宗教改革500年は過ぎたが、「プロテスタントの本質」について考えるものとして、「誰に抗議する」ものか、という主題を考えてみたい。
「プロテスタント」という用語は、1529年の帝国議会でカトリック教会を支持する議員の決議に対して、ルターの改革を支持する議員が抗議したことから、「抗議する連中」というカトリック側の悪口に始まり、教派の名称として定着したもの。
また少なくとも、ルターやカルヴァンなど宗教改革者たちは、当時のカトリック教会の在り方全般に対して聖書から抗議する論陣を展開した、ということについては、異論はないだろう。
つまり、「カトリックへの抗議」がプロテスタントの最初の「誰」に対する答えだった。
宗教改革のしばらくのち、正統主義として信仰が硬直化していくなかで、「敬虔主義」の運動が起こった。
これらは「教条化・硬直化・悪しき学問化していく信仰への抗議」という意味があったと考えられる。
イギリスではカトリックから分離して不安定な年月を過ごしたのち、エリザベスの「中道」路線において安定を見た。
これに対して「ピューリタニズム」が起こったが、これは一面においてはカトリック的なものをぬぐえない国教会への不徹底さへの抗議だったと言えるかもしれない。
ジョン・ウェスレーやホイットフィールド、その後アメリカの信仰復興運動のなかで活躍した信仰者たちは「この世とその不敬虔・不道徳」への抗議者だったとも言える。
時代は飛ぶが、カール・バルトやボンヘッファーはナチスへの抗議の神学者だったと言えるだろうし、現代のペンテコステ派やカリスマ派の信仰の在り方は、「世俗主義」とその背後の悪魔的なものへの抗議である性格が強いと言えるのではないか。
歴史をたどるとプロテスタントは何者かに抗議することによって、自らの信仰のアイデンティティを明確にし、聖書の教えを鮮明化することで、歴史を築いてきた面を否定することはできないだろう。
ところで、現代を生きるプロテスタントはいったい「だれ」に対して、抗議する意志を持っているのだろうか。
これはプロテスタントにとっては、象徴的でありながらも極めて本質的な課題だ。
おそらく、現代のプロテスタントはこの課題に対して、「主として誰に抗議しているか」という点について、大別すると三つの在り方を示している。
①社会的な強者や権力者、弱者を抑圧する者に抗議する。
いわゆる「社会派」の在り方。多くの教派に広くこういった考え方をする牧師や信徒の方々がおられ、各種の活動をしている。
②世俗とその在り方に抗議する。
ある意味伝統的な在り方で、この世の限界や暗闇、罪のあり様に抗議しながら、福音による救いを説く在り方。いわゆる「教会派(福音派)」に相対的に多い。
③悪魔的なものに抗議する。
日常的なもののなかに頻繁に悪魔的なものを見出して、こういったものに祈りや説教で抗議する在り方。いわゆる「聖霊派」に相対的に多い。
以上の三つの類型はそれぞれに真理があるものだろう。
また、これらとは別のバージョンとして、実践的領域では以下のようなものもある。
これらは当事者による建設的な「自己批判」のこともあるが、純粋な攻撃や破壊的な作用をもたらす批判としても起こっている。
・「現代の教会の在り方」に抗議する。教会のなかのこの世性や非福音的な部分、悪魔的なものに抗議する。
・「牧師の在り方」に抗議する。牧師のなかのこの世性、非福音的な部分、悪魔的な部分に抗議する。
・「信徒の在り方」に抗議する。信徒のなかの・・・(同上)。
・「他の教派の在り方」に抗議する。他の教派のなかの・・・(同上)。
・「神学校の在り方」に抗議する。神学校のなかの・・・(同上)。
以上のような流れを見るとき、現代のプロテスタントが置かれている「特質」が浮かび上がってくる。
当初、プロテスタントの「抗議の対象」は相当に絞られていた。
「カトリック教会」とそれにかかわる考え方などが主たる対象だった。
ところが現代では、その抗議の対象は非常に「多様化」かつ「個別化」・「分散化」し、プロテスタントは一つの教派としてのまとまりをもって抗議するような「対象」を失っていると思われる。
各自が自らの関心や怒り、注意を誘う対象に対して、多種多様に抗議しており、ある意味ではそれがプロテスタントとしての「バラバラ感」を強力に強めているのではないか。
いま必要なのは、もう一度「聖書は主として誰に抗議しているか」について、じっくりと問い、考えてみることだろう。
聖書の抗議の対象も非常に多様なものがあるのはもちろんだが、特にイエス・キリストというお方の御業から考えるとき、おのずと聖書の中心点は「罪と死への抗議」である、と理解できる。
そして、その「罪と死」は「自分をも巻き込んでいる」ものである以上、「自分を棚に上げる」ことはできない。
「自分自身も罪と死に巻き込まれている者として悔い改め続けていく」ことを絶対的前提として確認すべきだ。
私たちはキリスト者である以上、まずは「自分の罪」に抗議し続ける意志を持たなくてはならない。
それをまったく失ってしまうなら、もはやキリストの道をたどることなどできない。
そのうえで、現代において、聖書が抗議しているような「罪と死」は、どこに象徴的かつ時代的に、顕現しているのか、それを信仰のまなざしをもってしっかりと見抜いていくことが必要になる。
「罪と死」の力は私たちの身近なところや手が届くところでは、どこで、どのように猛威を振るっているのか。
これは説教や牧会の課題であり、教会の課題であり、キリスト者各自の非常に実践的な課題になる。
この黙想が深まっていくことが、プロテスタントとしての信仰が鮮明化されていくうえで、大事な作業になるだろう。
私たちは今、「誰」に、「何」に抗議するよう、神に求められているのか。