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リチャード・バクスター 「神のために富裕になる」

 リチャード・バクスター選集 - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで、ピューリタニズムの倫理について描いているが、特にそこでバクスターは大きな役割を演じている。

 

ピューリタンたちが、「職業を通して隣人愛の実践に励んだ結果、富裕となるのはよいことだ」と考えたことを取り上げて、このエートスから神への信仰が抜け落ちることで「資本主義の精神」が生まれることを語った。

 

バクスターは、確かに「神のために富裕になること」を善きこととして語っている。


つまり、「富・お金」を間接的に肯定しているのだ。

 

もちろん、バクスターは富がもたらす怠惰・慢心・安逸・高慢・貪欲などの、あらゆる罪を厳しく糾弾し、これを否定する。他のピューリタンたちもこの点は同じだ。

 

富がもたらす誘惑と危険を、非常に深く警戒していたのだ。

 

しかし、同時に富が「善きもの」となることをも、しっかりと見据えていた。

 

そのためには、二つの条件がある。

 

まず、「神の栄光を顕すために、職業を通して隣人愛を実践した結果である富」である場合だ。


つまり、神の御前で隣人を愛するというモチベーションで働けば、「よりよいものを、より安く、より誠実に」提供するということになる。

 

その結果、社会からの信用が得られて、富が与えられる。


勤勉に働き、倹約に励むなら、蓄積される富は大きなものとなる。

 

これが一つの条件だ。

 

もう一つの条件は、「与えられた富を神のために活用する」ということだ。

 

勤勉と倹約によって与えられた富を、自分の享楽・虚栄・快楽などのために使うのではなく、これを神のために、公共の福祉(コモンウェルス)のために投資するということだ。

 

学校、図書館、教会、福祉施設、社会を改善するための組織等のために献金する、といったことだ。

 

「富を得る方法」と、「富を使う方法」が、「神のため、隣人のため」という動機であるとき、それは「神のために富裕となる」こととして、肯定されている。

 

キリスト者は、「富に対して全面的にネガティブでなければならない」というのは、非常に偏向した態度だ。


キリスト者もまたお金をもらい、お金を活用して生きる以上、お金に対してバランスに満ちた信仰的態度を身に着ける必要がある。

 

キリスト者だからお金を稼ぐことを軽んじるべきだ、とかお金それ自体を否定的に考えるべきだ、というのは、聖書的にも神学的にも、極端過ぎる姿勢だろう。


「なんのためのお金稼ぎなのか」、「だれのために働くのか」、「なんのためにお金を使うのか」といった課題こそが重要であって、それらを抜きにして「お金それ自体」に価値判断をくだすのは、現実的でもなければ、神学的でもない。


富について、私たちを誘惑し、堕落させるような契機となりうる「ネガティブ面」をしっかり認めたうえで、富に対するポジティブな姿勢や在り方を追求したという意味で、バクスターは現実的でバランスに満ちた富に対する理解を提示してくれている。


リチャード・バクスター 霊的な「自己審査」

 リチャード・バクスター選集 - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

バクスターは、「自己審査」をするように提案する。

 

これはピューリタニズムの伝統の大きな特徴であり、「堅固なキリスト者」へ成長するために必要な自己訓練だ。

 

「自己審査」とは、一日や一週間を振り返り、「自分が神と被造物、神とこの世のどちらを自分は喜び、好んでいたのか」について、良心に照らして自分自身の生活を審査することだ。

 

神の言葉を聴くことにより、私たちの良心は神に対して鋭敏となる。


その良心に照らして、自分の生活は本当に神を愛するものだったのか、それともこの世を愛するものだったのか、これを検討するのだ。

 

この審査のなかで、「自分は神から離れていた。この世を神よりも愛していた」と感じたなら、その歩みや方向性を悔い改め、神に立ち返る。

 

逆に、「神を愛することに心を傾けていた」と感じたなら、それをさらに深めて続けることができるよう、神に祈り、神に立ち返る。

 

このように、神に対して祈るばかりか、自分自身を振り返り、審査することによって、「自分で自分の歩みを神の言葉と良心を通して修正する」ことができるようになる。

 

バクスターは、「堅固なキリスト者」へと一人ひとりを育てることを最重要課題としたが、これは「自分で聖書に聴き、自ら自己審査をして、自分で過ちと罪を悔い改め、神に立ち返り、成長することができるキリスト者」ということでもある。

 

「自立的・自律的キリスト者」ということだ。


このようなキリスト者こそ、神の御前に責任を担い、教会を形成し、神の栄光を顕すことができる。

 

私たちは道を踏み外してしまうと、それを正当化して「自分は正しい」とあくまで主張し、神を汚し、教会を壊すことをしかねない。


「罪を認めない」ことは、キリスト者として神の御前に正しく歩み、成長することを否定することだ。

 

しかし、「自己審査」をしっかり身に着けると、自分の良心を神に対して偽ることはできないため、自分で罪を認めて神に立ち返るような、霊的な習慣が確立されてくる。


これが、私たちのキリスト者としての歩みと成長を、確固たるものにしていく大きな土台になる。

 

「自己審査」によって明らかになった罪を神に告白し、悔い改め、神に従う決意をもって歩みだす。


これは、キリスト者として成長し、生き続けるために、決定的に重要なことだ。

 

強い痛みをもって思い起こすが、これまで自分の罪を認められないがために、人生の道を狂わせてきたキリスト者をいろいろなところで見てきた。


ほとんの人は、どんなに聖書の教える道から離れていても、「自分は正しい」と信じ切っていた。

 

そして、自らと周囲に霊的な災いを招いていることについても、無自覚であることが圧倒的に多かった。


「自己審査」の習慣と伝統を受け取りなおすことが、教会の再生にとって急務であることを覚えざるをえない。


リチャード・バクスター 「堅固」なキリスト者

 リチャード・バクスター選集 - 巡礼者の小道(Pursuing Veritas)


リチャード・バクスター自身の著作は、私の知っている範囲内では、日本語に翻訳されていない。


これは日本のキリスト教界にとって由々しきことだと思う。

 

業務連絡:だれか、英語力があり、かつピューリタニズムに関心のある方、『キリスト教指針』を訳してください! 日本の教会にとって、とても大事なことです! どうか、お願いします!

 

彼の書いた主著『キリスト教指針』は、大部のもので、英語で通読するのは本当に難しい。


私も少しばかり読んでみたが、長すぎて到底読み通すのは不可能だった。


入門書をいくつか当たったが、当時神学生だった私にとっては、「超大先輩牧師から実践的に牧会を諄々と教えてもらった」ような印象を受け、深く魅了された。

 

バクスターは、まったくの「牧師」として生きた人だ。

 

お気づきの方も多いと思うが、「ただの牧師」として生涯生きた人というのは、実は歴史的に名前が残っているキリスト者のなかに、比較的少ない。

 

多くのキリスト者は「神学者(学者)」として、もしくは「信徒(他分野を専門とする信徒)」として名前が残っている。

 

バルトも、ティリッヒも、ブルンナーも、ニーバー兄弟も、シュヴァイツァーも、・・・みんな大学の「学者」だ。

 

「一介の牧師」として名前が残り、歴史的に影響を与え続ける人は、実は非常に少ない。


限られた小さなコミュニティで生活し、説教や信仰書などで影響を残すのは、並大抵のことではないのだ。

 

しかし、バクスターは、教会を牧会する牧師として、永遠の輝きを放っている。

 

彼は牧師としての「実践」に踏みとどまり、あくまでそこから考え続けた人だ。


彼の教えは理論的なものではない。教会形成の実践そのものだ。

 

学者として名前を残した神学者は神の空を飛び続けたと言えるが、バクスターはタフな地面を汚れながら歩み続けた。


その違いが、著作にはっきりと出ている。彼は小難しい概念や机上の空論は一切語らない。


単純素朴で力強い言葉を語る。

 

彼が目標としたのは、「堅固なキリスト者」というビジョンだ。

 

キリスト者は、最初は誘惑や罪に対して全く弱い。教会形成を担うこともできない。


しかし、御言葉の聴聞や祈り、牧会を受けることで、次第に誘惑と戦い、これを退け、神の御心を行うことができるよう、段階的に成長していく。

 

教会の会衆が、神の御前に責任を担う者として、この世・悪魔・人間からの誘惑や攻撃に対して、固く立ち続け、神の御前に御心を行い続けることができる、そういう「堅固さ」を求めて教会形成に従事した。

 

彼の著作は、読んでいると「胸が苦しくなる」ものが多い。


キリスト者が従うべき「秩序」や「原理原則」を、延々と語り続けるものだからだ。

 

もちろん、彼を「くそ真面目なピューリタンの律法主義者」と考えることもできる。


「この人の本には、福音がどこにもない」という評も出てくるかもしれない。

 

しかし、彼の教えは、いわゆる「律法の第三用法」と言われるものを、さまざまなコンテクストで展開し続けるものなのだ。


つまり、福音の恵みを受けたキリスト者が福音に基づいて生活・家庭・市民社会をどう形成していけばいいのか、その原理原則を解き明かしている。

 

彼の教えのなかに、近代市民社会を成り立たせるために必要な重要原則が詰まっている。


彼はある意味では、近代社会の父と言うこともできる。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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