教会の成長の鍵 『聖書信仰に基づく教会形成 西大寺キリスト教会の歩みを一例として』(赤江弘之著)という本を読ませて頂いた。
最初の30pほどで「西大寺キリスト教会」の歩みについて物語として紹介されており、その後はほとんどが、その理念やビジョン、原理原則などについてのメモやレジュメを集めたものとなっている。
西大寺キリスト教会は本書の著者が着任したとき礼拝出席が20人台だったが、その後250名を超えるまで成長している。
町の人口が6万5千人程度の地方にあり、しかも仏教的色彩の強い土地柄でこれほどの成長をした教会として、日本で稀有の教会の一つだろう。
このような成長の「秘訣」や「鍵」はなにか、という思いで多くの牧師や信徒が本書を読まれると思う。
ところが、30p以後の部分については、他の書物で読んだことがあるものが多く、「どこかで聞いたことがある内容」であると思えたし、方法論のうえでは取り立てて「秘訣」や「鍵」に当たるようなものが見当たらない、という印象を受ける。
おそらく、本書が内容として伝えている「方法」という面では、牧師と長老会を中心に教会で一致し、非常に保守的な信仰を熱心に守っておられるということに尽きるだろう。
取り立てて、「特別なこと」をされているわけではない。
おそらく、本書を読んだ多くの方もそういう思いを抱かれただろう。
ただ、非常に深く心を打たれた重大なことが二点ある。
おそらく、もしこの教会の成長に秘訣や鍵があるとするなら、この二点であって、「教会が生きて成長していくことは、究極的には方法論の問題ではない」ということが本書の最大のメッセージであるように、私には思えた。
一点は、著者が赴任したときのエピソードだ。
以下、そのまま引用してみる(11p)。
・・・私が西大寺教会に着任した当時のことです。一番古くから教会に仕えておられた中心的信徒から、「若い先生をお迎えして、2~3年してこれからというときに先生は都会の大きな教会に招かれて行かれます。わたしの祈りは、立派な先生でなくていいから、船と一緒に沈んでくれる船長が欲しいのです」と聞かされました。西大寺弁でしたが、その切なる思いが伝わってきました。思わず家内と目で語り合いながらその信徒に言いました。「わたしたちでよかったら、船と一緒に沈んでもいいですよ」・・・
この信徒の方の思いは、ほとんど日本中の地方教会に集う方々の思いであろう。
有能で若い牧師が地方教会にきても、ほとんどの牧師が数年も経過すると都会へと去っていく。
「船と一緒に沈んでくれる船長」とは「その教会に骨を埋める覚悟で職務に当たる牧師」ということだろう。
これが、教会の成長の「鍵」の第一点だ。
牧師が数年単位で離任・転任を繰り返す教会が、一般的水準を抜きんでて成長する、ということは絶対的にありえないと言える。
ほとんどの歴史的な「大教会」の過去には、その教会に「与えられた生命と精魂を使い果たした」と言えるほど徹底的に献身した牧師が、少なくとも1名はいる。
教会に注がれる牧師の命が、教会の成長の第一の鍵なのだ。
つまり、教会の成長を本当に願っているなら、牧師自身にその教会と職務に「骨を埋める」というくらいの、殉教的な覚悟がいるということだろう。
第二点は、牧師と共に「千人教会のビジョン」を抱いた青年の信徒たちがいたということだ。
青年の信徒が言い出したこうしたビジョンを、牧師は「無茶苦茶だ!」と一蹴せず、「神にできないことはないから、できる」と受けいれ、しかも「この幻は通過点であって、全世界に福音を伝えましょう」とまで言う。
その後、多くの人から嘲笑され、失笑を買ったが、なおこのビジョンは牧師と信徒のうちに燃え続けた。これが二点目だ。
ビジョンというものは、瞬間的に抱くだけなら、どんなに大きなものでも難しいことではない。
ところが、これを数十年も「保持」することは極めて難しい。
失望する出来事や、日常の忙しさや快楽にかまけているうちに、どんどんビジョンの炎は冷えて、鈍っていくため、たとえ1年であっても大きなビジョンを保持するということは、非常に難しいのだ。
「もうやめた!」と誰もが言いたくなるようなことを、何度も何度も通過する。
牧師だけがこういったビジョンを抱いた、というなら、ある意味ではよくある話ではある。
しかし、信徒が一丸となってこうしたビジョンを抱くことの困難さは、筆舌に尽くしがたいと言える。
特に複数名の信徒が「自発的」にこうしたビジョンを抱くということは、本当に稀有のことだ。
というのも、多くの信徒は「教会が大きくなる」ことについて、喜びと同時に恐れを持っているのが普通であるからだ。
多くの新しい人々が教会に来ることで「自らの信仰生活の平安」がなんらかの形で脅かされることを、心の底の方で恐れていることがある。
そのため、信徒の方から自発的にこういったビジョンが出てくるということ自体が、稀なことだ。
この教会が成長を続けることができた理由は、牧師も信徒も、双方がこのビジョンを諦めることなく、祈りをもって燃やし続けたことだろう。
このようなビジョンを皆が抱いていると、自然と神がそれが実現するのにふさわしい出来事や試練を送ってくださる。
神ご自身がそうしたビジョンを「よし」として、これを成就する方向に導いてくださるのだ。
そこで神から与えられる課題に必死に応答しているうちに、「いつの間にか、ビジョンが実現していく」ことが起こる。
以上の「二点」が、この教会の飛躍的な成長の「鍵」であって、この鍵に基づいて30P以後のあらゆる「方法論」の熱心な「実践」が生じてくる。
あの「二点」に支えられた実践の数々が、教会の前進のすさまじい動力となっているのだ、と本書を読んで感じた次第だ。
日本の教会が成長せず、停滞と衰退に苦しんでいる状況にあるが、ひるがえってこの「原因」については、あの「二点」の「逆バージョン」が多くの教会に蔓延しているからだ、と言えるのかもしれない。
つまり、命を教会のために使い果たすような「殉教的覚悟」のある牧師がおらず、いたとしても非常に少数であり、また「人の失笑・嘲笑を買うほどの大きなビジョン」を描いて、これを長期的に燃やし続けるような信徒もまた、非常に少ない、ということだ。
本書は、こういった日本の状況全体に自らの実例を通して大きな「問い」を突き付けているという点で、心が深く刺されると同時に、耳を押し開いて読む価値があるものであろう。