教会に赴任して10年以上が経過するが、神学校を離れて牧会の現場でふらふらしながらも、母校のことや後輩の神学生たちのことを忘れたことはない。
神学教育の在り方についても、「後になったからわかること」もある。
実際に神学教育の場で労苦しておられる先生方や神学生の皆様に、ほんのわずかばかりでもご参考にして頂くために、書かせて頂きたいと思う。
まず、神学教育のことを思うとき、すぐに思い浮かぶのは、「理論と実践」の課題に他ならない。
この課題は神学のみならず、もちろん他の分野にもすべて存在する。
心理学を学ぶことと、カウンセリングの臨床の現場で働くことの関係や、経営学を学ぶことと実際に企業を経営することの関係など、すべての分野に及んでいる。
神学は「理論」だ。「実践神学」といえども、「実践についての理論」であると言わざるをえない。
理論である以上、ある程度以上は「観念的」なものであり、実践から乖離しているのは当然だ。
神学教育の場では、こういった理論を多く吸収し、理解し、神学的な考え方の「枠組み」を自分のうちに形成することが、もっとも大事になる。
基本的な「考え方」を身に着けていなければ、そもそも牧師として働くのは不可能であるため、前提として極めて重要だ。
しかし、神学教育で教えられることは、基本的な神学的思考のためのフレームワークだが、教えられることの多くが「理想論」であるという面は否めない。
牧師として顧みると、神学校で教えられることは、神ご自身のことを語る部分については完全に「アーメン」と言えることが多くても、実践的な部分については「理想としてはその通りだが、実際的には無理」なことが多い。
実践的な部分は、実践者の「生活の座」が非常に大きなファクターを占める。
実践を論じる時、論じている人自身がどのような「生活の座」にあるかを考慮しないと、そもそも議論ができない。
生活のコンテクストが異なると、実践も異なるのは当然だからだ。
自分自身のこれまでの経験のなかで、実践的に非常にきつい時期は何度もあったが、「説教」という点で言うと、特にきつかったことが二度ある。
赴任して5、6年目だったかと思うが、イースター直前の木曜日に祈祷会のあと、長老会をしていたら、信徒の方が亡くなったという電話を受けた。
翌日、受難日礼拝を行って後に、前夜式を行った。そして土曜日に葬儀を行い、火葬場に行き、日曜日にCSと主日礼拝で説教した。
すべて、違う聖書箇所である。4日間で説教6回ということになる。
正直に言うと、最後のイースター礼拝での説教は、過労のためまったく準備ができなかった。文字通り、「まったく」だ。
原稿もないし、黙想もほとんどできていない状態で講壇に立ったのは、そのときが初めてだった。さらに、礼拝には新来者までおられた。
礼拝前、「すべてをあなたに委ねます」と祈って講壇に立ったら、不思議と泉のように語るべき言葉が次々に湧いてきて、豊かな聖霊の力を体験したため、救われたという経緯がある。
礼拝後ある長老に、「今日の説教は本当によかった」とまで言われたのは、なんとも妙だが、楽しいことだった(今日はまったく準備していませんでした、とは告白しなかったが)。
主イエスが「言うべきことは教えられる」とお語りになった御言葉が真実であることをそのとき、深く味わった。聖霊に依り頼むことのパワーだ。
別のときは、2週間くらいの間に14回程度の説教したことがある。ほとんどが違う聖書箇所だ。
7回連続くらいは経験があったが、それ以上は未知の領域だったためか、10回を越えたくらいからあまりの重圧とストレスのために吐くようになった。
最後のあたりは、こみあげてくるひどい苦しみに必死に耐えながらやり終えた。
おそらく似たような経験をされている牧師の先生方は非常に多いのではないかと思う。
こういった状況があるとき、神学校で教えられる説教のやり方では、まったく対応ができない。
実践の只中では、高すぎる「理想論」は苦しみを増やすだけになることもある。
教えられる「説教準備の理想的工程」からは、ほど遠いやり方になってでも、とにかく職務を果たさなくてはならないことも多い。
釈義と黙想を何度も何度も重ねながらひたすら深めていくという説教の方法論は、ゆったりとした静かな時間が相当程度以上に確保されている、という「生活の座」で考案されたものではないかと思う。
日々果てしなく、子育て、家事、牧会、対外的働き(地区、教区、施設など)、あらゆる事務などを継続的にし続け、時間とエネルギーに余裕がほとんどないような「生活の座」にある人には、こういったやり方は適応できないことを認めないわけにはいかないのではないか。
神学生の皆さまは、神学校で教えられる多くの「やり方」についての多くは、一つの「理想」を示すもので、「この通りにやらないと神に怒られ、裁かれる」ような「律法」ではないことを、心に刻んだ方がよいと思う。
教えられることを「やがて到達すれば望ましいであろう努力目標」くらいに考えないと、教会の働きはやっていけない。
これらのことは、これまでの多くの世代の方々にとっては「当たり前のこと」かもしれない。
「学校で教えられることは、すべてヒントでしかないのであって、あとのことはすべて自分で考え、模索しなくてはならない」というのは、ある意味学校教育での暗黙の常識であり、前提のようなものだ。
しかし、まじめなで熱心な神学生ほど教えられることを「絶対的に服従すべき律法」と受けとめて、その通りにできないことに悩むことが多いのもまた事実だ。
「当たり前のこと」が、もはや今では「当たり前」ではなくなっている状況を認識することが、大事なのではないかと思う。
「当たり前」のことさえ、丁寧に最初から語り直さなくてはならない時代なのだ。