日本伝道について⑮ 1995年「以前と以降」の伝道 Ⅱ「オウム真理教事件と宗教アレルギー」

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1995年に起こっている事件のなかで、日本伝道に対して「時代を画する」影響を与えたのは、オウム真理教事件であると、個人的には考えている。

 

自分の周囲のことを考えてみても、「オウム以前と以後」で、「宗教全般」についての意識が大きく変化したことが感じ取れた。

 

「宗教はアブナイ」

 

「宗教はやばい」

 

「宗教は胡散臭い」

 

「宗教に入っている人はみな、どこかおかしい」

 

「宗教に入ると、すべてを失う」

 

・・・・・

 

オウムの起こした一連の事件により、こういった極端な「宗教それ自体に対するアレルギー」が広まったのではないかと思われる。

 

私の友人にも、「宗教に入っている人は、廃人に近いと思う」という意見の人がいて、私が洗礼を受ける段に大反対をされ、わけのわからない長時間の議論をしてしまったことがある。

 

個人的な印象では、「宗教アレルギー」を持っている人の「8~9割」が、「宗教の歴史や伝統、教えなどについてほとんど自分で考え、調べることもなく、イメージや印象として宗教は危険なものと考えている」という状況ではないかと思う。

 

そして、こういった「宗教はアブナイ」の最大のイメージをもたらしたのが、オウム真理教事件だろう。

 

日本伝道という文脈から考えると、「1995以前(オウム以前)」と「以降」では、「そもそも宗教というだけで毛嫌いする人々」の割合が非常に異なっており、「以後」にはそういう人々が本当に多い、ということをふまえなくてはならない。

 

このような「宗教それ自体に対する否定的イメージ」を持つ人が大勢いる状況からしたとき、カール・バルトが展開したような「宗教否定論」は、日本伝道において「マイナス」の効果を生むと自分は考えている。

 

バルトの「宗教ではなく、啓示」という議論は、聖書的にはまったく正しいのだが、これはあくまで「宗教についてのイメージが安定的に定着したヨーロッパの文化的背景」を前提とした議論にほかならない。

 

「啓示」以前に「宗教自体」へのアレルギーが非常に多いというなかでは、「宗教否定論」ではなく、かえって「宗教弁証論(宗教の本質や必要性、有用性を対話的に証しする)」をしなくてはならないのだ。

 

これは、植村正久牧師が著書のなかで多く行っている議論である。

 

植村は「耶蘇教」や「邪宗門」などと揶揄され軽蔑されていた当時の時代の空気のなかで、宗教の意義について解き明かす文章を多数残している。

 

「なぜ宗教が必要なのか」という本質や意義を、「アレルギー」のある人々が少しでも納得できるような議論が求められているのであって、「宗教ではなく啓示」というのは、そういった議論がある程度でも定着した「あと」の課題になる事柄なのだ。

 

そういう意味では、方向性や内容はともかくとして、モチベーションのレベルではシュライエルマッハーの『宗教論』のような議論が、日本ではかえって求められている、といえる。

 

宗教それ自体への「信用度」が非常に落ちている文脈を無視するわけにはいかないのだ。

 

特に、オウム真理教との関連でいえば、「オウム事件による宗教否定やアレルギーが蔓延したことによって、かえって『疑似宗教』が流行している」ということを、しっかりと見抜き、解き明かさなくてはならない。

 

オウム真理教で当時麻原彰晃が教えていた内容と、現代の「スピリチュアル(精神世界)」系の本に書かれていることを比較検討すると、その意外なくらいの「共通性」「類似性」に驚くはずだ。

 

人間を霊性において「進化」している人とそうでない人に類別して、そうでない人の排除を肯定するのは、スピリチュアル的な「優生思想」であると言える。

 

麻原はスピリチュアル的な優生思想を、狂信的に現実世界で「実行」してしまったのではないかと思える。

 

彼の教えとスピリチュアル・精神世界の教えは、純粋に「思想」という次元においては、相当似通っているものがあるのだ。

 

オウムを単純に「宗教」ととらえることによって、かえって「疑似宗教」の流行をもたらし、結果的に麻原的な思想が国民の間に広がってしまっている、という皮肉な歴史的顛末を見るような思いがする。

 

要するに、「宗教」というものは人間にとって何らかの形で必要なものであり、それなくしては死や罪、悪の問題にはどんな解決もないのだが、

 

イメージや印象レベルで宗教それ自体を否定することによって、「疑似宗教」に頼らざるをえなくなり、結果的に死や罪に対する「解決」を見失い、精神性や霊性において脆弱になってしまっている、という文化的背景があるのではないか。

 

日本伝道という文脈において、オウム真理教がもたらした宗教アレルギーにより、状況は「1995以前と以後」で変わっている、という認識をもたなくてはならない。

 

少なくとも、「宗教ではなく啓示」というカール・バルトの議論は、「宗教それ自体」が文化的に根差していない日本の状況にあっては、非常に不釣り合いなものであり、教会をより社会や地域から遊離した存在にしてしまう、ということは言えるだろう。

 

「イエス・キリストへの信仰」という以前に、「宗教それ自体」に対するイメージが非常に悪いことで、教会に来る道が閉ざされがちになっている、という課題をしっかりと受けとめる必要がある。

 

この領域では牧師というよりも信徒の方々が、それぞれの分野の専門家としてよい働きをすることで、社会の人々の信用を勝ち得ることが、実践的には最も重要なことになるし、それが最も具体的な変化の源になるだろう。

 

このことなくしては、実際上は教会にまだ来ていない人々のイメージが変えられていくことはない。

 

また、牧師にできることは、「宗教は多くの人が考えているような『アブナイ』ものではなく、よりよく生きるには避けて通れないもの、必要なものである」ことを、いろいろな形で忍耐強く伝えていくことだろう。

 

私たちはあくまで、「オウム以後」、「1995以後」の時代を生きているのであって、このことをふまえずに伝道に取り組んでも、状況との不釣り合いが生じて、人々の魂をとらえるものとはなりにくいのではないか。

 

「宗教はアブナイ」という人々に「いえいえ、私たちは宗教ではなくて、啓示であるキリストを信じているのです」といっても、「は?? でもあなたがたはキリスト教徒でしょ。キリスト教に入っているんでしょ。そもそも、どの宗教も『啓示』を自称しているじゃないですか。こっちにとっては同じことですよ」となるだけであって、

 

この両者の間に存在するいろいろな意味での意識の「ギャップ」は多くのキリスト者が素朴に考えているよりも、重大で深いということを、よく受け止める必要があるのだ。

 

「相手の土俵」と「こちらの土俵」をすり合わせつつ対話しなくてはならない。これは日本伝道では避けて通れないことだ。

 

教会が衰退していっている最も大きな理由の一つは、「そもそも宗教それ自体が社会の信用を取り戻すことができていない」ことにある、というのは、相当核心部分に近い、、実践的な議論なのではないかと感じる。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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