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日本伝道の根幹⑥ 「牧師と信徒の志の関係」

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前回の記事をより整理しながら補足するために、牧師と信徒の志がどういった関係にあるのか、描いてみたい。


まず、以下のような構図を考えてみよう。


「教会の現状」<「信徒の志」<「牧師の志」 


この場合、「信徒は現状よりも大きな教会を心から願っているが、牧師はそれよりも大きな規模を志している」ということを示している。

 

このような状況に教会があるとき、「信徒が願っているところまでは、牧師と信徒は一致して教会のために労することができる。


しかし、信徒が願っている以上のところに牧師が行こうとしても、信徒はなんらかの形で反対したり、抵抗感を示す」ことになる。

 

 

「教会の現状」<「牧師の志」<「信徒の志」

  

上の場合は逆に、「牧師は志があり、現状よりもある程度大きな規模でやりたいと考えている。しかし、信徒の方が牧師よりも大きな志を抱いており、牧師が考えているよりも大きな教会を望んでいる」という状況だ。

 

こういうときは、「牧師が願っているところまでは信徒と一致して教会形成に従事するが、牧師が願っている以上のところまできたとき、信徒が牧師に更なる働きを要請しても、牧師はそれに消極的になり、居心地が悪くなったと感じる。場合によっては転任を考え始める」ということになるだろう。

 

「信徒の志」 <「教会の現状」<「牧師の志」


この場合は、牧師は現状よりも大きな教会を望んでいるが、信徒は逆に現状よりも小さな教会を望んでいる。

 

こういったときは、牧師と信徒の志の落差が大きいため、不幸な「綱引き」が始まってしまう。

 

互いに歩み寄り、折り合うことがなければ、最終的には牧師が教会を辞任するか、信徒の方が嫌になって出ていくか、どちらかになってしまう。

 

ただ、「志」ということにおいては、「折り合い」や「歩み寄り」がある程度でも可能かは、極めて疑問だ。

 

牧師も信徒も、みずからの志はひどく大切なもので、この点について妥協するよりは、やめることを選ぶ方が多いだろう。

 

そもそも牧師を招聘するときに、その教会の抱いている志と合致した牧師を招聘するようにしないと、最初からこうした不幸かつ非生産的な困難を抱え込む。

 

「牧師の志」<「教会の現状」<「信徒の志」 


これは、上の例の逆バージョン。信徒の志は現状より大きいが、牧師の方がむしろ現状よりも縮んでしまっている。

 

これも志の落差による不幸な「綱引き」となってしまい、妥協が成立しないなら、どちらかが出ていかざるをえなくなる。

 

以上のように、「牧師」と「信徒」の「志」という課題を考えると、牧師と信徒の志が一致していることの重要さが浮き彫りにされるのではないだろうか。

 

牧師と信徒の志の「規模」「キャパシティ」「大きさ」が一致しているなら、牧師と信徒の間にいわば「WIN=WIN」の関係が生じる。

 

ところが、その「落差」が大きいほど、牧師と信徒の間に生じるフラストレーションは、より強いものになる。

 

より教会の実態に近づいて理解するために、更に「役員会」という要素を加えてみよう。

 

以下の構図をご覧頂きたい。

 

「信徒の志」<「教会の現状」< 「牧師の志」・「役員会の志」

 

上の場合は「牧師と役員会はほぼ一致して現状よりも大きな規模とする志を抱いているが、その他の信徒は現状よりも小さな教会を望んでいる」という状況だ。

 

この場合、「牧師と役員会の志による結束」が強いなら、「より小さな教会でよいと考えている他の信徒たち」をも「導いて、引っ張っていく」ことができる可能性が非常に大きくなる。

 

他の多くの方々も、「牧師や役員会がそこまで熱心に祈り、願っているなら、ついていこう」と考えるようになり、結果的に志が実現する可能性はかなり高い。

 

つまり、「牧師」と「信徒」の間に、「役員会」を設定してみると、この役員会がどういった志を持っているかにより、教会の方向性は大きく左右される、ということだ。

 

「信徒の志」・「役員会の志」<「教会の現状」<「牧師の志」 


上の場合は、どうだろうか。

 

前の例と異なるのは、役員会もまた「現状よりも小さな教会を望んでいる」方の立場を取っており、ただ牧師だけが「現状よりも大きな教会を志している」という状況になる。

 

この場合は、まず間違いなく、牧師は教会で志や方向性においてまったく孤立してしまっているため、牧師の志が実現することは困難になる。

 

説教や霊的訓練において、役員会や他の信徒の方々を根気強く説得したり、信仰教育において新たな成長へと導く時間的余裕があるなら、各自の志が成長することで、事態は変わる可能性は残されている。

 

しかし、その余裕がないときは、牧師としてはもはや打つ手なしの状況であるため、転任を考えることになるだろう。

 

以上、単純化しすぎているきらいはあるが、牧師と信徒、役員会の志がどういった関係性にあるのか、描いてきた。

 

日本伝道の推進という点において、以上のことは「急所」となりうる、重大極まりない課題である。

 

少なくとも、声を大にして言いたいことは、札幌バンドのクラーク博士にならい、

 

YOU CHURCH of CHRIST, BE AMBITIOUS IN HIM!!

 

ということだ。

 

聖書と神に基づく志を失った教会の先にあるのは、緩慢な死だけなのである。






日本伝道の根幹⑤ 「教会は信徒が願っている以上には成長しない」

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「教会は信徒が願っている以上には成長しない」というタイトルで書いてみたい。

 

ここでは、論理的な筋道を単純化して理解を容易にするために、「教会の成長」を「人数・規模」として考えてみることとする。

 

「牧師」と「信徒」という大枠を設定して、考察してみよう。

 

牧師には牧師なりのビジョンや展望というものがある。

 

ごくおおまかなものでも、「礼拝出席は~人くらいで、~といった働きや奉仕により、一人ひとりが信仰的に成長し、地域にキリストを伝えるようにしたい」といったものだ。

 

たとえば、礼拝出席30人程度の教会にある牧師が赴任したとして、その教会が「少なくとも60人程度になるように奉仕したい」、と願っているとする。

 

牧師としては、「60人規模の教会になるためには、これから~といった働きを設置して、広げていく必要がある」と、対策や方策として考えるだろう。

 

一方、その教会の信徒の多くにとっては、「30人くらいの人数が、教会としては居心地がよいし、信仰生活もしやすい」と、心の奥底の「本音」のところでは考えている状況があるとする。

 

その場合、牧師が役員会等で「~という働きをしたいのだが、どうか」と問いかけたとき、役員会はどう反応するだろうか。

 

役員会の多くの人は本音の部分では「これ以上、教会が大きくなるのも~の理由で不都合だ」と考えているかもしれない。

 

だが、建前としては、聖書的にも牧師の前でも、そのような発言はふさわしくないと感じるだろう。

 

そういったとき、「その働きは、うちの教会の状況や、これから高齢化していることを考慮すると、~なので難しいでしょう」といった、別の理由をあげて反対することになるのではないか。

 

牧師がどんなに「60人程度の教会にしたい」と考えているとしても、教会の信徒がそういった牧師のビジョンを支持し、一緒に推進することがないならば、そういったビジョンも実現されることなどありえない。

 

「牧師個人のビジョンや力量、ポテンシャル」は、教会が成長していくうえで不可欠であって、これがなければ、どんなに信徒があたふたして、「うちの教会がまずい状態だ。なんとか成長するようにしてほしい」と願っていても、それは実現しない。

 

「牧師がそう願い、そのキャパシティや信仰的力量を越える以上には、教会は成長しない」ことは、まったくの真理だ。

 

同時に、牧師が力量や信仰においてどのように優れていたところで、信徒が牧師のビジョンに共鳴せず、それが実現するよう、共に奉仕し、共に主のために労することがないならば、ビジョンも「絵に描いた餅」に過ぎず、教会にはなんの変化も成長ない。

 

「信徒が心からそうなるよう願い、牧師と共に労する以上には、教会は成長しない」のも、同じくらいの真理なのだ。

 

「信徒が教会の成長を願っていないなどということなど、ありうるのか。それこそ、悪しき疑いというものではないのか」と問う方もおられるかもしれない。

 

しかし、「信徒」という立場にとって、「教会が成長し、大きくなることのデメリット」があるとするなら、上記の事態はまったくありえるし、現実にそれは世界中の教会で起こり続けているのではないか。

 

その「デメリット」としては、以下の要素がありうる。

 

・教会が大きくなると、自分の知らない人が増え、信仰生活を送るうえで居心地が悪くなったり、予期せぬことにより自分の平安が乱される可能性がある。

 

・教会が大きくなると、「知らない人」と新たに出会うことも多くなり、教会での「慣れ親しみ」が乏しくなり、結果的にプレッシャーや緊張感、圧迫感を感じることも増える可能性がある。

 

・教会が大きくなると、問題を起こす人もより多く増える可能性がある。

 

・教会が大きくなると、自分のことをケアしてもらうよりも、自分の方が他の人をケアしなくてはならなくなる可能性がある。

 

・教会が大きくなるには、自分がより大きな負担や奉仕、献金を担わなくてはならない可能性がある。

 

・教会が大きくなるには、自分がこの世に伝道する痛みや恥、働きが徒労に終わる失望を耐えなくてはならない可能性がある。

 

こういったデメリットの可能性について、「本音」の部分で「確かにこういうところがあるから、教会は今のままか、小さくなってもいい」と思っているときには、牧師や少数の熱心な信徒が、いくら教会が成長していくための提案やビジョンを描いても、そういったものを教会として実行することもないだろう。

 

上記の信徒の立場としての「デメリット」の部分はすべて、「大宣教命令を発しておられるイエス・キリストへの信仰によって乗り越えていくべきもの」であり、「聖霊の清めにより、信仰の成長する程度に応じて脱ぎ捨てていくべき自己中心性」に他ならない。

 

しかし、こういったデメリットを霊的に乗り越えることができない信徒が多ければ多いほど、またその意見が容易に通りやすいほど、その教会は停滞と衰退、場合によっては消滅に陥りやすい状況にある。

 

牧師自身がこういった内面的デメリットを克服して伝道する意欲を持っていないとするなら、それはもはや「職人・プロ・信仰者の模範としての牧師」にはふさわしくないものではないかと思われる。

 

場合によっては牧師以外の職務を志した方が、神の御心にかなうのではないかと、自らの良心に問いかけることも必要だろう。

 

牧師がこういったデメリットを乗り越えていくのは、教会の前進と成長にとっての「大前提」であるからだ。

 

現実的な課題となるのは、信徒一人ひとりがその置かれた立場において、こういった内面的に予期されるデメリットを「本音」の部分で、イエス・キリストによって乗り越えていくことにほかならない。

 

「本音」という言葉を使うのは、建前や表面上の発言において「正解」を言うことは非常に容易なことだが、本気で信じて実行することは、「本音」でしかできないからだ。

 

「言葉」自体は、本心に逆らって、いかようにも変えられる。

 

しかし、「行動・実行」の部分には、「本心」「内面的実質」があらわれざるをえない。

 

この課題が現在、日本の教会において神から厳しく問われ、応答を求められていることではないかと、心深くに思わせられる次第である。

 


日本伝道の根幹④ 牧師と信徒の「外部教育システム」

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日本伝道の根幹として、牧師と信徒とその関係性について、これまで記してきた。

 

これまで描いてきたところが、「なぜ実現が難しいのか」を考えると、一つの課題が浮かび上がる。

 

各個教会として牧師が一定数の信徒を指導する、ひとつの完結した教会というものが教会形成のうえでは前提とされている。

 

多くの教派では、他の教会の牧師やその教派の指導者といえども、ある牧師が奉仕している各個教会の内情に口出ししたり、なんらかの強い意見を強いてその教会を特定の方向に動かそうとすることは、その教会に仕えている牧師にとって、「内政干渉」として考えられるため、非常に嫌われる(もちろん、教派によってかなりの相違はあるが)。

 

これは各個教会が独立性と主体性をもって生きていくためには、どうしても必要なものだ。

 

一方、こういった教会の自己完結的な部分が、教会の停滞や低迷を招いているところもある。

 

つまり、牧師も信徒も、自分の知識を絶対化してまったくの「井の中の蛙」となってしまう危険だ。

 

キリストの教会は歴史的にも地理的にも非常に広大なものであり、学ぶことは無限に近いほどたくさんある。

 

ところが、特定の教会の「牧師と信徒」という関係性だけでは、ごく小さな認識や理解の範疇に満足し、志も持たず、それ以上を目指そうとせず、ぬるま湯のなかで生き続けようとする「温情主義」「現状維持主義」に陥ることは、どの教会にもあてはまる。

 

つまり、「牧師が信徒に言いにくいこと」を牧師は教会の和を保つために言わずにおくことが多い。

 

同時に、「信徒が牧師に言いにくいこと」も、信徒は牧師との和を保つために言わずにおくことが多い。

 

すると、「実践的には不可避的に言われなくてはならず、身に着けられなくてはならないほど重要な課題だが、牧師も信徒も和を保とうとするがゆえに言うのを避けようとすること」がどの教会にも、多数あることになる。

 

たとえば、牧師が信徒から「うちはいつも厳しくてお金がない。体もあちこち痛い」などと毎週のように聞かされている状況で、「しっかりと献金と奉仕をしてください。たとえ、厳しい状況だとしてもです」とは言いにくい。

 

心が優しい牧師ほどそうだ。

 

同時に信徒も、牧師が「地区の行事や保育園などで気が休まるときもない」などと聞かされているときに、「求道者のための集会をしてください。もっと私たちが祈っている課題を説教で取り上げてください」などと言うのも難しい。

 

優しい信徒ほど、言いにくい。

 

牧師と信徒の「やさしさ」や「配慮」、「和を保とうとする心」があだとなり、「言いにくいことを言わない」体質が、どんどんできあがっていく。

 

こういった状況では、教会が健全な状態になろうはずがない。

 

牧師も信徒も「厳しい課題」を避けて通っていくなら、教会の成長は難しいものとなる。

 

というのも、教会は「牧師と信徒が共に十字架を背負って、キリストに従っていく」ことにおいてしか、前進も成長もありえないからだ。

 

以上のような状況を打開していくためには、「牧師と信徒が仕えている教会の外部で、『教会が前進し、成長していくために必要なこと』を学ぶ」ことができるようなシステムが必要だと思われる。

 

牧師も信徒も、「自分にとって都合のよいことしか言わず、聞かない」状態になることが教会にとっての災いであり、そしてこれを避けるのが非常に難しいなら、「教派・教団」レベルで「牧師と信徒にとって都合が悪いことだが、教会の前進のためには絶対に必要なこと」を学ぶことができるような制度が要請されるのではないか。

 

たとえば、牧師は2年に一度は「参加義務」がある、「牧師としての本分に立ち返るための教派・教団主催セミナー」に参加することで、「牧師免許が更新される」というような制度だ。

 

そこでは「テスト」こそないものの(おそらくテストをしたら、私も含めて非常に多くの牧師が落ちるだろう・・・)、個別に教会の現状の報告とそれについての指導、今後の展望を共同黙想する作業もなされる。

 

また信徒のなかの特に「役員」は、教派・教団が作成した「役員の働きや責任」についての、アップグレードし続ける動画を、毎年4月初めの役員会で、皆で見て自分たちに欠けている点を再認識しなくてはならない。

 

以上は私の個人的な思い付きだが、とにかく「牧師と信徒が自分にとって都合のよいことしか言わず、聞かない」状態が、なんらかの形で打開されなくては、教会は「現状」以上に殻を打ち破って前進していくような道を見出しにくい、ということだ。

 

教会が「自己完結的」な状況を打開して、いかに「不都合な聖書と教会の真理」にも耳が開かれ、教会の前進のために献身していくのか。

 

今後の教会形成のためには、こういった外部からの教育援助システムが是が非でも必要と思われる。

 

「こういう本がありますので、読んでください」では限界がある。

 

「不都合な真理」が書いてある本を、牧師も信徒も進んで読むほど主体的、自発的であるなら、現代の教会が危機的な状態になっていたりはしないからだ。




日本伝道の根幹③ 「羊飼いが羊を育て、羊が羊を生む」

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「日本伝道の根幹」記事の①では、「堅実に職務を果たす牧師」の重要性、②は「教会に責任と使命感を持つ信徒」の重要性を強調した。

 

これらの両者が「幸福な関係」を築いた場合、日本伝道はおおいに前進することは確実になる。

 

「幸福な関係」とは、「羊飼いが羊を育て、羊が羊を生む」という関係性だ。

 

仮に「羊飼い」を牧師、「羊」を信徒と考えてみる(もちろん、広義では牧師も主イエスの羊だが、実践的領域のことなので、仮に牧師を羊飼いとしておく)。

 

牧師は説教や牧会の職務により、信徒が「神の恵みによって癒され、自らの賜物を発揮してキリストを証しすることができる」ように導くものだ。

 

牧師はみ言葉をもって信徒を養い育て、信徒が救われるようになるばかりか、自ら伝道して新しい信徒を生み出すことができるよう、教えていく責任がある。

 

信徒は神によって救われることで、神の愛と恵みに応答していく責任をも、神ご自身から引き受ける。

 

与えられている賜物を発揮して仕えることで、より多くの人々にキリストに根差した証しや伝道をし、キリストの救いを広げていく、ということだ。

 

牧師と信徒の両者が、このような幸いな関係を築くことができたとき、教会の影響は最大限のものになる。

 

つまり、教会でなされる礼拝や諸集会によって信徒が養われ、その信徒が教会の内外で伝道し、また新たに救われる人々が導かれてくる。

 

二つの円からなる同心円を考えてみよう。

 

「内円」を教会員が救われ、養われる領域とし、「外円」を教会の信徒が関わっている地域や家庭、教会での対外的な働きの場などとする。

 

牧師は主として「内円」の部分に集中し、可能な限り信徒が救われ、成長できるよう導く。

 

内円の部分で教えられた信徒が「外円」の部分に働きかけ、人々に証しをするように導かれる。

 

結果、「外円」から「内円」へと信徒の証しにより、人々が導かれ、牧師の指導によって「内円」から「外円」へと導かれた人が成長していく。

 

以上の構造が生まれることで、「羊飼いが羊を育て、羊が羊を生む」という幸いな循環が成立するようになる。

 

ところで、現状はどうなっているだろうか。

 

「羊飼いが羊を育てるばかりか、羊をも生まなくてはならない」、もしくは「羊飼いが羊を育てることも、羊を生むこともしない」状況がある。

 

牧師が対外的、対内的な多くの働きに忙殺されて信徒を育てることをせず、結果信徒が育たないために「外円」での証しをすることもない。

 

そのため、新しい人が導かれることもなく、教会は衰退への道をひた走る。

 

一体、こういった状況のなかで、どうしたらいいのかと途方に暮れる思いになる。

 

まず羊飼いとしての牧師は、少なくとも羊飼いとして「羊を育てる」働きに力を集中する必要がある。

 

その働きを鈍くするようないろいろな課題については、しっかりと本質を見極めたうえで、手放したり、整理したり、他の人に任せていかなくては、本来の職務に時間と力を割くことができないだろう。

 

そのうえで、「羊飼いが羊を育て、羊が羊を生む」のが教会としての本来の姿である、ということをいろいろな形で、教会に忍耐強く共有していく。

 

たとえ実態としてはそうではなく、また「私の考えは違います」という信徒が多くても、「聖書の原則としてはそうなのだ」ということを、とにかく長期的に説教や牧会のなかで言い続けていく必要がある。

 

同時に、牧師自身が伝道できなくては信徒に伝道の指導もできないのは、当然のことだ。

 

牧師自ら伝道に心血を注ぐことで、「羊を生む」ことの意味や喜びを味わい、体得し続けていくことも前提として必要になる。

 

そのうえで、こうった理念や方針に従う信徒一人一人を導いて「羊が羊を生む」ことができるよう、あらゆる信仰的教育や訓練を施し、信徒が伝道できる場や環境、知識や姿勢を着実に整えていく。

 

「まずは牧師自身が伝道を体得し、それを信徒に伝授しながら巻き込み、成長を見極めて働きをも少しずつ信徒に委託していく」という道を取る以外にないと思われる。

 

こうして伝道に生きる教会、伝道できる信徒が育っていけば、教会の将来は心配することなど一つもないし、牧師の転任や信徒の世代交代もまったく恐れるには及ばない。

 

教会そのものの「伝道の実力・教会としての底力」がしっかりしているため、大枠において信仰の道を誤ることも、まずありえないからだ。

 

以上のことを「理想論」として一蹴し、片付けることもできる。事実、こういったことが容易に実現できるなら、だれも苦労などしていないし、現代の教会が危機的な状態になったりもするはずがない。

 

これらが途方もなく難しいから、だれもが悩んでいるのだ。

 

しかし、「少しでもそれに近づいていくことが望ましい」という教会の青写真としては、心のうちに持っておくことが大事だろうし、こういったイメージさえないなら、「どちらに行ったらよいのか、わからない」ということにもなる。

 

そのような青写真として参考にして頂きたい。


齋藤真行牧師の説教・牧会チャンネル

https://www.youtube.com/@user-bb1is6oq4x/featured

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