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終末論について③ 「終末とは??」

 The major event that will happen before the Second Coming of Jesus Christ |  News Break


教会の学び会で「終末とは?」のタイトルで行ったレジュメをシェアさせて頂く。

 

終末についての教理をごく簡潔に描いている。

 

ご参考にしてください。

 

・・・転載以下・・・

 

1 終末とは?

 

・世界は神に創造されて始まったが、神によって終わる時がくる。

 

この世がどう終わりを迎えるか、新しい世界になるかについての教えや神学議論を「終末論」という。

 

・聖書では終末において古い世界(この世)が終わり、新しい世界(新しい天と新しい地)が神によって創造されることを告げている(黙示録21章、Ⅱペトロ3:12、13など)。

 

・古い世界が終わるとき、イエス・キリストが「再臨」し、すべての死者が復活する。

 

新しい世界に受け入れられる人と、拒絶される人に分けられる(裁かれる)。これを「最後の審判」という(黙示録20:11以下)。

 

・キリストの再臨とは、今は多くの人の目に隠されている福音の真理が、明確にすべての人に啓示されるということ。

 

どういう形か、いつ起こるかは不明だが(「稲妻が東から西へひらめきわたるように(マタイ24:27)」ということ以外にはわからない」)、イエス・キリストが疑問の余地のない形で全世界の人に自らをお示しになり、自らを真理として明らかにされる日。

 

・その日、すべての死者は復活して審判を受ける。最後の審判の裁き手は、イエス・キリスト(使徒信条第二項参照」)である。

 

このお方と地上にある間にどのような関係にあるかが、人間の永遠の行先を定める。

 

・このキリストを信仰によって受け入れ、自らの罪のすべてをこのお方に担って頂いた人は「新天新地」に受け入れられる。

 

キリストを拒絶し、罪を犯すままに生きた人は「火の池(第二の死)」(黙示録20:14)に投げ込まれる、と記されている。

 

「永遠の生命」か、「永遠の死」かに分けられる。

 

・聖書で「救われる」という言葉は、最終的には神の永遠の怒りとしての火の池、第二の死から救われる、ということを意味している。

 

神は罪を裁かずにはおられないが、イエス・キリストの十字架において私たちの罪への刑罰を執行され、御子を復活させられた。

 

この神の御業を受け入れる人は、神によって自らのすべての罪を「過ぎ越し」されて、裁かれることがないようにしてくださった。

 

・キリストの十字架と復活の御業は、「最後の審判と復活」の「先取り」であり、主イエスを救い主を受け入れる人は信仰において終末の世界を霊的に信仰において先取りさせて頂ける。

 

これが信仰生活の本質。

 

信仰の喜びは終末の世界の喜びの「予感」や「断片」にほかならない。

 

・新天新地は、「あらゆる罪と死が消滅した世界」であり、「イエス・キリストが王として完全に統治してくださる世界」である。

 

キリストを愛する人にとっては永遠の歓喜の世界であるが、キリストを憎む人にとっては永遠の責め苦の世界ということにもなる。

 

私たちの罪が清められていくことが、新天新地への重要な準備。

 

・救いを受けた者の終末においては、「義認」と「聖化」の両面がある。

 

「信仰のみによって救われる」面と、神を畏れながら恵みに応答して生きることで「清められ、誉れと祝福が与えられる」面の両方がある(「タラントン」(マタイ25:14-30)と「ムナ」(ルカ19:11-27)のたとえの違いを参照)。

 

・新天新地を暗示するのは、「復活のキリストの身体」である。

 

復活の主の身体は弟子たちと食事をされたという点で物質的なものだが、現れたり消えたり等、時間・空間に制約されることがないものだった。

 

物質的なものでありながら、同時に神の力によって時間・空間を超越する「栄光化」された身体に復活された。

 

・以上の点から示されるのは、「新天新地」には私たちが考えるような意味での「歴史」はない。

 

また、神の意志に反するような「文明」もない。神の恵みを映すような、なんらかの文明はあるかもしれないが、それは私たちが知っているものとは異なるだろう。

 

歴史や文明は「古い世界」の罪や死に関わる「時間・空間」の延長にある産物だから。

 

そこには、「食事」に象徴されるような、キリストとこのお方に従う人々との究極の交わりや礼拝、奉仕の生活がある。

 

「キリストを中心とした、時空を超えた永遠の大宴会」が神の国のイメージだが、これはほとんど私たちの想像の域を超えているもので、現実にそこに達しない限りわからないほどの歓喜。


・少なくともそこでは、たとえばアブラハムやダビデ、マルティン・ルターやジャン・カルヴァン、ジョン・ウェスレーなど過去の信仰者、

 

また自分が死んだあとに地上で活躍した信仰者など、歴史上すべてのキリスト者との自由な交わりや歓喜に満ちた礼拝があり、そういった人々と共に完全な喜びをもって神に仕える生活がある。

 

・いま与えられている地上の生活は、この新世界へ向けての準備であり、生活のすべてを通してイエス・キリストとの親密な関係を培い、原罪が清められていく時期としてとらえることができる。

 

地上での信仰生活を通して罪が清められていくことが、新天新地に入るための準備となる。

 

・終末は「全人類」レベルと、「共同体」レベル、「個人」レベルでも考えることができる。

 

全人類レベルは聖書に描かれているもの。

 

共同体レベルでは家族、教会、国家などにおいて「中規模の終末(中くらいの死と復活)を繰り返しながら、新たな歴史の段階へ進んでいく。

 

個人レベルでも私たちは、「小さな終末(小さな死と復活)」を何度も通過しながら、「新しい世界」へと脱皮・超越していく。

 

終末論は「遠い未来の話」ではなく現実に起こっている霊的事実。

 

「苦難と罪」をキリストへの信頼と悔い改めによって越えることで復活の祝福にあずかる。

 

 

2 終末を信じる意味

 

・「終わり」がどうであるかを知ってこそ、そこから逆算して「今をどう生きるか」の答えが見つかる。

 

「終末」を信じないなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅱコリント15:32)という「快楽・金銭・安楽・欲望第一」の生き方を避けることができない。

 

・「終わり」の緊急性や厳粛さを自覚するからこそ、「生かされている今の尊厳と重大さ」を深く受けとめて、神への信仰に基づく真摯な歩みが可能になる。

 

「主人が帰ってくるのは遅い」と思い込んでいるなら、信仰もだらけて眠り込み、隣人に対しても、神に対しても背くような悪を容易に働くようになる(マタイ24:45-51)。

 

・「終わり」が来ることを知るからこそ、「自分に与えられた知識・時間・労力・才能・・・(タラントン、ムナ)を可能な限り有効に活用して、神の栄光を増大するように尽くす」生き方が可能になる。

 

私たちに与えられているものはすべて、私たちに対する神からの委託であり、それらを有効活用して神の栄光を顕すようにとの責任にほかならない。

 

その責任の真摯な自覚は、終末とキリストの再臨を信じることからくる。

 

「終わり」が来ることを知るから、限りある時間の中で責任を果たすことに力を注ぐことができる。

 

・終末を信じる時、地上の生活の範囲内には「理想」や「ユートピア」の実現はありえない、というリアリズムに徹して生きることができる。

 

キリスト者は地上に悪い意味での幻想を抱かない(Ex.共産主義、熱狂主義)。

 

3 終末についての誤解

 

・「終末」は最終的には誰も経験したことがない領域であるため、聖書のなかでも「最も解釈が分かれている」部分。

 

そのため、「絶対にこれが正しい」と言える解釈は存在しないと言える。

 

ヨハネ黙示録をどう読むかということも、教派や教師の間で大きく分かれている。

 

終末についての色々な教えはあるが、「どれが本当か」ということを確定するのは人間には無理。

 

「聖書全体から確実に言えること」についてしっかりと受けとめて、その他の解釈が分かれる部分については、「自分としてはこう考えるが、確実とは言えない」くらいの批判的距離をもって受けとめておく以外にない。

 

「断定的な終末論」は「推測や想像、自分の解釈の絶対化」になってしまう。

 

・「最後の審判」や「古い世界の崩壊」などが黙示録では描かれているため、恐怖を覚える人も多い。

 

「終末」についても、受けとめ方に「バランス」が大切になる。

 

「自分は終末において絶対に安泰で安心」と考え、恐れをまったく感じずに生きることも、「自分は裁かれて地獄に落ちる可能性が非常に大きい」と考えて恐れおののくのも、共にバランスを失った信仰生活になる。

 

前者は間違った安逸と責任放棄や生ぬるさのもとになり、後者は恐怖によって硬直した、律法主義的で苦しいばかりの信仰のもとになる。

 

真理はこの両極の間にある。「神への恐れと信頼」の両者がともにあってこそ、まっすぐに信仰の道を生きることができる。

 

・終末は「古い世界」の「向こう側」に実現するもので、私たちが生きているこの古い世界の只中や延長線上に、人間の力で神の国を実現することはできない。

 

地上に実現するすべてのことは終末の「しるし」にはなっても、その完成は終末の神の業を待望しなくてはならない。

 

「待ちつつ、早めつつ」(第二ペトロ3:12)。

 

終末は神の恵みの業として「待望」するものでありながら、私たちの努力を排除はしない。伝道や教会形成は終末を「早める」業でもある。

 

福音によって「既に」終末は霊的に到来しているが、なおその完成は「未だ」実現していない。

 

「待つ・早める」「既に・未だ」この両極の緊張に生きるのがキリスト者の信仰生活。


終末論について② 「ヨハネの黙示録を読むヒント」

 The major event that will happen before the Second Coming of Jesus Christ |  News Break


2008年に教会の学び会でヨハネの黙示録の読み方を行った時のレジュメが出てきたので、以下転載する。ご参考にしてください。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

1:著者

 

使徒ヨハネが書いた、という説が伝統的に信じられてきた。

 

しかし実際には不明。確実なのは、著者がアジアの教会に大きな影響力をもった指導者、預言者だったこと。

 

聖書を書いた人々は、自分のほうに目を向けてもらうために書いたのではなく、イエスのほうを向かせるために書いている。

 

著者がだれか、という問題は学問的には非常に重要だが、信仰生活を送っていくうえではさほど重要でない。

 

著者がだれか、ということよりも、ここにあるメッセージはなにか、という問いが大切。

 

著者の考えを知るよりも、イエス・キリストを知ることのほうに重点がある。

 

 

2:執筆年代  

 

A.D.90年代と多くの学者は考える。

 

黙示録の書かれた時代は、ドミティアヌス帝というローマ皇帝が支配した時代。皇帝礼拝が強制された。

 

教会にとっては、大きな迫害の時代。

 

ヨハネの黙示録は、迫害の時代に書かれた。これを無視しては、この書物をよく理解することはできない。

 

迫害のなかでどのように生きればいいのか、なにを信じればいいのか、それを主題として語っている。

 

いまヨハネの黙示録があまり読まれないのは、ある意味では暴力的な迫害の時代ではないから。

 

この書は迫害の下にある教会を力づけ、励ますために記されている。

 

 

3:構成

 

 1:1-3:22     七つの教会への手紙

 

 4:1-7:17     神の支配  天上の礼拝

 

 8:1-9:21     地上への裁き  最後のラッパ

 

 10:1-14:20   歴史の縮図 教会の戦いと暴走する国家

 

 15:1-19:21   地上への裁き  怒りの鉢

 

 20:1-22:5    神の支配  新天新地

 

 22:6-22:21   来臨の約束と待望

 

以上のなかに「枠構造」が見える。

 

迫害される教会、暴走する国家、神の怒りの裁き、そういったすべてが神の支配に包まれていることがうかがえる。

 

ここから、この黙示録の中心のメッセージは、地上でどんな迫害や苦難があろうとも、それらの一切は神の支配の御手のうちにある、ということになる。

 

どんなに国家がおかしくなり、暴走し、不条理な苦しみが広がったとしても、神の支配は揺らぐことなく、またそれはすべてに及んでいる。だからこそ、恐れる必要ないし、神を信じて安んじてよい。

 

 

4:解釈  

 

使われている言葉は高度に象徴的なもの。だから、文字通りに、額面通りに受け取ってはいけない。

 

その文字とは別のものを表していることがほとんど。

 

また、そこに記されていることを歴史上の特定の具体的な出来事や人物にあてはめるのも、人間の「推測」の域を出ることがないため、解釈としては不適切(たとえば8:11苦よもぎ=チェルノブイリ原発事故などと読むこと。そういうことはだれにも検証できないし、わからない)。

 

あとは、他の聖書と同様に解釈する。歴史的文書として、歴史のなかで書かれたものであるが、しかしすべての時代を生きるキリスト者に語りかけている普遍的なメッセージを伝えるものとして読む。歴史的なものを通して、永遠のメッセージを読みとる。

 

単に過去のことを表す書物として読むのも、純粋に未来のことを予言する書物として読むのも間違い。

 

なによりも、そこに記されているメッセージを読み取ることが大切。

 

 

5:全体の流れと読むためのヒント

 

① 1:1-3:22

 

「黙示」というのは「覆いが取り去られること」を意味する。隠されていたものが明らかにされること。

 

黙示録は、歴史とその背後にある神と悪の諸力との戦いを描き、神が一切のものの主であることを示す。七つの教会へ手紙が送られるが、このメッセージは歴史上のアジア州の七つの教会にとどまらない。

 

「7」は完全を表す数であることから、あらゆる時代の、世界中の教会へ向けられたものであることがわかる。

 

また、「勝利を得る」という言葉が手紙の最後に繰り返されるが、これはこの黙示録の主要なテーマ。いかにして迫害や苦しみに勝利するか、ということが問われている。

 

② 4:1-7:17

 

天上の礼拝から、小羊が巻物の封印を解くところが描かれる。「天上の礼拝」は世界の歴史の隠された支配者がだれであるかを示している。

 

「巻物」は世界の歴史。小羊はキリストを指す。封印を解くといろいろな馬が出てくるが、これは歴史上のいろいろな大きな災いを表す。

 

戦争、飢饉、死などが意味されている。これら全体の伝えるメッセージは、歴史上に起こる一切の戦争や飢饉や死といった災いの数々は、キリストの支配下にある、ということ。

 

そうしたものを自由に支配する力をキリストは持っておられる。7章では、キリストの支配下に入った人々には、神の保護が約束されている。神の下す災いは、キリストの弟子には害を及ぼさない。

 

③ 8:1-9:21

 

ラッパが鳴り響き、地上への裁きが始まる。出エジプト記のファラオへの災いがさらに大きな形で実現する。

 

ファラオへの災いがかたくなさへの審判であるように、ここでのラッパの裁きも、神を信じず悔い改めないかたくなさへの裁き。だからこそ、滅ぼすための裁きというよりも、悔い改めへの招き。

 

④ 10:1-14:20

 

世界の歴史のなかで起こる教会の戦い、国家の暴走が何度も別の形で描かれる。「二人の証人」や「女」は教会。「竜」はサタン。「男の子」はキリスト。

 

「獣」や「バビロン」は暴走する国家(ローマ帝国やヒットラー、日本の戦時中のことを考えるとわかりやすい)。「666」はネロと言われるが、「横暴な権力者の不完全さ、その業が完成しないこと」をも表わす。

 

⑤ 15:1-19:21

 

 「バビロン」=暴走する国家(ローマ帝国)への神の裁きが描かれる。国家がどんなに悪魔の手下となり、暴走して教会を迫害しようとも、最終的にそれは決して成功しないこと、むしろ神に裁かれてその支配と迫害は必ず終わることを示している。

 

どんな苦難や迫害も、リミットがあり、神の裁きが遅れることはない。

 

⑥ 20:1-22:5

 

「第一の復活」はキリストを信じること。第二の死は永遠の滅び。新天新地は、新しい天地。こうしたすべては、創世記1章~2章の新しい形での実現。神が新しい天地を創造され、救われた人々はそこを永遠に生きる。

 

そこには終わりのない喜びと永遠の楽しみがある。中心にはキリストがおられる。すべての否定的なものは消えてなくなる。

 

⑦ 22:6-22:21

 

ここまで語られてきたことが真実であることの約束。

 

また、ここに記されていることを信じてキリストが再び来られるのを待ち望む信仰への招き。

 

「主よ、来てください(マラナ・タ)」

 



終末論について① 『幼年期の終わり』の終末論

 The major event that will happen before the Second Coming of Jesus Christ |  News Break


『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)というSFを読んで、思想的にも面白かったため、記事として書かせて頂こうと思った。

 

なお、本記事は完全な「ネタバレ」になるため、SFが好きな方で、「あれは読んでみたいものだった」という方は、本記事よりも前にタイトルの作品を読んで頂きたいと思う。

 

あらすじはこうだ。

 

冷戦中の世界に「オーバーロード」という「宇宙人」がやってきて、人類のすべての問題を緩やかに、しかも人類以上の知恵によって解決してしまう。

 

世界は平和となり、貧困も戦争もなくなり、人類は遊びやスポーツなどをして暮らすようになるが、「オーバーロードとは何者か? 彼らの目的は?」という疑問が残る。

 

数十年後、オーバーロードは宇宙船から降りてきて姿を現すが、それは人類が「悪魔」としてイメージしてきた、そのものの姿だった。ところが彼らは好戦的なものでもなく、実に紳士的で、善意と知恵に満ちているように見えた。

 

一方、彼らの目的は結局わからないままだった。

 

人類がいよいよ主体性を失い、オーバーロードに飼いならされているとき、ある島に芸術家が集まり、創造性や主体性を取り戻すための実験がなされていた。

 

そのなかの子供がいわゆる「超能力」的な、物質を超越する能力を発現し、それが他の子供にも広がっていく。

 

オーバーロードは、それを見届けることが自分たちの目的だったことを明かして、自分たちは「オーバーマインド」という霊的な存在に仕えているもので、人間のように精神的な進化の能力を持っていないことを告げる。

 

やがて進化した人類は「月」を自らの霊的能力で動かすに至り、地球のエネルギーを吸い取り、「オーバーマインド」と一体化して地球から去り、地球は消滅する。

 

ごく短く骨子だけを描くと、以上のような内容だ。

 

SF的な視点からの「終末」を描いたもので、色々な意味で興味深い。

 

著者は進化の流れとして、「物質的・知性的側面」を代表する「オーバーロード」と、「霊的側面」を代表する「オーバーマインド」という「二つの極」を提示しつつ、「オーバーロード」は「オーバーマインド」に仕えている宇宙的な一部族、という位置づけになっている。

 

これは「悪魔」もまた「神」にいやいやながらも仕えざるをえない、という聖書の構造と基本的には一致している。

 

この作品の「オーバーロード」が、聖書が語るような悪魔の「悪意」や「誘惑」、「虚偽」などといった特性を持っておらず、「人類の保護」という役割を行っている、という点は、この作品に独自性を与えている。

 

著者は、「物質性・精神性」と、人間的特性である「宗教性・霊性」の間には「葛藤」があるが、「悪魔」は「物質性・精神性」のなかに人間を留めおこうとしているという点で、ある意味人類を極端な「霊化」から「守っている」側面がある、という主張をしているように思えた。

 

以上の悪魔論は、キリスト者には受け入れられないものだが、SF作家としての独自な視点で、文学としては非常に面白いと思う。

 

一方、「オーバーマインド」という「神」の存在の描き方は、極めて「非人格的」で慈愛や正義といった性格が希薄なものである。

 

また「超能力」「深層心理」「集合無意識」的なものへの目覚めに人間の進化の筋道を見ている。

 

これらの描き方の思想的背景を類推するに、この作品の終末論はキリスト教的であるというよりも、仏教的もしくはユング心理学的であるという風に私には読めた。

 

聖書の終末論と異なるところは、

 

・「新天新地の創造」、「身体の復活」がなく、ただ「オーバーマインド」との霊的一体化だけがある。

 

・終末に来るのは「イエス・キリスト」ではなく、「オーバーロード」という悪魔の外見をした善意の不思議な存在。

 

・「キリストによる最後の審判」ではなく、「進化して物質を離脱できるか、どうか」によって人間の行先が分かれる。

 

などだ。

 

以上からすると、最近の「スピリチュアル」的な思想が行き着くところの「終末論」としても、十分に考えることができるし、使っている「用語」を変えるなら、「仏教的終末論」、もしくは「ヒンズー教的終末論」としても読むことができる。

 

こういった特異な終末論的物語を読むことで、「キリスト者として、自分は聖書からどのような終末を理解し、待ち望んでいるのか」ということを、黙想するときの「アンチ・テーゼ」的なものとして、読むと参考になると思われた。

 

本書を「キリスト教的終末論」と「一致」しているものとして読むことができると誤解する方がいるかもしれない。

 

そのことについては、はっきりと聖書の語るところとの大きな違いを強調する必要がある。

 

本書の終末論は、聖書とは「神学的」にも内容的にも、まったく異なるものだ。

 

本書を読むことによって「終末はきっと、こんなものだろう」とは、決して思ってはいけないし、そう考えることは聖書とは完全にバッティングしている。

 

本書の終末論は、私にとってはひどく深い「悲哀」と「寂寥」に満ちたものに思えたし、こういった終末はまったく好ましいものではない。

 

一方、聖書の終末論は常にイエス・キリストによる「希望」を語っている。

 

その大きな「コントラスト」を文学的に楽しみながら、黙想を深めるための参考書として、おススメしたいものだ。

 

ただ、著者の思想に引き込まれてしまわないほどの、批判的精神は常に持っておかないと、信仰的にまずいことは記しておきたい。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

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