牧師の辞任・転任について、特にキリストとの関係に関わることを書いてみたい。
以下の文章に「個人攻撃」の意図はないが、いろいろと「尖った」表現があるため、この文章で心を傷つけた方がいたら、すみませんでした、とまず申し上げておきたい。
ただ、「毒にも薬にもならない」ことを書いても無意味なので、私の「本音」を書こうと思う。
牧師をはじめ、キリスト者は「聖化」の歩みをするもので、終末の「最後の審判」に向けて、聖霊によって清められる過程を歩んでいる。
そのプロセスには終わりがないし、もちろん一進一退のような遅々としたものであることは、罪人である私たちがみな共通に経験しているところだ。
そして、「聖化」とは「キリストの性質を体現していくこと」、「キリストに似ていくこと」と考えることができる。
こういった観点からすると、牧師の辞任・転任が「なんらかの形で、キリストの性質に似ているものである」ということは、非常に重要な条件ではないだろうか。
牧師自身が「聖化」の道を進んでいるとするなら、その道にさらに深く進むことができるような道でないなら、それは神の御心に合致していないと思われる。
つまり、世俗的な意味での「ご栄転」に当たるような辞任・転任は、神にとっても教会にとっても、好ましいものとは思えないのではないか。
キリストはフィリピの信徒への手紙が描くように、神の子でありながら、人間の肉をとり、へりくだって十字架の死に至るまで従順であったお方である。
そして、このお方は私たちを罪と死である地獄から救うために、自ら十字架にかかるために、地上に降られたのだ。
以上のようなキリストの「ケノーシス(謙卑)」「十字架を背負う」性質が、どのような点でもほとんど見られないような辞任・転任は、私自身は非常に残念に思うし、意気阻喪させられるところだ。
平たく言うとその辞任・転任に際して、牧師自身がその任地に行くのを想像したとき、人間的な意味での「楽しみ・喜び」と「苦痛・悲しみ」を天秤にかけると、前者の方が後者よりもずっと重くなるような辞任・転任というのは、私自身はキリストの性格を反映していないのではないかと思う。
牧師が現任地を離れ、次なる任地のことを考えたとき、全部ではないにしろ、その転任のなかに苦痛や悲しみが存在するが、それでも御心を求めて祈っていったときに神から行くようにという強い促しを覚えて、十字架を担う覚悟で辞任・転任する、というのが「キリスト的」なのではないかと思われる。
「今の任地を離れられるので、解放感でいっぱいだ」、「次の任地に行くのが楽しみで、ワクワクする」、「転任したあと、牧師に笑顔が増えた」、「転任したら牧師が生き生きとしている」というような辞任・転任は、私には正直、非常に疑わしいものだ。
もちろん、こういった「楽しみ」の要素がまったくないというのも、それはそれで問題だと言わざるをえない。
神は私たちの喜びを尊重してくださるお方であり、新しい任地に行くときにそこでなされる神の新しい業への期待と楽しみがあるというのは当然だろう。
それがないなら、まったく非人間的なことになってしまう。「牧師は霞を食っていればいい」という意識が教会にあるなら、それはまた別の問題として問われることだ。
ここで私は「謝儀が少なくなる教会に、あえて赴任せよ」などということを言っているのでも、もちろんない。
そんなことは特に、家族がいる牧師には現実的ではないだろうし、「お金」だけに「キリスト的」である性格を求めるというのは、一面的過ぎる理解だ。
むしろ、「赴任する教会の状況をトータルに考えたとき、自分にとってそれは第一義的に十字架なのか、楽しみなのどうか」ということが問われるのではないかと思われる。
一方、逆のタイプのより深刻なケースが存在する。
つまり、「今置かれている教会が自分にとって居心地がよいために、召しと教会の状況が不一致となり、教会にとっても牧師の働きがマイナスの影響をしており、牧師自身が聖化の歩みをするうえでも安逸と自己満足の退歩が増え広がっており、さらに辞任・転任を周囲の人や状況から求められているのに、その任地にしがみつく」ような事例だ。
これほど、「キリスト的」でないものは、ほかにないだろう。自分の十字架を振り捨てることにほかならない。
これは「牧師の世俗化への転落」の事例として最も深刻なものであり、教会の病巣そのものであると感じる。
教会が宗教法人上独立しているような教派のような場合は、こういった教会に他の団体や個人が働きかけると、「内政干渉」ということになるため、対処が困難を極める。
「行き付くところまで行く」しかないような、果てしなく深刻な事例となりうるものだ。
こういった事例が増えれば増えるほど、教会は世俗化の危機に直面して死の苦痛を覚えることになる。
牧師自身が、教会や神学校で教育されている段階で「キリスト的とは、どういうことか」という認識を、どこまで聖書から身につけているか、他の指導者から叩き込まれているか、ということが、結局最にものを言うのではないかと思われる。
最後に言わずもがなだが、「大原則」に触れておきたい。
「最後の審判」をまったく忘れているような人事というのは、いろいろな意味で非常に大きな問題ではないか、ということだ。
辞任・転任する牧師は、もしくは任地に留まろうとする牧師は最後の審判のとき、当然その「動機」を神から問われることになる。
「あなたはなぜあのとき、そこを離れたのか」
「あなたはなぜ、離れなかったのか」
現実にこのように問われたとき、良心に照らして「本音」の部分で「キリスト的」な答えができないようなことはしてはならない、というのが、辞任・転任についての「大原則」ではないかと思われる。
「あのとき転任したのは、その任地が自分にとって不満足かつ退屈なもので、もっと富や若者や可能性に溢れた、楽しいところに行きたかったからです」
「あのとき転任したのは、大教会の牧師になってみたかったからです。そうすれば地位もあり、お金の心配もなくなり、影響力も行使できるからです」
「あのとき転任しなかったのは、あの任地が居心地がよく、他に経済的にも人間関係的にもよい場所がなかったからです」
「本音」の部分が以上のような答えでは、神が「よくやった、忠実な僕よ」と言われる可能性は、ほぼゼロであると言わざるをえないのではないか。
動機が「キリスト的」ではないからだ。
辞任・転任に際して「キリスト的」にこれがなされる事例がどれほどあるか、というのが、おそらくその「教派・教団」の信仰的実力と、世俗化にどれほど有効に抵抗しているかの水準を示しているのではないかと思われる。
※以上、ずけずけと本音を書かせていただいたが、傷ついた方がいましたら、申し訳ありませんでした。
ただ、この内容がもしなんらかの「真理」を含んでいる部分があると感じられれば、その点については受けとめて頂ければ幸いである。