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ヴォルフハルト・パネンベルク 『近代世界とキリスト教』

 ヴォルフハルト・パネンベルク - Wikipedia


パネンベルクの『近代世界とキリスト教』という著作を読んで、彼の近代の分析に親近感を抱いたので、紹介させて頂く。

 

パネンベルクは、近代の成立により人々は「故郷喪失」、「意味喪失」を味わっていることを指摘する。

 

近代世界は「人間の自律性」に基礎を持ち、これを発展させるところに目的を見ている。

 

しかし、人間の自律性が発展するほど、「自分はどこに所属しているのか」、「自分の存在の意味とはなにか」という問いに悩まされるようになる。

 

近代において成立した学問や科学の諸分野もまた、「人間の自律性」に基づいているものだ。


しかし、宗教性を失って世俗化が深まることにより、人間を孤立的状況に追いやることになる。

 

近代世界の発展と「世俗化」の深化は、個人に「自由」は与えるが、同時に「故郷」と「意味」を奪ってしまうものなのだ。

 

こうした状況に対して、教会は果たすべき役割がある。


キリスト教は、イエス・キリストの福音によって「まことの故郷」や「生きる意義」を提供していく必要がある。

 

キリスト教は近代世界の「世俗化」状況になんらかの在り方において向き合っていくわけだが、パネンベルクは二つの「極端」をあげて退けている。

 

一方の極を、カール・バルトをはじめとする神学の在り方を世俗化に「対立・対抗」する路線としてあげて、「時代全体の流れに、対立・抵抗するのは無理がある」として批判する。

 

もう一方を、世俗化に「過剰適応」しようとする路線として、批判する。


世俗化に適応しようとしすぎることは、教会の基本的な在り方の解体にならざるをえない。

 

パネンベルクがあげているこれら「過剰適応」の例は、「神の死の神学」、「非神話化(ブルトマン)の神学」、「フェミニスト神学」、「解放の神学」などである。

 

世俗化に適応しようとするあまり、教会が本来の在り方を喪失することになってしまっては、まったく意味がない。

 

では、一体どういう路線が望ましいのか。

 

パネンベルクは、二つの方向性をあげている。

 

「文化とその人間像の世俗化によって制約された現実理解をよりグローバルな視点から統合するということであり、世俗化された文化によって規定された合理主義に対して、理性それ自体のグローバルな広がりに注意を払い続けるということ」(『近代世界とキリスト教』93p)

 

意味がわかりにくいかもしれないが、要するに近代世界がもたらす「断片化・専門化・多様化・個別化」を、教会が保持してきた「理性」や「グローバル」な視点から「統合」する作業をすることで、教会は役割を果たすことができる、ということだろう。

 

キリスト教会こそが、分節化・断片化して分断されていく世界のなかで、「統合・統一・全体」の視点を導入できる、ということだ。

 

また、パネンベルクは教会がそのような役割を果たすためにも、「エキュメニカル」運動を推進することに希望を見出そうとする。

 

キリスト教の諸教派が共に一致と和解へ向けて歩むことで、「統一・統合」をもたらす、という教会の使命を果たすことができる、ということだ。

 

私自身は、パネンベルクが好ましいと考える以上の「統合主義・エキュメニカル路線」には、それほど魅力は感じない。


しかし、「グローバル」の現代にあってひとつの立場として、有益な視点を提供してくれているという思いが与えられた。

 

教会がどう聖書的な「統合」の視点でもって現代世界に貢献できるか、じっくり考える価値がある。


ヴォルフハルト・パネンベルク 「歴史神学」

 ヴォルフハルト・パネンベルク - Wikipedia

パネンベルクについては、神学生時代まったく勉強しなかった。

 

私自身はバルトが最も好きだったため、神学教授からいろいろ教えて頂いたとき、パネンベルクの神学はなんだか「性に合わない」と感じていた。

 

つい先日、ようやくパネンベルクの小さな著書を読んで、いろいろと思うところがあったので、紹介させて頂く。

 

神学を「上から」と「下から」の二つに分けるとすると、バルトは「上から」の神学者だが、パネンベルクは「下から」の神学者だ。

 

「キリスト教神学の独自性とはなにか」という問いを立てた場合、神学者の立場によっていろいろ答えは変わる。


この問いに、その神学者の神学的立場が要約されうる。

 

バルトなら、「イエス・キリストだ」というだろう。

 

ブルンナーなら、「人格的応答関係」と言うかもしれない。

 

ティリッヒなら、「人間の実存的問いへの答え」と言うかもしれない。

 

パネンベルクはこの問いに対して、「歴史だ」と答えている。

 

私たちが通常、「歴史的」な思考として考えることができるものは、聖書がその源泉であると考えている。


聖書なくしては、「歴史的思考」は存在しないとさえ言う。

 

ギリシア的な観念は、この世界を形成している「秩序」や「法則」を重視するものだ。


この世界(コスモス)は定められた秩序や法則に従って動いているため、これらの法則性(ロゴス)を理性的に洞察して、これに合致して生きることが人間として正しいと考える。

 

ギリシアの世界観では、世界は静的なものであり、そこでは秩序や法則から外れたことは起こらない。

 

これと比較してパネンベルクによると、聖書的理解ではこの世界はあくまで歴史的なものであり、「新しい出来事が神によって起こされる」ことによって、過去が新たに理解し直されていくプロセスだという。

 

つまり、「法則・秩序」に合致して生きていれば人間として正しいというものではなく、人間は歴史に巻き起こる神の業に出会い、これと取り組み、理解することによって、過去をも新たに解釈し直していく存在だということだ。

 

パネンベルクが言う歴史とは、新しいことが生起し続ける神の業の舞台だ。

 

「法則・秩序」によって、割り切ることができるものではない。


歴史に起こってくることは、間接的に神の業であり、人間はこれと取り組み、歴史を受け止め直す作業に従事する。


それによって、過去をも新たに理解されていくプロセスにほかならない。

 

以上の理解に暗示されているように、パネンベルクは歴史から離れたところに、神の業を想定しない。

 

バルトは、イエス・キリストの啓示は歴史的なものでありながら、これを超越していると考える。


バルトはイスラエルの歴史を「原歴史」として語り、これを人間の歴史の元型・予型とする。

 

パネンベルクは、「イスラエル、イエス・キリストの歴史」を他の歴史とは異なるものという形で、これを他の歴史から区別しない。


彼はすべての歴史を包括する「普遍史」という概念を提示する。


キリストの生涯もまた、「普遍史」のなかに位置付ける。

 

キリストの復活もまた、あくまで歴史的出来事として考え続けることを求める。

 

パネンベルクは、神の業や啓示を、「歴史」から遊離させようとするすべての考えと闘っていると言える。

 

彼の行き方は、歴史にあくまで軸足を据える歴史神学ということで、キリスト論的には「受肉的神学」の方向性ではないかと個人的には受け止めた。

 

このような神学的ベクトルは、カール・バルトに代表されるような、神の超越性を強調する神学に対する、ひとつのアンチテーゼとして、神学者の足を「地に着ける」働きをし続けてくれるものだろう。





齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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