり「奴隷」

 マルティン・ルター - Wikipedia

ルターの書いたもののなかで、最も深く、そして最も簡潔にキリスト教の信仰を要約しているのは、「キリスト者の自由」だろう。

 

このなかで、ルターはキリスト者の二重性を語っている。

 

キリスト者は、「君主」であり「奴隷」である、というのだ。

 

「君主」とは、「自由」ということだ。

 

キリスト者はイエス・キリストへの信仰において、君主のような自由を与えられている。

 

これは、「良心の自由」と言い換えてもいい。

 

律法や、人間の掟に拘束されず、罪の赦しを信じて、聖霊なる神の導きに従って自発的な喜びを生きる、という自由だ。

 

キリスト者は、神以外のなにものにも支配されたりしない。キリスト者にとって、自分を支配するものは神のみだ。この神の導きのままに、神に守られて生きる。

 

「それでは、キリスト者は自由奔放に、自分の好きなように生きていいのだな」という声が聞こえてくる。

 

それに対してルターは、「いや、キリスト者は君主のように自由な者だが、愛において隣人に奉仕する奴隷でもあるのだ」という。

 

キリスト者はイエス・キリストにあって自由だからといって、それは「勝手気まま」ということではない。

 

むしろ、その自由を「奉仕」のために使って行くのだ。

 

キリスト者は、良心においては神以外のなにものの支配をも受けず、自由を享受するが、肉体においては隣人愛においてひたすらに隣人や社会に奉仕して貢献するものなのだ。

 

このような、「神への愛」と「人への愛」という事柄を、「君主のような自由」と「愛における奴隷」という対比において、見事に描き出しているのが『キリスト者の自由』だ。

 

ここに、信仰生活の真髄が描かれている。

 

「信仰の原点に立ち戻りたい」という願いを持っている方は、ぜひご一読を。

 




わが故郷 マルティン・ルター

マルティン・ルター - Wikipedia


自分にとって、読むと心底ホッとする神学者は三人いる。

 

カール・バルト、ジャン・カルヴァン、そしてマルティン・ルターだ。

 

私にとって、この三人は別格だ。「わが故郷」なのだ。

 

働きに行き詰ると、この人々の本を手に取る。

 

そして、読むと必ずなんらかの導きが与えられる。裏切られたと思うことがない。


なかでも、マルティン・ルターは思い出深い。

 

学生のころ、律法と罪の意識にさいなまれて最低な日々を過ごしていた時があった。

 

あの時の自分は、いわゆる「ペラギウス主義者(自力救済主義者)」だったと思う。

 

自分の努力で神の御心にかなおうと思って、罪の泥沼にのたうちまわっていた。

 

その暗黒から私を救ってくれた教えが、マルティン・ルターの神学だった。

 

ルターの『ガラテヤ書大講解』を読んでいたとき、律法的な罪意識からの解放を体験した。

 

涙が出て止まらなかった。ようやく平安が訪れた。

 

ルターの神学は、「罪意識で良心を苦しめられてのたうちまわって悩んでいる人」には特効薬になりうる。

 

ルター自身も、こうした罪意識の泥沼から救われた人だから、その言葉には驚くべき解放の力がある。

 

若い世代の人たちにぜひ読んでもらいたいし、彼の神学を本質面から継承する牧師が一人でも多く起こされるように心から願っている。

 

齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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