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ブルームハルト父子 弁証法神学の源流

 Christoph Blumhardt - Alchetron, The Free Social Encyclopedia

 

ルームハルト父子は、「弁証法神学」に対して、非常に重要な影響を与えている。

 

弁証法神学の「源流」と言ってもいいくらいだ。

 

父ブルームハルトがゴットリービンという少女において出会った「イエスは勝利者だ!」という、現実を変革する「力ある神」「実在の神」の発見は、息子のクリストフ・ブルームハルトに受け継がれる。

 

息子ブルームハルトはこの認識を広く実践的に展開した。

 

このような力ある神が輝き出るために、人間は「自分の力」という「肉」に死ななくてはならないと語り、教会に激しく悔い改めを求め、神に立ち返るように勧めた。

 

また、すべての人間は神のものである、という認識のもと、政治運動に参与した。息子ブルームハルトは議員にまでなって世を変えようとしている。

 

最後は故郷バート・ボルに戻ってきて、神の国を待ち望む信仰と祈りに一筋に生きた。

 

この息子ブルームハルトとの対話によって重要な影響を受けたのが、エドゥアルト・トゥルナイゼンやカール・バルトだ。

 

彼らは「弁証法神学」の運動をやがて開始するようになるが、それはそもそもブルームハルトの見出した「生ける力ある神」の認識を、神学的に展開するものという側面があった。

 

バルトが『ローマ書講解』を書いたときに、念頭にあったのはブルームハルトが見出した、「力ある神」にほかならない。

 

近代主義神学が完全に忘れ去っていた、ブルームハルト的な神への信仰と認識のもと、バルトは聖書を読み直したのだ。

 

バルトは「人間の信仰や疑いによっては揺れ動くことのないイエス・キリストの信実」を語って倦むことがなかったが、これはまさにブルームハルトから受け取った信仰的認識だった。

 

バルトを突き動かし、『教会教義学』へと向かわせたのも、その根底にはブルームハルトの認識がある。

 

「弁証法神学」が理論化されるにつれ、ブルームハルトの生き生きとした認識が薄れていく面は否むことができない。

 

バルトが「神は」と語るとき、そこで意味されているのは人間を根本から変えることがおできになる、力ある神であることを見落とすと、バルト神学の力強さも感じることができない。

 

ブルームハルト父子という源流から、トゥルナイゼンの『牧会学』や、バルトの『教会教義学』が結実していったことを、思い起こすことには大切な意義があるのだ。



ブルームハルト父子 「実在の神の力」を信じる

 www.plough.com/-/media/images/plough/article/pe...

「ブルームハルト父子」についてご存じだろうか。

 

私はカール・バルトから大きな影響を受けたが、バルト神学の源流の一つは、ブルームハルト父子の信仰にある。

 

特に、ブルームハルトの父の物語は、度肝を抜かれるようなものだ。これから、父の方のブルームハルトを紹介してみたい。

 

彼は敬虔主義から影響を受けた牧師として、ドイツの田舎の教会に赴任した。素朴で熱い信仰を抱いた牧師として教会を愛し、よい働きをした。

 

そこに、ゴットリービン・ディートスという少女がいた。この少女が「悪霊に憑依されているのではないか」と考えざるをえないような、奇妙な症状を呈し始めた。

 

恐ろしい言葉を吐いたり、ブルームハルトに罵詈雑言を浴びせるばかりか、時には正気を失って襲い掛かってきた。


体が宙に浮きあがったり、大量の血を吐いたりなど、常識では考えられないような事象さえあらわれた。


(有名な古典的ホラー映画の『エクソシスト』はブルームハルトの経験を参考にして制作された、という)

 

ブルームハルトはこうしたすべてを見て、聖書を読み、とりなし祈っていたわけだが、少女の状態は悪くなる一方だった。

 

ある日、少女がひどい形相で苦しむのを見ていたとき、ブルームハルトは心底からわきあがる憤激にかられて、少女に走り寄り、無理矢理に手を組ませ、


「主よ、わたしをお助けくださいと祈りなさい。わたしはこれまで、悪霊の業を見てきた。これからは、主がなにをなさるかを見よう」


と叫んだ。

 

少女が途切れ途切れに祈り始めると、驚いたことに症状が軽くされていくのを目撃した。

 

その後、ブルームハルトは少女のところで祈りの闘いを繰り広げた。


ブルームハルトと少女がキリストに祈ることによって、悪霊の力は弱くなり始めた。

 

そして、戦いは最後の日を迎えた。悪霊は「イエスは勝利者だ!」という断末魔の叫びをあげると、少女から出ていった。


少女のあとには残骸のような症状が残ったが、それもやがて消えた。

 

その日から、ブルームハルトの身辺に不思議な出来事が起こり始める。


絶望した人、死を覚悟した人、呪われているとしか考えられないような人々、病気の人々が次々にブルームハルトのもとを訪れ、彼が祈ると苦しみから解放される、ということが生じていった。

 

そうした人々の数があまりに多くなったため、ブルームハルトは場所をバートボルという場所に移して、祈りと癒しの業を続けた。


彼の部屋には、苦しみに悩む人々が長蛇の列を作っていた。

 

ブルームハルトの物語は、「神の力」について非常に重要な示唆を与えてくれる。

 

彼は敬虔派に影響を受けた牧師として、「信仰は心のなかの事柄」という認識が強かった。


しかし、この認識では目の前で物質的な現象として苦しむ少女の症状に対して、まったくのお手上げだった。

 

ブルームハルトは、あの「憤激にかられて、無理に祈らせる」ということによって、「心のなかのこと」ではなく、「現実に及び、現実を変えることができる神の力」を味わうという信仰の突破を経験したのだとわたしは解釈している。

 

信仰が心のなかだけの観念的な課題であるなら、少女の症状が祈りによって軽減されるというのは理解できない。キリストへの信仰は現実に働き、苦しみからの解放をもたらすものなのだ。

 

そして、少女の悪霊からの解放がその地方での信仰の飛躍的前進に結び付いた、ということも、信仰が単なる心の問題ではなく、外界全般と密接にリンクしていることを教えられる。

 

私たちは神を信じるというとき、神の力によって現実的に物質世界に変革がもたらされる、と信じているだろうか。


むしろ、「神への信仰は内面的な事柄で、外の現実を変えるのは結局人間の力なのだ」と考えているところが大きいのではないか。

 

ブルームハルトの物語は、神を現実を変革するお方として信じるのか、それとも神とは単なる内面の観念的なものに過ぎないのか、そのことを鋭く問いかける視点を示してくれる。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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