マイスター・エックハルトの著書を読んだことのあるプロテスタントの方は、おそらくあまりいないと思う。
教職の方なら、読んだ方もいらっしゃるだろう。だが、エックハルトの神学に心から共感した、という牧師には、私はいまのところお会いしたことがない。
エックハルトは、中世の神秘主義の巨峰といっていい。
彼の著書で日本語で読めるものの代表は、『神の慰めの書』だろう。
彼の神学のうち、特に私が心惹かれるのは、「離脱」について明白に語っていることだ。
福音書を読むと、キリストは「捨てる」「手放す」ことについて何度もお語りになっている。
家族や、財産や、自分自身も、捨てることを通してキリストに従うように招かれている。
この「捨てる」ことの意味を、私はエックハルトから初めて教わったような気がした。
どの神学者の言葉を読んでも腑に落ちなかったものが、エックハルトの「離脱』の教えによって、ようやくクリアになったように思う。
「離脱』とは、心があらゆる被造物への執着から離れることだ。あらゆる被造物を求め、それを楽しみ、力を吸い取ろうとする、そういう心の動きを捨てることだ。
そのことによって、キリストが私たちが私たちのうちに住んでくださり、私たちにとってすべてとなられる。
今の時代に、被造物への執着を捨てるように招く言葉は、あまり説教壇から響いてこない。
「それを言うと、伝道にならない。人が嫌悪感を抱くかもしれない」という配慮からくるところもあるだろう。
しかし、キリストの働きをより深く味わっていくためには、私たちはどこかで「捨てる」ことの真理に出会う必要がある。
被造物への執着を離脱することによって、それに逆対応するように創造主の素晴らしさを知る、ということはやはり聖書が伝えている真理の一断面なのだ。
エックハルトには、確かに極端だと感じられるところもある。
「神秘主義」的な部分を突き詰めるあまり、聖書から「離脱』してしまっている、と感じてしまってもおかしくない記述もある。
しかし、それをふまえても、なお学ぶ価値が彼の神学にはある。
私たちが忘れてしまいがちな、聖書の真理の一側面を、清冽な言葉で思い起こさせてくれるのだ。