教会の学び会で「終末とは?」のタイトルで行ったレジュメをシェアさせて頂く。
終末についての教理をごく簡潔に描いている。
ご参考にしてください。
・・・転載以下・・・
1 終末とは?
・世界は神に創造されて始まったが、神によって終わる時がくる。
この世がどう終わりを迎えるか、新しい世界になるかについての教えや神学議論を「終末論」という。
・聖書では終末において古い世界(この世)が終わり、新しい世界(新しい天と新しい地)が神によって創造されることを告げている(黙示録21章、Ⅱペトロ3:12、13など)。
・古い世界が終わるとき、イエス・キリストが「再臨」し、すべての死者が復活する。
新しい世界に受け入れられる人と、拒絶される人に分けられる(裁かれる)。これを「最後の審判」という(黙示録20:11以下)。
・キリストの再臨とは、今は多くの人の目に隠されている福音の真理が、明確にすべての人に啓示されるということ。
どういう形か、いつ起こるかは不明だが(「稲妻が東から西へひらめきわたるように(マタイ24:27)」ということ以外にはわからない」)、イエス・キリストが疑問の余地のない形で全世界の人に自らをお示しになり、自らを真理として明らかにされる日。
・その日、すべての死者は復活して審判を受ける。最後の審判の裁き手は、イエス・キリスト(使徒信条第二項参照」)である。
このお方と地上にある間にどのような関係にあるかが、人間の永遠の行先を定める。
・このキリストを信仰によって受け入れ、自らの罪のすべてをこのお方に担って頂いた人は「新天新地」に受け入れられる。
キリストを拒絶し、罪を犯すままに生きた人は「火の池(第二の死)」(黙示録20:14)に投げ込まれる、と記されている。
「永遠の生命」か、「永遠の死」かに分けられる。
・聖書で「救われる」という言葉は、最終的には神の永遠の怒りとしての火の池、第二の死から救われる、ということを意味している。
神は罪を裁かずにはおられないが、イエス・キリストの十字架において私たちの罪への刑罰を執行され、御子を復活させられた。
この神の御業を受け入れる人は、神によって自らのすべての罪を「過ぎ越し」されて、裁かれることがないようにしてくださった。
・キリストの十字架と復活の御業は、「最後の審判と復活」の「先取り」であり、主イエスを救い主を受け入れる人は信仰において終末の世界を霊的に信仰において先取りさせて頂ける。
これが信仰生活の本質。
信仰の喜びは終末の世界の喜びの「予感」や「断片」にほかならない。
・新天新地は、「あらゆる罪と死が消滅した世界」であり、「イエス・キリストが王として完全に統治してくださる世界」である。
キリストを愛する人にとっては永遠の歓喜の世界であるが、キリストを憎む人にとっては永遠の責め苦の世界ということにもなる。
私たちの罪が清められていくことが、新天新地への重要な準備。
・救いを受けた者の終末においては、「義認」と「聖化」の両面がある。
「信仰のみによって救われる」面と、神を畏れながら恵みに応答して生きることで「清められ、誉れと祝福が与えられる」面の両方がある(「タラントン」(マタイ25:14-30)と「ムナ」(ルカ19:11-27)のたとえの違いを参照)。
・新天新地を暗示するのは、「復活のキリストの身体」である。
復活の主の身体は弟子たちと食事をされたという点で物質的なものだが、現れたり消えたり等、時間・空間に制約されることがないものだった。
物質的なものでありながら、同時に神の力によって時間・空間を超越する「栄光化」された身体に復活された。
・以上の点から示されるのは、「新天新地」には私たちが考えるような意味での「歴史」はない。
また、神の意志に反するような「文明」もない。神の恵みを映すような、なんらかの文明はあるかもしれないが、それは私たちが知っているものとは異なるだろう。
歴史や文明は「古い世界」の罪や死に関わる「時間・空間」の延長にある産物だから。
そこには、「食事」に象徴されるような、キリストとこのお方に従う人々との究極の交わりや礼拝、奉仕の生活がある。
「キリストを中心とした、時空を超えた永遠の大宴会」が神の国のイメージだが、これはほとんど私たちの想像の域を超えているもので、現実にそこに達しない限りわからないほどの歓喜。
・少なくともそこでは、たとえばアブラハムやダビデ、マルティン・ルターやジャン・カルヴァン、ジョン・ウェスレーなど過去の信仰者、
また自分が死んだあとに地上で活躍した信仰者など、歴史上すべてのキリスト者との自由な交わりや歓喜に満ちた礼拝があり、そういった人々と共に完全な喜びをもって神に仕える生活がある。
・いま与えられている地上の生活は、この新世界へ向けての準備であり、生活のすべてを通してイエス・キリストとの親密な関係を培い、原罪が清められていく時期としてとらえることができる。
地上での信仰生活を通して罪が清められていくことが、新天新地に入るための準備となる。
・終末は「全人類」レベルと、「共同体」レベル、「個人」レベルでも考えることができる。
全人類レベルは聖書に描かれているもの。
共同体レベルでは家族、教会、国家などにおいて「中規模の終末(中くらいの死と復活)を繰り返しながら、新たな歴史の段階へ進んでいく。
個人レベルでも私たちは、「小さな終末(小さな死と復活)」を何度も通過しながら、「新しい世界」へと脱皮・超越していく。
終末論は「遠い未来の話」ではなく現実に起こっている霊的事実。
「苦難と罪」をキリストへの信頼と悔い改めによって越えることで復活の祝福にあずかる。
2 終末を信じる意味
・「終わり」がどうであるかを知ってこそ、そこから逆算して「今をどう生きるか」の答えが見つかる。
「終末」を信じないなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅱコリント15:32)という「快楽・金銭・安楽・欲望第一」の生き方を避けることができない。
・「終わり」の緊急性や厳粛さを自覚するからこそ、「生かされている今の尊厳と重大さ」を深く受けとめて、神への信仰に基づく真摯な歩みが可能になる。
「主人が帰ってくるのは遅い」と思い込んでいるなら、信仰もだらけて眠り込み、隣人に対しても、神に対しても背くような悪を容易に働くようになる(マタイ24:45-51)。
・「終わり」が来ることを知るからこそ、「自分に与えられた知識・時間・労力・才能・・・(タラントン、ムナ)を可能な限り有効に活用して、神の栄光を増大するように尽くす」生き方が可能になる。
私たちに与えられているものはすべて、私たちに対する神からの委託であり、それらを有効活用して神の栄光を顕すようにとの責任にほかならない。
その責任の真摯な自覚は、終末とキリストの再臨を信じることからくる。
「終わり」が来ることを知るから、限りある時間の中で責任を果たすことに力を注ぐことができる。
・終末を信じる時、地上の生活の範囲内には「理想」や「ユートピア」の実現はありえない、というリアリズムに徹して生きることができる。
キリスト者は地上に悪い意味での幻想を抱かない(Ex.共産主義、熱狂主義)。
3 終末についての誤解
・「終末」は最終的には誰も経験したことがない領域であるため、聖書のなかでも「最も解釈が分かれている」部分。
そのため、「絶対にこれが正しい」と言える解釈は存在しないと言える。
ヨハネ黙示録をどう読むかということも、教派や教師の間で大きく分かれている。
終末についての色々な教えはあるが、「どれが本当か」ということを確定するのは人間には無理。
「聖書全体から確実に言えること」についてしっかりと受けとめて、その他の解釈が分かれる部分については、「自分としてはこう考えるが、確実とは言えない」くらいの批判的距離をもって受けとめておく以外にない。
「断定的な終末論」は「推測や想像、自分の解釈の絶対化」になってしまう。
・「最後の審判」や「古い世界の崩壊」などが黙示録では描かれているため、恐怖を覚える人も多い。
「終末」についても、受けとめ方に「バランス」が大切になる。
「自分は終末において絶対に安泰で安心」と考え、恐れをまったく感じずに生きることも、「自分は裁かれて地獄に落ちる可能性が非常に大きい」と考えて恐れおののくのも、共にバランスを失った信仰生活になる。
前者は間違った安逸と責任放棄や生ぬるさのもとになり、後者は恐怖によって硬直した、律法主義的で苦しいばかりの信仰のもとになる。
真理はこの両極の間にある。「神への恐れと信頼」の両者がともにあってこそ、まっすぐに信仰の道を生きることができる。
・終末は「古い世界」の「向こう側」に実現するもので、私たちが生きているこの古い世界の只中や延長線上に、人間の力で神の国を実現することはできない。
地上に実現するすべてのことは終末の「しるし」にはなっても、その完成は終末の神の業を待望しなくてはならない。
「待ちつつ、早めつつ」(第二ペトロ3:12)。
終末は神の恵みの業として「待望」するものでありながら、私たちの努力を排除はしない。伝道や教会形成は終末を「早める」業でもある。
福音によって「既に」終末は霊的に到来しているが、なおその完成は「未だ」実現していない。
「待つ・早める」「既に・未だ」この両極の緊張に生きるのがキリスト者の信仰生活。