日本伝道について⑪ 伝道と「奉仕を通しての聖化」

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教会で奉仕することの意味について考えてみたい。

 

教会奉仕には、前提となるような「目的」がある。

 

奉仕の目的は「伝道(御言葉の広まり)」の集約される。

 

役員会は御言葉がより広まるように協議する。

 

会計は御言葉が広まるために、牧師の生活と教会活動を支える。

 

各種集会での司会などの奉仕は御言葉が広まるためになされる。

 

会堂清掃は、掃除することで教会に来る人々が気持ちよく御言葉を受けることができるようにする。

 

どんな奉仕も、伝道に行き着くという点では共通している。

 

一見すると伝道と関係ないことをしているようでも、間接的には伝道が可能となるためにそれはなされている。

 

以上のように奉仕の目的を「伝道」と理解することは、基本的前提としていくら強調しても強調しすぎることはないほど、大事なことだ。

 

このことさえ、教会で共通理解として持つことは困難であることが多い。

 

奉仕の目的を「より神に祝福してもらうため」という「個人の幸い」の次元に還元して考えるような場合が多い。

 

「個人の幸い」は、奉仕の「目的」ではなく「結果」であると考えなくてはならず、これを目的に奉仕しているなら、個人主義的信仰から脱することはほぼ難しくなる。

 

奉仕の基本的理解としては、「御言葉が広まるために神と隣人に仕え、結果として教会も自らも祝福される」ことにあると言える。

 

一方、奉仕の目的を以上のように伝道だけに一義的に解すると、取り落としてしまう重要な真理がある。

 

「伝道への合目的性」ということを考えてみよう。

 

牧師がかなり能力がある人であるという仮定で、「チラシ作成」をするという場合、明らかに牧師が作成した方がクオリティのよいチラシができる、という状況があるとする。

 

こういったとき、「伝道への合目的性」からすると、牧師がチラシ作成をした方がよい、という判断が容易になされるだろう。

 

牧師は365日教会のことについて考え、修練していくので、牧師が成長して経験や知識が深まっていけば、信徒よりもよくできる部分も多くなっていく。

 

そうすると、「伝道への合目的性」だけを考慮するなら、「教会のことはほとんどを牧師がやった方が伝道につながる」という結論になる。

 

信徒としても、「先生がやってくれた方がうまくできるし、自分も楽になる」と考えれば、牧師がやることを歓迎する。

 

これにより、牧師が「労働者」で、信徒が「顧客」であるという体質、「牧師はひたすら働き」、「信徒は牧師がやっている奉仕を受けて、これが適正かチェックしたり、批評したりする」という構造が徐々にできあがっていく。

 

こういった教会形成では、「牧師のキャパシティまでしか成長しない教会」、「牧師に過度に依存的で、信仰的には脆弱な教会」にならざるをえない。

 

ところで、奉仕には「伝道」という目的しかないのだろうか。

 

聖書を想起するなら、奉仕には「伝道」ばかりでなく、「キリストの生死にあずかる」(Ⅱコリ4:10-13)という意味がある。

 

私たちは自ら奉仕することにより、キリストの十字架と復活の御業に参加するのだ。

 

奉仕によって、具体的に失敗したり、傷ついたりしながら、これが御言葉によって癒され、立ち上がらせられて、霊的に強く成長していく。

 

奉仕は「義認」という次元からいうなら、「たとえ目に見える形での奉仕をしないとしても、キリストを信じて告白し、洗礼を受ければ救われている」ということになる。

 

だが、「聖化」の次元からすると、「なんらかの奉仕をすることなくしては、キリストの生死に参与することも乏しく、したがって主の清めの御業にあずかることも少ない」ことになる。

 

「義認」だけで「聖化」がないとするなら、Ⅰコリント3:10以下の「救いを失いはしないが、審判の火で燃え尽きてしまう家を建てる」人生になってしまうだろう。

 

そもそも、「奉仕できない」人はいないのであって、なにもできずにただ病床にある人でも、教会のために祈ることができる。

 

それだけで尊い奉仕であるのは疑いない。

 

「チラシ」の例でいうなら、牧師がやればクオリティが高くなり、短期的に伝道につながるように見えるとしても、信徒がそれを担うことで地道に成長していく方が、長期的には教会にとってはるかにプラスであることもある、ということだ。

 

以上の点を考えると、奉仕は「伝道」という目的を持ちつつも、同時にキリスト者すべてが「聖化」の歩みをするうえで不可欠であり、すべてのキリスト者がなんらかの意味で「奉仕」に参与するべきということになる。

 

「伝道において非常に賢く、御言葉がおおいに広まっている教会」はそれなりに魅力的かもしれないが、「キリストの生死が透けて見えるような輝きのある教会」は、この世を超越した魅力があるだろう。

 

「伝道」ばかりの教会は「合目的性」の追求によって「世俗化」の変質を伴うし、「聖化」ばかりの教会はこの世から遊離して「セクト化」する傾向を免れない。

 

教会は「総合力が大事」という視点からすると、小さな奉仕であっても牧師と教会員それぞれが力を出し合って教会形成した方が、能力のある牧師一人がひたすら頑張る教会よりも、長期的に遥かに成長するだろうし、喜びに満ちた教会になるだろう。

 

「伝道」も「聖化」も、両者が奉仕において重要な目的であり、両者のバランスと生産的な緊張関係のうえに、教会の前進はかかっている。

 

奉仕の「聖化」の側面についてのお勧め本は以下。

 

こういったことは「楽ではない」面があるため回避されがちだが、やはり向き合う必要がある課題。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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