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ジョン・ウェスレー 『キリスト者の完全』③

 ジョン・ウェスレー:信仰、伝道、神を第一にすることに関する10の ...


ウェスレーの「キリスト者の完全」という概念は、「罪の残存」の消滅可能性を肯定している。


「聖化」のプロセスが進むことによって、人間はまったく地上にある間に、罪を犯されなくなる可能性がある、ということだ。

 

この教えのウェスレーの意図は、もちろん信徒ひとりひとりが神と隣人に自分自身をささげる聖潔への歩みに邁進するように、という励ましであると思う。

 

そして、こうした教えから、事実聖潔の歩みにおいて、非常に大きな足跡を残した人々がいることは、確かなことだろう。

 

ウェスレーはその信徒が仮に「キリスト者の完全」を達成したとしても、そこから落ちる場合を認めている。


そして、落ちたとしても、また改めてそこに至ることをも認めている。


そういう意味では、固定的なものではなく、柔軟性があるものだ。

 

この教えについて、私が思うもう一つの疑問は、「「キリスト者の完全」を聖潔の歩みの目的であるとすることによって、キリスト者の意識が自分自身に縛られてしまうのではないか」ということだ。

 

つまり、キリスト者である自分が聖潔の歩みにおいてどこまで進歩したのか、という形で「自分自身の成長」に意識の焦点がしぼられてしまい、それが「霊的自己中心」の歩みとなってしまう危険があるのではないか、ということだ。

 

「自分がどれくらい清められたか。どれくらい聖潔の歩みにおいて進歩したか」が、信仰生活の第一の指標になってしまうように思う。

 

キリスト者の生涯の目的は自分自身の完全さだろうか。


もちろん、それもあるだろう。しかし、さらに問い詰めてみると、「キリスト者の完全」の「目的」はなんだろうか。

 

それは、「神の栄光」だろう。


自分自身が神の御前に完成されることを通して、自分自身ばかりか多くの人々の口に神への賛美が与えられて増し加わり、神の栄光があらわされることが目的なのだ。

 

「キリスト者の完全」という概念があまり強調されると、「キリスト者の完全はなんのためか」という点が微妙に見えにくくなるところがあると思う。


キリスト者の目的は自分自身の完成というよりも、「神の栄光」の方にあると思う。

 

「キリスト者の完全」を達成しようとする熱意は大切だが、それをもって一体なにをしようとしているのか、という点の方にむしろ意識の焦点が合わせられるべきではないか。

 

それが、この概念について疑問に思ったところだ。

 

もちろん、ウェスレー自身や、彼に続いた多くの人々は実践的に、神の栄光のために全生涯を生きたと思う。


それはまったく疑いない。


彼らがなした熱烈な伝道の歩みについて、賞賛されるべきだろう。

 

これは、神学的な理論上での疑問である。


ジョン・ウェスレー 『キリスト者の完全』②

 ジョン・ウェスレー:信仰、伝道、神を第一にすることに関する10の ...


ウェスレーの『キリスト者の完全』の教理で私が最も混乱したのは、「罪の理解」についてだ。

 

ウェスレーは改革派、ルター派的な罪理解ではないようなのだ。


同じ「罪」という言葉を使っているが、微妙にニュアンスが違うため、そこが混乱のもとになるように思った。

 

ウェスレーが言うところの罪は、「人間的欠点」という意味ではない。


肉体を持つ者としての人間としての弱さや欠陥などは、罪ではない、というのだ。


ウェスレーは罪を、「創造論」的な領域ではそれほど深刻にとらえない。


むしろ、救済論的な部分での罪の方にフォーカスしているように思える。

 

つまり、キリストと神の律法に背反し、神と隣人への愛のみに生きようとしない、そういうあり方が罪だと言われているのである。


肉体を持つ人間としてのさまざまな欠陥や弱点については、罪とは区別すべきものだとしている。


人間としての「欠点」と、「キリスト者の完全」は両立するのだ、とウェスレーは語る。


キリスト者としての完全を与えられていながらも、なお「人間的欠陥」はいろいろある、ということは矛盾しないというのだ。


神と隣人への愛にまったく満たされておりながら、なお人間としての弱さや限界があるということは矛盾しない、ということだろう。

 

そして、ウェスレーの罪理解は、「原罪」の方よりも、むしろ「行為」の方に焦点を合わせているように思える。


キリスト者は神の恵みによって、行為において罪を犯すような「必然性」は存在しない、とする。罪を犯さずに生きる可能性を肯定するのだ。

 

人間存在に巣食っている根源的な罪よりも、具体的な個々の行為としての罪を、より思考のなかに取り入れている。


「原罪」をそれほど深刻にとらえないため、キリスト者の「罪の残存」も聖化の生活を深めることで克服されうることを示す。

 

以上のような罪理解であることがわからずに『キリスト者の完全』を読むと、「???」という混乱を覚えることになる。


私も、途中でこのような違いがあることがわかり、そこで言われていることの意味を飲み込めた感がある。

 

しかし、以上のような罪理解の私としての疑問は、「創造論的な罪と、救済論的な罪は、相互浸透しているのではないか。相互に性質として絡み合っているのではないか」ということだ。

 

ウェスレーは人間としての「欠点」は罪ではない、とする。


しかし、そうだろうか。人間としての弱点によって、「神と隣人への愛」がおおいに妨げられ、壊されることがあるのではないだろうか。


人間としての弱さや欠陥という創造論的な罪が、救済論的な罪へと影響することがあるのではないだろうか。

 

逆に、救済論的な罪、キリストへの背反が、創造論的な罪の領域へ影響することも、あるのではないか。罪は人間存在と生活の全領域に浸透しているのではないか。

 

改革派やルター派のように「原罪」を深刻にとらえると、人間存在のすべてが罪によってとらえられているということになる。


「これは罪ではない」という領域を設定することは困難になる。すべてが罪によって浸食されているのだ。

 

ウェスレーの罪理解だと、創造の領域と救済の領域が「分離」している感が強い。

 

つまり、こうした理解だと「キリスト教文化の形成」や、「教会が社会と歴史へ与える影響」といったことが、神学的に位置づけにくいのではないか。


教会と社会の間に、「壁」を作る方向になりはしないだろうか。


教会が社会から分離した、「セクト」的な傾向を持つようにはならないだろうか。

 

これがウェスレーの「罪理解」から感じた疑問の一つだ。



ジョン・ウェスレー 『キリスト者の完全』①

 ジョン・ウェスレー:信仰、伝道、神を第一にすることに関する10の ...

『キリスト者の完全』というウェスレーの著作を先日初めて読んだ。それまでは、「聞きかじり」ばかりしてきた書である。


いろいろな人が、いろいろなこの書についての「うわさ」を語るのを耳にしてきたが、「今さら」な思いを禁じ得ないで、読んでみた。

 

読んでみて、驚きと混乱、尽きない疑問がわいてきた。それが正直な感想である。

 

私は信仰を与えられてからずっと、改革派系やルター派系の神学によって養われてきた。


このブログの記事を読んで頂いている方はご存じかもしれないが、このブログに登場する神学者も大抵はこの二つの教派に分類できる神学者だと思う。


メソジスト系の神学者は、これまでいくつかは読んだが、どうも合わないので読まないまま来た感がある。

 

改革派やルター派の神学によって養われた者の独断と偏見に満ちた目をもってであるが、『キリスト者の完全』を読んで疑問に思ったことをいくつか、正直に書いてみたいと思う。

メソジストの先生方からはご批判を受けるかもしれないが、私がこれまで学んだところから感じた強い違和感なので、こういう風景に見える、というくらいのこととして、ご容赦いただきたい。

 

まず、ウェスレーの語る「キリスト者の完全」という概念は、「魂とそこから生じる生活が神への愛と隣人愛に完全に満たされること」だと言える。

部分的にというのではなく、魂とそこから生じる生活の全体が完全にこの「愛」に満たされることがキリスト者の完全だ。


だから、心のすべて、生活のすべてを残りなく神にささげ、神と隣人への愛のみに生きることだ。

 

このことについては、まったく同意できる。


こうした愛に満ちた魂と生活が実現することが、キリスト者にとっての「完全」であることについては、聖書的であるし、別に疑問はない。その通りだと思う。

 

しかし、ウェスレーの語るのは、こうした「完全」がキリスト者が地上のある間に達成されうる、としていることだ。

 

改革派やルター派の神学では、基本的に人間は死に至るまで罪が残存しており、終末の世界において、罪から完全に清められると考える。


つまり、ウェスレーが語るところの「キリスト者の完全」は、地上にある間は完成しない、成就しないと考える。死にゆく床にあっても、なお罪との戦いがある、とするのだ。

 

しかし、ウェスレーはここの見解が違う。「キリスト者の完全」は、「達成可能」だという。事実、これが達成したキリスト者がいる、と語るのだ。

 

つまり、人間は地上にある間、原罪が清められ、罪なき完全な状態に至ることができる、ということだ。

 

「聖化」のゴールを、終末ではなく、この世においてありうるものとしたということだ。

 

この教理の帰結として、どういうことがあるだろうか。

 

①「聖化を達成しようとする思いが強められる」


 この教理のポジティブな側面としては、「キリスト者の完全」をこの世において達成可能としたことによって、これを慕い求める心が引き起こされるところだろう。


「神のみに生きる清い生活」を一筋に求めていくような心を涵養するものだと思う。


「聖化」を求める霊性を養いやすいということでは、現代の世俗化が進んだ世界においては、有効な面があるかもしれない。

 

②「熱狂主義や、霊的高慢に傾く」


 改革派やルター派の「罪の残存」の教理は、キリスト者を生涯不完全とすることによって、かえって「へりくだり」を教えるものだ。


神の前に罪人であり、罪を告白しながら生きるということで、「謙遜」な精神性となりやすい。「地の足の着いた」信仰となる。


しかし、ウェスレーの教えはキリスト者が自らを「罪人」としてよりも「義人」「清い人」として考えることを奨励する側面がある。


これが昂じると、キリスト者が自分の罪の清めについて誇るような、霊的高慢が生じることがありえる。


また、「罪を清められた人」と「そうでない人」の区別の問題も出てくる。


さらに極端化すると、熱狂的な信仰にまで発展しかねない。事実、ウェスレーはこうした「熱狂主義者」たちを抑制するための説教を何度もしなければならなかったようだ。

 

もともと、「聖なる生活」を熱烈に求めるところにメソジストが誕生したことを考えると、「罪の残存」の教理はそうした思いに冷や水を浴びせるものであり、清さを求める人にとって「手枷足枷」に思えただろう。


そこで、ウェスレー自身も霊的体験を重ねることで、罪は完全に清められうるという方向に考えていったのだと思う。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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