ラベル 教会の衰退について の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教会の衰退について の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

「牧師依存」の代償と「賽の河原問題」

 




牧師は「御言葉の説教と聖礼典の執行」を主たる職務とするが、教会で生じる課題の「すべて」について、責任を負っているとも言える。


教会の維持管理に関わることから、事務的なことに至るまで、牧師に責任のないものはないと言える。


一方、その牧師はいずれはその教会を去る人間であり、別の人間が導かれ、職務に着く。


牧師は「いつそこからいなくなるのか、わからない」者でありながら、「そこに責任を負っている」という、不思議な状況を抱えている。


牧師と教会の方向性が異なってしまえば、牧師はそこにいることはできない。


教会が牧師の説教や奉仕を軽んじ、それを受け入れないなら、牧師は早晩そこにいることはできなくなる。


牧師自身や家族に重大な病気や事故などがあれば、牧師はそこにいることができなくなることもある。


牧師は薄氷の上を歩くように、「いつ神によって取り除かれるか、わかららない」ものとして、職務を推進していく。


そして、牧師が辞任するときというのは、ほとんど常に教会員にとっては「青天の霹靂」として、つまり「まったく予想もしないような時や場所」で告げられたりする。


「まさかあのとき、牧師が辞任するなどとは思わなかった」と多くの人は口をそろえて言うのだが、実のところはその下地は数年以上前から準備されているのが普通だ。


上にあげたような、なんらかの理由が辞任せざるをえない水準にまで大きくなってくるとき、牧師は神の御心を問いつつ歩むが、いよいよ自分がそこにとどまることが御心とは思えない時がやってくる。


教会の職務は、牧師が担うことによって適切に進められることも多いが、当の牧師は「いついなくなるかわからない」、グレーな部分がある。


つまり、教会形成を「牧師依存」「牧師主体」で進めれば進めるほど、「牧師の辞任」によって教会が支払う「負の影響」の代償はより大きくなる、ということだ。


教会員が皆で協力して教会形成を担い、牧師は「御言葉の説教と聖礼典」に集中できている、という状況であれば幸いなことだ。


牧師が交代しても、説教や聖礼典の質が確保されていれば、教会としては確実に前進を続けることができる。


しかし、説教と聖礼典のほかの部分について、教会形成の多くのことを「牧師依存」で進めてしまうと、牧師の辞任によって教会が受ける打撃というのは想定をはるかに超えるものになる。


「あの牧師がいたからやれていた」という働きのすべてが、すぐに消え失せてしまうか、別の形に変更せざるをえない。


さらに、教会が「牧師依存」ができるような働きをする牧師は、そう簡単に与えられることもない。


こうして、先代が築いたものの多くが、次の世代でいとも簡単に打ち壊される、ということが起こる。


教会形成における「賽の河原問題」だ。


石を積んでも積んでも、やがて次の時がくると積んだものすべてが崩されてしまい、最初からやり直しになる。


歴史的に、何度も何度も、同じことがループし、教会の現実は大局的に変わることがないか、衰退を続けてしまう。


この問題をクリアしていくには、まずは教会が「牧師依存」の体質を脱却しなくてはならない。


同時に、ある牧師が辞任しても、後任者において少なくとも「説教と聖礼典」においては、しっかりとした質を保つ必要がある。


そのための牧師養成・神学教育が確立されなくては、「賽の河原問題」は無限ループとなり、教会の将来を閉ざし続けるだろう。


教会としては、いかに「牧師依存」の体質を脱ぎ捨て、それぞれの信徒が「自分の集う教会は自分が支えていく」という意識を育てることができるか、それが最も大きな課題となる。





教会の衰退について⑧ 「罪認識のゆがみと消失」による教会の停滞・衰退

 海外のお墓に書かれるR.I.P.ってなに?スラングの意味も紹介!|終活ねっとのお墓探し



なぜ日本の教会は停滞・衰退しているのか、というとき、「罪の問題」が非常に大きな課題となっているように思えてならない。


 「良心が罪の意識に苦しめられて、苦悩する」というのは、キリスト者の経験の一部だったはずだ。ところが、最近このような罪に関わる苦しみがほとんど教会でも見聞きされることがない。


 アウグスティヌスもマルティン・ルターもジャン・カルヴァンもジョン・ウェスレーも、皆この罪の苦しみのなかからキリストにある救いを見出して行った。


ところが、現代の教会からはこの罪にまつわる苦闘や苦悩がほとんど死に絶えたように思える。


 「罪認識」「罪の自覚」が消滅してしまったように見えるのだ。


 キリスト者が罪認識を失ったらどうなるか。十字架の恵みも薄れて行き、やがて消えてしまうだろう。


主イエスが十字架に苦しまれたことの永遠の意義が、隠れて見えなくなってしまうのだ。


 私達に「罪の自覚」がないことが、私達の教会の前進をおおいに妨げているのではないだろうか。


 自覚がなくても、罪は現に私達をとらえているのだ。罪は隠れた形で、猛威をふるっている。自覚と認識がないので、罪は私達の間で好き放題をしている。

 

私達の教会が罪の自覚へと改めて導かれることが、新しい出発ともなるだろう。


 では、なぜ罪の自覚は消えてしまったのか。


 それを神の愛との関係で考えてみる。


 「罪を犯しているから、神は愛して下さるのだ」そう考える人はおそらくいないだろう。


この考えだと、罪をもっと犯せば、それだけ愛してくださる、ということになる。


罪の完全肯定になる。ここまで極端に考える人はいない。


 だが、「罪を犯しているけど、神は愛して下さるのだ」と考える人は大勢いるのではないか。


教会の説教でもこういう言葉を聞くことがある。だが、ここには巧妙に隠されたサタンの罠がある。


 こうした言葉によって、またこうしたことを「これはいいや」と安易に受け入れてしまうことで、本心のレベルで罪が肯定されてしまうのだ。


結局、「わたしが罪を犯しても、神は愛して下さるから、今のままでいいんだ」ということになってしまう。


つまり、罪を悔い改め罪を捨てて、新しく神に従って行く、という生活の変化が、この理解だとまったく起こらない。


罪は容認される。罪は別に犯してもいい。


罪を犯しても、神の愛があるから大丈夫だ。こうして、罪を悔い改める必要はなくなる。罪を認識する必要もない。


 上の理解が、まるで恐ろしい伝染病かなにかのように日本の教会に広まっているのではないか。


罪を真剣に受け止めず、「神の愛があるから大丈夫」ということで、罪と向き合うことをしない。だから、主イエスの十字架のすばらしさ、ありがたさもよくわからなくなる。


 罪は、決して容認できないものなのだ。私たちはどんな小さな罪でも、抱えていたら天国に行けないのだ。


私たちはどんな小さな罪でも、それによって神の前に滅亡するのだ。罪によって、私たちは死という報いを受けなくてはならないのだ。


 だから、「罪を犯しているけど、神は愛して下さる」という形で、自分の罪を容認する理解を捨てるべきだ。


そうではなく、「罪を犯しているにもかかわらず、神は愛して下さる」という理解が正しいのだ。


 この理解では、罪は容認されていない。罪は否定されるべきものだ。


罪の恐ろしさを真っ向から受け止めて、それにもかかわらず神の愛が罪よりも勝っていることを信じるのである。これが本当の信仰なのだ。


 「罪を犯しているけど、神は愛してくださる」だと、私達の生き方や生活、日々の姿勢が変化することはない。現状は肯定され、容認される。


ところが、この「にもかかわらず」の理解だと、私たちは最終的には罪と同居することはできず、罪のすべてを捨て去って神の国へ行かなくてはならないことがふまえられている。


罪は憎むべき、死に値するものであることを認めつつ、なおキリストの愛に信頼する在り方である。


 この理解においては、私達の人生は罪との戦いなのである。


どこかで罪と休戦することはありえない。私たちは神のもとに召されるまで、罪と抗争を続ける。


罪を犯して、神の愛を信じて悔い改めて、立ち上がってまた歩み、また罪を犯し、しかし立ち返り、という戦いを続ける。


こうしたなかで、私達の人生全体がいよいよ善きものとされ、聖なるものとされ、キリストの恵みを映し出すものとされていく。これがキリスト者の歩みなのだ。


 教会が停滞しており、力を失っているのは、罪を容認し、罪を肯定しているからではないだろうか。


これにより、すべてが現状維持に留まってしまっている。


私たちは生涯、罪と戦いを続けるべきなのだ。


 私たちは罪にもかかわらず、主イエス・キリストによって神に愛されている者なのだから。

 










教会の衰退について⑦ 「教会の衰退の主の十字架」

 海外のお墓に書かれるR.I.P.ってなに?スラングの意味も紹介!|終活ねっとのお墓探し


 

前回までの記事は特に旧約の歴史に視点をフォーカスした。

 

新約の視点から、現代の教会史的状況を顧みることも可能だし、おおいに意味があることだ。

 

楽観的予測としては、大規模な罪の自覚や悔い改めがなされて、教派・教団としての滅びが延期されるか、

 

これまでの路線とは異なる信仰的な歴史ステージが形成され、現代の「バビロン捕囚」が回避される、ということもあるかもしれない。

 

「バビロン捕囚はあくまで旧約でのことで、新約にはそれに該当するものはない」という反論もありうる。

 

ところで、ユダの人々はバビロン捕囚を味わうことで、70年の歳月が流れたあと、イスラエルの地に戻ってきて、「第二神殿」での礼拝を中心として国を再興した。

 

つまり、「滅びを通して復活」に至ったことになる。

 

このことから、「バビロン捕囚と帰還、国の再興」は新約においては主イエス・キリストの「十字架と復活」の予型であると解釈することができる。

 

主イエスが十字架につけられたことが「バビロン捕囚による滅び」であり、復活されたことが「帰還と民の再興」を意味している。

 

主イエスにおいて、旧約の「バビロン捕囚と帰還」は、「十字架と復活」という形で「完成・成就」を見た、と言える。

 

それでは、両者の間にはなんらかの差異があるのだろうか。

 

主イエスが旧約の成就であるとするなら、主イエスの十字架と復活は「バビロン捕囚と帰還」以上のものだと考えなくてはならない。

 

旧約の限界を、主イエスはどのように乗り越えてくださっているのか。

 

いくつかの点を挙げてみたい。

 

1 バビロン捕囚では「民」が滅びたが、主イエスは「ご自分」に滅びを担われた。

 

主イエスは罪の結果である「滅び」をご自身に引き受けられ、これを自らの死をもって克服された。主イエスは教会が滅びることがないように、ご自分がその滅びを代理として担われた。

 

2 バビロン捕囚から帰還までは「70年」だが、主イエスは「3日目」で復活された。

 

バビロン捕囚から第二神殿の再建、イスラエルの民の再興までも視野に入れると、70年以上の月日が経過している。

 

しかし、主イエスは三日目に復活された。このことの意味は主イエスによる「ご自分の身体」の復活は、バビロン捕囚からの帰還を圧倒的に凌駕したものであり、

 

主イエスは御心なら教会をそれほどの力でよみがえらせることができる力をお持ちであることを示している(と解釈できる)。

 

3 帰還による民の再興にはなお「政治的敗北」が伴ったが、主イエスは復活において「霊的な勝利者」であられる。

 

イスラエルの民は第二神殿を再興したのちも、マカベア戦争などをへて結局のところ「ローマ帝国への隷属」という状況となり、政治的には支配下におかれる厳しさは変わらなかった。

 

しかし主イエスは復活において人間の原罪と悪魔に勝利され、そのようなお方として世界中で宣べ伝えられ、国境を越えて神の民が形成されていった。

 

他にもいろいろあるだろうが、とにかく主イエスの十字架と復活は「バビロン捕囚と帰還」以上の、それを完成・成就の域にもたらした御業である、ということだ。

 

つまり、主イエスを信じる教会には、イスラエルの民にまさるイエス・キリストという希望があると考えるべきであるのが、新約聖書から導かれる結論だろう。

 

以上の点から、「教会の衰退」について描くと以下のようなことが言いうるのではないかと思われる。

 

1 教会は衰退しているが、その理由は「旧約の成就者イエス・キリストへの不信仰」であり、それは偶像崇拝以上に深刻なものだが、それでもなお主イエスの愛により担われているものである。

 

「自分たちの罪を真剣に受けとめるなら、本当はもっともっと衰退していて当然である」のが、主イエスによって食い止められていると考えるべき。

 

そのような状態に甘んじている私たちであることを主の御前に恥じて、主に立ち返ることが求められている。

 

2 教会は衰退しているが、自らの罪を深刻に受け止め、悔い改めて主イエスに立ち返るなら、旧約の民以上の仕方において、「回復・更新」される望みがある。

 

キリストは旧約の成就者であるから、旧約を超える形において教会をお救いくださる可能性に溢れている。

 

3 教会は衰退しているが、相対的に「衰退していない教会や教派」も存在しており、そういった教会や教派が主イエスへの真実と愛を貫くことで、そちらの方に歴史的なバトンが受け渡され、キリスト教の「主流派」として神の民を形成していくことも十分に考えられる。

 

パウロや使徒たちが伝道した多くの教会は現代では存在していないが、その信仰的遺産が他の教会、教派に受け継がれているように、特定の教会・教派が滅びても、主イエスを信じる民全体が滅びることはありえない。

 

ある教派に本当の「真理」があるなら、その教派が真理を忘却して滅びるとき、その真理は他教派・他の教会が継承して次の時代を、新たな地域において築くのだ。

 

以上の点が、旧約的視点をふまえて、新約にまで視野を広げたときに言えることであると思われる。

 

結局のところ、問われているのは、「わたしやあなた」なのだ。

 

「どこかの教会」や「どこかの牧師」のことではない。

 

「わたしやあなた」が本当にイエス・キリストを信じるなら、教会の衰退など恐れる理由はただの一つもない。

 

「わたしやあなた」が悔い改めることが、主イエスの御心なのだ。

 

「教会の衰退」とは、「他の誰か」のことではなく、「わたしやあなた」の主イエスへの信仰や献身の衰退であり、そこが「わたし自身の課題」として向き合う絶対的に重要な点であることを覚えたい。



教会の衰退について⑥ 「偶像崇拝」と現代の教会

 海外のお墓に書かれるR.I.P.ってなに?スラングの意味も紹介!|終活ねっとのお墓探し



「バビロン捕囚」の神学的意味を考えてみたいと思う。

 

バビロン捕囚が起こったのは、イスラエルの民の「偶像崇拝」の罪による。

 

当時の偶像崇拝とは周辺諸国のバアルやアシェラ、アシュトレトなど他国の神々のシンボルとなる像を拝み、その神々に基づく生き方をすることだ。

 

偶像崇拝の罪については非常に奥深いものがあるが、その重要な一つの面として、「他国の」神々ということがある。

 

イスラエルには「アブラハム、イサク、ヤコブの神」がおられるのだが、その神の支配を忘れるか、無視するかして、「他国の神々」に心を向けていくことが、偶像崇拝の本質の一つだ。

 

特にイスラエルで問題となったものに「バアル崇拝」があるわけだが、そのバアルというのは「豊穣神」であり、天候とそれによる農作物の収穫をつかさどる神で、「経済的豊かさ」のシンボルであったと言える。

 

こういった他国の神々にイスラエルが心を向けるということの背景は、「自分たちを統治してくださっている神だけでは無力であるから、他の国の神々の力にもより頼まなくてはならない」という考えがあったであろう。

 

「イスラエルの神」と「他の神々」との間の関係性として、いくつかの段階がありうる。

 

1 イスラエルの神のみ信じる。

 

いわゆる「唯一神信仰」であり、最も純粋なもの。

 

2 イスラエルの神に、他の神々を「補足・補充」として信じる。

 

これはリチャード・ニーバーの類型だと、「イスラエルの神を最高神として他の神々をその従属とする一神教」と言える。

 

 唯一の神への信仰の徹底性に「翳り」「妥協」が生じている。

 

3 イスラエルの神と、他の神々を「並列・同列」として信じる。

 

これはニーバーの類型では「多神教」であって、「イスラエルの神も信じるが、他の神々も同じくらい力あるものとして信じる」ということになる。

 

以上の3類型に基づくと、「1」以外はすべて、聖書の預言者的信仰的においては「偶像崇拝の罪」として排撃されていると思われる。

 

つまり、信仰がフェーズ「1」から微妙な妥協と歴史的圧力のなかで「3」の方向へとグラデーションを描きながら堕落していくことの全体が、「偶像崇拝」の罪と言える。

 

そして、その段階はそのまま、「イスラエルの民のアイデンティティの喪失」と同義であり、「自分たちの存在根拠を否定して、他国のアイデンティティに乗り換える」ことだと言える。

 

ところで、現代においても同じことが起こってはいないだろうか。

 

私たちも、旧新約聖書つまり使徒と預言者のアイデンティティや「聖書」という正典テキストではなく、それら「以外」の「他分野」「他領域」「他のテキスト」をアイデンティティの根拠としていないだろうか。

 

私たちは教会で、何を根拠に、誰を信じているのだろうか。

 

ここで問いたいのは「表面上」「教会的・教理的建前」のことではなく、「深層意識」レベルの「本心」のことだ。

 

私たちは魂の底から、本当に「三位一体の神」を信じているのか。

 

それとも、それはひとつの「教会的・教理的建前」であって、「深層」のレベルでは「豊かさ」や「権力」、「自分の自我」などを「神々」として、信じているのではないだろうか。

 

「自分のポリシー」や「自分の権利」や「自分の業績」、「自分の知識や経験」という「他国の神々」が信仰上の「本音」になってはいないだろうか。

 

私たちは「聖書」と「教会の伝統」という一次的・二次的テキストにおいて教会形成をしているのか、それとも「自分の人生訓・経験則」や「個人的価値観」という、遥かにそれ以下の私的テキストによって教会形成をしているのか。

 

「建前」がはがれ落ちたところで、そういった「本音」が教会と自分の意識を支配して、自分でも制御不能になってしまうところはないだろうか。

 

今生きている神の民の「すべて」がこのような「他国の霊的支配」に隷属している状態であるなら、もはや私たちにとって「バビロン捕囚」は不可避であり、滅びる以外にないのは明らかだ。

 

むしろ、私たちが滅びることの方が、神の正義にかなっているとさえ、言えるだろう。

 

それはもはや、聖書的意味においては「信仰」ではなく、「偶像崇拝」だからだ。

 

そこには良心に根差した「神へのまこと」がもはや、存在していない。

 

しかし、神がエリヤに告げられたように、「バアルに膝をかがめなかった」人々、「三位一体の神」を徹底して信じる人々がたとえ少数でも残っている限り、なお希望は残されている。

 

そういった「魂の深層から、本気・本音で信じている」人々が、やがて新しい時代を築くための「切り株」となり、「聖なる種子」(イザヤ6:13)となるだろう。

 

ただ、その希望が実現するのは生易しいことではない。

 

耐え難い苦難と歴史的不信仰の重圧のなかを、祈って神に信頼し続けた民が新しい復活の時代、「捕囚後の時代」に到達することになるだろう。


教会の衰退について⑤ 「バビロン捕囚」と現代の教会

 海外のお墓に書かれるR.I.P.ってなに?スラングの意味も紹介!|終活ねっとのお墓探し



教会の衰退について考えるとき、聖書が示しているヒントを取り上げて熟考することは最も重要な課題だ。

 

聖書のなかに「教会の衰退」を明らかに描いている箇所は、いくつかあると思われる。

 

そのなかでも最も象徴的かつ絶大な意味を持つのは、旧約においては「バビロン捕囚」であろう。

 

旧約の歴史はその多くの記述が、バビロン捕囚をどう解釈するか、という信仰的モチベーションによって導かれている。

 

バビロン捕囚は南王国ユダの滅びであり、「神が選ばれた民の滅亡」として、信仰的に「あってはならないこと」であり、「解釈が最も困難な歴史的出来事」でもあった。

 

バビロン捕囚に至った理由については、特に歴代の王たちの「偶像崇拝」の罪が原因として指摘されている。

 

このバビロン捕囚を、「教会の衰退」の最終形態である「旧約的シンボル」と考えると、いろいろな現代の教会のことを考えるうえで、多くのヒントが与えられるし、不可避の課題であると言える。

 

神の民が「罪を犯し、その罪を自覚することもなく、また悔い改めることもない」といった状況に陥ったときのことを考えてみよう。

 

そのとき、神はどのようにその民を導かれるだろうか。

 

第一段階 御言葉をもって警告される。

 

預言者が派遣され、罪の認識と悔い改めをするようにとの警告がなされる。

 

第二段階 罪の自覚と悔い改めをもたらすような苦難が与えられ、その苦しみによって警告される。

 

歴代の王たちが外敵におびやかされたり、病気になったりなどの苦難を与えることで、罪の自覚と悔い改めをうながす。

 

第三段階 滅びを通して救いに至らせる。

 

これが究極だが、滅びに至らせることによってかえって新しい世代が復活できるようにされる。

 

バビロン捕囚は、第一段階、第二段階も功を奏さず、第三段階に至ったものとして、考えることができる。

 

もちろん、こういったすべてが「神の計画だった」ということはできるが、だからといって人間の罪を無視したり、軽んじることはできない。

 

また、人間の責任が免除されるわけでもありえない。

 

バビロン捕囚は、あくまでも神の誠実さや力の不足ではなく、イスラエルの民の罪の結果なのだ。

 

ところで、私たちの時代の教会においては、どのような状況にあるのだろうか。

 

少なくとも、「教会が衰退している」という現象を深刻にとらえるなら、「第一段階・第二段階」はすでに起こっているのではないかと思われる。

 

御言葉による警告、神からの苦しみによる警告の「しるし」は、日本の教会の随所に顕現しているのではないだろうか。

 

「神の裁きのしるし」として解釈しなくてはならないようなことが、現実に多く示されているのではないか。

 

最近、教会関係のニュースには心を暗くされるものが多く、本当に気が滅入るものがある。

 

教会ばかりか、その関係施設や学校法人などに至るまで、「感動の証し」「励まされる証し」「希望がもてる証し」になるようなニュースの聞こえてくる頻度は、恐ろしく低い。

 

たまにそういった話題があったかと思うと、その多くが海外での話だ。

 

つまりさきほど描いた大枠のフェーズとしては、これから「第一段階・第二段階の複合・頻発」の段階を経て、「第三段階」に至るのではないかという予測が成り立つ。

 

つまり、「バビロン捕囚」をなんらかの意味で連想させるような、滅びを予感するような「なにか」が起こる手前の歴史的段階にあるのではないかと思われる。

 

これはごく現実主義的・悲観主義的な見方かもしれないが、旧約の歴史に照らすと、このような歴史解釈も可能ではないか。

 

私たちは罪の自覚と悔い改めを通して、つまりユダの「ヒゼキヤ」や「ヨシヤ」がなしたような大規模な改革により、新たな時代を築くことができるのか。

 

それとも、彼らと同じように、改革の熱情によって抵抗しながらも、人間の原罪の力のあまりの強さのゆえに、最善を尽くしてもバビロン捕囚は不可避であるのか。

 

主イエス・キリストが来られた今、別の道もまた、ありうるのか。

 

ユダの民と「同じ轍」を踏まないような「生命の道」が、イエス・キリストの救いにより可能となるのか。

 

どちらにしても、今私たちは教会史における大きな節目になる瀬戸際に置かれているのではないかと胸騒ぎと不安を覚えると共に神に、「憐れみ給え、救い給え」と祈らざるをえない。



教会の衰退について④ 神の報いは「ごく小さな事への忠実さ」で決まる

 海外のお墓に書かれるR.I.P.ってなに?スラングの意味も紹介!|終活ねっとのお墓探し


教会が衰退しているのは、聖化の歩みにおいて神からのより大きな報いを受けるべく、神の命令に従うことにおいて熱心ではなくなっているからだ、ということについて描いてきた。

 

聖化における「報い」とは、「10の町の支配権」といった主イエスの「ムナのたとえ」の言葉に象徴されるような、「キリスト者・教会としての霊的影響力・影響範囲」といったものと、まずは考えることができる。

 

このような影響が拡大することは、「より多くの管理責任を主イエスから委ねられる」ことであり、「そこから生じる実りを享受できる」ことをも含んでいると言える。

 

キリスト者・教会としての霊的影響力が増大すれば、受洗者も起こされ、ひとりひとりが霊的に成長してその証しもより広範な影響を及ぼすようになり、教会としてのあらゆる意味での地盤は確固たるものになっていく。

 

「教会の衰退」とは、以上のような「キリスト者・教会としての霊的影響力」が衰退することである、と概括して言うことができるだろう。

 

キリスト者・教会としての聖化への歩みはもちろん、聖霊なる神の御業であり、神の命令に従う力を神ご自身から与えられないなら、聖化の道に進むことなど、最初からできはしない。

 

聖化の停滞・衰退が生じるということは、聖霊なる神の御業には不足や誤りがあるはずがない以上、人間側のなんらかの課題に信仰的原因を想定せざるをえない。

 

聖霊なる神の御業がなされているのに、私たちがそれに参与しない、怠慢である、もしくは聖霊の導きに逆らうようななんらかの罪を犯しているから、

 

もしくは罪を犯しながらそれに気づいていないから、気づいても悔い改めないから、聖霊の御業を私たちが妨げることで、停滞・衰退は起こるのだ。

 

「ムナのたとえ」(ルカ19:11-27)をもう一度思い起こしてみよう。

 

同じ一ムナを与えられた者でありながら、なぜ人によってそれが「10ムナ」になり、また「5ムナ」となるのか。

 

「主人」の言葉を見ると、「10ムナ」の者には、こう言っている。

 

「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」

 

「5ムナ」の者には主人はこういわれている。

 

「お前は五つの町を治めよ」

 

10と5の間には、主人の言葉に「違い」があることがわかる。

 

「ごく小さな事に忠実だったかどうか」ということが、その違いとして記されている。

 

私たちに預けられているのは、神の「1ムナ」という互いに違いのない、「義認の恵み」だ。

 

同じ義認の恵みを受けていても、その後の歩みにおいて「ごく小さな事においても、イエス・キリストに忠実に生きたか、どうか」という点では、大きな差異が生じてくる、ということだ。

 

これを敷衍して解釈すると、私たちの毎日は「イエス・キリストへの忠実さ」をテストされている日々だ、ということであろう。

 

私たちの毎日は「ごく小さな事」の果てしない積み重ねから成り立っている。

 

それらすべての小さな事に取り組むことにおいて、「イエス・キリストへの忠実さを示しているのか」を主イエスご自身がご覧になっている、ということだ。

 

一例として「祈り」をあげてみよう。

 

一日のなかに、心を神に向けて「祈ることができる時間」はかなりあるように思われる。

 

かなり多くの「隙間となる」時間があるし、朝・昼・夜にそれぞれ、祈ることができる時間は各自に与えられている。

 

そういった祈ることができる時間が与えられているのは、「ごく小さな事」であるが、その時間をどの程度神のために使っているか、主イエスはご覧になっている。

 

ごく小さな時間でも、聖化の歩みをするために使っている人は、結果的により大きな霊的影響力を主イエスからいただくようになる。

 

しかし、「まあ、こんな短い時間では、祈っても祈らなくても、たいした違いはないだろう」と日々考えて、祈りを延期しながら歩むなら、

 

そのままの状態で数年、数十年が経過するときには、「祈りが可能だった膨大な時間を祈らずに過ごした」ことになるだろう。

 

これは生活の「すべて」について言えることだ。

 

聖書の黙想、教会での奉仕、献金など、すべてにおいて私たちは「ごく小さな事に忠実であるかどうか」を主イエスによって毎日試みられているのだ。

 

時に痛みを覚えながらも、主イエスに対して、ごく小さな事に忠実であろうと生きた人は、

 

主イエスからそれにふさわしいだけの霊的影響力を託され、それを行使してより大きな神の栄光を求める歩みが可能となる、ということだ。

 

教会が衰退しているというとき、私たちに問われているのは、「神のための大事業をしているかどうか」ではない。

 

そもそも、「神のための大事業」も、細分化すれば「ごく小さなことの積み重ね」にほかならないのだ。

 

「毎日のごく小さな事において、主イエスに対して忠実であるかどうか」ということの程度により、私たちがキリスト者・教会としてどれほど霊的に成長し、影響力を主イエスから託されるかどうかが、決まる。

 

もし教会がおおいに衰退しているとするなら、それはごく小さな事に対する忠実さがおおいに衰退しているということを示す、霊的事実が顕現した「しるし」であるということだ。

 

主イエスの御元に立ち戻り、これまでのすべての不忠実の罪を告白して

 

「ごく小さな事に忠実である、善き僕」へと造り変えて頂くよう、主イエスに嘆願していこう。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

人気の投稿

☆神学者・テーマ一覧