ウェスレーの「キリスト者の完全」という概念は、「罪の残存」の消滅可能性を肯定している。
「聖化」のプロセスが進むことによって、人間はまったく地上にある間に、罪を犯されなくなる可能性がある、ということだ。
この教えのウェスレーの意図は、もちろん信徒ひとりひとりが神と隣人に自分自身をささげる聖潔への歩みに邁進するように、という励ましであると思う。
そして、こうした教えから、事実聖潔の歩みにおいて、非常に大きな足跡を残した人々がいることは、確かなことだろう。
ウェスレーはその信徒が仮に「キリスト者の完全」を達成したとしても、そこから落ちる場合を認めている。
そして、落ちたとしても、また改めてそこに至ることをも認めている。
そういう意味では、固定的なものではなく、柔軟性があるものだ。
この教えについて、私が思うもう一つの疑問は、「「キリスト者の完全」を聖潔の歩みの目的であるとすることによって、キリスト者の意識が自分自身に縛られてしまうのではないか」ということだ。
つまり、キリスト者である自分が聖潔の歩みにおいてどこまで進歩したのか、という形で「自分自身の成長」に意識の焦点がしぼられてしまい、それが「霊的自己中心」の歩みとなってしまう危険があるのではないか、ということだ。
「自分がどれくらい清められたか。どれくらい聖潔の歩みにおいて進歩したか」が、信仰生活の第一の指標になってしまうように思う。
キリスト者の生涯の目的は自分自身の完全さだろうか。
もちろん、それもあるだろう。しかし、さらに問い詰めてみると、「キリスト者の完全」の「目的」はなんだろうか。
それは、「神の栄光」だろう。
自分自身が神の御前に完成されることを通して、自分自身ばかりか多くの人々の口に神への賛美が与えられて増し加わり、神の栄光があらわされることが目的なのだ。
「キリスト者の完全」という概念があまり強調されると、「キリスト者の完全はなんのためか」という点が微妙に見えにくくなるところがあると思う。
キリスト者の目的は自分自身の完成というよりも、「神の栄光」の方にあると思う。
「キリスト者の完全」を達成しようとする熱意は大切だが、それをもって一体なにをしようとしているのか、という点の方にむしろ意識の焦点が合わせられるべきではないか。
それが、この概念について疑問に思ったところだ。
もちろん、ウェスレー自身や、彼に続いた多くの人々は実践的に、神の栄光のために全生涯を生きたと思う。
それはまったく疑いない。
彼らがなした熱烈な伝道の歩みについて、賞賛されるべきだろう。
これは、神学的な理論上での疑問である。