メノナイトの神学者J・H・ヨーダ―の『イエスの政治』という書を読んだ。
メノナイトの「絶対的平和主義」の立場から聖書を読み解いていく、という理念が根底にあるようだ。
メノナイトは宗教改革期の「再洗礼派」から生じた教派で、軍事力や武力そのものに反対の立場を取ることが多い。徴兵も拒否する。
そういった立場から聖書を読むとどういう風景が見えるのか、という点を描いている面で、興味深いものだ。
ただ、私自身はヨーダ―の立場は取らない。
『イエスの政治』というこの書物の教えは、現代のキリスト者にはほとんど適用不可能なものだと感じるし、極端すぎて私にはまったくついていけないという印象が強い。
「イエス・キリストが教えた倫理(山上の説教など)やキリストの教会は、教会外の社会や政治にとっても規範的なものである」というのが、ヨーダーの立場だ。
キリストの倫理の「一元論」を徹底化しよう、というコンセプトだ。
たとえば、キリストが「罪を赦しなさい」というときには、「負債を免除しなさい」というのが本来的意味であって、人に貸したお金を帳消しにするという意味だ、という。
戦争については、「神が国を守ってくださる」という信仰を貫いて完全な「不戦」の立場を取るべきで、どんな戦争も、自衛戦争も含めて、するべきではない。
キリスト教会は、「非暴力」を貫く社会の砦であって、教会は他のあらゆる組織の「規範」である。
つまり、企業や政府など、教会外の組織も教会の考え方を取り入れて、非暴力的な信念をもつ教会に倣うべきである。
「十字架を背負う」とは、以上のような考えを実行しようとするときに生じる、社会から受ける疎外と不適応の苦しみを担っていくことを意味する。
キリスト者の十字架は、病気や挫折などの「個人的苦難」ではなく、非暴力的信仰を貫こうとするときに社会からのリアクションに耐えることだ。
キリストがお教えになった倫理は、キリスト者や教会だけでなく、社会の在り方にとっても規範的である、というこのヨーダ―の教えは、マルティン・ルターの「二王国論」の完全な否定であり、そのアンチ・テーゼとして成り立っていると言える。
聖書の教えを、社会全般にまで適用するものだ。
社会にキリストの倫理を適用すれば、当然社会からは「余計なお世話だ」という怒りが返ってくる。
キリスト者はそれを十字架として耐えながら生きていくものである、とする。
以上の教えは、私には途方もなく極端なものであり、現実離れしたものであると感じる。
信徒が以上の教えを真面目に実行して生きようとするなら、ほとんど社会的不適応にならざるをえないのではないか(ヨーダ―はその不適応こそ「十字架」だと言うかもしれないが)。
「教会に行ったら、考えが変わって社会的不適応になってしまった」ということが、実践的・現実的にあってよいのだろうか。
教会はむしろ、社会的不適応に苦しんでいた人が、キリストの力によって立ち上がり、社会復帰を果たしていく交わりだと信じている。
戦争にしても、実際的に他国が「侵略戦争」を仕掛けてきたときに、ただ降伏するというのはまったくおかしいと感じる。
歴史が示しているのは、侵略国に降伏すれば、自国民は蹂躙されるということだ。
侵略の目的は、「搾取する」こと以外にはないからだ。
「自衛戦争」まで否定するのは、非現実的過ぎると私は感じる。
また、教会は社会から遊離しすぎて、まったくの「セクト」になってしまうのではないか。
ただ、社会を「暴力的」として批判し続けているだけのものになってしまうのではないか。
教会は社会を批判することももちろんあるが、それは「建て上げる」ための批判であるべきだ。
「非暴力」のプログラムは、それが当時社会的に有効だったから、ガンジーやキング牧師も取り入れたと言えるのではないか。
「非暴力」を「普遍的」「規範的」なレベルにまで高めるのは、人間の原罪の現実を軽視しているという点で、いろいろな意味で非常に危険なものだと感じる。
以上のような論点から、ヨーダーの教えは、私にはまったく受け入れられないものだ。
ただ、ひとつ意味があると思うことがある。
ヨーダ―の教えは非現実的だが、こうした非暴力の「夢」を語ってくれる者がいることは、暴力をひたすら推進していく社会が、「これでいいのか?」という疑問を持つきっかけとなるということだ。
この教えは社会に対する永遠のアンチ・テーゼとなりうる。
世俗的暴力の世界とは「別の次元の光」を垣間見せてくれるという意味で、教会に対する「問いかけ」としてヨーダ―の神学は立ち続けている。