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牧師の職務について⑥ 「伝道」に対して「間接的」な課題

 Juíza reconhece vínculo empregatício entre pastor e igreja - Migalhas  Quentes


教会を前進と成長に導くのは伝道である。それ以外にはない。


前進と成長は、伝道の結果である。


 伝道とは、御言葉を様々な方法によって広めることである。


 牧師は御言葉を広めるために必要なことはなんでもする。


牧師の存在意義は、御言葉を伝えることだ。牧師は伝道者であり、それ以外の何者でもない。


 しかし、このことは御言葉を広めることに対して、間接的であったり、距離があったり、必ずしも必要でないことは牧師はしない、ということを意味する。


 礼拝、祈祷会、集会、信仰教育、交わりの会、結婚式・葬儀といったことは、牧師は積極的にしていく。


これらは、御言葉を広めるためにどうしても必要だからだ。牧師自身が御言葉を語ることで、全力で伝道していく。


 ところが、以下のものは御言葉を広めることにとって、どうだろう。


 幼稚園・保育園の経営、カウンセリングの実施、福祉施設の運営、英語教室、バザー等・・・


 これらは、確かに間接的に御言葉を広めることに関係している。


付帯施設をしていれば、子供や保護者に御言葉を伝える機会がある。その他の事柄も、御言葉を伝えるきっかけとはなりうるだろう。


 だが、問題はこれらを「だれが」するのか、という点である。


 これらを「牧師」がすることになったらどうだろうか。


これらの事柄は、牧師に対して大きな労力と時間を割くことをどんどん要求してくる。


 牧師は御言葉を広める伝道者だ。


ところが、これらの働きを牧師が中心になってすることで、牧師は御言葉を広めること以外の恐ろしくたくさんの雑務と事務をこなさなくてはならなくなる。


牧師に与えられている時間と労力の非常に多くが、伝道以外の事柄に消費されてしまうのだ。


 こうして、御言葉を広めることだけに集中していれば、牧師に可能だったはずの多くの伝道の業が、こうした他の分野と事柄に分散されて、結局伝道の業にはわずかな力と時間しか注がなくなる。


 こうした伝道以外の他分野の働きによって、牧師が給与を受け取るようになると、お金をもらうことで責任が出てくるので、余計にたくさんの働きを引き受けざるをえなくなっていく。


こうして、牧師が伝道に注ぐべき力と時間が、他のことにいよいよ分散されて、伝道はいよいよ停滞していくのだ。


 答えははっきりしている。


こうした、御言葉を広めることにとって「あまりに間接的な事柄」から、牧師は身を引くべきだ。


そして、自分に与えられている全部の時間と労力を、伝道に、御言葉を広めることについて祈り、考え、学び、実施することに集中するのである。


 他の分野については、牧師ではなく、信徒の方々に担って頂くのである。


これによって、信徒の皆さんは、賜物を生かして奉仕する場が与えられるし、牧師は伝道に集中することで、教会の前進と成長におおいに貢献することができる。


 牧師が、御言葉を広める業に全力を尽くすことでしか、日本伝道の将来は切り開かれないと信じている。


 もちろん地方教会であると、牧師がこうした他の分野の働きから給与を受けないと、やっていけないほど教会が厳しいことが多い。


この事情があったとしても、牧師が伝道だけに集中できるようなシステムを、工夫を重ねて構築するべきである。


 牧師の時間と労力を、他分野に費やさなくもいいような体制ができないと、教会の停滞現象が克服されることはないだろう。


教会が新しく前進と成長を始めることもないだろう。停滞はますます深刻化するだけだろう。


 牧師は伝道者だ。


伝道者は、御言葉を広めることを使命とし、自らのすべてをこの使命にささげる。このことによって、必ず教会の将来は切り開かれることを確信するものである。


 





牧師の職務について⑤ 「旧約聖書からの説教」

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左近淑先生の名前を知っているのは、おそらく旧約関係の方々と、東京神学大学関係の方々だろう。


東神大では、私は旧約については左近先生の『旧約聖書緒論講義』からしばらく講義を受けた。


ところがそこで、「左近先生=緒論」という妙な図式が頭のなかにできてしまい、はじめて旧約学に触れる困難さとあいまって、「左近先生=細かい議論」という偏見もまた脳裏にインプットされてしまった。


その先入見のせいで、大学院に入るまで、ほとんど左近先生の本は緒論講義しか読まずに敬遠していた。


「どうせ読んでも、難しい聖書学の議論で、信仰的な恵みはないのだろう」と勝手に思い込んでいた。


「旧約学では、説教などできない」という私なりの先入見も手伝って、左近先生の他の本から私を遠ざけてしまっていた。


ところが、大学院に入り、「旧約聖書のテキストでどう説教するか」という問いと格闘することとなった。


自分なりにいろいろ模索するが、どの神学者の説教も、どうにもしっくりこない。


旧約を説教するとき、「とってつけた感」がどうしてもある。


つまり、「旧約のテキストから自然に出てきたメッセージ」ではなく、「旧約テキストを自分の語りたいことのために利用して、新約のメッセージを語っている」に過ぎないものがほとんどだったのだ。


旧約は新約のための「踏み台」に過ぎず、旧約自体には、それほど福音としての重要性を感じさせない説教がほとんどだった。


欧米の神学者の説教もかなり読んだが、この課題については本当にしっくりとフィットするものがなかった。


そんななか、図書館をさまよっていたとき、たまたま手に取ったのが左近淑先生の『聖句研究』という書物だった。


これを読むなかで、私自身は「目からうろこのようなものが落ちた」というパウロ的体験を与えられた。


左近先生のこの書物は、旧約のテキストをまったくその時代のコンテキストに即して取り上げ、まっすぐに掘り下げる。


そして、掘り下げられていくなかで、非常に自然な形で、それが「福音のメッセージ」として解き明かされていく。


そのメッセージがあまりに現代的であるため、深く胸を打たれるものだった。


「旧約は新約とかけ離れているので、旧約をなんらかの釈義的テクニックで読み解き、うまく新約につなげる」というものでは、まったくないのだ。


旧約をひたすら読みながら掘り下げていくことで、当然のように新約と一致した福音が語りだされる。


福音という点において、旧約がまったく新約と一致することが、旧約テキストに取り組んでいくとき、自然を明らかになっていく、という稀有の読書体験を与えられた。


「旧約は、こんなに恵み深いものだったのか!」という深い想いがはじめて与えられたのが、私の場合は以下の先生の書からだった。


「緒論」の精緻な旧約学の議論をする左近先生とは、ある意味ではまったく別の姿を示す、「預言者左近」の姿を彷彿とさせるのが、以下の書物である。


左近先生の説教集も読ませていただいたが、これも旧約の言葉が現代へと「立体化」するのが、語弊はあるが「天才的」であると感じられるほどのもので、旧約聖書の説教において迷っている方々は、絶対に助けになることを請け合うことができるものである。


「旧約のテキストで、どう福音を語って行けばいいのか」「旧約における福音とはなにか」といった課題をめぐって、迷っている方々は、ぜひ以下の書物を参照していただきたい。


必ず、大きな光が与えられ、旧約の恵みに目が開かれるだろう。


牧師の職務について⑤ 伝道者の「キャラ」と伝道方法

 Juíza reconhece vínculo empregatício entre pastor e igreja - Migalhas  Quentes

 

上馬キリスト教会というところの信徒お二人が担われている、ツイッターのアカウントが、キリスト教としては珍しく非常に多くのフォロワーを多く集めており、話題になった。

 

そこから、『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』という本が出版され、今注目されている。

 

こういった新しい試みと成功例は、活力を失って苦しんでいる日本の教会にあっては、「なお、教会が生きている証拠」の一つとして、喜ばしいことだ。


こうった新しい試みが、いろいろな形で出てきてほしいと願っている。


特に、ITやウェブ関係について、今の教会関係者は非常に弱いところがあるので、若い世代から革新的な伝道が起こされることを祈りたい。

 

このアカウントの非常に個性的なところは、今話題となっている流行語やゲーム、多くの人が関心を持っている世の中の話題などを巧みに織り交ぜて用いながら、おもしろおかしく教会のことを伝えるやり方にある。

 

真面目なキリスト者からは、「こういうことでいいのだろうか? ここまで教会のメッセージを自ら揶揄するような内容でOKなのか?」という疑問が出ており、それももっともなことだと思う。

 

ただ一つの現代的な伝道の試みとして評価できるのではないかと思うし、こういったやり方が可能な方はそれぞれ、個性的にそれを推進することで、用いられるところが多々あるのではないか。

 

こういった個性的な伝道の試みが出てくるとき、これを「真似することで、自分も似たような結果を出したい」と考えている方もいると思う。

 

この記事はそういう方の参考にして頂きたいのだが、私が言いたいのは「伝道方法・伝道形式と、伝道者のキャラクターとの間にどれほど親和性・同調性があるか」ということが、その伝道の長期的な効果にダイレクトにつながっているため、キャラクターとの親和性・同調性がないところで方法論だけを真似ても効果もなく、長続きもしない、ということだ。

 

実は私にも、赴任したころの思い出として、晴佐久昌英神父の説教を随分読み、研究した時期がある。

 

彼の説教は非常に魅力的なもので、毎年数十人の受洗者を出しているということを聴いた。


当時、私が担っていた教会の状況は非常に困難なものだったので、学ぶべきところを学ぼうと、かなり長い間読んで分析などをして、真似できるかどうか、試みてもみた。私自身は、なんとかできるのではないかと、うすうす期待していた。

 

ところがある日、プロテスタントの牧師で、私の目には「明らかに彼は晴佐久神父の説教スタイルをまねている」と思えるものを聴いたが、私自身は聞いているのが気まずくなるほど、恥ずかしい思いような、こそばゆいような、ひどく嫌な気分になった。

 

つまり、その説教が「わざとらしく他者の説教の演技・物真似をしている」ものにしか聞こえず、「神の言葉を聴く」という単純な本筋に至ることができなかったのだ。

 

その牧師自身の内からにじみ出る、その人自身の自然な言葉が響いてこずに、私には演技と真似以外のものがなにも聴こえなくなってしまった。

 

さらに晴佐久神父の説教の研究を重ねるなかで気づいたのは、「この独特な魅力あふれる説教は、神父の独自なキャラクターや生き方と密接に結びついており、そのキャラクターが欠けているところでは、たとえ同じような内容を語ることができたとしても、説教としてはまったくと言ってよいほど成立しない」ということだ。

 

もちろん、カトリックの礼拝についての理解や神学との乖離など、他の多くの点で真似が不可能なものであることはわかった。


だが強く感じたのは説教においても、その方法論とキャラクターの親和性・同調性が確保されていないと、すべてが不自然かつ人工的な演技や物真似に過ぎなくなってしまい、伝道としては実りのないものとなるということだ。

 

おもしろおかしい用語や画像などを用いての伝道方法というものも、それを行う伝道者のキャラクターと親和性・同調性がなければ、受け取る側における効果も望めないし、長期的に続けることも不可能である、ということだ。

 

第一、無理して自分のキャラにそぐわないことをしても、それを聴く人は喜ぶことができるはずがない。その不自然な「空気」から「なんだか息苦しく、見苦しい」印象を受けるに決まっている。

 

私たちの伝道方法というのは、やはりどこまでいっても「自分の自然なキャラクターと親和性・同調性・一致点」が多くみられるものにある程度以上に限定されており、そこから外れた方法を試みてもいろいろな点で難しいと言わざるをえないのだ。

 

私たちは各自が個性的な賜物を与えられているものであり、互いに同じようなやり方をする必要はない。それぞれにしか果たすことができない、奉仕の「分」というものがあり、結果がどうであれ、私たちは神に忠実に役割を果たすことを求められている。

 

私たちは教会というオーケストラを演奏する者だが、それぞれが「自分にしかできないパート」を果たせば、それでいいのであって、人のパートを得意でもないのにわざわざ選ぶ必要はない。

 

バイオリンを弾いているものが、コントラバスを弾いているものに、「あなたはバイオリンの流儀で弾いていないので、間違っている」と言うのは、「自分が担っている役割の自覚と他者の役割への理解」が足りないということだ。

 

各自が、安んじて「自分が与えられている賜物を最大限に発揮して、神に奉仕する」ことに集中し、調和しながら役割を果たすことができれば、オーケストラが全体として、よい曲を奏でるようになるだろう。

 

私自身は相当な真面目キャラだと思うので、面白おかしい万人向けの伝道は難しいが、いわゆる「ガチ勢」をターゲットとして、信仰における理屈っぽい方面での理解を求めている方々に、なんらかの奉仕ができればとりあえずはいいか、と思うことにしている。

 

「役割分担」といったらなんだか、それぞれが自らのキャラの持ち味を最大限に発揮して、互いに「足の引っ張り合い」をしないことが、日本伝道全体を推進するうえでは、重要だろう。





牧師の職務⑤ 牧師が「大学教師」になることについて

 Juíza reconhece vínculo empregatício entre pastor e igreja - Migalhas  Quentes


牧師が大学の教師となり、大学などで神学や宗教学などを教える教鞭をとるという場合がある。

 

神学校で教える「神学教師」や、中学・高校で聖書教育をしている教務教師については、ここで念頭に置いていない。

 

ここで取り上げているのは、牧師が神学校ではなく、一般的な大学もしくはキリスト教主義大学の教師となることについてだ。

 

このことについて、個人的に感じていることを、率直に書いてみたい。

 

不快な思いをされる方もおられるだろうが、地方伝道の最前線で労苦し、苦しみを味わっている多くの牧師が感じていることを、代弁できればと思うので、お赦しいただきたい。

 

こういった事情をご理解いただかないと、キリスト教主義大学の教師になる牧師の先生を、まったく応援できなくなるし、多くの教会で労しておられる先生方もそういう思いだと思う。

 

私自身は、多くの賜物と力がある牧師が、大学教師となることについて非常に否定的であるし、そういった人事を耳にするたびに、意気阻喪して悲しみと失望を味わっている。

 

いま、日本の教会は「バビロン捕囚前」のような、歴史的状況を歩んでいる。

 

あと10年経過すれば、日本基督教団のことを考えてみると、現住陪餐会員の数は現在の半分か、3分の1程度にまで減少することが予測される。

 

どの教区も、どの地区も、どの教会も、大きな苦難の時を生きることになる。

 

こういったとき、人間的な思いにおいて、苦難を生きる教会の現場から、逃げたくないような人はいないのではないか。

 

ただでさえ富もなく、知的刺激も文明の楽しみも乏しく、教会員も少なく、孤独に耐えながら、地域には見向きされず、実りも将来も見えない伝道の業にひたすら従事する、というのは明らかに自然的・肉的な人間性に反している。

 

こういった場所に留まるのは、超自然的・霊的な恩寵の大いなる支えがなくては、まったく不可能なのだ。

 

イエス・キリストへの信仰と召命が、自らの自然的・肉的人間性に打ち勝つことによって、なんとか踏みとどまることができるような厳しさがある。

 

一方、都会のキリスト教主義大学の教師は、どうだろうか。

 

安定した給与が支払われ、研究費まで支給され、学問の刺激が常に身近にあり、学生については毎年、数百人の新しい人々が入って来る。

 

「大学の職務」という日本社会も評価するような社会的地位も与えられ、教会や多くの集会に講演に呼ばれるようになり、「アカデミック」という一般に通用する権威まで与えられる。

 

これらすべてが、日本社会で労苦して伝道しているほとんどの牧師の立場と、正反対なのだ。

 

人間的な思いからして、こういった立場の方が望ましい、と思わない人はいないだろう。

 

事実、多くの能力のある牧師が、教会の職務を離れて大学教師を目指す事例が後を絶たない。


こういった人事は、そこにどんなに多くの正当な理由があったとしても、個人的にはただただ残念であるという以外に言葉はない。


「できればそちらに行きたい。行った方がずっと楽だ」と人間的には思いながら、キリストと教会への責任と召命感のために何度もその思いを断念し、噛み殺している牧師の先生方も多いと思う。

 

私は、キリスト教主義大学での職務を「不必要」だ、などと言うつもりはないし、その働きのなかに苦しみや悩みはない、などというのでもない。

 

そのような召命があること自体を否定するつもりもない。


私が言いたいのは、これから大きくなっていく教会の苦難を、「対岸の火事」にしないでほしい、ということだ。

 

キリスト教主義大学で職務を担っている牧師の先生方も、教会の火事を鎮火するために、死に物狂いになってほしいし、教会と受難を共にして頂きたい。

 

キリスト教主義大学のなかで、イエス・キリストの苦しみ、伝道の苦しみ、ゲツセマネの主イエスの孤独にあずかって頂きたいし、大学で教えているのは「キリストと教会のため」であることを、ぜひ覚えて頂きたい。

 

大学の職務のなかで、イエス・キリストと教会の苦難にあずかることが、神の栄光を求めていく唯一の道ではないかと思う。

 

キリストと教会なくしては、キリスト教大学での職務もまた、根源から価値と意味が失われてしまうのだ。


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牧師の職務について④ 説教における「人効説」と「事効説」

 Juíza reconhece vínculo empregatício entre pastor e igreja - Migalhas  Quentes


プロテスタント教会における最も困難な課題の一つが、説教における「人効説」と「事効説」ということだと思う。

 

「人効説」「事効説」とは、古代教会において迫害の状況下で棄教した指導者が復帰した際、その人が執行するサクラメント(秘跡:プロテスタントの文脈では「聖礼典」のこと)は有効か、無効か、ということをめぐる論争から生じてきた概念だ。

 

ドナトゥスという人は棄教するような指導者によるサクラメントは無効だと主張し、アウグスティヌスという神学者は有効だと主張した。

 

ドナトゥス(ドナティスト)は人間の聖性や道徳的資質といったものがサクラメントの執行に影響を及ぼすことを神学的に妥当と考えたが、これを「執行する人によって効果が決まる」という立場から「人効説」という。

 

一方、アウグスティヌスが「有効だ」といった理由は、人間の資質がサクラメントの有効・無効を決めるのではなく、サクラメントに臨在しておられるキリストがサクラメントを有効とされる以上、

 

なされているサクラメントの業そのものが適正かどうかで有効・無効は決まる、という立場を描いた。

 

これが「なされている業から効果が決まる」という「事効説」であって、こちらの立場が「正統」とされた。

 

つまり、西方教会の伝統ではサクラメントの領域では「事効説」が正統であることは決定済みであって、ここでこれをむしかえすつもりなどない。

 

私が心を悩まされているのは、「説教における人効説、事効説」についてだ。

 

これについて、皆様はどう思われるだろうか。

 

これは非常に困難な問いだと感じるし、しかもプロテスタント教会の急所を突くような深刻な部分もある。

 

説教が「サクラメント的」なものであることについては、多くの議論があるかもしれないが、少なくとも説教が「恵みの手段」である以上、サクラメントのように神の恵みの媒介・手段となることは確かであると言える。

 

教会の実際的な現実として、「~先生の時は礼拝出席者が多いが、別の先生が説教の時は出席者が減る」ということがある。

 

また、「~先生が説教していたときは教会が成長していたが、後任の先生になったら衰退するようになった」ということがある。

 

これは、「出席者が信仰的によくない。説教を人間的に聴いているからそうなるんだ。そういう出席者の態度こそ間違っている」という風に言うこともできるだろう。


事実、神の御言葉ではなく、指導者との出会いを求めて出席するケースもないとは言えない。

 

しかし、それを言うだけでは、おそらくなにも解決しないし、出席者すべてに説教の聴き方を叩きこんだところで、「不満が残る」という状況が大きく変わるわけでもないだろう。

 

説教者によって、説教の「効果」になんらかの違いが生じている、ということについては、実践的に認めざるを得ないところがあるのではないか。

 

これは、プロテスタント教会が「説教によって立ちもし、倒れもする」ことからすると、結局のところ「説教者」に教会の前進と成長について深く依存しているということであって、最も大きな課題であると言える。

 

教会が成長しているとき、指導者の霊的生活や祈りの熱心さが説教の「力強さ」に影響しているのは確かに、認められる。

 

こういった現象を目にすると、説教においては「人効説」が該当している、という風に見える。

 

一方、教会が成長しているときの牧師の説教が、どうして「効果的」になったかを考えてみると、やはり「説教としての適正さ」に即した、しっかりとした説教奉仕がなされていたからだ、ということも言える。

 

つまり、説教として適正な神学に基づき、適正な方法によって準備されているから「効果」が生まれたのであって、その牧師のなんらかの資質自体に効果の源があるわけではなく、キリストご自身がその源である、という客観的視点からすると、「事効説」が該当していると言える。

 

以上のことを考慮すると、説教においては、「人効説」と「事効説」という概念だと、どちらも部分的に妥当する、という結果になってしまうように思う。

 

しかも、指導者としての資質と、説教の業の適正さは、相即・相補的な関係にあり、両者が互いを支えているようなところがある。

 

ここで、「キリスト論的」と「聖霊論的」という別の範疇を導入してみると、もう少しクリアになるところがある。

 

つまり、説教としての適正さ(事効説)は「キリスト論的」なものであって、聖書の御言葉をどう聴くか、という課題となる。

 

一方、説教としての力強さ(人効説)は「聖霊論的」なものであって、聖書の御言葉をどう生きるか、という課題となる。

 

御言葉を「どう聴くか」と「どう生きるか」は、両者ともに重大な契機である以上、説教においては両者ともに真理契機として認めていく、という方向性になるのではないか。

 

「説教としては正しいけれど、霊的な力が乏しく感じる」説教があるが、これは「聖霊論的契機(人効説的)」が希薄だと言える。

 

一方、「力強いのはよいが、聖書的に正しい道を踏み越えているように感じ、不安を覚える」説教もあるが、これは「キリスト論的契機(事効説的)」が希薄ということだろう。

 

これは「教理」と「霊性」の課題にもつながる。「教理的」であることと、「霊的」であることは、両者共に極めて重要だ。

 

説教という課題においては、「人効説」「事効説」のどちらの真理契機もバランスしながら統合していく、という道が「正統」であって、どちらかを軽視していくのは、邪道にずれていく歩みになるように思うが、いかがだろうか。

 

説教の「サクラメント的性格」についての議論は、こちらに豊かに書かれており、深く考えさせられる。


牧師の職務について③ 「世俗化」に抗する信仰

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おそらく誰でもそうだと思うが、牧師の職務においても、働いているうちに微妙に方向性がずれてくることがある。

 

「そもそも、なんのために伝道・牧会しているのか」という根本的な方向性から、微妙にそして時間の経過と共に変わって来てしまい、それが自覚できないことも多いため、非常に対処が難しい。

 

おそらく、最初はだれもが理想と情熱を燃やして職務につくが、何年も働くなかで、心は鈍り、感覚は麻痺し、良心の鋭敏さも鈍麻して、方向性全体がおかしくなっていくこともありえる。

 

特に大きいのは、「世俗との関係」において、「妥協に妥協」を重ねていってしまうことだ。

 

つまり、おそらくどんな献身者も最初、「ただキリストに仕える」思いをもって派遣されるが、働きはそんな簡単なものではないし、そうやすやす結果が出るようなイージーなものでもない。

 

経済的に困窮し、人間関係で疲れ果て、この世に理解されない孤独の苦しみを味わっていくうちに、「苦しいから、もうこれまで守ってきた小さな一線については、妥協しても構わないだろう」という思いが湧いて来るのは、ある意味人間として当然なことかもしれない。

 

こうして、「小さな一線」を妥協し、更に時間が経過して別の妥協を重ねることで、ついには「世俗化」の圧倒的勢力に徐々に飲み込まれ、「霊的生活」の活力をどんどん喪失していく。

 

「神の栄光のために」始めた働きが、いつしか「自己実現・世俗的成功」のためのものとなり、「神の御心を実現しよう」というモチベーションが、ついには「自分の思い通りに現実を動かそう」という思いに変わっていくのは、牧会の現場で生じる、最も痛ましいことの一つだろう。

 

自分でも自分を欺いて、「自分は神の栄光のために働いている」と思っているが、その内実が完全な「自己実現」になっている、ということもあるため、非常にやっかいだし、とても難しい課題だ。

 

こういった「世俗化」潮流のすべてに抵抗するための具体的方法についてだが、私自身がやっているのは『キリストに倣いて』(トマス・ア・ケンピス著)を読む、というやり方である。

 

この著書は超有名なものだが、プロテスタントの方々の間では大きく二つに立場が分かれると思う。

 

中世カトリックの修道者向けに書いたものなので、その内容は非常に「律法的・禁欲的で厳格そのもの」に見える。

 

読んでも、「こんなものはすべて、実行不可能に決まっている」と一笑に付されるところがあるだろう。

 

「しかめっ面」にならないと読めないような、恐ろしく厳しい教えに満ちている。

 

私自身もこの著書の教えはまったく実行できないが、一方「世俗化に対する薬」としての強力な効用をこの著書は持っていると深く感じている。

 

つまり、自分自身も世俗の力にやられてしまい、道を失いかけているときにこれを読むと、「キリスト者としての原点」を深く思い起こされ、「世俗を軽んじ、神を重んじる」という「超基本」を嫌というほどに教えてくれるのだ。

 

本当に「嫌になる」くらいに厳しいところがあるため、読むのは非常にしんどいが、しかし「良薬口に苦し」である。

 

霊的な漢方薬のようなもので、習慣的に読んでいると、「霊的健康」を維持するために絶大な効果があるし、比較的容易に信仰的な「王道と邪道」を見分ける力を養われる。

 

これを読んでいるうちに、さまざまなこの世の迷いが吹っ切れていくのを経験上、何度も何度も経験した。

 

世俗が圧倒的パワーを持っている現代、この悪しき影響力と闘って霊的生活を維持していくのは並大抵なことではない。

 

日本の説教者で有名な竹森満佐一牧師が、教会で『ハイデルベルク信仰問答』と、この『キリストに倣いて』を交互に学び続けていた、というお話を聞いたことがある。


確かにこの二つの著作に親しむことは、世俗化に抗する堅固な信仰生活を築くうえで最良テキストかもしない、と感じる。

 

世俗パワーにやられて、「もうなにがなんだか、わからなくなってしまった」というときの、「霊的漢方薬」として『キリストに倣いて』を読んでみることをお薦めしたい。

 

ここにある教えを実行するために、というよりも「この世の迷いを吹っ切る」ための絶大な効果があるからだ。

 

 


牧師の職務について② 職務の基礎「祈り」「聖書」「霊的導き」

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EH・ピーターソンの『牧会者の神学』を改めて紹介したい。

 

この著書は、牧師の「外面的」な働きの部分については、触れていない。

 

教会の運営、役員会形成、伝道の方法、牧会の仕方など、こういったすべてのことを描いているのではない。

 

むしろ、これらすべてを成り立たせている、根源となるものを描いている。

 

アスリートでいえば、日々の基礎練習に相当するような部分だ。

 

ランニング、筋肉トレーニング、日々の体調管理・・・。

 

こうしたものは、舞台の「裏」でなされているため、どんな努力がされているか、気づかれない。

 

こういった部分は、仮に牧師が怠っていても、信徒も気付かないことが多い。

 

信徒が大声で、牧師にこういった日々の基本的修練をするように、要求することもない。

 

「先生にはもっともっと静かな時間を持って、じっくりと聖書を黙想してほしいです」と語る信徒がいたら素晴らしいかもしれないが、現実にはこういった声はほとんど聴くことはない。

 

そればかりか、牧師がこういった基礎的修練をまったくしなくても、「牧師らしい牧師」を演じることが十分に可能であることを、ピーターソンは皮肉まじりに、繰り返し語っている。

 

「牧師らしい牧師の演技を身に着けさせるためのカリキュラム」を考案して、ごく短期間で「偽牧師」を大勢育てることができる、という、面白いが急所を突く皮肉まで語っている。

 

牧師の職務が成り立つための基本的修練、職務の根源になるものとして、ピーターソンは三つの課題を挙げている。それは「祈り」「聖書」「霊的導き」だ。

 

「祈り」については、ギリシア神話のプロメテウス的精神(火に象徴される文明推進の精神)と、啓蒙主義から生じた聖書批評(特にヴェルハウゼン)の精神が、祈りに対立するものとして、祈を侵食し、力を失わせてきた事実を描き出す。

 

祈りの章の最後にピーターソンが指摘する事実は、非常に示唆的だ。

 

「祈りと遊び」を「安息日」の重要な営みとして、取り上げている。

 

「祈りと遊び」は、その本質が非常に通じ合っている。

 

両者共に、「目的志向」とは異なる様式を持っている点だ。

 

あの厳格でクソ真面目そうな顔をしたカルヴァンも、日曜日の午後は今でいうところのボーリングのような遊び(九柱戯)をジュネーブ市民と一緒に楽しんでいた、というおもしろい話を紹介している。

 

「祈りと遊び」の本質は、永遠運動的な目的志向の日常の仕事をいったんストップして、「ただ存在すること」、「存在を喜ぶこと」に意識を向けるところに特徴がある。

 

日々の働きは、自覚的に「やめる(シャバット)」しない限り、目的追求的に延長され続ける。

 

しかし、聖書が教える「安息日」は、こういった世俗的目的追求生活の生活を断絶させ、果てしない「行為・活動」を停止させ、「存在の喜び」のなかに留まることを求める。

 

それによって、人間が「道具」となるのではなく、神の前に尊厳ある被造物として回復されることを聖書は示しているのだ。

 

牧師は、日曜日は働く日であるため、別の日に安息日を持たなくてはならないことが記されている。


教会員に協力を求め、牧師の安息日には牧師になんらかの仕事を持ち掛けないよう、役員会でも語る必要がある、ということにも触れている。

 

牧師にとっては、「伝道」が「目的追求」の課題となるが、「伝道」のことを忘れ、「伝道しなくても、伝道に失敗して実りが見えなくても、なお神によって愛されており、自分の存在を喜ぶことができる日」として安息日を祝うことを始めることが要請される。

 

熱心な牧師ほど「伝道」のことを考え、実践するあまり、「燃え尽き状態」になっていく傾向がある。

 

こういった安息日の「存在の喜び」のなかから、新しい視野も開けてくる、という希望が与えられる素晴らしい内容となっている。ぜひお読み頂きたい。


牧師の職務について①  「企業経営牧師」に抗して

 

Juíza reconhece vínculo empregatício entre pastor e igreja - Migalhas  Quentes


『牧会者の神学』(EH・ピーターソン)という著書がある。

  

この著書の序文は、強く胸をえぐられる「預言的」なものであり、心を深く突き刺す言葉に満ちているため、その一部をすべて引用することをもって、この著書の紹介のはじめとしたい。


おそらく、それがこの著書が真剣に牧師の職務を考える人が読むべき「必読書」であることを示す、最も良い方法だと思う。

 

これを読むと、これはそのまま日本の状況とも重なるし、見聞きする牧師の現状と照らして考えると、「痛い!」と叫びたくなるような衝動を感じる。

 

神学生時代に読んだときは、まだ経験がないので実感がなかった。


しかし、改めて読んでみると、自分がこれまでの牧師の働きのなかで経験してきたことと重なるところが多く、いろいろ思い出されて涙が出た。

 

ここに書かれていることは、深い悲しみと怒り、教会の再建と再生への希望が秘められているが、こういった言葉に心から「アーメン」を言うことができる、真実の牧師の同労者が一人でも起こされるように願っている。

 

私自身もこの著書が描くような「少数者」のなかにいると誇ることはできない数々の罪がある。


この著書が描くことを、私も実行できていないし、自分が十分な働きをしていると言えるわけでもない。


しかし、こういった著書によって原点に立ち戻り、新しい決意で「牧師の職務」を真摯に受け止めたい。

 

今回は著書の執筆動機となる序文のところを引用する。

 

以下、『牧会者の神学』の序文より引用。

 

・・・・・・・・・・・・


現在、アメリカの牧師たちは、右から左にいたるまで、驚くべき早さで自らの役割を放棄しつつある。彼らは教会を去るわけではなく、新しい仕事を探しているわけでもない。

 

教会員は今なお牧師たちの給料を支払っている。彼らの名前は教会専用の便箋に印刷されており、日曜日ごとに彼らは説教壇に姿を現す。

 

しかし、彼らは彼らの役割を、「召命」を放棄しつつある。彼らは他の神々に惑わされている。


彼らが牧会という装いのもとで時間をつぶしていることがらは、2000年間にわたって牧師たちが守り続けてきた行為とは、なんの関わりもないものになり果ててしまっている。

 

私たちの中でも少数の者はこうした事実に憤りを覚えている。


私たちは、自分たちがすでに見捨てられてしまっているという事実について憤っているのである。

 

「牧会とは何か」という定義を教え、試験を実施し、按手を行い、そしてひとつの教会の牧師として私を送り出してくれたはずの同僚の牧師たちのほとんどが、ほんのわずか私とその道程を共に歩んだだけで、私を残して去っていってしまった。


「より緊急に行うべきことがあるのだ」と言いながら・・・。

 

同労者として共に働くことになるはずの人々が、その仕事が始まったとたんに消えていったのである。牧師の仕事は困難な仕事である。


私たちは同労者との交わりや仲間同士の対話を望んでいる。

 

部屋の中に自分と同じ牧会上の問題を共有し、共に取り組んでくれることを期待できそうな人々がいっぱいいる。

 

にもかかわらず、10分とたたないうちにその誰もがほとんどまったくそうした私の期待に応えてくれそうもないことを発見して苦い失望を味わうような情景を想像してみるとよい。彼らが話し合っているのはイメージと統計上の問題である。

 

彼らは匿名である。彼らは影響力や地位について議論する。


神、魂、そして聖書といったことがらは、彼らにとってなんの役にも立たないものであった。

 

アメリカの牧師たちは「企業経営者」の一群に変容してしまった。


彼らが経営するのは「教会」という名の店である。牧師は経営者感覚、すなわち、どうしたら顧客を喜ばすことができるか、どうしたら顧客を道路沿いにある競争相手の店から自分の店へ引き寄せることができるか、どうしたら顧客がより多くの金を落としてくれるような商品をパッケージすることができるか・・・そうした経営者的な感覚に満ちている。

 

ある者たちはきわめて優秀な「経営者」である。彼らは大勢の顧客を魅惑し、人々から莫大な額の金を引き出して、輝かしい評判をとる。


しかし、それはあくまでも「商店経営」にすぎない。


それは「宗教という商店経営」であって、「商店経営」という点においては他の商売となんら変わることはない。

 

目覚めている時、これらの企業家たちの心を占めていることはファーストフート店の経営戦略と同じような関心である。


眠っている時、彼らが夢見ていることはジャーナリストの注目を集めるようなたぐいの成功である。

 

マーティン・ソーントンは言った。「途方もなく大勢の会衆の存在はすばらしいことである。喜ばしいことである。しかし、ほとんどの信仰共同体がほんとうに必要としているのは若干の聖人の存在なのである。悲惨なことは、人々が(そうした聖人によって)見出されることを待望し、正しい訓練を受けることを待望し、つまらないカルトから解放されることを待望していながら、なお人々が未成熟なまま置き去りにされているという事実なのである」

 

「成功した教会」など存在しないという事実を聖書は教えている。


存在するのは、世界中の町や村で、毎週毎週、神の前に集う罪人たちの集いにすぎない。


聖霊がそれらの人々を集め、聖霊が人々に働きかける。


この罪人の集いの中からある者が牧師として召し出され、その集いに責任を負う者となる。

 

牧師の責任とは、そこに集う人々の関心を神に向かわせ続けることにある。


(アメリカで)牧師たちが放棄しているものは、まさにこの意味における責任そのものなのである。

 

・・・いったいどれほどの人々が私と同じ憤りを共有しているものか、私にはわからない。私が知っている人々はわずかな数にすぎない。


いずれにしても、そうした人間はさして多くはないはずだ。バアルの神に膝をかがめなかった7000人は今もなお残されているのだろうか?

 

「少数派」を自認するだけでも充分なのだろうか? 私はそれで充分だと思う。時として私たち「少数派」は互いの存在を確かめあう。


これまでに多くのことが「少数派」の人々によって成しとげられてきた。


そして、「商店経営」を続ける牧師たちの中にも、その人々が按手にとって与えられた「長子の権利」を代償にして得た「煮物」の中味が実は味気ないものにすぎなかったことに気づき、それに物足りなさを感じて召命へと立ちかえる者があるに違いない。

 

その人々が感じる物足りなさは、これまでの彼らの職務怠慢を容赦なく否定する炎を燃え上がらせ、また彼らの口の中で神の言葉を再び燃え上がらせることができるほどの「残り火」だろうか? 

 

私の憤りがふいごとなって風を送り、彼らの中の「炭」を燃えあがらせることは可能だろうか?

 

以下の前掲著書の序文より引用。




齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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