日本伝道の病巣の第四として、「安楽主義」という個人的造語で描いてみたい。
「安楽主義」とは教会形成において「安らぎ・楽しい」を教会の「最も」重要な考え方として、最優先的に位置付けているようなものを差す。
もちろん、教会は神による安らぎがあり、神による楽しみに満ちているべきなのは言うまでもない。
求道者が教会に来る最初の動機は、一代目のキリスト者のほとんどの場合、「神による安楽」があるのは、当然であろう。
だから、これは教会のなかに位置付けられてまったく正当なものであり、神による安楽のない教会は、伝道力を失った教会にほかならない。
だが、これが教会において「最優先」であるかといえば、明らかに「ノー」だ。
教会で最優先されるべきは主イエス・キリストとこのお方への服従であって、「安楽」はその後に結果的に伴うものにすぎない。
もし「安楽」をキリストやこのお方への服従よりも「上」に置くなら、それは「結果の目的化」であり、神よりも人間を優先する偶像崇拝的な罪のゆがみに落ちることになる。
「教会では安楽が最も大事だ」という考え方全般について「ノー」と言えない教会、「ノー」と言うと多くの人が反対するような教会は、「安楽主義」に陥っていると言える。
教会に来ることによって、神からくる「安楽」が与えられるのは恵みであり、もちろん祝福だ。だれもそれを否定しないだろう。
しかし、この安楽を教会形成のやり方において「最優先」とするなら、それは神中心の教会ではなく、人間中心の教会である。
神の御言葉ではなく、人間の満足と人間の都合を最も優先する教会ということになってしまうだろうし、それは事実上教会の本質の否定ということになる。
キリスト者の「成長段階」というものを考えると、キリスト者は「初心者」ほど「安楽」を重視し、これがないと信仰生活を嫌がるようになる。
また、安楽を第一に優先するキリスト者は、教会形成に参与するようになると、「できるだけ自分の犠牲や奉仕を減らし、牧師に安楽を阻害するようなすべてを背負わせ、自分は安楽を享受するだけの存在」であるように、教会の物事を持っていこうとする。
こういった決断がなされればなされるほど、教会において霊的エネルギーは流れ出て、神の栄光を顕す力を喪失していく。
安楽主義のキリスト者が増えるほど、だれも「伝道するために痛みを引き受ける」ことはしなくなる。
結果的に、教会は衰退の渦のなかに巻き込まれていくことになる。
聖書に照らして考えるなら、「安楽主義」は聖書的には存立しえない考え方だ。
イエス・キリストというお方は、私たちを救うために十字架を背負い、自らの命を捧げられたお方だ。
そのキリストを信じるキリスト者が、十字架を嫌がり、自らの命を神のために注ぐことを回避し、安楽ばかりを追求しているとすれば、もはや「キリスト者」という名辞の「自己矛盾」であるという以外にない。
「キリスト者」とは「キリストに従う者」であり、それがゆえに「キリストのためには苦しむことをも定められている」存在だ。
キリスト者であるという時点で、「安楽主義」という考え方はキリストご自身によって不可能な道とされているのだ。
安楽を教会形成の最優先とすることは、結果的に教会の衰退と破滅を招く以外にはない。
教会で味わうことができる安楽とは、この世のものではなく、イエス・キリストが「あなたがたを休ませてあげよう」と言われるような種類のものであり、キリストご自身にある安らぎと喜びにほかならない。
教会は、「そこで責任を負っている者ほど、より多くの痛みを引き受ける」ことが、一つの「原則」と言える。
つまり、「牧師」がそこで最も多くの痛みを引き受けなければならないし、牧師の次には「役員」がそのような者として召されている。
教会に集ってくる求道者や救いを求めている人々が、まず神による「安楽」を味わい、キリストの救いに入るためには、教会のより中心にいて責任を負っている人々は、その人々の救いのために犠牲と痛みを引き受ける必要があるからだ。
もし牧師や役員が率先して安楽を求めていくなら、もはや教会は救いを求めている人々に神による安楽を提供することなどできはしないし、それは教会の自滅にほかならないだろう。
教会の伝道する力が高まっていくときは、教会のなかで責任を負っている人々が、教会に来る人々のために自ら進んで犠牲や痛みを引き受けるようになるときであって、特に牧師や役員、なんらかの集会を導く信徒リーダーはそのために神に召されている。
逆に、中心的な人々が犠牲や痛みに対して「回避的」になればなるほど、伝道する力を失い、教会は低迷のなかに陥ることになる。
教会は私たちが、与えられている責任と召しに応じ、自分の十字架を背負ってキリストに従うことによってしか、前進することはありえないのだ。