教会を前進と成長に導くのは伝道である。それ以外にはない。
前進と成長は、伝道の結果である。
伝道とは、御言葉を様々な方法によって広めることである。
牧師は御言葉を広めるために必要なことはなんでもする。
牧師の存在意義は、御言葉を伝えることだ。牧師は伝道者であり、それ以外の何者でもない。
しかし、このことは御言葉を広めることに対して、間接的であったり、距離があったり、必ずしも必要でないことは牧師はしない、ということを意味する。
礼拝、祈祷会、集会、信仰教育、交わりの会、結婚式・葬儀といったことは、牧師は積極的にしていく。
これらは、御言葉を広めるためにどうしても必要だからだ。牧師自身が御言葉を語ることで、全力で伝道していく。
ところが、以下のものは御言葉を広めることにとって、どうだろう。
幼稚園・保育園の経営、カウンセリングの実施、福祉施設の運営、英語教室、バザー等・・・
これらは、確かに間接的に御言葉を広めることに関係している。
付帯施設をしていれば、子供や保護者に御言葉を伝える機会がある。その他の事柄も、御言葉を伝えるきっかけとはなりうるだろう。
だが、問題はこれらを「だれが」するのか、という点である。
これらを「牧師」がすることになったらどうだろうか。
これらの事柄は、牧師に対して大きな労力と時間を割くことをどんどん要求してくる。
牧師は御言葉を広める伝道者だ。
ところが、これらの働きを牧師が中心になってすることで、牧師は御言葉を広めること以外の恐ろしくたくさんの雑務と事務をこなさなくてはならなくなる。
牧師に与えられている時間と労力の非常に多くが、伝道以外の事柄に消費されてしまうのだ。
こうして、御言葉を広めることだけに集中していれば、牧師に可能だったはずの多くの伝道の業が、こうした他の分野と事柄に分散されて、結局伝道の業にはわずかな力と時間しか注がなくなる。
こうした伝道以外の他分野の働きによって、牧師が給与を受け取るようになると、お金をもらうことで責任が出てくるので、余計にたくさんの働きを引き受けざるをえなくなっていく。
こうして、牧師が伝道に注ぐべき力と時間が、他のことにいよいよ分散されて、伝道はいよいよ停滞していくのだ。
答えははっきりしている。
こうした、御言葉を広めることにとって「あまりに間接的な事柄」から、牧師は身を引くべきだ。
そして、自分に与えられている全部の時間と労力を、伝道に、御言葉を広めることについて祈り、考え、学び、実施することに集中するのである。
他の分野については、牧師ではなく、信徒の方々に担って頂くのである。
これによって、信徒の皆さんは、賜物を生かして奉仕する場が与えられるし、牧師は伝道に集中することで、教会の前進と成長におおいに貢献することができる。
牧師が、御言葉を広める業に全力を尽くすことでしか、日本伝道の将来は切り開かれないと信じている。
もちろん地方教会であると、牧師がこうした他の分野の働きから給与を受けないと、やっていけないほど教会が厳しいことが多い。
この事情があったとしても、牧師が伝道だけに集中できるようなシステムを、工夫を重ねて構築するべきである。
牧師の時間と労力を、他分野に費やさなくもいいような体制ができないと、教会の停滞現象が克服されることはないだろう。
教会が新しく前進と成長を始めることもないだろう。停滞はますます深刻化するだけだろう。
牧師は伝道者だ。
伝道者は、御言葉を広めることを使命とし、自らのすべてをこの使命にささげる。このことによって、必ず教会の将来は切り開かれることを確信するものである。