十字架のヨハネが語っている事柄のなかで、最も刺激的だったのは、彼が「霊的宝」をも捨てる道を説いていることだ。
キリスト者となるというのは、「地上的宝」への執着を捨てることだ、というのはよく言われる。
プロテスタントであるなら、ピューリタニズムでも、メソジストでも、ホーリネスでも、「地上・この世への執着と欲望を捨てる」ことについては、ほぼ共通了解があるのではないかと思う。
そもそも福音書で主イエスがお語りになっていることを真剣に受け止めるなら、「地上的宝」を人生の中心的課題として求め続けるという生き方は聖書的ではないということは、キリスト者であるなら認めるだろう。
しかし、十字架のヨハネはそのさらに先を行く。彼は「霊的宝」さえも、退けることを説くのだ。
普通、「この世」から慰めと宝を受け取ることができなくなることで、「霊的宝」への目が開かれる。
つまり、聖書、神への祈祷、黙想といったもののなかに秘められている大きな価値を見出す。
そして、これらのうちに喜びと楽しみ、慰めを求めるようになる。
このような、聖書、祈祷、黙想といった「霊的宝」に対しても、十字架のヨハネは「執着してはならない。捨てなさい」というのだ。
「霊的宝」を求めて生きることについて、一般的にはカトリックでもプロテスタントでも「よし」とされているのではないだろうか。
「霊的宝」を求めないなら、そもそもミサや礼拝に行く意味とは、なんなのだろうか。
だれもが神の慰めを求めていくのではないか。
しかし、考えてみれば私たちは「霊的宝」への執着という点においても、罪を犯しうることを見出す。
しなければならない家事や育児、仕事があるときに、「聖書を読んでいるからできない」「黙想しなくてはならないからできない」という形で、「霊的宝」を求める名目で義務を果たさない、ということもありうる。
また、「霊的宝」に執着するあまり、対人関係や日々の雑事を非常に疎ましく思うこともある。
これらを求められたとき、祈祷や黙想を理由に邪険に断る、ということもある。
「霊的宝」というのは、「地上的宝」の裏返しであって、そこでも私たちは「自分のための慰め」を求めていることには変わりがない。
結局、「自我の欲求の満足」を追求しているという点では、「霊的」か、「地上的」かの違いだけだ。
十字架のヨハネは、その「自己中心」を貫く「自我」そのもの、「自分のためのものを求め続ける心」を問題にしているのだ。そこが変わらないと結局同じことなのだ、と語る。
これは、非常に狭い道を歩む修道者や牧師だけに要請されていることなのか。私は、これはキリスト者全体の課題であると思う。
「地上的」「霊的」宝を求めて、自我の欲求の満足ばかりを優先しようとする私たちの「古い自分」がキリストと共に十字架につけられ、新たにされない限り、私たちは同じ問題を繰り返すだけなのではないだろうか。
十字架のヨハネが言いたいのは、「自我」の根底にある根本問題にメスを入れることなのだ。彼のメスの入れ方については、またのちに記したい。
彼の言葉は非常に厳しく、「到底ついていけない」という印象を容易に与えるが、そこで語られている真理に触れることには非常に大きな気づきがある。