マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、ピューリタニズムの倫理について描いているが、特にそこでバクスターは大きな役割を演じている。
ピューリタンたちが、「職業を通して隣人愛の実践に励んだ結果、富裕となるのはよいことだ」と考えたことを取り上げて、このエートスから神への信仰が抜け落ちることで「資本主義の精神」が生まれることを語った。
バクスターは、確かに「神のために富裕になること」を善きこととして語っている。
つまり、「富・お金」を間接的に肯定しているのだ。
もちろん、バクスターは富がもたらす怠惰・慢心・安逸・高慢・貪欲などの、あらゆる罪を厳しく糾弾し、これを否定する。他のピューリタンたちもこの点は同じだ。
富がもたらす誘惑と危険を、非常に深く警戒していたのだ。
しかし、同時に富が「善きもの」となることをも、しっかりと見据えていた。
そのためには、二つの条件がある。
まず、「神の栄光を顕すために、職業を通して隣人愛を実践した結果である富」である場合だ。
つまり、神の御前で隣人を愛するというモチベーションで働けば、「よりよいものを、より安く、より誠実に」提供するということになる。
その結果、社会からの信用が得られて、富が与えられる。
勤勉に働き、倹約に励むなら、蓄積される富は大きなものとなる。
これが一つの条件だ。
もう一つの条件は、「与えられた富を神のために活用する」ということだ。
勤勉と倹約によって与えられた富を、自分の享楽・虚栄・快楽などのために使うのではなく、これを神のために、公共の福祉(コモンウェルス)のために投資するということだ。
学校、図書館、教会、福祉施設、社会を改善するための組織等のために献金する、といったことだ。
「富を得る方法」と、「富を使う方法」が、「神のため、隣人のため」という動機であるとき、それは「神のために富裕となる」こととして、肯定されている。
キリスト者は、「富に対して全面的にネガティブでなければならない」というのは、非常に偏向した態度だ。
キリスト者もまたお金をもらい、お金を活用して生きる以上、お金に対してバランスに満ちた信仰的態度を身に着ける必要がある。
キリスト者だからお金を稼ぐことを軽んじるべきだ、とかお金それ自体を否定的に考えるべきだ、というのは、聖書的にも神学的にも、極端過ぎる姿勢だろう。
「なんのためのお金稼ぎなのか」、「だれのために働くのか」、「なんのためにお金を使うのか」といった課題こそが重要であって、それらを抜きにして「お金それ自体」に価値判断をくだすのは、現実的でもなければ、神学的でもない。
富について、私たちを誘惑し、堕落させるような契機となりうる「ネガティブ面」をしっかり認めたうえで、富に対するポジティブな姿勢や在り方を追求したという意味で、バクスターは現実的でバランスに満ちた富に対する理解を提示してくれている。