牧師は「御言葉の説教と聖礼典の執行」を主たる職務とするが、教会で生じる課題の「すべて」について、責任を負っているとも言える。
教会の維持管理に関わることから、事務的なことに至るまで、牧師に責任のないものはないと言える。
一方、その牧師はいずれはその教会を去る人間であり、別の人間が導かれ、職務に着く。
牧師は「いつそこからいなくなるのか、わからない」者でありながら、「そこに責任を負っている」という、不思議な状況を抱えている。
牧師と教会の方向性が異なってしまえば、牧師はそこにいることはできない。
教会が牧師の説教や奉仕を軽んじ、それを受け入れないなら、牧師は早晩そこにいることはできなくなる。
牧師自身や家族に重大な病気や事故などがあれば、牧師はそこにいることができなくなることもある。
牧師は薄氷の上を歩くように、「いつ神によって取り除かれるか、わかららない」ものとして、職務を推進していく。
そして、牧師が辞任するときというのは、ほとんど常に教会員にとっては「青天の霹靂」として、つまり「まったく予想もしないような時や場所」で告げられたりする。
「まさかあのとき、牧師が辞任するなどとは思わなかった」と多くの人は口をそろえて言うのだが、実のところはその下地は数年以上前から準備されているのが普通だ。
上にあげたような、なんらかの理由が辞任せざるをえない水準にまで大きくなってくるとき、牧師は神の御心を問いつつ歩むが、いよいよ自分がそこにとどまることが御心とは思えない時がやってくる。
教会の職務は、牧師が担うことによって適切に進められることも多いが、当の牧師は「いついなくなるかわからない」、グレーな部分がある。
つまり、教会形成を「牧師依存」「牧師主体」で進めれば進めるほど、「牧師の辞任」によって教会が支払う「負の影響」の代償はより大きくなる、ということだ。
教会員が皆で協力して教会形成を担い、牧師は「御言葉の説教と聖礼典」に集中できている、という状況であれば幸いなことだ。
牧師が交代しても、説教や聖礼典の質が確保されていれば、教会としては確実に前進を続けることができる。
しかし、説教と聖礼典のほかの部分について、教会形成の多くのことを「牧師依存」で進めてしまうと、牧師の辞任によって教会が受ける打撃というのは想定をはるかに超えるものになる。
「あの牧師がいたからやれていた」という働きのすべてが、すぐに消え失せてしまうか、別の形に変更せざるをえない。
さらに、教会が「牧師依存」ができるような働きをする牧師は、そう簡単に与えられることもない。
こうして、先代が築いたものの多くが、次の世代でいとも簡単に打ち壊される、ということが起こる。
教会形成における「賽の河原問題」だ。
石を積んでも積んでも、やがて次の時がくると積んだものすべてが崩されてしまい、最初からやり直しになる。
歴史的に、何度も何度も、同じことがループし、教会の現実は大局的に変わることがないか、衰退を続けてしまう。
この問題をクリアしていくには、まずは教会が「牧師依存」の体質を脱却しなくてはならない。
同時に、ある牧師が辞任しても、後任者において少なくとも「説教と聖礼典」においては、しっかりとした質を保つ必要がある。
そのための牧師養成・神学教育が確立されなくては、「賽の河原問題」は無限ループとなり、教会の将来を閉ざし続けるだろう。
教会としては、いかに「牧師依存」の体質を脱ぎ捨て、それぞれの信徒が「自分の集う教会は自分が支えていく」という意識を育てることができるか、それが最も大きな課題となる。