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コロナウイルスと教会⑨ 「コロナ禍が警告する神学的課題:創造の秩序と自然界への慎み」

 いまこそ知っておくべき「コロナウイルス」に関する4つの基礎知識 | WIRED.jp



コロナ禍が現代社会に警告する神学的課題:「創造の秩序」と自然界への慎み

 

以下に書く内容は、私のまったくの私見であるが、個人的に感じるところがあるので、記しておきたい。

 

なお、この内容にはだれかを傷つける意図はまったくないが、結果的にどなたかが傷つかれたら、申し訳ありませんでした、とはじめに謝罪させていただきたい。

 

というのも、すでにコロナウイルスの拡大により、多くの亡くなる方々が出ている状況においては、以下の内容について「不謹慎だ」とお考えになる方がいても、自然だと思えるからだ。

 

そのことを承知のうえで、コロナウイルスの現在の状況から、いま私たちになにが警告されているのか、個人的に感じていることを書かせていただきたい。

 

神学の領域における「創造論」との兼ね合いで、考えさせられることがいくつかあるのだ。

 

コロナの脅威についての痛ましいニュース報道が続くなかで、

 

それらとはニュアンスが異なるニュースがいくつか聞かれた。

 

真偽のほどは検証していないが、以下のことだ。

 

・ウイルス拡大により、武漢が封鎖されてから、中国の大気汚染濃度が劇的に改善された。

 

中国の大気汚染については、ずっと前から気になっていた。

 

私の前任地には毎年、かなりの黄砂とPM2.5が飛来し、着任してから4年目くらいまで、春の時期はストレスとあいまって、咳がとまらないことが多かった。

 

中国の大気汚染の深刻さについて訴える動画も多数あるが、どれも極めて悲惨なもので、見るにたえない。

 

ところが、コロナにより以上の状況がごく一時的にであろうが、改善された、という。

 

・コロナウイルスと似たウイルスが、密漁と乱獲により絶滅危惧種となっている「センザンコウ」から検出された。

 

センザンコウというのは、アルマジロのような見た目の動物だが、この鱗は薬として使われ、その肉は珍味として食されていたという。

 

この動物は、経済的利益によりあまりに取引されてしまうことで、絶滅危惧種に指定されている。

 

その動物から、コロナ類似のものが検出された、というのは、なんらかのメッセージの暗示に思えないだろうか。

 

・コロナウイルスの感染源となる場所の多くが、日中の仕事場や学び舎というよりも、夜の街の酒場等に多いということ。

 

夜にお酒を飲んで遊ぶ場所においてコロナの感染がおおくみられるという傾向は否めないだろう。

 

これもまた、「どうしてか」ということについて、なんらかの暗示を感じるのだ。

 

上にあげたのは、三つのことだけだが、おそらく探すならさらに多くのことがみつかるだろう。

 

たとえば、

 

「コロナにより地域間の争いが停戦した」

 

「働きすぎていたことがわかった」

 

「家族との関係を見直す機会となった(コロナ離婚、コロナ結婚という言葉まであるらしい・・・)」

 

こういった事例から私が個人的に受け取るのは、現代社会が神の創造された自然界の「秩序」によって警告されているのではないか、ということだ。

 

もし人類が、センザンコウのような動物を乱獲せず、大気汚染もせず、

 

夜の街で遊ぶような習慣もなかったら(これらのことは非現実的だが)、このような事態になっていたかどうか、自分にはよくわからない。

 

ただ少なくとも、現状よりははるかに軽傷で済んだかもしれない。

 

社会システムの面でも、「わかっちゃいるけど、やめられない」という形で、経済優先の在り方を続けてきたが、コロナによりそれが強制的に停滞させられる。

 

そのとき、はじめて「これまでとは異なる在り方」をさせられることで、「これまでの在り方」との比較が可能になる。

 

こうして、「これまでやっていたことのダークサイド」が、意識のなかで自覚され、整理されてくる。

 

「コロナで自粛しているうちに気づいたのだが・・・」というようなことが、私達にはいろいろあるかと思われる。

 

少なくとも、現代社会の極めて豊かな、欲望を自由に満たし続けることができる生活が、コロナ禍の「間接的原因」となっていることは、否定できないのではないか。

 

私自身は、神ご自身がコロナ・パンデミックを引き起こす「主体」となっている、とは解釈していない。

 

つまり、神が自らの意志と選択により積極的にこういったことを起こしているというよりも、

 

人間が自らの罪の在り方をひたすら推進することにより、

 

ひとりひとりの生き方が神が創造された自然の秩序に対する「圧」・「ダメージ」をかけ続け、

 

それに対する自然の秩序の「リアクション」として、こういったことが起こっている、

 

神はそのリアクションを許容し、私たちに重要な教訓を学ばせ、従来の生き方を転換させようとしておられる、と理解している。

 

人間はここから、「これまでとこれから」を展望し、生き方を再考するように招かれているのではないか。

 

自然界は基本的に、神のプログラムによる精妙な「バランス」によって成り立っている。

 

そのバランスを人間は、自らの欲望を満たすために、構造的な形でゆがみを与え続けてきた。

 

それについて、自然の秩序からどんな「リアクション」を受けても仕方のないほどにまでなっていることは、おそらく否めないだろう。

 

異常気象なども含めて、人間の罪の影響を度外視して考えることはできないのではないか。

 

私たちのこれまでの豊かなあり方は、明らかに自然界と共生するものではなく、よって「持続可能」なものではないのだ。

 

コロナも、神が創造された自然世界に対する基本的な配慮と慎みを忘れてしまった私たちに対する、生き方を再考し、転換するようにとの警告であるように感じられる。

 

「人間 VS 自然」という対立はずっと以前から存在するものだが、近年これが非常に尖鋭化してきている。

 

以上の図式は、近代世界がよってたつ「進歩主義(啓蒙主義)」・「ヒューマニズム」の図式では乗り越えることはできない。

 

私たちは神との関係をイエス・キリストにより修復していただくことで、隣人との関係のみならず、

 

自然との関係も修復していただかなくてはならないのだ。

 

「神と和解し、自然と和解する」ことが、21世紀の最重要な神学的主題となるだろう。

 




コロナウイルスと教会⑧ コロナウイルスも「恐れるな」?

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聖書的な決まり文句に、「恐れるな」がある。

 

この言葉が言われるパターンとしては、大別して二種類あるかと思われる。

 

第一は、「神の顕現への恐怖」に対して、「恐れるな」と言われる場合。

 

旧約で神の使いが人間にあらわれたり、羊飼いたちを神の栄光が照らしたり、といったときに語られる。

 

第二は、「人間や自然などの脅威」に対して、言われる場合。

 

多くの詩編の言葉や、アラム軍の戦車に包囲されたときにエリシャが語った言葉、ほかにもアッシリアに包囲されたとき、ヒゼキヤに神が語られた言葉など。

 

第一の例はさておき、第二の例について、「パンデミック」との関連で考察してみたい。

 

コロナウイルスが拡大しているなかで、「恐れるな」という言葉が神から語られている、としたら、どう感じるだろうか。

 

「いやいや、恐れるなとか無理でしょ。そんな戯言を言って、感染者増やすとか言語道断ですから」

 

「『正しく恐れる』ことが大事なのであって、恐れずにマスクもつけず、対策も取らないなどというバカなことをするっていうんですか?」

 

「あなたが恐れずに適当なことをすることで、かえって他の人に危害を及ぼす、ということがわからないのですか?」

 

当然、以上のような反応がありうると思われるし、ごく常識的・一般的世界観の範囲内ではまったくこれらは正しいと感じる。

 

ただ、現実を「常識」で考えるだけでは「市民」ではあっても「信仰者」とは言えないし、パンデミックをも「神の支配と摂理」のなかで見つめる信仰的視点は重要だろう。

 

現実は「多層的」なものであり、「一つの層(相)」については「一般常識」で認識できる。

 

だが、「別の層」については、他の専門的認識が必要になるし、「信仰」においてしか認識できない現実の「層」もまた存在する。

 

「信仰者」は、信仰においてしか認識できない「層」を理解することができるという点で、現実理解において恵まれた立場に置かれている。

 

「聖書」というフィルターを通して、現実の一断面を「神への信仰のまなざし」をもって見ることで、現実をたくましく生き抜き、乗り越えていく理解が培われるのだ。

 

「恐れるな」というのはあくまで「信仰的」な根拠に基づくものであり、「一般常識的現実層」を「否定」したり、「拒絶」したりするものではなく、むしろ「補完・回復・完成」するものだと言える。

 

パンデミックを「恐れるな」ということの意味は、

 

「ウイルスもまた神の支配下にある」ということであり、ウイルスは「肉体を殺しても、魂を殺すことはできない」ということであり、

 

「本当に恐れるべきはウイルスではなく、神に反逆する生き方を貫いて、ついには神無きものとなって滅びてしまう」ということなのだ。

 

「神以上にウイルスを恐れる」ということがもしあるとするなら、それは不信仰の重大な一形態であり、「神よりもウイルスの方により大きな実在性と命への権威を帰している」ことになるのではないか。

 

これらは、「ウイルスへの行動として、どういった形を取るのか」という課題以前の、「どういったモチベーションで取り組むのか」という問題だ。

 

神をウイルスに対してはまったく無力な「建前」や「キリスト教思想」として忘却し、ウイルスの脅威とその実在性に日々怯えながら行動するのか、

 

それとも神のもとでウイルスもまた支配されている存在であり、ただ神のみを畏れ、神のみにすべての権威を帰する在り方で行動するのか、の違いなのだ。

 

「恐れるな」の意味は、「恐れることはないのだから、ぼんやりしてなにもするな」の意味ではないことは自明のことだ。

 

「恐怖ではなく、神への信頼によって、自分にできる手段を活用し、課題に取り組め」の意味だ。

 

「取っている行動」を見れば、表面的には同じに見えるかもしれない。

 

マスクをし、手洗いやうがいをし、人ごみを避ける、高齢者や病弱な人々、弱い立場にある人々に配慮する・・・。

 

しかし、その「モチベーション」が「恐怖」ではなく、「神への信頼」であるなら、その行動には「希望と平安」が基調音となるだろう。

 

「義憤」、「恐怖」、「悲壮感」、「焦燥感」にかられた行動は、自他にとって有害な影響を及ぼす。

 

そういった行動は少なくとも他者に対して攻撃的なものになり、怒りや悲しみを拡散することで、他者を傷つけるもとになる。

 

他者を深く傷つけてしまっても「いまは非常時なのだから、自分のことだけで精一杯になるのは当然だ」と自分のしたことを正当化しやすい危うい心理状態にしてしまう。

 

そういった思いで生活するのは、自他を結果的にかえって強く精神的・健康的なリスクに押しやってしまうことにもなりかねない。

 

現実に戦争が起こると、銃で撃たれるなどして「戦死」する人以上に、「餓死」や「病死」、「衰弱死」など、「間接的」な理由で死んでしまう人の方が大勢いるのは、周知の事実だ。

 

ウイルスのパンデミックの時に、「ウイルスによってではなく、ウイルスの拡大によって生じた特定の状況によって、間接的に傷つけられ、亡くなってしまう」事例もまた、非常に多くなることが憂慮される。

 

それらの「間接的死」をもたらす最たるものが、「人間の増幅された恐怖」にかられた集団的な行動なのだ。

 

だからこそ、「恐れるな。神を信頼せよ」のモチベーションを養いながら、外面的には冷静かつ客観的な態度を維持し、自分に可能なすべての対策に取り組む必要がある。

 

いま、「少なくとも神以上にウイルスを恐れてはならない。神のこと以上にウイルスのことを重大視して、神を軽んじてはならない」と、私たちは言われているのではないか。



コロナウイルスと教会⑦ 「パンデミック」・「免疫」・「信仰」

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コロナウイルス拡大がいよいよ、「パンデミック」認定がなされ、世界的に感染者が増大する事態となった。

 

様々な情報が広がり、不安や恐怖が高まっているが、本記事では個人としてできる対策について、私なりの「個人的」な見解を記してみたい。

 

私が感じるのは、これは病気全般について言えることだが、「治療ができるようにする」ことや、「感染しないようにする」ことも極めて重大な課題だが、

 

そもそも「ウイルスが体内に侵入しても、体内の免疫機構でそれらを退治できるようにする」ことにまさる解決はないと思っている。

 

「ウイルスに感染しないようにする」といっても、これだけ広がってくると社会や経済のある程度以上の停滞やクラッシュなくしては不可能であろう。

 

「ウイルスに感染しないようにする」ことだけに意識を使うなら、最も合理的なのは「人類全体が引きこもりとなる」ことということになるが、

 

「引きこもっている間に別の病気になったり、お金がなくなって別の問題が生じる」こともありえる。

 

ある程度以上、経済や社会、人間の動きをまわしながら、なおウイルスが次第に消えていくには、「一人ひとりの肉体の免疫が高まる」ことが最も重要だろう。

 

同じウイルスがある人には感染して発症し、別の人には発症しないのは、各自の人体の「免疫力」の差異によると考えざるをえない。

 

そこで「免疫力を高める」ために、個人的に学びと実践を繰り返して、非常に有効だったことを以下に列挙してみるので、ご参考にしてください。

 

こういったことは動画でも公開しているので、関心のある方はユーチューブで検索してみてください。

 

なお、これらは「キリスト教神学」とは関係ないが、生活上の実践的な知恵としてシェアさせて頂く。

 

私も以下を実践するようになってから、牧師にとって「健康リスクがヤバい」ダントツの季節である「クリスマス」も、健康で過ごせることが多くなってきた。

 

 

・睡眠時間は自分に必要な分を確保し、絶対に減らさない。どんな対策をしても、睡眠時間が減ると免疫はがた落ちになる。「夜更かし」が最も悪い。

 

・日光浴(素肌に30分以上浴びる)。

 

・乳酸菌を習慣的に取る(ヨーグルトやカルピスなど、とりあえず乳酸菌ならなんでもいい)。

 

・炭水化物は玄米か、100%麦ご飯、オートミールだけにする。玄米や麦ご飯等が嫌なら、可能な限り炭水化物の摂取を減らす。あらゆる糖質も、取り過ぎないようにする。「満腹になる」ことを可能な限り避けるようにする。「満腹」になると、免疫的にはかえって脆弱になってしまう。

 

・ナッツ類、魚介類などから、「不飽和脂肪酸」を習慣的に取る。これは精神的健康のためにも必要。

 

・筋トレや散歩など、適度な運動を続ける。

 

・呼吸法で自律神経系をリラックスさせる。

 

・勉強も仕事も、必要以上にはし過ぎない。肉体的・精神的「疲労」は免疫を低下させる。

 

・心を平安に保つようにこころがける。不安や恐怖は緊張を強いて疲労させ、結果的に免疫を長期的なタイムラインで悪化させる。

 

これらの実践については、「根拠」などを提示するよりも、実践して効果を実感して頂いた方が早道なので、出来る部分をやってみてください。

 

お金もさしてかからないので、上記は大変お勧め。

 

ただ、当然「万能」ではありえないので、感染しないための可能な対策は当然の「前提」としてのことだ。

 

最後の「心の平安」について、特に信仰上の観点から記したい。

 

「信仰と健康は無関係」ではない。それは、「信じたら病気が治りました」という「奇跡」に関わる部分ばかりではない。

 

もっとベーシックなところで関係していると言える。

 

「心の平安」もしくは「ストレスに対する耐性」、「困難や予測できない状況における落ち着き」などは、すべて「免疫機構」に重大で長期的な影響を及ぼす。

 

破壊的・自己中心的な考えで、不安や恐怖を抱えながら毎日すごし続けていれば、免疫の高まりなどありようはずもない。

 

「心の平安」がないことは、「悪しき精神的習慣」にも、「悪しき生活習慣」にも結び付くからだ。

 

ストレス解消や快楽を得るために「夜遊び」や過食、過飲などを繰り返していて、なお健康でいることなど不可能だ。

 

「快楽中心」の人生観・価値観が、コロナウイルスのパンデミックにより、大いに問いに付されるという事態になっているのは、私たちが生き方の「方向転換」するための機会とも、別の側面では言えるのではないか。

 

「心の平安」が確固としていればいるほど、身体や精神の「方向性」と「健全性」は安定し、結果として免疫も高まっていく。

 

世界中がウイルスの脅威におびえているときこそ、「自分はなんのために生きているのか」、

 

「自分はこれから、なにをして生きていくのか」また「なぜ自分は生きてくることができたのか」など、人生全体のビジョンを黙想したい。

 

同時に、改めて「三位一体の神への信仰」を再考し、立ち返ることで、「キリストがくださる魂の平安」から自らの在り方をリスタートしていくことを志したい。

 

「三位一体の神への信仰」以上に、全生涯にわたる「心の平安」にとって有益・有効なものは、この世界には存在していないと私は思う。

 

どのように身体的・精神的に対策を整えても、「心の平安」がないなら、長期的には免疫力もまた「いつ低下するかわからない爆弾」を抱えたままなのだ。


コロナウイルスと教会⑥ 「未知」と「グレー」へのレジリエンスを育てる「信仰」

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インフルエンザで亡くなっている人々は、毎年アメリカだけでも1万人を超えているという。

 

自死をしてしまう人々の人数は、日本で3万人前後、世界で80万人前後という。

 

コロナウイルス流行との比較は、その内容も異なるため成り立たないと知りつつも、

 

「コロナ」以外のあらゆる理由で、世界では今日も人々は亡くなり続けている。

 

人が死ぬ理由は、「無数」といっていいくらいの数があるのは、今も変わっていない。

 

しかし、現在では「コロナウイルス」の話題が集中的にメディアで取り上げられ、多くの人の頭に浮かぶ内容の非常に多くが、

 

「コロナ」関連というワードで占められているという状況であろうと思う。

 

もちろん、この話題の重要性については、今否定する人はだれもいないのは当然だろうし、

 

これについて重大な課題ではないという人は、現実を軽んじていると受けとめられても仕方がないだろう。

 

ただ、気がかりなのは今もなお「コロナ」以外の理由で数知れない人々が亡くなり続けているが、

 

その人々は「コロナ」関連の圧倒的情報量によって「マイノリティ」としての位置しか占めることができなくなっているのではないかと危惧される。

 

いま、どこかの銀行に強盗が入って数人が殺されたとしても、どこかの国で乱射事件が起こっても、場合によってはなんらかのテロが起こっても、

 

「今はそれどころじゃない」という形で、「平常時」よりははるかにインパクトは小さくなるし、またその報道される情報量も「コロナ」によって少なくされてしまうだろう。

 

さらに、「人々の意識」にそういった事件が残る割合も、平常時よりはずっと小さくなってしまうに違いない。

 

私たちの意識や認識は、現代の過激な映画やアニメ、思想の影響を受けて、「ゼロか、100か」の極端なものに陥りがちだ。

 

「白か、黒か」、「正しいか、間違いか」「善か、悪か」の「二分法」ですべてを認識してしまうことが多い。

 

つまり、「0から100」までのグラデーションの多様さが極めて乏しいものとなっている。

 

これは精神的には脱ぎ捨てていくべき未熟さのサインなのだが、今ではこういった精神性の方がわかりやすいため、これを助長するようなメディアやストーリーもあふれている。

 

同時に、「ググれば大抵のことはわかる」といった、現代のネット社会の特性として、「わからないこと」があると、非常にストレスがたまるという精神性になりやすい。

 

その「わからないことが、分からないままの時期が長引くほど、そのストレスは加速度的に増加していく」ということがあるのではないか。

 

こういった状況で「コロナが激ヤバでパンデミックでみんな大混乱で多くの国々で感染者は増え続けていて、自分の身近にも感染者が・・・」と言われると、

 

意識をその主題が占める割合が「コロナ0」から「コロナ100」に一気に振り切ってしまい、

 

「コロナ関連以外の重要な主題や課題についても、平常時と同様に取り組むことができる」という理性や力、心理的キャパシティを失いやすくなっている。

 

「コロナ以外の課題」においても、一人ひとりが苦しみ続けていることを、忘れがちになってしまう。

 

しかも「コロナとはなんなのか、どうすればいいのか、いつこれが終わるのか・・・」といった無数の「わからないことが、わからないままいつまでとも知らずに続く」状況にいま、置かれている。

 

これは、私たちの時代においては、容易に精神的なキャパシティをオーバーしてしまうような、非常に厳しい状況であることを示している。

 

私たちは情報を取捨選択しながら、ネットにアクセスすれば大抵のことがわかってしまう時代に生きているからこそ、

 

いまの「わからないことが多い」、また「右に行けばいいのか、左に行けばいいのか、判断が難しい」、「いつまで続くかもよくわからない」状況にストレスを蓄積して、

 

怒りを爆発させることを自分に許可しやすくなり、人を傷つけても良心が痛まないような状態になってきているのではないか。

 

「未知なもの」や「グレーなもの(曖昧なもの)」へのレジリエンス(耐性)を持たない人は、今はよりストレスフルな状態になりやすくなっている。

 

かといって、「ただこの状況を耐えればいい」という問題ではないことは明白だ。

 

単純に思考停止に陥って耐えているだけでは、状況の改善は見込めない。

 

こういった耐性を、改めて身に着けていく必要がある。

 

ひるがえって、「神への信仰」とは、まさにこういった耐性を育てるものだ、と思わせられる。

 

そもそも、「三位一体」というお方ご自身が、「人間には未知なお方」であると同時に、私たちのすべてを導かれているやり方においても、曖昧さから完全に解放はなさらない。

 

それは、「わからないときもなお、神への信頼によって歩む」ことをお教えになりたいためだ。

 

「神の愛が見えなくても、神の愛を信頼する」

 

「出口や解決がわからなくても、なお神が備えておられることに希望を置く」

 

「自分にはわからないことも、神にはわかっておられるから、その神に委ねて生きる」

 

こういった態度は、聖書の示す最も基本的な生きる姿勢であるわけだが、これこそがまさに「未知」や「グレー」への耐性そのものであると感じる。

 

「コロナ」がいつ終わるのか、そもそもなんであるのか、発生源はどこなのか、どう治療されるのか、そういったことが「わからない」状況を、灰色な曖昧さを抱えたまま耐えていくのは、

 

「目に見える現実において生じる困難や矛盾など、すべてを貫いて神が道を備え、扉を開いてくださる」ことへの信頼なくしては、非常に困難と言えるだろう。

 

このときに、改めて信仰の原点に立ち戻り、「現実を超越し、すべてを統治しておられる、見えない神の備えと導きを信頼する」ことを思い起こし、身に着けたいと願う。




コロナウイルスと教会⑤ 「恐怖」も「信頼」も現実化する

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コロナウイルス騒動で、日常のなかでいろいろな黙想が刺激されるため、整理のためにブログに書きたくなる。

 

これも自分なりの気晴らしなので、関心のある方、お付き合いいただきたい。

 

主イエスの「あなたが信じたとおりになるように」という御言葉(マタイ8:13等)を、これまで何度も黙想してきたが、

 

今回、「やはりそうか」と思えることがあったので、シェアしたい。

 

「心の底からそうなると信じていると、一定のタイムラグや誤差はあるにせよ、やがてそれは実現に近づいていき、現実となる」

 

これは世界中の自己啓発書でよく言われていることだが、そのオリジナルは上記の主イエスの御言葉であり、

 

自己啓発書は主の御言葉を「神をのぞいた世俗バージョン」に変換したものだと自分は考えている。

 

なぜ「神への信仰」が求められるのかといえば、上の「法則」は神への信仰なしにも、人間学的法則として働くものだが、

 

神への信仰を度外視していると、場合によっては自分にも他者にも破壊的な作用をもたらすからではないだろうかか。

 

最近の実例をひとつ、考えてみよう。

 

政府の対応は功を奏しているとは思えず、WHOが「危険だ、心配だ」と叫んでいるときに、ネット上に「トイレットペーパーが品切れになっている」との「デマ」情報が拡散された。

 

すると、恐怖が伝染して、「買い溜めしておかなくては!」と皆が考えて、

 

スーパーなどに行き、現実に「トイレットペーパーは品切れです。数日後に入荷します」となった。

 

実際には在庫が潤沢にあるにせよ、身近な目に見えている現実では本当に短期間のうちに「品切れ」が実現したのだ。

 

皆が、「そうなる!」と信じたからとしかいいようがない。

 

恐怖が圧倒的な駆動力で人々を動員して、あっという間に恐れていたことが現実化してしまった。

 

このことは小さなことのようにも思えるが、個人的には印象深い出来事だった。

 

「恐怖」とは「自分の生存が脅かされている」ときの感情であり、防衛本能に火が付くと人間は「できるだけストックし、できるだけ省エネをし、できるだけ長く生き残ろう」とするスイッチがはいる。

 

これは大昔からの人間がサバイバルするために身に着けてきた防衛反応であって、悪いことであるどころか、生き残るためには必要な機能だったと言える。

 

しかし、このようなスイッチが入ると、人間は自己中心性をどこまでも増幅させ、それを正当化できるだけのあらゆる理由を手にすることができる。

 

そのため、「資源という限られたパイの奪い合い」や「自己中心性のダークサイド」があらゆる形で露骨に生じ、その結果「恐れているものを現実にしてしまう」ことが起こりうる。

 

「ウイルスに感染・拡大するんじゃないか」→「調子が悪いから、すぐに病院に行かなきゃ」→「院内感染した」

 

「ペーパーがない」→「買わなきゃ」→「店頭にない」

 

「自分も感染するんじゃないか」→「心配と不安で疲労し、免疫が落ちた」→「本当に感染した」

 

「こんなときに戦争でも起こったらどうしよう」→「戦争を怖がるあまり、他国を刺激」→「本当に戦争勃発」

 

以上は、単純すぎるものだが、「恐怖」というモチベーションに支配されると、人間は「自己中心性」をおおいに加速させてしまい、

 

その結果として自己中心性のダークサイドをどんどん発揮してしまい、その代償として「カウンター・パンチ」をおもいきり食らうようになるのだ。

 

それが本当の「恐怖」の残酷さだ。

 

人間から「人間らしさ」を奪い取り、理性をもって思考できない動物のような状態にしてしまう。

 

そこで、「自己中心性」を加速・増幅しないようなモチベーションで、ウイルスに向き合う必要があるのではないか。

 

それは「恐怖」ではなく、「信頼」ということだ。

 

これは単なる「楽観主義」を言うのではない。

 

将来への展望や、今後のシュミレーションの内容というよりは、取り組むうえでの「動機」の部分の話だ。

 

「神が共におられ、すべてを御支配くださっているのだから、その神が最善の形を備えてくださっているはずだ。そのことを信頼して、今自分にできる目の前のことをやろう」といった態度を言う。

 

現実については冷徹すぎるほどに、冷徹に見ていく必要があるだろう。

 

しかし、その動機の部分には、「この問題は必ず解決できるし、解決される」との信頼や希望がなければ、その働きは本当に効果的なものにはならない。

 

「信頼」の「恐怖」との相違は、「自己中心性」を増幅しないということだ。

 

「信頼」はむしろ、人間の心のキャパシティを押し広げ、「余裕」と「軽やかさ」をもたらす。

 

それにより、「合理性」や「秩序」にかなったよい意味での理性が発揮され、「より賢明な選択」「長期的視野のなかでの選択」をすることができるようになる。

 

結果、「本当にそうなると信頼していた通りの現実がやってくるし、実現できる」ことになる。

 

「恐怖」の方が、人間を駆動するには、短期的にはずっと効力があるかもしれない。

 

それはここ何週間かで十分に証明された。これ以上は、もう充分かと思われる。

 

「信頼」は長期的に、人間と社会を建て上げ、構築していくうえで、最も根源的かつ効果的な心理的リソースなのだ。

 

そこで最初の論に戻るのだが、「神への信頼」があることで、私たちは「あなたが信じたとおりになるように」との主イエスの御言葉を、

 

本当の意味で「建設的・生産的」な方向に実践することが可能になる、ということだ。

 

絶対的に信頼できる存在がいないならば、ただ「恐怖」が主調音になる以外にないだろう。

 

しかし愛と恵みに溢れた神がおられるなら、その神への信頼に基づいてより賢明で適切な歩みもまた、可能になるのではないだろうか。

 

「あなたが信じたとおりになるように、が本当に真理だとするなら、あなたはなにを信じるのですか」

 

「あなたは本当によりよい世界を信じて、取り組むのですか。それとも、本当は世界が崩壊することを信じて、歩んでいるのですか」

 

基本的課題だが、ぜひご参考にしてください。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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