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カール・グスタフ・ユング 「ユング心理学の神学的危険性」

 ユング心理学とは?ユングのタイプ論


ユングの心理学は、基本的に「バランス主義」であり、「心の平衡と健康」を目的にするものだ。

 

彼の心理学は、信仰的もしくは神学的には、注意を要する。

 

決して、全面的に受け入れるわけにはいかない性格を持っているのだ。

 

彼自身は牧師の子供だったが、彼の思想は聖書的なものではなく、明白に東洋思想的だ。

 

彼はあるとき夢を見るが、それは西洋の教会の夢で、扉のなかに入っていくとそこでヨガ行者が瞑想している夢だったという。

 

「ヨガ行者」とは、ユング自身のことを示している。


この夢が適切に描いているように、彼の思想の「形式」や用語、生きた環境はキリスト教的なものが多いが、彼の内面的本質はヒンズーや仏教に非常に近い、東洋思想に強くリンクする思想家なのだ。

 

ユングは「易」「マンダラ」「瞑想」などについて論じるが、すべて東洋思想の要素だ。

 

キリスト者として、ユングに心を許すことができない決定的な点は、彼は人間として「聖化されること」よりも医者として「心のバランス」を優先的に重んじるため、「罪と悪、汚れや不正」を心理学的に許容するということだ。

 

「罪や悪の行為をすること」を、「心理的健康にある程度必要」として肯定している。

 

つまり、人間としての欲望を持ち、自然的な自己中心性がある以上、これらを抑圧するのは無意識にダメージを与えることになる。


抑圧的になるよりもエゴイズムや欲望、罪や悪を受け入れ、許容することによって、心のバランスが取り戻されると考える。

 

彼の伝記を読むと、ユング自身の弟子は女性がほとんどで、ユングと男女の関係にあった人も多いようだ。


若い時期には、女性患者とカウンセリングをしているうちに微妙な関係になり、フロイトを大変に困らせたこともある。

 

ユング自身はキリスト教的な倫理感とは、ほぼ無縁だったと言っていいと思う。

 

パウル・ティリッヒの神学が、ユング心理学に強く影響されて構想されているのを考えると、ユングとティリッヒは異性関係においても、歩みにおいてオーバーラップするところがある。


「十戒を守ろう」という基本的な意図は、彼らにはないようだ。

 

このことに象徴されているように、ユングの心理学は「心のバランス」を、「心の成長・変革」よりも優先するため、キリスト教的倫理に反する罪や悪、不正をも許容してしまうところがある。

 

しかし、以上のことは牧会の現場にいる者には、いろいろ考えさせられる面もある。

 

聖書の教えは、心のバランスを失っている人が聴くと、間違った解釈をしてしまい、かえってその平衡を悪化させてしまうことがある。

 

つまり、うつ病の人の場合にはあまりに律法的に聴いてしまったり、神ご自身を恐ろしい存在に感じたり、裁きの言葉にふさぎ込んだりしてしまう。

 

自分の罪や悪を恐怖するあまり、「罪を犯すなら死んだ方がましだ」というような、極端に潔癖な心理状態になって実生活に支障を来たす人もいる。

 

確かに、こういう心のバランスを失った人に対しては、ユング心理学は適切に機能するだろう。

 

つまり、こういう人はある程度自分の罪や悪を生き方のうちに許容しないと、潔癖過ぎて生きていくことができない状態になっている。


「自分は悪人・罪人でいいのだ」と、キリストの十字架の御業に信頼して、罪と悪を受け入れる必要がある。

 

だが、ある程度バランスを保つことができている人に、悪や罪を許容するように、というのは明らかに反聖書的・反キリスト的になってしまう。


「悔い改めよ」と主イエスはおっしゃているのだ。

 

自己中心性を脱ぎ捨ててキリストに従うように求められているし、この招きに従わないのは、キリストに逆らうことになる。

 

ユング心理学は、「心のバランスを失っている人」に限定的に有効だが、これを普遍的にキリスト者に適用することは、イエス・キリストに対する背信になってしまう部分もある。

 

「見分け・聞き分ける」賢明な心が必要だ。



カール・グスタフ・ユング 「汝の敵を愛せよ」の心理学的意義

 ユング心理学とは?ユングのタイプ論


 

ユング心理学は、人間の「意識と無意識」の関係を追求したものだ。

 

人の無意識には、意識が選択してこなかった、あらゆるものが含まれていると考える。

 

ある意味では、自分という意識の底に、他の別な人間の意識を含んでいるようなものだ。

 

ユング心理学においては、ある程度はだれでも二重人格であるということだ。


無意識のなかに、多かれ少なかれ、「別の自分」を複数、抱いているのが人間なのだ。

 

フロイトは意識と無意識を「矛盾・対立」として考えたが、ユングは「補償・補足」の関係として考えた。

 

無意識が意識に対して、いろいろな要求を突き付けてきたとき、意識はそれを受け入れることができず、深い葛藤状態に置かれる。

 

これが、いわゆる「心の病」「神経症」の状態だ。


意識と無意識が「敵対・分裂状態」になってしまう。

 

心が健康であるとは、意識と無意識がある程度調和した関係を保っていることであり、これが敵対・分裂状態になるのが、心の病気になる。

 

ユングは、意識が無意識の求めを拒否し続けている限り、心の回復は難しいとする。

 

意識が無意識の求めを受容し、意識が無意識のなかに取り残してきたものを改めて取り上げるときに、「敵対・分裂状態」は終わり、意識と無意識は「和解」の道に進む。これが、心の病の回復となる。

 

意識にとって無意識は、自分が切り捨ててきたものであるため、恐ろしい不安をもたらすものだ。

 

しかし、同時にそれは意識が豊かにされる可能性に満ちている宝庫とも言える。

 

意識が無意識という「敵」を、愛して受け入れることができたとき、両者は共に創造的な人生を切り開いていくことができる、とユングは考えた。

 

ここに、「あなたの敵を愛せよ」というイエス・キリストの教えの、心理学バージョンを新しい解釈を見ることができる。

 

ユングは、意識に対して無意識を「敵」と考えた場合、この「敵」を意識が愛することによって、人間は心が回復するとしたのだ。

 

意識があまりに「善」であろうとするときには、「悪」の契機を受容するように求められるかもしれない。

 

あまりにも「敬虔」であろうとするときには、「世俗的」の契機を求められるかもしれない。

 

あまりに「理性的」であろうとするときには、「感情的」の契機を求められるかもしれない。

 

こうした両極性のバランスのうちに心の健康があり、意識にとって受容し難い無意識の求めを認めることで、心のバランスは保たれることを、ユング心理学は描きだしている。

 

ある意味では、ユングは「あなたの敵を愛せよ」のまったく新しい心理学的解釈を見出したという点で、教会に貢献してくれたと言える。

 

もちろん、この解釈が正統的な解釈と違うものであることは承知しているが、こうした理解には正統的理解を「補足」してくれる役割があるのではないか。

 

教会が置き去りにしていくさまざまな認識を、ユング心理学は想起させ、補足してくれる性格があるのだ。



カール・グスタフ・ユング 「ユング心理学とキリスト教」

 ユング心理学とは?ユングのタイプ論

カール・グスタフ・ユングという心理学者を御存じの方は多い。

 

日本では、河合隼雄さんが第一人者としてユング心理学を紹介された。


河合さんの本は非常に奥深く、わかりやすいため、一冊でも多く読むことをお勧めしたい。

 

神学紹介ブログでユングという「心理学者」を扱うのは不当と言えなくもないが、彼は多方面で神学の領域にも貢献している。

 

特に、「牧会」の領域においては、私自身は牧師や信徒がユング心理学を学ぶことには重要な意味があると思っている。

 

彼自身は、明らかに人生が進むにつれてキリスト教から「東洋思想的」な考え方へと傾斜して行った。


彼の思想は「キリスト教的ではない」というのは、まったくその通りだ。


彼の心理学は、正統的キリスト教のものではなく、むしろ「秘教的」「東洋的」なものだ。

 

ヘルメス主義、仏教、老荘思想、ヒンズー教が、彼の思想との類似性が大きい。


このことに無自覚に、彼を「キリスト教的心理学者」と考えるなら、信仰的に手痛い目に合うことになる。

 

彼の心理学を無自覚にキリスト者が受け入れるなら、信仰的な混乱を味わうのは必至だ。

 

しかし、実は彼の心理学がキリスト教が切り捨ててきた思想を彼が拾い上げているからこそ、ある意味ではキリスト教会に貢献するものともなっている。


キリスト教会の捨ててきた思想の「真理契機」を取り戻すために、重要な働きをしてくれていると思っている。

 

ユング心理学は、一言でいうなら「バランス主義」と言える。

 

ユングは、神経症や心理学的な病気は、「意識と無意識のバランスが崩れる」ことで生じると語っている。

 

意識と無意識のバランスを取り戻すことを、ユングは心理学のなかで主題と構造を変えながら、生涯語り続けたのだ。

 

「身体と精神」「意識と無意識」「理性と感情」「男性性と女性性」・・・こういった両極の間のバランスが、「健康」であると説く。

 

そして、このような「バランス主義」は、キリスト教会が微妙に否定してきた思想の要素でもあるのではないか。

 

キリスト教は歴史が「前進」することに、意義と喜びを見出す性格を持っている。


「バランス」とはパラダイムが異なっている。「バランス」の真理を切り捨てていく側面がないわけではない。

 

ここに、ユング心理学をキリスト者が学ぶ意義があるのではないか。



齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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