ラベル ディートリヒ・ボンヘッファー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ディートリヒ・ボンヘッファー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

ディートリヒ・ボンヘッファー ボンヘッファー神学の弱点②「限界」の理解

 神の前で、神と共に、神なしで生きる」 ボンヘッファー | 真理の研究

ボンヘッファー神学の弱点として、考えさせられることの一つは、「作業仮説としての神」という彼の概念だ。

 

人間が「限界」に至ったところで、その限界に意味を与えて救う神。


つまり、人間の「限界」が広げられれば、居場所がなくなっていくような神・・・。

 

それに代わって、人間の生活の真っただ中で、「限界」ではなく、人間の「強さ」や「善」において認識される神をボンヘッファーは語る。

 

こうした神概念は、「旧約的」であると彼自身が語っているように、「この世」や「地上」といったものと、連続性が強い神理解だ。

 

言ってみれば、「この世で力強く生きることをもたらす神」と言えるかもしれない。

 

ここに疑念がわいてくる。ボンヘッファーが人間の「限界」を通してあらわれる神を退けたのは、明らかな「行き過ぎ」ではないのか、ということだ。

 

というのも、イエス・キリストご自身が「十字架」という限界状況を耐え忍ばれ、その限界を「復活」において突破されたお方だからだ。

 

キリストが十字架に苦しまれた以上、人間としての「限界」や「弱さ」を退けたところで、神学を構想することには無理がある。

 

ボンヘッファーは、「成人した世界」によって人間の「限界」がどんどん広げられ、その領域が消えて言っているというが、これは本当だろうか。

 

むしろ、科学技術が発達すればするほど、それに伴って人間の「問題」や「限界」もまた、形を変えながら増え広がっているのではないだろうか。

 

「成人した世界」は「限界」のない世界や、「限界」がだんだん消えていく世界ではなく、「限界」の形が変わり続ける世界なのだ。

 

そうであるとすると、彼が『獄中書簡』で提示したさまざまな刺激的な概念も、その射程距離はかなり限定的になってくる面があると思う。

 

突き詰めれば彼のビジョンは、「強い者」「勝利者」「繁栄」の神学になってしまい、「新約的」な部分を切り詰めたがゆえの弊害が出て来ないとも限らない。

 

もちろん、ボンヘッファーは、自分の語っていることを神学的「スタンダード」にしようとは考えていないだろう。


一つの、「旧約を忘れ過ぎていること」への「修正」として語っているように思える。

 

ところが、現代のコンテクストで考えると、こうした「修正」がむしろ現代の教会の「この世性」を妙に強める影響を生んでしまい、かえって好ましくないところがあるように思う。

 

彼の神学は、非常に「誤解」されやすい。だからこそ、冷静に検討することも大切だろう。


ディートリヒ・ボンヘッファー ボンヘッファー神学の弱点① 「貴族主義」

 神の前で、神と共に、神なしで生きる」 ボンヘッファー | 真理の研究

 

ボンヘッファー神学の弱点は、いくつか考えられる。

 

その一つが、「貴族主義」だ。彼の神学は、おおむね「強い人間の神学」になっていると思う。

 

彼の『現代キリスト教倫理』を読んでみても、そのことがうかがえる。

 

ボンヘッファーは、責任と罪を引き受けて、苦悩しながら行動することができる、力強いキリスト者像を描き出している。

 

もちろん、これが「間違い」であると言いたいわけではない。


こうした、「強い者の神学」も必要だと思うし、これによって養われる人も多いことだろう。

 

しかし、逆に「ついていけない」人の数も非常に多いと思う。


彼の神学は、「キリスト教的貴族」のための神学のような響きをもっている。

 

自分の弱さや欠点、自分の恥ずかしい部分に悩みながら生きている、「弱い」タイプのキリスト者にとっては、彼の神学は「自分の罪や弱さが裁かれている」という感覚をどうしても抱かざるをえない。

 

「もし神がこのようなお方であるなら、自分はとてもついていけない」という「気おくれ」を感じてしまうのだ。

 

私自身、彼の灼熱のような情熱に魅力を感じながらも、そしてそのキリスト者としての水準の高さに感嘆しながらも、「でも、自分にはこれは実践できないな」という思いがわいてくることをとめられなかった。


彼の要求水準の高さに、適合できない自分を見出してしまうのだ。

 

もう少し踏み込むなら、ここから彼の神学の「律法的響き」についても批判がなされうると思う。


彼は「服従」や「犠牲」や「責任」を強調するあまり、神の「恵み」や「慈しみ」や「赦し」を過小評価する結果になっているのではないか、と言われるのではないかと思う。

 

キリスト者に非常に高い信仰的水準を要求し、彼自身はそれを生きることができたかもしれないが、しかしそれについていくことができない大勢のキリスト者を、神学的に裁いてしまっているところがあるようにも思う。

 

ボンヘッファー自身が、「キリスト教的貴族」という言葉にぴったりするような人だ。


崇高な意識と、倫理観を持っている。


しかし、私のようなキリスト教的庶民には、やはり彼の神学は自分に「受肉」しないところが大きいように感じてしまう。

 

彼の「貴族主義」から学ぶところも大きいが、しかし同時にそこが弱点にもなりうると思う。



ディートリヒ・ボンヘッファー 「非宗教的解釈」

 神の前で、神と共に、神なしで生きる」 ボンヘッファー | 真理の研究

ボンヘッファーが『獄中書簡』のなかで語った刺激的な概念のなかで、「非宗教的解釈」というものがある。

 

この概念の内容について、ボンヘッファー自身が展開する前に、彼は世を去らなくてはならなかった。


だから、この概念の神学的内容については、彼の語ったことを手掛かりに、ある程度再構成する以外にない。

 

ここに書くのは、あくまで私見だ。


私なりに、ボンヘッファーが「非宗教的解釈」ということでどういうことを考えていたのか、想像してみる。

 

まずボンヘッファーは、「宗教的解釈」ということを語り、これを批判している。


宗教的解釈とは、「形而上学的」・「個人的」・「内面的」解釈のことだという。

 

つまり、個人が自分の経験の限界や苦しみのところで、自分では納得できない痛みを納得するために、「作業仮説としての神」においてその経験を解釈する、そうした解釈のことだ。

 

要するに、痛みの緩和剤的解釈、精神安定剤的解釈と言える。


その経験の意味がわからない、ある出来事についての「意味」を、「神」において説明可能なものにする、そういう解釈だ。

 

ボンヘッファーは、こうした解釈をしていくと、神ご自身は人間経験の限界においてあらわれることになり、文明が発達するほど、神は後退劇を繰り返さなくてはならなくなる。


つまり、ここでいうところの「神」とは、人間の苦しみあっての神であるような存在になってしまうのだ。

 

こうした「神」は、もはや神ではなく、説明原理であり、作業仮説としての「神」に過ぎない。世界が成人となった今、こうした神理解は成り立たない。

 

そこで、「非宗教的解釈」だ。

 

この解釈は、さきほどの類型をひっくり返すなら、「この世的」・「共同体的」・「形而下的」・「外面的」解釈と言える。

 

ボンヘッファーの言葉を手掛かりに考えると、これはある意味「旧約聖書的解釈」と言える。


「宗教的解釈」が新約的であるとすると、こちらは類型として旧約的だ。

 

ボンヘッファーは、この概念によって旧約聖書的カテゴリーから遊離して、あまりに安易に新約的になり過ぎるような、地に足のついていない信仰の在り方を、批判しているのだと理解することができる。

 

旧約を前提としない新約的信仰は、歴史形成的な力を担うことができない、弱さを正当化する宗教運動になってしまう。

 

ボンヘッファーは「非宗教的解釈」ということによって、結局のところ「聖書的解釈」へと私たちを導きたいのだ。


そこへ導くためには、「旧約聖書的」な解釈類型を取り戻さなくてはならない。旧約的な信仰の在り方のうえに、新約の理解を更新する必要がある。


そのために、こうした概念を創造したのであると思う。

 

「非宗教的解釈」を誤解して受け取り、この世の課題とその解決を説教で中心的に語るようなやり方を正当化するのは、ボンヘッファーの誤読だと思う。


ボンヘッファーは、あくまで聖書に忠実な解釈を求めたのであって、聖書から離れてこの世のイデオロギーや思想に溶解してしまうような解釈を提案したのではありえない。

 

旧約聖書的な真理契機、解釈的カテゴリーの土台のうえに、新約聖書理解を打ち立てること。


これが彼の意図であると思う。ぜひ、『獄中書簡』にじっくり向き合ってみていただきたい。


ディートリヒ・ボンヘッファー 「成人した世界」

 神の前で、神と共に、神なしで生きる」 ボンヘッファー | 真理の研究


ボンヘッファーが語ったことのなかでも、最も議論になるのは、「成人した世界」という概念だろう。

 

以前は、「神という後見人」のもとで、人々は暮らしていた。


自分の解決できない問題については、すべて神にお願いし、忍耐していた。神こそがすべての問題の解決者だった。

 

しかし啓蒙主義以来、世界は「自分で自分の問題を解決する」ということ、「自律」することで「自立」した世界になろうと、発展を続けてきた。

 

さまざまな分野が神の世界から独立し、「神という後見人」によってではなく、人間の力と知識によって人間の問題を解決するように、技術や科学を発展させた。

 

その結果、ボンヘッファーによると、世界は「成人」となった。


つまり、「神という後見人」からの「自律・自立」を達成した。人間は、ほとんどの問題について、自分たちで解決可能になった。

 

すると、もう世界のなかから信仰の場所というものがなくなってしまう。


神なしに自律し、自立した歩みが可能になるなら、人間はもはや神を「必要」とはしないのだ。

 

ボンヘッファーは、こうした「成人した世界」にあって、教会はなにを信じ、どう歩めばいいのか、『獄中書簡』という著書のなかで考察している。

 

 

 

ボンヘッファーは、教会はもはや人間の「苦しみ」や「痛み」といったものに訴えて伝道すべきではない、と語る。


成人した世界においては、そうしたものは自分で解決できるものである以上、「神」を持ち出して解決する必要はない。

 

「困ったときの神頼み」の「神」を、ボンヘッファーは「機械仕掛けの神」として批判する。こうした神は、本来の神ではない、と告発するのだ。

 

ボンヘッファーは、神とは「苦しみの解決者」ではなく、むしろ人間が「他者のための存在」として在ることを可能にするようなお方である、という。

 

神は限界や痛みにおいて人間にあらわれるのではなく、生活の真っただ中で、人間が他者のために献身することを可能にする、そのような存在なのだ。

 

ボンヘッファーの『獄中書簡』での問題提起は非常に多義的な解釈を許容するため、容易に誤解しうるものであると感じる。


また、この著作は、それまでの彼のすべての著作を前提にして読まないと、彼の意図を見失ってしまうように思う。

 

彼の『獄中書簡』の思想から、「教会はただ社会的活動や社会的実践をするためにある」という考えを引き出す解釈者もいる。


「世のための教会」という彼の言葉が、こうした理解を導いてしまうようだ。

 

しかし、私はそれはまったくの読み込みであると思う。彼の『獄中書簡』以前の全著作を無視すれば、そういう解釈も可能かもしれないが、彼の神学的歩みをたどるときに、この理解は不可能である。

 

ボンヘッファーは、ある意味でこの世界における神の居場所を、痛みや限界や苦しみといったところにではなく、生活の全領域を覆い尽くすものとして、神学することを提案したのだ。

 

痛みや苦しみの即時的解決をもたらす「機械仕掛けの神」ではなく、「他者のための存在」として生まれ変わらせることで人生を変革してくださる神。


それが聖書的な神なのではないか、と語ったのだ。



ディートリヒ・ボンヘッファー 「安価な恵み」と「高価な恵み」

 神の前で、神と共に、神なしで生きる」 ボンヘッファー | 真理の研究

神学生時代の最後のとき、修士論文を書いているときだった。


私はどうしたことか、ボンヘッファーの『行為と存在』という著書を手に取ってしまった。


一冊読むと、取りつかれたようになった。激しい面白さを覚えた。

 

ボンヘッファーの灼熱のような情熱にすっかりやられてしまい、修論を書かなくてはならないのに、およそ関係のない彼の著作を次々に読むはめになってしまった。


そのくらい、彼の著作にはたまらない魅力があったのだ。

 

現代のキリスト教会の力が衰退していることの理由を、彼は明白にえぐり出しているようにも思えたし、同時に彼の提示するキリスト者の水準の高さにめまいがするような思いもした。

 

特に、心に残っているのは、「安価な恵みと高価な恵み」という主題だ。

 

ボンヘッファーは、現代の教会の説教が「安価な恵みの説教」に堕落していることを、痛烈に批判している。

 

「安価な恵み」とは、服従や犠牲、キリストに従う痛みを伴わない、安っぽい神の愛の説教のことだ。


ボンヘッファーは、こうした説教が「罪人の義認」ではなく、「罪の義認」をもたらしている、という。

 

罪を犯している人に対して、「罪を捨てよ。悔い改めよ」と語るのではなく、「罪を犯していても、神が愛しているのだから大丈夫。罪を犯したままでいいのですよ。罪を捨てることも、悔い改めることも必要ではありません」と暗示するような説教のことだ。

 

こうした、罪を放置し、キリストに従うために十字架を背負うことを求めないような、安っぽい表面的なキリスト教が、教会の現実を完全に堕落させていることを、えぐりだしているのだ。

 

逆に、「高価な恵み」とは、自分を否定し犠牲にしても惜しくないほどの、キリストの驚くべき恵みのことだ。


このような絶大な神の愛の深みを知るには、そこに「服従」がなくてはならない、とボンへファーは熱烈に語る。

 

自分をどれほど軽んじても、なお釣り合わないほどのものが、キリストの恵みであって、これが本来のものなのだ。


こうした恵みは「高価」であって、そこに痛みや犠牲が伴う。


しかし、そのすべてを覆ってあまりあるほどの尊い喜びもまたそこにある。


こうした喜びは、キリストのために「痛む」ということなくしては、味わうことができない種類のものだ。

 

現代のキリスト教会において、「服従」を説教者が語るときに、それを「律法主義」として安易に批判する傾向があることに対して、ボンヘッファーは鋭く切り込んでいると思う。


「そうした態度は、むしろ安価な恵みの説教を擁護していることになるのではないか」と彼は迫るのだ。

 

彼の問題提起はあまりに激しく、なかなかついていけない面がある。


実際、自分のような凡人には彼の信仰や倫理の水準の高さは、到底守ることができない、と感じる。

 

しかし、彼の著作は教会の根本的な罪とその救いをあらわに示してくれている面で、永遠の輝きを失わない神学的業績となっていると言える。




齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

人気の投稿

☆神学者・テーマ一覧