ある方から、『これからの福音宣教 ~出会い・発見・変革のプロセス~』という本をお借りしたので、読んでみた。
このカトリック司祭が書かれた内容が、想像以上に自分の伝道論の考え方と合致しているため驚くと共に、自分がうまく言語化できていなかったことも大変学ばされ、感謝だった。
この本は1986年に出版されているため、30年以上前のものだが、私にとっては教えられるところが多く(私の考えが古いということかもしれないが)、とてもよかった。
二点だけ、この本の着眼点を紹介したい。
まず、「福音」とは知識や教義といったことより、むしろ「出会い」から与えられる「いのち」であり、人間を変える「エネルギー」である、という。この主題が本書のなかで、通奏低音として繰り返される。
宣教を「教える」という用語や範疇で考えるのではなく、人と人との出会いと交わり、そこに生じるエネルギーのプロセスと考える視点は、非常に貴重なもので、今もなお聴くべきものだ。
プロテスタント教会でも、説教が「知性偏重」のものとなりがちであることは、ずっと以前から批判的に考えられているが、プロテスタントの場合「ことば」からはどこまでも離脱できない、という前提にたっている。
つまり、説教という「ことば」を通して、「人のことばを超える神のいのちやエネルギー」を伝えるという、根源的な「ジレンマ」を抱えている。
カール・バルトが「われわれは神学者として、神について語るべきである。しかし、われわれは人間である。そして人間としてのわれわれは、神について語ることができない。・・・まさしくそのことによって、神に栄光を帰する」(バルト『神学の課題としての神の言葉』)と語っているのは、その消息をも意味していると考えることができる。
このジレンマを知らない説教者は、おそらく生涯「知識」や「教え」を語ることだけになってしまう可能性がある。
説教の本質は「ことばを超えた神の命」の伝達にあることを、改めて受けとめなおす必要があり、ここにプロテスタント教会の根本課題をも示されている。
本来「語ることができないもの」を「ことば」によって語るという、説教者の状況だが、ある意味カトリック教会では「聖体拝領」をベースとするミサを前提にした神学であるため、「いのち」や「エネルギー」というアナロジーはプロテスタントより理解しやすい部分があるかと思われる。
このような「ことばを超えた命」を伝えていく以上、人間同士の生きた関わりやそのプロセスを通して、変革がもたらされていくことが示されている。
そこで第二の中心的概念として「対話」が導入される。
おそらく、これをどう考えるかが、最も重要なポイントになるだろう。
この著書のなかでは、他宗教や現代的世界との「対話」を通じて「宣教」する、ということが描かれている。
「対話」とは「対等な関係」に基づく「分かち合い」であり、「あかし」である、という。
他の宗教や思想のなかにある、聖書に合致している真理契機を、「みことばの種子」として受けとめ、これにリスペクトを表明することで、そういった宗教や思想との「対話」が可能になる、とされている。
たとえば、日本人の仏教徒の「諸行無常」といった観念もまた、聖書のなかに含まれている、「人間とこの世の虚しさ」を示す聖句と基本的に似た内容のものである。
そこで対話を重ねながら、なお聖書が示すあかしを語ることで、「諸行無常」の観念につきまとう悲しみや寂しさなどを超える聖書が描く希望を伝え、新しい地平を示すこともできる。
本書はこういった、教会の外でなされている他宗教や他の思想などのうちにも含まれている「真理」を積極的に見出していくことで、「対話」と「宣教」が可能となる、というロジックであると思われる。
以上の理論は聖書的であり、バランスもとれていて、個人的には共感や好感の持てるものだと感じた。
ただやはり、この「対話」という概念をどう神学的にとらえるかが、根本課題として未解決のまま残っていることは、はっきりと指摘せざるをえないだろう。
「対話」というときには、「対話によって相手が変わる」ことばかりか、「対話によってこちらが変わる」ことも十分にありえるし、ある意味こういった「相互に変わる」ことがないなら、対話としては不成立とも言えるのではないか。
「対話的宣教」が「うまくいった」というときは、「対話するなかで相手もまた自らの思想の不十分さに気づき、聖書の真理を受けとめるようになる」ということかもしれない。
しかし、これは当然「対話するなかで自らの思想の不十分さに気づき、相手の真理を受けとめるようになる」ことと、対になっている。
そして、経験的によくわかることだが、こういった「対話」のなかで「言葉の相互浸透」が起こると、こちら側のキリスト教信仰もまた、「不適切な形の変容」も起こしうる、ということだ。
つまり、他宗教や他の思想と対話しているうちに、むしろそちらに引き込まれてしまい、聖書的にはバッティングしている部分まで、自らのうちに取り入れてしまう、ということが起こっていく。
ある意味では、これが究極的に昂じると「異端問題」が発生するのは、古代教会の教理とギリシア哲学との「対話」を通して生まれた「グノーシス主義」が、聖書でおおいに課題とされていることを考えると、初期から存在する課題だと言える。
つまり、「対話」には大きなリスクもまた伴うのであり、「どの言葉、どの思想が聖書と合致しており、もしくは不一致なのか」を鋭く見破る「霊的視点」や「霊的嗅覚」が要請される、ということだ。
それを持たずに対話をしてしまうと、教会の本質部分まで「他宗教、他の思想」のことばに占領されていってしまうことも、十分にありうる。
ある意味では実際的に「対話的宣教」の方法論は、ことばや思想における「専門家」は従事できても(つまり教会の伝統をよく学んだ人には可能だが)、聖書や神学を専門的に学んでいない場合には、非常に難しい部分がある、ということだ。
以上の部分を差し引いても、私はこの著書が非常に簡潔かつ深く実践的・神学的に考察されたものであり、カトリック、プロテスタントに関わらず、一読の価値がおおいにあると感じたので、ご紹介させて頂いた。