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オープン神論について その神学的「是非」

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「オープン神論」という議論があることについて、最近知った。

 

SNSでつながっている方から、「オープン神論についても論じてください」と依頼されたので、ネットで調べてみた。


山崎ランサム和彦という先生のブログに非常にわかりやすくまとまっているので、「オープン神論」で検索して読んで頂きたい。

 

まだ勉強不足であるため、以下の論述には不十分なところが多々あるかと思うが、お許しいただきたい。

 

「オープン神論」というのは、私が理解したところでは、「歴史のすべての事象は神によってまったく決定されている(聖定論)」とするカルヴァン主義的信仰理解と、

 

「歴史のすべては人間の選択によって起こるもので、神は人間をサポートはするが、出来事の生起を強制したりはしないし、支配もしない」とするプロセス神学的理解との、折衷案であると思う。

 

つまり、「歴史は神によって、救済史の大枠のフレームワークは決定されているが、部分的には人間の選択によって変更できる可変的なものである」ということだ。

 

オープン神論では、人間と神との関係性は、固定的なものではなく、人間の側の態度や選択によって、神の側も柔軟にご自分の態度を変えるものである、とする。

 

たとえば、ある人が祈らなかったときと、熱心に祈ったときでは、神の側に態度の変化がある、という理解だ。

 

大きな救いの枠組みは変わらなくても、将来における歴史的ディティールについては人間の態度如何にかかっており、神はそこまでは決定してはおられず、人間の自由意志の可能性に任せておられる、ということだろう。

 

この考え方について、もう少し掘り下げて考えてみたい。

 

このオープン神論は、教義学的にはどこの部分で扱うのか、という主題的な位置によって大きく議論も異なって来る。


これを是とするか、非とするかも、その教義学的位置に大きく左右される。

 

「救済論」の枠でオープン神論を考えた場合は、どうだろう。

 

これは、明らかにペラギウス主義であって、「自己救済・自己義認・行為義認」以外のなにものでもないと感じる。

 

つまり、人間の自由意志の選択によって、神がそれまでの態度を変えて人間をお救いになる、ということなら、結局のところ救いは「人間の自由意志の選択に基づく」ということになる。

 

であるなら、「恵みのみによる救い」という宗教改革の根本原理と抵触してしまう。完全な自己救済のペラギウス主義になってしまう。

 

「創造論」の枠ではどうか。

 

「創造・原罪・摂理」の枠内でも、人間の自由意志によって神が態度を変えるというロジックは、創造論から救済論に接続されることを考えると、これもペラギウス主義になる。

 

つまり、罪人が自らの選択によって、救済の領域に入ることができる、という論理になってしまい、「恵みのみの救い」が消えてなくなる。

 

残るは、「聖化論」や「終末論」の領域だ。もし、「オープン神論」になんらかの可能性があるとするなら、ここにしかないと思う。

 

ルドルフ・ボーレンが「神律的相互関係」という概念を提唱したが、人間が神の協力者・神の計画への参与者として、聖霊を宿して神の業に従事する、という聖霊論・聖化論・教会論・終末論などの枠のなかに、オープン神論の余地を求めるとするなら、ありうるだろう。

 

人間と神との契約的応答関係を考えると、神はご自身の「契約」に基づいて人間を扱われる。


人間が悔い改めて契約に立ち返ることで、神が態度を変更して歴史的結果が変わって来る、ということは聖書の色々なところに出てくるので、一つの読み方として可能であると思う。

 

将来の可能性が救済史のディティールの部分においては、聖霊を宿した人間の自由意志の選択によって、つまり祈り、努力や犠牲を担う意志によって変わりうる、ということであるなら、これを受け入れるとしても、拒否するとしても、「アディア・フォラ(どちらでもよい)」の領域ではないかと思う。

 

つまり、前掲のブログで思慮深く指摘されているように、この点をもって批判し合い、教会が割れることを辞さないほどの神学的重要性を担うものではない、ということだ。

 

この点については、「カルビニズム」と「メソジスト」の違いに非常によく似ている。

 

つまり、「すべてを神の決定」に帰する前者と、人間の自由意志の可能性を認めて、「キリスト者の完全」を掲げる後者の違いだ。

 

カルビニズムとメソジストは、今でもお互い立場が違うとわかっていても、敬意をもって兄弟姉妹として受け入れ合っているが、それと同じことで、この違いについて互いに攻撃し合う必要はないし、この理解をもって「救い」が揺らぐこともありえない。

 

ただ、カルビニズムの神学に養われた私としては、このコンセプトには、実践的に困難な点があると感じられることについては、指摘しておきたい。

 

それは、人間の自由意志の選択の力をかなりの程度認めていくと、「功績とプライド」という危険がつきまとうのを、避けることが難しいことだ。

 

たとえば、ある牧師や信徒が、教会のなかで特別に祈り深く、行動力に満ちているとして、その個人の大きな努力と犠牲によって教会や伝道が大いに前進した、ということが多くの人の目に、現象面で明白である事実があるとしよう。

 

そういった場合、「自由意志の選択の力」に神学的に意味を認めていくほどに、その牧師や信徒が「自分のおかげでこういった前進が起こった」と考えたり、自ら言ったり、周囲の人がそう言ったりすることについて、「確かにそうだから、それでいい」ということになるのではないか。

 

すると、教会のなかで「功績のある者」と「功績が少ない者」、「より聖霊に満たされている者」と「それほどではない者」という人間的・霊的な「序列」が出てくることを認めることになってしまわないだろうか。

 

「すべての栄光を主に返す」ことが実践的に難しくなるのではないか。「功績とプライド」の罪に対する抵抗力を失わせてしまうのではないか。

 

カルヴァンやルターが「自由意志」ということについて、神経過敏なほどの論陣を張ったのは、「霊的功績」といった当時のカトリック神学的観念との戦いの必要性を実感していたからだ。


改革者は、「善い行い」さえも、「神からの恵み」であるとした。原罪が残っているため、私たちの行いもまた、絶えざる神の赦しが必要であるとした。

 

オープン神論は、聖霊論の「善い行い」といった側面で「霊的功績」を許容する信仰理解への端緒を開いてしまう懸念がある、という意味で、私自身はこうした理解は、自分の神学や信仰のなかに取り入れるつもりは、今のところない。

 

ただ、これを積極的に取り入れている方があっても、まったくオーケーだと思うし、教派的伝統も考慮するなら、メソジスト的地盤において、今後新しい可能性の開花があるかもしれない。

 

おそらく、各人の養われてきた信仰的伝統と人格的特性などによって、決まる部分が大きいのではないかと感じる。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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