ラベル 教会形成のルール の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教会形成のルール の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

「牧師依存」の代償と「賽の河原問題」

 




牧師は「御言葉の説教と聖礼典の執行」を主たる職務とするが、教会で生じる課題の「すべて」について、責任を負っているとも言える。


教会の維持管理に関わることから、事務的なことに至るまで、牧師に責任のないものはないと言える。


一方、その牧師はいずれはその教会を去る人間であり、別の人間が導かれ、職務に着く。


牧師は「いつそこからいなくなるのか、わからない」者でありながら、「そこに責任を負っている」という、不思議な状況を抱えている。


牧師と教会の方向性が異なってしまえば、牧師はそこにいることはできない。


教会が牧師の説教や奉仕を軽んじ、それを受け入れないなら、牧師は早晩そこにいることはできなくなる。


牧師自身や家族に重大な病気や事故などがあれば、牧師はそこにいることができなくなることもある。


牧師は薄氷の上を歩くように、「いつ神によって取り除かれるか、わかららない」ものとして、職務を推進していく。


そして、牧師が辞任するときというのは、ほとんど常に教会員にとっては「青天の霹靂」として、つまり「まったく予想もしないような時や場所」で告げられたりする。


「まさかあのとき、牧師が辞任するなどとは思わなかった」と多くの人は口をそろえて言うのだが、実のところはその下地は数年以上前から準備されているのが普通だ。


上にあげたような、なんらかの理由が辞任せざるをえない水準にまで大きくなってくるとき、牧師は神の御心を問いつつ歩むが、いよいよ自分がそこにとどまることが御心とは思えない時がやってくる。


教会の職務は、牧師が担うことによって適切に進められることも多いが、当の牧師は「いついなくなるかわからない」、グレーな部分がある。


つまり、教会形成を「牧師依存」「牧師主体」で進めれば進めるほど、「牧師の辞任」によって教会が支払う「負の影響」の代償はより大きくなる、ということだ。


教会員が皆で協力して教会形成を担い、牧師は「御言葉の説教と聖礼典」に集中できている、という状況であれば幸いなことだ。


牧師が交代しても、説教や聖礼典の質が確保されていれば、教会としては確実に前進を続けることができる。


しかし、説教と聖礼典のほかの部分について、教会形成の多くのことを「牧師依存」で進めてしまうと、牧師の辞任によって教会が受ける打撃というのは想定をはるかに超えるものになる。


「あの牧師がいたからやれていた」という働きのすべてが、すぐに消え失せてしまうか、別の形に変更せざるをえない。


さらに、教会が「牧師依存」ができるような働きをする牧師は、そう簡単に与えられることもない。


こうして、先代が築いたものの多くが、次の世代でいとも簡単に打ち壊される、ということが起こる。


教会形成における「賽の河原問題」だ。


石を積んでも積んでも、やがて次の時がくると積んだものすべてが崩されてしまい、最初からやり直しになる。


歴史的に、何度も何度も、同じことがループし、教会の現実は大局的に変わることがないか、衰退を続けてしまう。


この問題をクリアしていくには、まずは教会が「牧師依存」の体質を脱却しなくてはならない。


同時に、ある牧師が辞任しても、後任者において少なくとも「説教と聖礼典」においては、しっかりとした質を保つ必要がある。


そのための牧師養成・神学教育が確立されなくては、「賽の河原問題」は無限ループとなり、教会の将来を閉ざし続けるだろう。


教会としては、いかに「牧師依存」の体質を脱ぎ捨て、それぞれの信徒が「自分の集う教会は自分が支えていく」という意識を育てることができるか、それが最も大きな課題となる。





教会形成のルール⑧ 「聞くだけで行わない」ことについて

 モーセの十戒』・・・わたしの契約を守るならば、私の宝となる。 - マリアテレジアの独り言


神は現実や物事を説明するための装置、ツールなのか。


 だれでも、納得できないことがある。


どうしても解釈できない出来事を経験する。


消化できず、飲み込むこともできず、心と頭の内になにか重い塊のようになって、しこりとなって、残り続ける、そういう体験がある。


 そういうものを抱えるとき、自分ではもはや理解できない現実をなんとか咀嚼するために、説明するための道具が必要となる。


これが、人類が編み出してきた思想の数々である。


 哲学や宗教の教えの体系は、現実を説明するための道具を豊かに与えてくれる宝庫である。


これに触れれば、大抵の事柄は納得することができるし、解釈することができる。わけのわからない現実を割りきって、すっきりすることができる。


 だが、神は思想なのか。神は教えの体系に過ぎないものなのか。神は観念なのか。神は現実を納得するためのツールなのか。説明装置なのか。


 神と思想を、はっきり区別してみよう。教会や書物で学ぶことができる教理、説教、神学、思想と、神ご自身を。


 すると、神は教理ではないし、神は神学でも、説教でさえもないことがわかる。つまり、神は思想ではない。


これらの教えや思想は神を指し示しているが、決して神そのものではない。神の奇跡として説教と神が一体となることはあるが、基本的には区別すべきだ。


 神は説教や教えを通して働かれることは真実だ。これがなければ、教会は存在意味がない。


だが、説教や教えはむしろ、神の道具、神の器に過ぎない。神がそれを用いなければ無に帰するしかないものである。


 聖書の語る神は、「生ける神」である。単なる思想ではない。


 神は現実に生きて働くのだ。


霊的に、精神的に、物質的に、関係的に働かれる。つまり、全現実のなかで働かれる。思想の面ばかりではない。


 神に救われるのは、全体として救われることである。


消化できない現実を納得することができるが、状況はなにも変わらない、考えは変わったが、ほかはなにも変わらない、なんていうものが救いだろうか。


この私という存在が全体として救われないなら、本当の救いではないのではないか。


 神の言葉を信じ、神にひたすらに信頼することによって、私たちは自分の生きる現実の全体が変容するのを経験する。


望みのないところに、光が射すのを感じる。命の充実と、喜びの日々を現実に経験する。


 神は説教、教えを通して働かれるが、その働きは私たちの生きる現実全体に及び、私たちを変革し、存在を丸ごと救うのである。


思想は、神の道具に過ぎない。思想は神ではありえない。


 聖書は、御言葉を「聞くだけで行わない」ことについて警告している。


聞くだけで行わないとは、ただ単に説教や聖書を、思想としてだけ聞いて、神御自身に向かわないことではないだろうか。


説教や教えを言葉として聞くだけで、思想としてしか受け取らず、その指し示す神の方に自分自身は向かわない。


それが「聞くだけで行わない」ことである。


 聖書、説教、教えを聞くことを通して、神御自身に全身全霊向かう。これにより私たち自身も、教会も立つのである。


神御自身にのみ、救いはあるからである。説教や教えは、ただその役に立つ道具なのだ。







教会形成のルール⑦ 「御言葉を聞く」ことについて

 モーセの十戒』・・・わたしの契約を守るならば、私の宝となる。 - マリアテレジアの独り言



「御言葉を聞く」長年教会に通っている人にとっては耳タコの言葉かもしれない。


「聖書を読む=御言葉を聞く」と単純に理解している人もきっと大勢いるであろう。


もしくは「説教を聞く=御言葉を聞く」ということもあるかもしれない。


だが、これは本当にそうなのであろうか。聖書を読んでいれば、説教を聞いていれば、それで御言葉を聞いていると言えるのか。


御言葉とはなにか。それは神が私たちに語りかけてこられる言葉である。


あくまで、神がご自身の意志と力をもって私たちに臨み、私たちに語りかけてこられる言葉なのである。神が自ら進み出るかのように私たちに語りかけてこられる言葉である。


ところが、私たちが普通聖書を読んだり、説教を聞いたりするとき、私たちは聖書や説教を自分の支配下に置くかのように聞くことが多い。


つまり、聖書や説教を利用しながら、自分で自分に語る、ということをしてしまうのである。


聖書を読むとき、また説教を聞くとき、それらの言葉のうちに自分自身を聞き込んで、もしくは読み込んで、自分の聞きたいことを聞く。


読みたいことを読む。結局、聖書や説教からは私たちの聞きたいことしか聞こえてこなくなる。


そして、それを「自分は御言葉を聞いている」ことだと誤解するのである。


本当は自分で自分に語っているに過ぎないのだが、それを御言葉としてしまうのである。これは非常に大きな間違いであろう。自分の言葉と御言葉を混同しているのである。


説教する者もこの罪に落ちることがあるのではなかろうか。


聖書を読むとき、聖書の内から神が語りかけてこられるのを聞くのではなく、聖書の文字に自分の思想を読み込んで、自分の思想を神の言葉として説教してしまうのである。


それは説教者の思想に過ぎないのだが、説教者自身もそれと知らずに神の言葉として語ってしまうのである。


説教者がこの罪に落ちるとき、もはや説教は神の言葉ではなく説教者の言葉、人間の言葉とならざるをえない。


説教者自身も、教会の会衆も、それを「御言葉を聞いている」こととしてしまったら、御言葉は失われてしまうのではないか。


問題なのは、言葉の流れが①「神→聖書→人間」という方向性なのか、②「人間→聖書→神」という方向性なのか、ということである。


①の場合では、神が聖書を通して語りかけてこられるのを、人間はただ素直に聞くだけである。


だが、②の場合においては、まず最初に人間の側に語りたいこと、思想、アイデア、意見、主張があり、それを聖書に読み込み、そしてそれを「神の言葉」として語ってしまう、もしくは聞いてしまう、という流れである。


①の流れは御言葉を聞く流れであるが、②の流れは人間の言葉と御言葉の混同の流れである。


①によってのみ、教会は立つことができるが、②が蔓延すれば、教会は死んでしまうであろう。


①と②では、人間の「聞き方」が本質的に違う。①の聞き方は、人間はできる限り空しくなり、できるならば無となり、まったく「自我」や「自己主張」が消えて、透明になるときに神の言葉がそこに響き渡る、という聞き方である。


だが、②の聞き方は人間がすで人間的な知識や意見や主張、観念によっていっぱいになっており、語りたくてうずうずしており、それを我慢できずにあふれさせてしまうような聞き方なのである。


つまり、②の場合は「聞く」のではなく「語る」に近い。聞いているようなふりをしながら、実は自分の意見を語るのである。


だが、①は自分の意見や主張、アイデアや思想、すばらしく思える観念などはみな脇に置かれて、こうしたものは影をひそめ、ただ聖書を通して響いてくる外からの言葉に耳を澄ませるのである。


①は聞き方において無となって聞くことであるが、②は有となり、その有をはちきれさせる聞き方なのである。


私たちはどのように聖書を読んでいるであろうか。①だろうか、②だろうか。


①の読み方、聞き方をしているときに、私たちは神の生きた実在に触れることになる。私たちが作りだしたのではない、生ける神の御声を聞くことができるのである。


だが、②の聞き方では、私たちがどんなにすばらしいことを語ったり聞いたりしていても、そこでは神の実在には触れていない。


むしろ、人間の情熱や知識、意見のすばらしさに触れているに過ぎないのである。


聖書を読むときも、説教を聞くときも、私たちは①に徹すべきであろう。


②が増え広がっていくならば、教会からは神の命が消えていくばかりである。


説教者が説教準備をするときも、聖書から一生懸命努力して緊張してなにものかを「読み取ろう」とするのではなく、空しい心となって聖書を読みつつ、自分を超えたところから響いてくる神の御声をまったく受動的に、静かな心のうちに聞くべきであろう。


これが実現するとき、教会は人間を超えた命と力によって豊かに潤うのではないであろうか。


教会の存続が危ぶまれるような危機的な状況が叫ばれる昨今だからこそ、私たちは神の御言葉を聞くことに徹していきたい。



教会形成のルール⑥ 「すべてを神の栄光のために」

 モーセの十戒』・・・わたしの契約を守るならば、私の宝となる。 - マリアテレジアの独り言


 

神の働きと自分の働きを、どのような割合で認識しているのか、というのは大切な事柄だ。

 この認識がどうであるかによって、働きに大きな影響が出てくるからだ。


 なにかの働きをしているとき、それを神との関係でどうとらえているか。


 いくつかの類型をあげてみよう。

 

①神0%、自分100%

 

神はまったく働いていない、自分がすべてにおいて働いている、という認識。


 これは、まだ信仰を与えられていない人の認識と言える。自分にすべての働きを帰すので、その結果も百%自分の働きの成果であると考える。


 よくできたときは自分の功績であり、失敗したときは自分の責任。


 この認識では、「すべての栄光を自分に帰する」あり方になる。


 このあり方は「自分自身に依り頼む」あり方だ。自己責任を完全に引き受けるという意味においては立派だが、自分の人生から神の働きを完全に閉め出してしまっている。


 たとえとしては、自分で地図を見て、自分の力で車を運転して目的地に行く、という形。

 

②神50%、自分50%

 

神と自分が協力して働いている、という認識。


 神が働いて自分に力を与え、その力で自分が働く。


 自分が働き、神はそれをサポートしてくださり、結果をだす。


 結果が出た時には神にも栄光を帰するが、「自分もよくやった」と言える。


 これは、神に助けを求め、助けて頂きながら、自分がしっかり働く、という意味において、「神人協力説」と言われるあり方。


 バランスが取れているように見えるが、しかし「自分に半分は栄光を帰する」考え方であることから、「完全に神に依り頼む」あり方ではない。

 

よって、結果的に神の働きをかなりの程度閉め出してしまっている。


 たとえとしては、助手席の神にナビや助けをもらいながら、自分で車を運転して目的に行くという形。

  

③神100%、自分100%

 

神は完全な仕方で働いてくださる、しかし同時に自分も完全に働いている、という在り方。


 神と自分が同時的に、完全に力を発揮している、という認識。


 しかし、働きをしているときに「自分100%」の意識でいると、実践的には結果がでたときに「神にすべての栄光を帰する」ということになりにくい。


 これは理論的にはまったく正しいように見える。


 「神も働かれたが、自分も頑張ったのだ」ということになる。「自分にも栄光を受ける権利がある」という意識が出てくるのを避けられない。


 結局、「神人協力説」の在り方から、逃れ出ていない形になる。


 実践的には、神の働きをかなりの程度閉め出してしまうことになる。


 たとえとしては、運転席になんとか二人で乗って、二人で同時に運転している形(そんなことは事実上は不可能だが)。

  

④神100%、自分0%

 

神が完全に、100%働いておられる。自分はそれを見ているだけ。神が主人公である劇を、自分は観客として見ている。


 神がすべてにおいて働き、すべてにおいて栄光をあらわされる。自分はその栄光を目撃して、その栄光の全部を神にお返しする。


 ここにおいて、初めて神の働きが完全な形であらわされる。自分はまったくのゼロになることによって、神にゆだねきり、まったく依り頼むことによって、すべての栄光を神に帰することができるようになる。


 たとえとしては、運転席に神が座って目的地まで神ご自身がすべてにおいて運転してくださる。自分は車の後部座席に座って、神が見せてくださる景色を見ながら、その神の運転にすべてをゆだねて信頼しているイメージ。


どんなに奉仕に打ち込んでいるときも、「それをしてくださっているのは、可能にしてくださっているのは神である」ことについて、明確な信頼と認識がある。


自分のはたらきがどのような人間的評価を得ているとしても、それについて一顧だにせず、ただ神の力と働きにまなざしを注ぎ続けている。


 私たちは神の働きをしているとき、どのような認識でそれに取り組んでいるだろうか。


 私の理解では、④だけが神にすべての栄光を帰することができる考え方だ。


 ①~③の考え方をしていると、神の働きを無意識のうちにも閉め出してしまい、神の栄光を見ることができないような形になってしまうように思う。


 御言葉に照らしつつ、自らの働きについても反省し、「自分は日々の働きにおいて神にすべての栄光を帰しているだろうか」と考える必要がある。


 神がすべての栄光をお受けにならないならば、神の働きもまた私達の罪が妨げてしまうことになるのではないだろうか。

 


教会形成のルール⑤ 「教会形成と自己愛」

 モーセの十戒』・・・わたしの契約を守るならば、私の宝となる。 - マリアテレジアの独り言


教会形成と自己愛、というタイトルで、思うところをだらだらと論じてみたいと思う。


ここで論じる際の「自己愛」は、どちらかというとネガティブな意味内容のものとして使用している。


つまり、健全な意味での心理学的な「自己尊重」、「自己受容」、「向上心」などといった意味での自己愛ではなく、


「自己中心性の根源」、「キリストの恵みを自分の都合へと捻じ曲げようとする傾向」、「自分の欲望を物差しに周囲を変えようとすること」などの、「罪」の力をあらわす用語として使っている。


このような、悪しき意味での「自己愛」が、キリストが教会のうちに形成されることを妨げ、ついには崩壊へと導く最たるものであることを整理して考えておきたいのだ。


逆に、キリストの教会が形成されるとは、牧師と信徒が自ら「自己愛」をキリストへの信仰によって乗り越えていくプロセスであり、結果キリストへの献身と服従が深化していく過程にほかならない、と感じるからだ。


マルティン・ルターの『ローマ書講義』を読むと、ルターはこの「自己愛」を「原罪」として批判的に取り上げていることがうかがえる。


ルターは自己愛を、「自らの内に捻じ曲がっている」として表現している。


愛のベクトルが、対象に向かわず、対象を道具として利用しながら自分へと再帰する傾向を言っていると考えられる。


ハイデルベルク信仰問答においても、原罪とは私たちに内在する「神と隣人を憎む傾向」であるが、その源は「自己愛」にあると言って過言ではないだろう。


つまり、なにものにもまさって自分自身のみを愛する、そのような傾向が、神と隣人を軽んじ、侮り、そこから自らを切り離していく根源にある、ということは、神学の伝統の一部として組み込まれている、と言える。


さて、実践的な領域で自己愛と教会形成は、どのように絡み合うのであろうか。


牧師にとって、教会形成の文脈で自己愛は、どのように作用するだろうか。


「自我の強化」の方向に自己愛が働くときには、牧師は教会において「自分の栄光」を求めようとするだろう。


教会形成に熱心に従事するのも、「自分の名誉・地位・富・・・などのため」であって、キリストのためではない。


そこでどんなに大きな働きがなされても、そのすべては最終的には牧師が自らとその働きを誇ることに帰着する。


「本心」のところでは、キリストの栄光を求めているのではなく、「自我の拡張」のために奉仕してしまう。


「自我の弱化」の方向に自己愛が働くときには、牧師は教会において「できるだけ安楽な道」をとろうとするだろう。


そこで牧師はできるだけいろいろな理由を設けて、職務を担い、キリストの影響力を広げることを、避けようとする。


そのようなことに力を注ぐことは、「苦労が多く、自分自身が変化を求められる」ことであるため、自我の防衛にとっても非常に不都合だからだ。


上記の二つの方向性において、どちらも「教会形成」の妨げになる。


前者は牧師の自我が強化されて、キリストの栄光を妨げ、後者は自我が弱化されて、キリストの御業の進展を妨げる。


自我の強弱はそれぞれ、人によって異なっているが、どちらにしても「自己愛」の介入により、教会形成は阻まれやすくなる。


信徒にとって「自己愛」はどう働くだろうか。これも牧師の自我の事例と、共通するものがある。


第一に、信徒は教会に出席することで、「自分の特別さ・卓越さ・優越感」が満たされることを求める。


このような言葉を聞けたときは喜び、そうでないときは「恵みがない」と感じる。


礼拝によって自分の自我が強化されることを求め、「神が素晴らしい」のではなく、「自分が素晴らしい」ことを確認しようとして、礼拝に出るようになる。


「神の前に、自らがまったくの無であることを認識する」ということがないため、強化された自我がやがて、多くの困難とトラブルを自他に招来してしまう。


第二には、教会に出席するのは「自分が癒されるため」であって、「教会の歴史を担うためではない」という意識に支配される。


教会で自分が癒された結果として、神の恵みに応えて教会での働きを担う、という「神への応答」の部分が、「自己愛」によって妨げられる。


教会で伝道や職務について語り合うときにも、「できるだけ自分が癒されることに浸ることができる方向」に教会を導こうとし、「自分が働きを担う」方向は、否定しようとするだろう。


どちらにしても、教会形成は妨げられる。キリストに栄光が帰されず、教会の歴史は前進しない。


「教会を形成する」とは「教会に集う私たちが、キリストへの献身を深めていく」ことであると考えると、それを阻む最たるものは、悪い意味での「自己愛」であることを思わずにはいられない。


教会が「キリストの教会」となるということは、「自己愛が清められていく」という課題と、相即の関係にあるのだ。


要するに、教会の牧師と信徒において、「自己愛が清められておらず、この課題が神にあって触れられることなく、この課題を神に差し出すこともないなら、教会形成もまた進んでいない」といって過言ではないのではないか。


それくらい、ここは教会形成の「急所」を示しているのではないかと感じる。


自己愛の課題性を、今回は大枠として描いてみた。


少し踏み込んだ内容を、また記してみたい。






教会形成のルール⑤ 「前任者と後任者に関わる基本的ルール」

 モーセの十戒』・・・わたしの契約を守るならば、私の宝となる。 - マリアテレジアの独り言



人としての思いを越えて、2019年度をもって自分自身が転任を経験することになった。

 

このことについて、神学的な吟味が必要と感じているが、「前任者」と「後任者」の関係性について、

 

自分が知っている限りでの「基本的ルール」を、これまでの知識や経験をふまえて、記してみたい。

 

これから、自分自身も「前任者」と言われる立場になったため、改めて整理する必要を感じて記したものだ。

 

以下の戒めは「原則」であって例外の存在を認めないわけではないが、これらについて安易な妥協してしまうことは教会にとって大きな実害をもたらしうるものであることを覚えたい。

 

今の時代は、歴代の牧師たちが守ってきた常識や不文律も相対化され、「それは昔の話」と言われるかもしれない。

 

しかし、現実的には以下のルールが守られていないために重大な危機を味わう牧師や教会もまた非常に多いことを経験的にも知っている。

 

ぜひ参考にして頂きたい。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「前任者」と「後任者」に関わる基本的ルール

 

 

1 前任者は基本的に、前任地にはいかなる形においても近づかない。これは日本の教会の牧師の不文律の倫理であり、イエス・キリストの支配と秩序が教会において守られるために是が非でも必要なことである。

 

2 前任者はいかなる形においても、前任地の教会に個人的意見を主張してはならず、後任者の伝道牧会の妨げとなる可能性のある干渉は、一切してはならない。前任者が後任者の教会形成・牧会に個人的に意見・干渉することで、教会の前進と建設にとってプラスとなるような例は、実際的にもほとんどない。

 

3 前任者は前任地の教会員には、どのような形においても「牧師」という立場において連絡等を行ってはならず、必要がある時は必ず後任者を通して行う。

 

4 前任者は前任地の教会員からの牧会・教会に関連する相談は、いかなる形においても受けない。牧会上の相談は後任である牧師からだけ受ける。

 

5 前任者は後任の牧師自身の意志から出たのではない、前任地の教会での奉仕依頼は、いかなる形においても受けない。奉仕依頼があったときは、「それは後任者が願ったものか、教会員が願ったものか」を確認するべきである。

 

6 教会員はどのような形においても「前任地の信徒」という立場では前任者に連絡等を行わず、必要がある時は後任者を通して行う。

 

※後任者にとって前任者のなんらかの干渉を受けることは、牧師として委託されている召命の権威を脅かされることに等しい。前任者の方が教会員の信頼を得ているような場合は、なおさらのことである。

 

この点について教会員も理解がなく、人間的な思い(前任者の思い出や援助など)を優先したがために辞任に追い込まれた牧師、衰退に陥った教会は数知れないことを、胸に刻むべきである。

 

以上の戒めについて「薄情である」とか「人間性がない」などという意見も当然ありうるが、実際に教会で起こっていることから考えるとき、こういった原則は教会が守られ、前進していくためには必要である。

 

 

教会形成のルール④ 「教会前進の因果律」

 モーセの十戒』・・・わたしの契約を守るならば、私の宝となる。 - マリアテレジアの独り言


教会の将来を考える時、暗澹たる思いにとわわれがちになる。

 

その理由は、教会もまた人間としての「因果律」に支配されており、

 

統計やデータやバイオリズム、人間の原罪や思惑のもとにあり、

 

そこから離脱することは不可能に思えるからだ。

 

そういった暗澹たる思いを払拭するには、

 

因果律に支配された私たちではなく、

 

因果律を支配する神に目を向ける以外にない。

 

そういった原点を思い出すために、記した。

 

これも「言い過ぎ感」があるかもしれないが、本質をえぐるためにそういった言い方をしている。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

教会が信徒を育て、

 

信徒から献身者が起こる。

 

献身者が神学校で育ち、

 

伝道者として派遣される。

 

良き伝道者は教会を育て、

 

新たに信徒が起こされる。

 

もし教会で信徒が育たないなら

 

献身者も起こらない。

 

仮に献身者が起こっても、

 

神学校で献身者が育たないなら、

 

伝道者は派遣されない。

 

伝道者が派遣されないなら、

 

教会は育たない。

 

仮に伝道者が派遣されても、

 

良き伝道者でないならば、

 

新たに信徒は起こされない。

 

もし教会も神学校も負の因果律に囚われているなら、

 

もし人間が因果律に従う以外にすべがないとするなら、

 

救いはどこにもありえない。

 

人間は因果律の奴隷であり、その超克は不可能だから。

 

しかし、因果律を超越したお方がおられるなら、

 

その方はデータも統計も原罪も思惑をも覆すことがおできになるなら、

 

石ころからでもアブラハムの子らを起こす救い主、

 

無から有を造られる創造主がおられるなら、

 

その方がすべて因果律を超えて、

 

将来への一筋の道となる。

 

そのお方以外に救いはない。

 

教会にも、キリスト者にも救いはない。

 

希望もそこにありはしない。

 

イエス・キリストにしか、救いはない。

 

このお方にしか、希望はない。


教会形成のルール③ 「愛の戒め」

 モーセの十戒』・・・わたしの契約を守るならば、私の宝となる。 - マリアテレジアの独り言


 

主として自分自身の性格特性に対する自戒のために書いたもの。

 

「~だから愛することはできない」という「愛さない理由」をあげていると、

 

結局のところ誰をも愛することができない、という内容。

 

文章のもとになっているのは、

 

個人的にキリスト者として理想的な人間像だと思っている『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)の「ゾシマ長老」が語った、「罪人を罪あるがままに愛しなさい」に基づいている。

 

自分自身はそういった境地にはほど遠いばかりか、こういった基本的なことをすぐに忘却する者であるため、

 

原点を思い出すために記した。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



人は皆、罪人であるから、

 

私が愛する人も罪人に他ならない。

 

だから私が愛する人は、

 

私の思い通りにならないかもしれない。

 

私を愛さないかもしれない。

 

私を理解しないかもしれない。

 

私を裏切るかもしれない。

 

私の期待に応えないかもしれない。

 

私が望むようには変わらないかもしれない。

 

私を見捨てるかもしれない。

 

たとえ、そうだとしても

 

それでも私がその人を愛さないというなら、

 

私はきっと、どんな人をも愛することはできない。

 

人は皆、罪人であるから、

 

私が愛するどんな人も、罪人に他ならない。

 

ただ、イエス・キリストをのぞいては、

 

私が安んじて愛せる人などいない。

 

罪人を罪のゆえに愛さないというなら、

 

私はきっと、永遠に誰をも愛することはできない。



教会形成のルール② 「伝道理念十二戒」

 モーセの十戒』・・・わたしの契約を守るならば、私の宝となる。 - マリアテレジアの独り言



「伝道する」ことは、教会にとって楽なことではない。

 

たとえそれが主イエスによって命じられていることでも、伝道には軽微であっても「迫害されること」が含まれている。

 

チラシを配ったり、友人や知人を礼拝に誘ったりなどすれば、「引かれる」ことや、拒否されることも多い。

 

教会役員会であっても、無意識的に伝道を嫌がることもありうる。

 

伝道は人間の自然本性にとっては、「抵触する」側面があるからだ。

 

そこで、多くの人は「伝道という働きは、そのための賜物や力がある人がすればいい。自分にはそれがないから、しなくていい」と考えるようになる。

 

だが、教会がこうして伝道に対して否定的となり、消極的になるなら、もはや教会に残されているのは、将来的には「死」だけだ。

 

イエス・キリストの大宣教命令に背反しているからだ。

 

伝道は教会の「多くあるなかの一つの働き」ではなく、「教会の使命そのもの」であって、「伝道なしには教会なし、教会なしには伝道なし」の関係性にある。

 

以下に教会形成の実践領域での伝道について、理念型的に文言をまとめてみた。

 

かなり先鋭化された表現が多く、一部「言い過ぎ感」がするところもある。

 

ただ、本質を深くえぐるために、そういった表現をあえて取り入れている。

 

こういった理念を教会が一致して推進をすることができるなら、教会の将来は開かれるだろう、というエッセンスのみの「青写真」に過ぎないが、ご参考にして頂ければ感謝である。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

〈伝道理念 十二戒〉

 

 1 (    )教会は伝道、即ち神の御言葉の広がりと深まりのために建てられています。

 

2 当教会は伝道を最優先として、公にまた個人的に神を礼拝します。

 

3 当教会の財政・建物・備品等は伝道のためにあり、そのために使用されます。

 

4 当教会の役員会は伝道のためにたてられており、伝道の前進のために協議します。

 

5 当教会の教職は伝道のためにたてられており、伝道の前進のために奉仕します。

 

6 当教会の信徒は互いの喜びのためばかりか、伝道のためにたてられています。

そのため礼拝と交わりを喜ぶばかりか、伝道のための学びと実践を担います。

 

7 当教会の各委員会や交わりは互いの喜びのためばかりか、伝道のために置かれています。

そのため活動と交わりを喜ぶばかりか、伝道のための学びと実践を担います。

 

8 当教会のすべての学び会や祈祷会は牧師・役員・信徒がイエス・キリストへの信仰に

おいて成長し、伝道の学びと実践を担うことができるように置かれています。

 

9 当教会のすべての活動の目的は、主イエス・キリストの大宣教命令に従って伝道することに集約されます。当教会の他のどのような課題も、この視点から理解されるべきです。

 

10 当理念に従って教会形成される限り、当教会はイエス・キリストの約束の力により、将来への祝福された道を完全に保証され、あらゆる困難を乗り越えることができます。

しかし、当教会の教職・役員会・総会がこの理念に反して意志決定をすることは、神の託された使命を自ら拒否することです。自らの決定で主イエス・キリストの大宣教命令に背くことにより、長期的な衰退と、最終的には教会の死への道を開くことになります。

 

11 当教会の役員会に選挙されて教会形成に参与する者は全員、当理念について就任時最初の役員会で同意しなければなりません。

役員会で伝道理念における一致がないことは、教職の牧会の継続を困難にさせるばかりか、教会の将来をも閉ざすものです。役員会で理念における不一致が生じた場合、教職もしくは役員会は教会総会を召集し、総会議員は事情を聴取のうえ、互いの不一致の調整をはかり、場合によっては教職と役員会に進退を問わなくてはなりません。

 

12 当理念に反した発言が役員会や総会でなされ、教職や複数の証人からその発言の誤りが指摘され、その誤りが聖書的・信仰的に実証されるなら、発言者は神と会衆の前で訂正をしなくてはなりません。

 

 以上の戒めを一致して守ることが、当教会の新しい将来の礎となることを、聖書に基づき、イエス・キリストの御名によって宣言します。

 

 


教会形成のルール① 「十無戒」

 モーセの十戒』・・・わたしの契約を守るならば、私の宝となる。 - マリアテレジアの独り言



牧師・信仰者として歩んでいて、教会形成していくなかでいろいろな法則や戒めを知ることがある。

 

また、非常に痛い思いをして学ぶ戒めも多い。

 

自分が先人や実践のなかから学んだいろいろな「耳には痛いが真理である」系の戒めを、フレーズ的にまとめてみたものを、このカテゴリでは載せていきたい。


・・・・・・・・

 

「十無戒」

 

 

十字架なくして復活なし。

 

犠牲なくして勝利なし。

 

苦難なくして栄冠なし。

 

服従なくして祝福なし。

 

鍛練なくして成長なし。

 

伝道なくして前進なし。

 

負担なくして感謝なし。

 

奉仕なくして賜物なし。

 

祈祷なくして信仰なし。

 

キリストなくして全てなし。

 

・・・・・・・


※伝統的な戒めも多いが、組み合わせやタイトルなどは管理人が考えたものであるため、引用の際は「盗用」を疑われないよう参照元を明示するなど、著作権的な部分にご注意ください。






齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

人気の投稿

☆神学者・テーマ一覧