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牧師の辞任・転任について④ 「キリスト的」な辞任・転任とは

 換來的十字架- tinikuan 部落格- udn部落格


牧師の辞任・転任について、特にキリストとの関係に関わることを書いてみたい。

 

以下の文章に「個人攻撃」の意図はないが、いろいろと「尖った」表現があるため、この文章で心を傷つけた方がいたら、すみませんでした、とまず申し上げておきたい。

 

ただ、「毒にも薬にもならない」ことを書いても無意味なので、私の「本音」を書こうと思う。

 

牧師をはじめ、キリスト者は「聖化」の歩みをするもので、終末の「最後の審判」に向けて、聖霊によって清められる過程を歩んでいる。

 

そのプロセスには終わりがないし、もちろん一進一退のような遅々としたものであることは、罪人である私たちがみな共通に経験しているところだ。

 

そして、「聖化」とは「キリストの性質を体現していくこと」、「キリストに似ていくこと」と考えることができる。

 

こういった観点からすると、牧師の辞任・転任が「なんらかの形で、キリストの性質に似ているものである」ということは、非常に重要な条件ではないだろうか。

 

牧師自身が「聖化」の道を進んでいるとするなら、その道にさらに深く進むことができるような道でないなら、それは神の御心に合致していないと思われる。

 

つまり、世俗的な意味での「ご栄転」に当たるような辞任・転任は、神にとっても教会にとっても、好ましいものとは思えないのではないか。

 

キリストはフィリピの信徒への手紙が描くように、神の子でありながら、人間の肉をとり、へりくだって十字架の死に至るまで従順であったお方である。

 

そして、このお方は私たちを罪と死である地獄から救うために、自ら十字架にかかるために、地上に降られたのだ。

 

以上のようなキリストの「ケノーシス(謙卑)」「十字架を背負う」性質が、どのような点でもほとんど見られないような辞任・転任は、私自身は非常に残念に思うし、意気阻喪させられるところだ。

 

平たく言うとその辞任・転任に際して、牧師自身がその任地に行くのを想像したとき、人間的な意味での「楽しみ・喜び」と「苦痛・悲しみ」を天秤にかけると、前者の方が後者よりもずっと重くなるような辞任・転任というのは、私自身はキリストの性格を反映していないのではないかと思う。

 

牧師が現任地を離れ、次なる任地のことを考えたとき、全部ではないにしろ、その転任のなかに苦痛や悲しみが存在するが、それでも御心を求めて祈っていったときに神から行くようにという強い促しを覚えて、十字架を担う覚悟で辞任・転任する、というのが「キリスト的」なのではないかと思われる。

 

「今の任地を離れられるので、解放感でいっぱいだ」、「次の任地に行くのが楽しみで、ワクワクする」、「転任したあと、牧師に笑顔が増えた」、「転任したら牧師が生き生きとしている」というような辞任・転任は、私には正直、非常に疑わしいものだ。

 

もちろん、こういった「楽しみ」の要素がまったくないというのも、それはそれで問題だと言わざるをえない。

 

神は私たちの喜びを尊重してくださるお方であり、新しい任地に行くときにそこでなされる神の新しい業への期待と楽しみがあるというのは当然だろう。

 

それがないなら、まったく非人間的なことになってしまう。「牧師は霞を食っていればいい」という意識が教会にあるなら、それはまた別の問題として問われることだ。

 

ここで私は「謝儀が少なくなる教会に、あえて赴任せよ」などということを言っているのでも、もちろんない。

 

そんなことは特に、家族がいる牧師には現実的ではないだろうし、「お金」だけに「キリスト的」である性格を求めるというのは、一面的過ぎる理解だ。

 

むしろ、「赴任する教会の状況をトータルに考えたとき、自分にとってそれは第一義的に十字架なのか、楽しみなのどうか」ということが問われるのではないかと思われる。

 

一方、逆のタイプのより深刻なケースが存在する。

 

つまり、「今置かれている教会が自分にとって居心地がよいために、召しと教会の状況が不一致となり、教会にとっても牧師の働きがマイナスの影響をしており、牧師自身が聖化の歩みをするうえでも安逸と自己満足の退歩が増え広がっており、さらに辞任・転任を周囲の人や状況から求められているのに、その任地にしがみつく」ような事例だ。

 

これほど、「キリスト的」でないものは、ほかにないだろう。自分の十字架を振り捨てることにほかならない。

 

これは「牧師の世俗化への転落」の事例として最も深刻なものであり、教会の病巣そのものであると感じる。

 

教会が宗教法人上独立しているような教派のような場合は、こういった教会に他の団体や個人が働きかけると、「内政干渉」ということになるため、対処が困難を極める。

 

「行き付くところまで行く」しかないような、果てしなく深刻な事例となりうるものだ。

 

こういった事例が増えれば増えるほど、教会は世俗化の危機に直面して死の苦痛を覚えることになる。

 

牧師自身が、教会や神学校で教育されている段階で「キリスト的とは、どういうことか」という認識を、どこまで聖書から身につけているか、他の指導者から叩き込まれているか、ということが、結局最にものを言うのではないかと思われる。

 

最後に言わずもがなだが、「大原則」に触れておきたい。

 

「最後の審判」をまったく忘れているような人事というのは、いろいろな意味で非常に大きな問題ではないか、ということだ。

 

辞任・転任する牧師は、もしくは任地に留まろうとする牧師は最後の審判のとき、当然その「動機」を神から問われることになる。

 

「あなたはなぜあのとき、そこを離れたのか」

 

「あなたはなぜ、離れなかったのか」

 

現実にこのように問われたとき、良心に照らして「本音」の部分で「キリスト的」な答えができないようなことはしてはならない、というのが、辞任・転任についての「大原則」ではないかと思われる。

 

「あのとき転任したのは、その任地が自分にとって不満足かつ退屈なもので、もっと富や若者や可能性に溢れた、楽しいところに行きたかったからです」

 

「あのとき転任したのは、大教会の牧師になってみたかったからです。そうすれば地位もあり、お金の心配もなくなり、影響力も行使できるからです」

 

「あのとき転任しなかったのは、あの任地が居心地がよく、他に経済的にも人間関係的にもよい場所がなかったからです」

 

「本音」の部分が以上のような答えでは、神が「よくやった、忠実な僕よ」と言われる可能性は、ほぼゼロであると言わざるをえないのではないか。

 

動機が「キリスト的」ではないからだ。

 

辞任・転任に際して「キリスト的」にこれがなされる事例がどれほどあるか、というのが、おそらくその「教派・教団」の信仰的実力と、世俗化にどれほど有効に抵抗しているかの水準を示しているのではないかと思われる。

 

 

※以上、ずけずけと本音を書かせていただいたが、傷ついた方がいましたら、申し訳ありませんでした。

 

ただ、この内容がもしなんらかの「真理」を含んでいる部分があると感じられれば、その点については受けとめて頂ければ幸いである。

 


 


牧師の辞任・転任について③ 「課題としての招聘」

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これまで、二回の記事で牧師の辞任・転任についての信仰的意味などについて書いてきた。

 

今度は牧師を招聘する側の教会の課題を描きたい。

 

牧師を招聘する教会としては、どんな課題があるのだろうか。

 

牧師は神からのある程度以上に個性的な召しにあずかっており、その牧師が召しを自覚しているかどうかは、非常に大きな課題であって、これは多くの理解と考察を重ねなくてはならないだろう。

 

それは、また考えを深めてしばらく後に、促しを覚えたら書きたいと思う。

 

一方、牧師を受け入れる教会の側にも、大きな課題がある。

 

具体的には、ある教会の牧師が辞任・転任した場合、「どの牧師を次に招聘するか」ということになる。

 

これは、教会としては「招聘委員会」を立ち上げて、協議することになるだろう。

 

ただ、実際的には教会の信徒は、どこにどんな牧師がいるか、などという情報は、ほとんど持っていないことが多いため、信徒がこれを判断するというのは、非常に難しい。

 

「神学校に頼む」や、「前任者の推薦」、「教会として信頼関係を深めてきた牧会者に頼む」、「教派的グループに属しているなら、そこに頼む」などのルートがあるだろう。

 

どちらにしても、なんらかの牧師についての情報・伝統の資源を担っているところに、依頼することにはなるかもしれない。

 

しかし、教会としてはどうしても、招聘委員会で協議しなくてはならない課題があろうと思う。

 

それは、「今、教会はどんな歴史的状況に置かれているのか」を、聖書と信仰をもって語り合い、協議しながら見出していく、ということだ。

 

つまり、牧師は前の記事に書いたように、ある程度以上に個性的な召命にあずかっている者だとするなら、「どのような牧師を招聘するか」ということは、「今、教会はどんな歴史的状況を歩んでいるのか」という課題を見出すことなくしては、基本的にわからないままである、ということになる。

 

こうした教会の歴史的状況は、その外部にある、なんらかの団体には、実態としてはわかりようがない。

 

そこで、招聘する側の教会の最も大きな課題としては、「これまでの歴史の信仰的認識と、現状の課題の把握と、教会の歴史として今後なにが求められているのか」という事柄について、共同体として認識することだ。

 

もちろん、こんなことはそう簡単にはわかりもしないし、個人によってそれぞれ解釈も異なるに決まっている。

 

より悲観的な人もいれば、より楽観的な人もおり、異なる見解をそれぞれが担っている。

 

しかし少なくとも、教会としてこれまでの歩み、今後の教会の歩みを回顧・展望して、神によって置かれている状況について、各自が祈りをもって語り合いながら、理解を神に求めていく必要がある。

 

こうした作業が進められるなかで、「教会の今後を担う牧師」についての理解もまた、少しずつ示されてくるだろう。

 

その理解の積み重ねがある程度でもあり、これをふまえたうえで神学校やなんらかの団体や個人に人事を依頼することで、人事における度外れた失敗というものを避け、より建設的に教会の歴史を重ねていくことができるのではないか。

 

ところが、現実的な人事を見ると、こうしたところとは離れているところもあり、不安を抱かざるをえないものがある。

 

人事を行う神学校や団体も、各自の牧師の召しをどれほど認識しているかというと、心もとないばかりか、牧師自身もまた自らの召しについて自覚を深めていないことが多い(自分自身への自戒も込めて)。

 

現実には教会でも、その時点で置かれている状況を信仰的に解釈できるほど、信徒が育っていないことの方が、ずっと多い。

 

実際上は、人事を依頼する教会も、これを受ける牧師も、牧師を推薦するなんらかの団体も、それぞれが召命や状況についての認識が不十分なままで、「えい、やあ! 後は委ねよう」というところで、人事しているのが、現状なのではないかと思われる。

 

もちろん、人事をしてくださっている方々は、本当に厳しい時間的余裕や数々の条件のすり合わせのなかで、祈りと配慮をもってされており、本当に心労ばかりが重なるような辛さがおありであろうし、その人事が失敗したとなれば責められたりもしなくてはならず、心が休まる時もないであろう。

 

本当にお疲れ様です、ありがとうございます、としか言いようがない。

 

より深刻かつ根本の課題としては、「教会の歴史的状況にふさわしい召しを担っている牧師を求めているのに、牧師が不足していて、そういった人がどこにも見当たらない。仮にいたとしても、職務を離れようとはしない」、ということだ。

 

こういった事例は、ほとんどいま日本中にあふれており、植村正久牧師が語ったような教会にとっての「慕わしい牧師」がどんどん減っている悲しい現実がある。

 

先人に多くみられたような、キリストと教会にすべてを捧げたような筋金入りの牧師は、今どんどん天国に移されている。

 

にもかかわらず、若い牧師の献身者は減り続け、教会も神学校も苦労と心労ばかりが増えていく。

 

「召命」の「正論」についてこれまで書こうとしてきたが、ここで大いなる「躓きの石」に出会うのだ。

 

「理想としては、神学的正しさではそうかもしれないが、現実はまったく違っている」という躓きの石に。

 

さて、これから、この課題をどうするか。どう現実を地道に改善していくか。

 

これこそが、これからの「日本伝道」の中枢にある、急所をなしている課題なのだ。

 

「働き人を送ってくださるよう、収穫の主に祈りなさい」という主イエスの御言葉を、新たに受け止め直していきたい。




牧師の辞任・転任について② 「牧師の召命と教会の状況」

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牧師が辞任や転任をするというとき、「どういった動機であるなら、神の御心にかなうものとして受け入れられるのか」について、この記事では考えてみる。

 

牧師がある教会を辞任し、転任するというとき、「召命」に基づいてこの判断がされるわけだが、実際としてこれはどういうことなのか。

 

ここからの論は私が経験的に学んだことからの神学的類推も含んでいるため、絶対に正しいというわけではないし、これをだれかに押し付けるつもりもない。

 

ただ、私が他の先生方から教えを受けたり、歩みを見させて頂くなかで理解してきたことから、書かせて頂く。

 

牧師がある教会を辞任・転任するというときは、「牧師の召命」と「教会の置かれている歴史的状況」との関係から決まるのではないか、と思われる。

 

これは私の個人的直観だが、神は牧師をみんなまったく同じ「召命」にあずからせるのではなく、「教会を牧する」といっても、各人に異なるタイプの召命を与えておられると感じている。

 

そう考えないと、納得も理解もできない事象が存在するからだ。

 

つまり、ある牧師は「教会を建て直す」という召命が与えられている。

 

別の牧師には「小さな教会を大きな教会へと導く」という召しもあるだろう。

 

「大教会を牧することで、他の多くの教会を支える」という召しもあるだろう。

 

「生涯に渡って小さな教会を牧する」という召しもあるだろう。

 

「牧する教会は小さくても、他の多くの教会との関係を築く」という召しもあるかもしれない。

 

自分がどのような召命にあずかっているかということは、牧師が祈り求めて、少しずつ悟っていく以外にはないように思う。

 

職務を果たすなかで、知識と経験を重ねながら、少しずつ神によって示されていく課題だろう。

 

個人的には、牧師自身が「自分の魂は、教会がどういった状態になることについて、最も憧れやロマン、喜び、夢や希望を感じるか」ということを問いかけたとき、ごく自然に、良心に完全に合致した形で出てくる答えが、その牧師の召しを部分的にでも反映しているのではないかと思う。


もちろん、これが絶対ではないが、小さな指標にはなるだろう。

 

牧師は「教会の職務を果たす」ということにおいては共通していても、「どんな風に、どこまで、どんな形でそれを果たすのか」といったところにおいては、異なるタイプの召しを担っている、ということだ。

 

そして、こういった牧師の召しのタイプと、教会の置かれている歴史的状況が「一致」しているときは、牧師はその任務に留まることになる。

 

しかし、ある特定の段階で召しと教会の状況が「不一致」となったとき、牧師は転任について祈るようになるのではないか。

 

たとえば、「教会を建て直す」という召しを担う牧師は、いろいろな課題を抱えて壊れかかっている教会に赴任するだろう。

 

そして、これを建て直す職務を果たすが、時間が経過してこれをある程度果たすことができたと祈りのなかで判断できたとき、転任すると思われる。

 

「小さな教会を牧する」という召しの牧師は、職務を果たしているうちにだんだん教会が成長して、自分がいなくてもこの教会は大丈夫だろうと感じたら、そこを離任して、より小さな教会に赴任するだろう。

 

「大教会を牧して、他の教会を支える」というタイプの場合は、たとえばその教会が幾つかに分裂してしまい、他の教会を支えることができなくなったら、転任を考えるのではないか。

 

以上のように、牧師は神からそれぞれ、ある程度以上に個性的な「召命」を与えられており、これをその教会で果たし、教会に奉仕することができているうちは、その任地に留まる。


しかし召しと教会の歴史的状況が不一致の状態になったとき、自分は使命を果たし終えたと考えるようになると思われる。

 

こういった形であるなら、おそらく神ご自身にとっても、教会にとっても、牧師にとっても、創造的・建設的な形での辞任・転任になるのではないか。

 

というのも、牧師の召しと教会の状況が不一致のまま、牧師がそこに留まり続けることは、結果的に牧師と教会の双方にとって大きなマイナスである以外にはなくなるからだ。

 

前任の牧師が辞任して、新たな任務を帯びた牧師が赴任することで、牧師も教会も新たに前進し、歴史を刻むことができるようになる。

 

以上の考えは私の個人的なものであり、神学校で教えられていることでもない。

 

ただ、私が多くの先人や先輩の牧師の先生方から導かれるなかで、理解してきたことから神学的に類推すると、こういったことを考えることも可能だろう、ということだ。

 

神学校では、入学時・在学時に「召命があるかどうか」が厳しく問われるが、赴任して職務を果たすなかで、牧師はこの問いをさらに深めて、「自分はどんなタイプの神の召しにあずかっているのか」を神に祈り求め、神から示されて悟っていく必要があると思われる。

 

神にこれを教えていただくことのなかで、御心にかなった形での転任もなされることになり、牧師としての歩みがまっすぐになっていくのではないだろうか。

 

牧師の辞任・転任が正しいという動機や状況について、論じてみた。




牧師の辞任・転任について① 「辞任・転任の動機の是非」

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牧師の転任や辞任を信仰的・神学的に考えるとどうなるのか、私自身未だによくわからないので、この記事を整理のために書かせていただく。

 

見知った牧師の多くが辞任や転任をされているのを聴いて、信仰的・神学的にこれについて考える必要を深く感じている。

 

私自身の主観的な思いでは、多くの牧師の辞任・転任は実際的な面で、どうしても「召命」に基づくものとは思えない、という節がある。

 

転任の動機となっていることは、本当に「召命」なのか。それとも、ごく人間的な動機なのか。

 

これを問いかけたとき、後者であるとしか思えない例が、非常に多いと感じるのは、私の錯覚か幻想なのだろうか。

 

もちろん、最終的にはこういったことは、神にしか判断することがおできにならないのは、言うまでもない。

 

だからといって、人間的な動機を「召命」という言葉でラベリングするという「罪」を犯していないかどうかについて、自ら顧みることをしないでよいということにはならないだろう。

 

「召命」には、どうしても「人間的間違い」が生じることがあるため、信仰的な「検証」が必要なのではないか。

 

以下は、「検証」のための「基準」の参考例である。

 

牧師は「召命」によって自らの使命を担う。

 

つまり、「自分は神によって、この任務に召されている」という確信があるかどうかが、最も重要な辞任・転任の指標ということになる。

 

ところが、現実的に牧師の辞任・転任は、どういったことでなされているだろうか。

 

第一に「経済的な困難さ」がおそらく、最も多いのではないか。

 

つまり、「小さな教会ではもはや、自らも家族も養われないため、転任せざるをえない」ということだ。

 

これは最も理解しやすい理由かもしれないし、こう言われてもなお牧師に「留まるべきだ」という人はいないと思う。

 

ただ、これ自体は直接的には「召命」とは関係ない。

 

第二に、「消耗戦に疲れた」がある。

 

教会での職務は、じりじりと心身が消耗戦をしていく種類のものであり、「大成功」などとはほとんど無縁のまま、何年も推移することがほとんどだ。

 

こういったものに疲れ果て、働きのなかに人々の称賛を得られるような「自己実現」や「野心」を満たすものもなに一つなく、時間だけが過ぎていく、ということは、耐えがたい側面があるのは確かだ。

 

しかしこれも、直接には「召命」に関係がない。

 

第三に、「職務に飽きた」があるだろう。

 

人間は、同じ場所にずっといると、そこに飽きてくる性格を持っている。場所だけでなく、働きについても同じことだ。牧師という「業務」が、蓄積した経験や知識で「こなす」ことができるようになってしまうと、「飽き」がどうしてもでてくる。

 

職務を「こなす」ことをしているうちに、「飽き」がひどくなり、「刺激」を求めて転任する、ということもある。

 

これも「召命」には関係がない人間的都合だ。

 

第四に「その任地では、したいことができない」ということもある。

 

牧師にもタイプというものがあるが、教会の規模によってその牧師がしたいと願っていることがあまりにできないと、つまらなくなって転任する、ということもあるだろう。

 

これも「召命」と関係があるとは思えない。

 

また、これはある意味最も強力なものかもしれないが、「暗黙の牧師の歩みのルート」というものがある。

 

つまり、「牧師は神学校を出たら、しばらく地方教会で下積みをして、経験や知識がついたら中規模教会へ行き、更に経験を積んだら都会の大教会へ行く」というような、教会の歴史で何度も歩まれてきたような「暗黙のルート」があり、こういった道を進むことが「牧師としての王道である」という錯覚をもたらしている、と言える。

 

しかし、これも人間的なルートに過ぎず、神の「召命」とは関係がない。

 

また悲しいことに現実的に最も多い転任の動機として、「教会で問題を起こしてしまい、それ以上いることが難しくなった」がある。

 

牧師も罪人であるので、この理由は現実的に非常に多いものだ。

 

しかしこれも、「召命」によるものとは、直接には考えられない。

 

さらに、「ほかにしたいことができた」ということもある。

 

教会の職務以外の働きをしたくなったり、留学や学問などをしたくなったり、といったことも起こりうる。

 

これらも、「召命」かどうかは、よく検証しなくてはならないだろうし、キリストが教会を愛し、ご自分を捧げてくださった方であるとするなら、これらもまた直接的に召命となるかどうかは、疑わしいものだ。

 

以上の7つは、よく見られる動機であるとは思うし、「召命」を受けるうえでの背景や人間的状況にはなるかもしれないが、それ自体としては「召命」に関係のないものではないか。

 

神はこういった状況のなかで、これらのうちに働いて、牧師を新たに召す、ということも、もちろんあるだろうし、神にその自由がないということはありえない。

 

ただ、それでもこれら「そのもの」を転任の動機とするのは、どう考えても転任や辞任を考えるうえでの「正道」ではないと言わざるをえない。

 

これらの只中で、「神の召命の言葉を聴いたのか、どうか」ということは問われるが、人間的状況自体が転任の動機になってはならないだろう。

 

つまり、以上のような負の要素が牧師としての自分の歩みに生じているからといって、「だから転任しよう」と考えるのは「召命」の視点からすると、間違っていると考えるべき、ということではないか。

 

これらの要素があったとしても、「まずは飲み込んで忍耐しつつ、キリストと教会への職務を果たす」ことを第一に考えるのが、牧師の職務の内実ではないかと思われる。

 

上のすべての否定的要素があったとしても、神は御言葉ひとつで、それら全ての要素を取り除くことも、おできになるお方だからだ。

 

今回は、「なにが辞任・転任の正しい動機ではないのか」という消極面を書かせていただいた。次の記事で、「なにが正しい動機となりうるのか」について、考えてみたい。



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