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植村正久 宗教弁証論

 教会のご紹介 | 富士見町教会

植村正久の著作のなかによく出てくる言葉に、「宗教」がある。

 

植村の著作集のいたるところで、「宗教」という用語を使って記述をしている。

 

このことと、たとえばカール・バルトがよく語る「宗教は不信仰である」「宗教は偶像崇拝である」「宗教の揚棄としての啓示」といった一連の宗教批判の命題とは、どういった繋がりがあるのだろうか。

 

また、ボンヘッファーも『獄中書簡』のなかで「非宗教的解釈」を提唱しつつ、「宗教」が語る神を「機械仕掛けの神」として批判している。

 

植村は「宗教」を肯定的・積極的に使用し、弁証法神学者の多くは、「宗教」を批判している。両者の「宗教」のニュアンスや意味合いは、明らかに異なる。

 

バルトが宗教批判をするとき、その念頭にあるのはシュライエルマッハーの神学だ。

 

つまり、シュライエルマッハーが「宗教」とは「絶対依存の感情」であるとして、当時の教養ある人々に宗教の意義を説明したが、この神学は「人間を救う神」よりも「神を信じる人間」にフォーカスしていく、という傾向がある。

 

バルトは、「結局のところ、大事なのは神ではなく人間なのだ」という傾向全体に「否!」を唱える神学を展開した。


バルトは「宗教」という用語を通して批判する時、「神を信じる人間」という意味合いで使っている。

 

そして、バルト神学などが「福音は宗教ではない」という主張をするとき、それは「福音は人間を救う神の恵みであって、それを信じる人間の側の事柄ではない」ということだと私は理解している。

 

「宗教を信じる」というのは、一般的に「教祖が編み出した教えの体系を信じる」といったニュアンスを含んでいるが、私たちは教義や教理を信じているのではなく、むしろ「教理を通して神を信じている」のだ。


「宗教」や「教義」と「神ご自身」は、明白に区別をしなくてはならない。

 

「宗教」=「神」では、ありえないのだ。

 

一方、植村正久が宗教について熱く論じるとき、彼は常に「日本人と日本社会」というコンテクストに向けて、信仰や聖書の教えの意義を弁証しつつ伝道する、という動機で語っているように思える。

 

当時の日本社会はご存じの通り、キリスト教に対してまったくといってよいほど理解がなく、偏見や差別的な言辞、アレルギーや拒否反応に満ちていた。

 

そういったなかでは、少しずつでも受け入れられるためには「キリスト教は日本社会にとって、こういったメリットがあり、このような役割を果たすもので、結果的に日本社会にとって非常に重要な意味がある」ということを、逐一説明していかなくてはならない。

 

そこで、植村は「宗教論」を日本伝道の「足場」としながら弁証・伝道する方法論を用いた、と言える。


キリスト教の宗教的意義を弁証することで、日本社会の「土壌」を変革し、キリスト教が受け入れられる地盤を作ろうとしたのだ。

 

バルトと植村の違いは明白だ。巨大な教会が満ち、住民はほとんどが幼児洗礼を受けており、教会税さえ存在しているような「キリスト教社会」での課題は、「本物の信仰が世俗化し、薄らいでいく」ことだ。


一方、仏教や神道が大多数の人々に支持される日本社会では、「信仰が定着する」ことが課題になる。

 

その両者の間に横たわるコンテクストの相違は、「桁外れ」に大きいと言えるのだ。


このようなヨーロッパと日本の教会的コンテクストの違いが、バルトと植村の「宗教」に対する扱いの違いを引き出しているのだ。


バルトと植村は、基本的にほぼ同じ路線に立っていると私は理解しているが、置かれているコンテクストが異なるなら、神学的課題の扱い方も異なって来る。

 

こうしたことから、神学用語の意味は、その神学者が置かれている社会的・文化的「コンテクスト」が非常に重要な規定要素であって、ここを無視してただ用語上だけを受け止めると、大きな混乱が生じることを、改めて覚えておきたい。


植村正久 「進歩的正統主義」

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植村正久は、自らの立場を「進歩的正統主義」と名付けて語っている。

 

この「進歩的」というのは、いわゆる「進歩史観」や「科学の進歩」というときの単純な意味よりも、一層深いものと考えた方がいいだろう。

 

植村の言う「進歩的」とは、「時代の要求や課題に取り組み、新しい認識と理解、洞察を獲得することによって深化・発展していく」のものということだろう。

 

「進歩的」とは、ある意味「革新的」なことであり、「新しいものを創造的に取り入れる」ことを意味する。


「保守的」とは反対の意味が含まれうるものだ。

 

あまりに「進歩的」「革新的」であれば、先達が伝えてきた信仰の原理原則まで変えてしまおう、というモチベーションも生まれてくる。


「処女降誕」「原罪」「贖罪」の意味などを、骨抜きにしていくネガティブな力も働くようになる。

 

逆に、「正統主義」という言葉は「保守的」に通じるもので、歴史的には「進歩的」とは相いれない面があった。

 

「正統主義」は、「信仰者として守るべき原理原則」を保持するという意味では重要だったが、それは同時に「教義的に固定化した教条主義」になりがちだった。

 

宗教改革者ルターやカルヴァンの生き生きとした信仰の認識は、「正統主義化」することによって干からびて形骸化し、生命を失っていった。


この命のなさを是正するために、ドイツに「敬虔主義」が出現しなくてはならなかった。

 

「進歩的」と「正統主義」は、ある意味では対立概念であり、ここには「緊張関係」が存在する。


「進歩的」であり過ぎると、信仰が壊れてしまい、「正統的」であり過ぎると、硬直して命を失う。

 

植村正久は、この両者の緊張関係を維持して、この圧力に耐えながら信仰を深めていくことが、信仰者としての「王道」であることを、喝破していたのだ。

 

時代の課題や要求、新しい認識と学問に対して、開かれた心をもって対峙することで、現代的な理解が与えられる。


しかし、こちらにのめり込むと、信仰の重要な真理を相対化し、失いかねなくなる。

 

これに対し、祈りをもって立ち向かい、新しい時代的認識と「正統主義的信仰」をすり合わせ、「正統主義」の内容はしっかり保持しながら、これを「新しい言葉と理解」をもって深化・発展させつつ語り直して伝道する。

 

これが、伝道と神学の王道なのだ。

 

「進歩的」に傾くか、「正統主義」に傾くかした方が、新たに考え続けなくていいため、精神的には楽だ。


植村は、この楽な道を排して、両極の緊張のなかにとどまり、信仰が深化発展していく創造力を発揮するべきことを示してくれている。

 

私自身は、日本伝道をしていくうえで、この植村の「進歩的正統主義」よりもよい立場というものは、今のところ存在しないと思っている。


「革新」も「保守」も、あまりにどちらかに傾斜する精神的安易さを脱さないなら、将来はないのではないか。

 

この路線はいばらの道であるが、この道の先に将来が開けるものを信じる。

 

植村の生涯を記した以下の著書に「進歩的正統主義」について書かれている。



植村正久 日本人のための主題的・弁証的説教

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植村正久の説教を読んでみると、それが現代の多くの教会で説かれている説教と、随分趣が違うことに驚く。

 

説教題からして、まったく違う面がある。

 

「三種の求道者」

 

「基督教の道徳と基督教の信仰」

 

「文雅の紳士と基督教」

 

「情欲の霊的解釈」

 

「都と田舎」

 

「衣食住」

 

こういった説教題を、現代の牧師がつけているところは、あまり見かけない。

 

こうした題の付け方にもあらわれている事柄がある。


植村の説教は明確に「主題的」であり、「弁証的」なのだ。

 

説教とは「聖書の講解・解き明かしが中心であり命である」として、聖書箇所を一つ一つ綿密に解説する説教がある。

 

一方で、会衆にとって身近な主題を取り上げながら、会衆の生活と聖書を切り結ぶ形でする説教がある。「主題説教」だ。

 

さらに、主題的でありつつ、会衆の心のうちにある信仰に関わる様々な疑問や問いかけをまっすぐに取り上げて、説教のなかでこうした問いについての議論を深め、聖書から答えを探るようなタイプもある。


「弁証的説教」と言えるだろう。

 

植村正久は、「講解説教」に近い説教も残している。


だが、一方でこうした「弁証的説教」も多い。


そして、こちらの方にむしろ植村の真骨頂があるように思える。

 

キリスト教が根付いていない日本の地で、いかに地に足をつけて伝道するか、というときに植村は弁証的説教の道を歩んだ。

 

イエス・キリストへの信仰が日本の地に「受肉」していくために、植村の弁証的説教は改めて受け止め直すべきテーマだと思う。

 

これまで、さまざまな機会にさまざまな説教を聞いてきたが、そのなかの多くは「受肉する説教」であるよりも、「頭のうえをすっぽ抜けて行く説教」だった。

 

語られていることは教理的にまったく正しいし、聖書に即している。


しかし、会衆が日々格闘している生活の次元に触れて来ない、もしくは日々心に感じている疑問や重荷をまったく取り上げない説教が多かった。

 

そうした説教も用いられる時があると思うし、それらをすべて否定しようとは思わない。

 

しかし、特に「日本伝道」という生活の座を考えるときには、厳密な「講解説教」よりも、植村的な「主題的・弁証的説教」をもっともっと継承し、これを発展させていかねばならないと感じる。

 

もちろん、主題的・弁証的説教は、聖書に深く根ざしてものになっていないと、本当に人を救う言葉にはならない。


単なる「よいお話」に終わってしまう危険がある。

 

聖書を深く掘り下げつつ、同時にそこに満足せずに会衆の魂のうちに受肉していく弁証的説教を求めて行くのが、今の時代の伝道の最重要の課題だと信じる。


植村正久 「日本とキリスト教」

 

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私が日本の牧師・神学者のうちで最も影響を受けたのは、植村正久だと思う。

 

私の母校は東京神学大学で、植村の建てた「東京神学舎」がその前身だから、当然といえば当然だ。


プロテスタント全体としては、自分はマルティン・ルターやカール・バルトを故郷のように感じるが、「日本人」のキリスト者としては植村正久に最も共感するところが大きい。

 

彼の「日本とキリスト教」について書いたエッセイは、「ナショナリズムに染まっている」という批判もあるかもしれないが、しかし熟考すべき問題だ。

 

植村は明治のキリスト者として、「日本」を愛していた。彼は天皇や皇室に対しても、素朴な尊敬を抱いていた。


彼の日本への愛が、「日本の教会は日本人によって運営される、国民の教会にならなくてはならない」という「欧米の教会からの独立論」の論陣を張ることにもつながった。

 

また、彼が宣教師との微妙な対立をも経験したのは、日本というものを真剣に受け止めるところに根があったように思う。

 

「公会主義」といわれる、日本独自の無教派的教会を目指す、という初期の信条についても、「日本伝道のためには『教派色』はかえって邪魔になる」ということで、明らかにそこに「日本への愛」という契機があったのは確かだろう。

 

彼の神学の方向性は、「日本伝道のために、独自な国民的な教会を建て上げる」ことにあり、それは必ずしも「教派」を日本に移植することではなかった。

 

これが植村の長所であり、同時に弱点にもなっただろう。

 

弱点についていえば、彼は今でも「戦争に同調した」牧師として言われることがある。


彼がひいたレールが、太平洋戦争のときに日本が軍部に賛同するきっかけになった、という風に考えられることもある。


これについては、彼の思想傾向に内在していたことだったと言っていいだろう。

 

強みについては、彼の神学的遺産によって、日本においてキリスト教会は初めて日本社会に根付いたと言えるのではないだろうか。


植村のような方向性を打ち出さず、あくまで「教派の移植」ということにとどまっていたら、たとえば日本基督教団が現在のような形になったかどうかは疑問だ。

 

いま、日本のキリスト教会のなかに、どれだけ「日本への愛」があるかどうか、わからない。


明治のキリスト者は、皆この愛に燃えていた。内村鑑三も、新渡戸稲造も、植村正久も。

 

教会は「主の教会」だから、もちろん普遍的な教会であり、「日本」という国家によってそれが区切られるものでもない。


しかしだからといって、自らが生かされている現実を度外視した神学は、「仮現論」的な神学として、まったく現実に根付くものとならない。

 

植村は、公同的な神学を豊かに継承しながら、日本社会に教会を根付かせる方向で力強く神学した牧師だと思う。


彼の神学について、新たに受け止め直す必要がある。

 

彼の味わい深い説教から読んでみると、彼の内面の深みを味わうことができる。

 


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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