エミール・ブルンナーについては、カール・バルトと論争した人物としてよく引用される。いわゆる「自然神学論争」だ。
ブルンナーは、人間の言語を使用する力のうちに、神との交わりをする基礎があると考え、そこに「神との結合点」を認めようとした。
言葉を使う力において、人間はもともと神との交わりをすることができる力があると考えた。
だが、バルトは人間が神と交わりをすることができる「神との結合点」というものはもともと人間のうちにまったくない、と考えた。
むしろ、神の言葉と聖霊の働きによって、この結合点は恩寵のうちに人間のうちに新たに創造されるのだ、とした。
いわゆる「恵みのみ」の教理をバルトは徹底したのだ。
この論争でブルンナーは非常に傷ついたようだ。バルトと神学的に決裂し、思い悩んだ。
ブルンナーについては、この論争がやたら有名になってしまい、彼の他の著作にはあまり目がいかなくなってしまったような感じがする。
だが、ブルンナーはバランスの取れた、良質な神学的著作を書き残していると思う。
彼の『信仰・希望・愛』という小冊子を読んで、私は非常に感銘を受け、教えられた。
この小冊子では、「信仰は過去に対し、希望は将来に対し、愛は現在に対している」という形で、「信仰・希望・愛」が「過去・将来・現在」に関わる、時間的な形態をしているのだ、ということを解き明かしている。
このことを読んだとき、目からウロコが落ちた思いになった。
イエス・キリストの十字架を信じることにおいて罪の赦しがある。
キリストの再臨の約束を信じることにおいて希望がある。
キリストが今、共にいてくださることを信じることにおいて愛がある。
これはまさにキリスト教信仰の本質的な部分であるように思える。
ブルンナーは、バルトのラディカルな「恵みのみ」の神学と比べると、バランスや穏健さを重んじる穏やかな神学になっているように思う。
だからこそ、信仰的なバランス感覚が優れており、読んでいて気持ちのいい著作が多い。
彼の著作を「バルトと論争して負けた」というようなイメージで軽んじるのは、あまりにもったいない。
あまり「自然神学論争」という色眼鏡をかけずに、生のブルンナーに触れて頂きたいと思う。彼は非常に優れた神学者だったと思う。